February 25, 2006

○ンチを超えてヒトは進化する? (5)

  − 進歩が目指すのは何なのか? −

というわけで,ここまでの想像を積み重ねると,「遺伝子を束ねるような何かの意志が,有機物や自然から離れる方向にヒトを導いてきた」 ことになります.
では,なぜそんな方向を目指すのかということですが,これはわりと簡単に推理できます.

つまり,遺伝子の 「時を超えて存在し続ける」 という目的からすると,有機体の細胞を乗り物とする今のやり方は必ずしも最適なものではなく,むしろとても弱いものだからです.
ちょっと太陽がくしゃみをしただけで,ちょっと地球が身震いしただけで,ちょっと流星とぶつかっただけで,ちょっと空気の組成が変わっただけで,生物は壊滅的な打撃を受けてしまいます.
代謝と自己複製を実現するためには柔軟な組織体が必要だったわけですが,環境が激変する場合はそれがそのまま弱点になるわけです.

これに対抗する手段が種の多様性と環境への適応能力だったわけですが,それだけでは心許ない,その他にも手を打っとこうとどこかの意志が企んだとしても不思議ではありません.
それが,ヒトに自然から離れようとする本能を与え (あるいは,そういう本能を持ったヒトという種を創り),その制約から逃れる手段を模索しているのではないでしょうか.たとえ地球レベルで環境が激変して,乗り物である有機体が死滅しても "生命の記憶" は生き延びられるように・・・

生き延びた先に何があるのかは想像もできません(そう言えばこのテーマ,若い頃読み倒した小松左京さんのSFに何度も出てきたなぁ).
ただ,そういう大目的を前にすれば,乗り物であるヒトの身体が多少悲鳴を上げるくらいは取るに足らないことだろうなと,変に納得してしまいます.

最後にもう一つだけ.
最近気になってることがあって,それは私たち現代人が,何かに追いかけられるような切迫した気持ちをかなり共通的に持っているということです.
価値観は多様化しているはずなのに,"スピードと効率" はますます持てはやされ,その結果, "進歩=自然離れ" が加速しているように見えます.
もしかしたらそれは,何らかの手段で先が長くないことを予見した意志が,人間に対して追い込みのムチを入れているのではないでしょうか.
あるいは,人間に仕込んでおいた自滅のプログラムを作動させ,滅亡と生き延びるための技術開発のどちらが早いかという,一種の賭けに出たのかもしれません.
焦りにも似た感覚は,実は遺伝子の焦りそのものだったりして...

あ,そういえば,キレイ・キタナイ感覚以外にも,異種生物を共生ではなくペットとして一方的に可愛がろうとするというのも人間だけの習性ですね.
もしかしたらこれは,そこから離れることを宿命付けられた人間が,"自然" に対する惜別の情をペットに投影していると考えられないでしょうか?

なぜなら・・・・,もういいか(笑)

おわり

○ンチを超えてヒトは進化する? (4)

  − 進歩はヒトを幸せにするのか? −

ここで最初の問題に戻ります.
「○ンチを忌み嫌う」 という独特の感覚を,なぜ人間だけが持っているか?・・・です.
私は,○ンチが有機的なモノを,さらには "自然" そのものを代表しているのではないか,そして, 「○んち=有機的なもの=自然」 を嫌って離れようとする感覚が,ヒトという生物種の進化の方向を示していると思っています.

実際これまで,ヒトの文明は自然から離れることを是としてきました.
人工の建物で暮らし,身体的な限界を超えて移動し,地球外に飛び出し,生活環境を "清潔" にし・・・,これらすべては私たちが直観的に 「良いこと」 と感じ,汗水たらして実現してきたことです.
そしてまさにこの "自然離れ" 運動を進める原動力になってるのが,○んちをキタナイと感じ,その匂いをクサイと感じる感覚なのではないでしょうか.

ただ冷静に考えると,これが私たちそれぞれの生物個体にとっては,必ずしも 「良いこと」 ばかりではないことに気がつきます.
例えば,性能の良い移動手段を獲得した私たちですが,交通事故で命を落とす確率はどんな病気よりも高くなっています.例えば,恐らくは私たちが作り上げてきた "清潔な" 生活環境のせいで,多くのアレルギー疾患に悩まされるようになりました.例えば,ストレスの多い現代生活が心身を病む原因にもなっています.例えば・・・

確かに昔にくらべて生活は楽にも便利にもなったんですが,その一方で,私たち自身が引き起こした環境変化のスピードに,私たちの身体や心が追いつけずに悲鳴を上げているようにも見えます.

ドーキンス氏であれば,それは人間の頭脳が生み出した新しい自己複製子(ミーム=文化や知識の複製の基本単位)のせいであって,必ずしも遺伝子本来の目的ではないと言うかもしれません.
でも,私はこれら環境変化がミームの働きだとしても,やっぱりそれは遺伝子が志した方向ではないかと思っています.
そのわけは,次のページで述べたいと思います.

ところでこれから先,もし人間が環境変化のスピードが速すぎると反省したとして,私たちは "進歩" を止めたり逆戻りさせることはできるのでしょうか?
もし進歩の原動力が感覚だという見方が当たっているとすると,答えは否です.
理屈は思想は人間の意志の力でいくらでも変えられますが,感覚はそうはいかないからです.
感覚は私たちの脳と言うよりはもっと深いところ(恐らくは生きる主体であるところの遺伝子のレベル)から与えられたものだからです.

つづく

○ンチを超えてヒトは進化する? (3)

  − 遺伝は意志か? −

今,学説としてどう扱われてるかは知りませんが,R. ドーキンス 「利己的な遺伝子」 の基本概念は 「生きることの主体は遺伝子にあって,あらゆる生物個体はその一時的な乗り物に過ぎない」 「遺伝子の目的は時を超えて存在し続けること」 です.

この遺伝子を擬人化したイメージ(メタファ)は素人頭にもわかりやすい.
私なんか, 「生まれようと思って生まれた人はいないし,どんなに生きようと思ったって寿命が来るんだから,何で "主体的に生きる" なんてエラソーに言えるんだ?」 と以前から思ってたくらいですから,疑うどころか勢いよくうなずいてしまいます.

そう考えると今度は,例えばヒトの遺伝子は各個人に乗っかっているわけだけれど,それらを総体として捉えることもできる,あるいは捉える必要があるんじゃないかと思えてきます.
つまり,例えば各個人の容姿などはそれぞれの遺伝子によって決まりますが,ヒトという種の進化の方向を決めてきたのは遺伝子全体としての意志ではないかということです.

私は高校の頃に,生物の進化は突然変異と自然淘汰のおかげと習いましたけど,本当にそうなんでしょうか? 
動植物の優れて合目的的な機能を知れば知るほど,それが突然変異の結果ですと言われても,なかなかポンと手を打つ気にはなれません.
環境への適応ではランダムな突然変異よりも確率高く "良い形質" が現れるんだそうですが,それにしたって,その変化が適応に有利だということを何がどうやって判断しているのでしょうか?
そこに意志の存在を勘ぐりたくなります.

それは神さまが・・・というのは,この歳までロクな信仰も無しに生きてきた自分としてはバチが当たりそうでとても言えませんが,その代わりと言っちゃあ何ですが,各生物に散らばった遺伝子が何らかの手段(例えば量子レベルの何ちゃら効果とか)で交信しあって,総体として何らかの意志を持ってるんじゃないかと想像すると楽しくなってきます.

(ちなみに私は進化論も創造論もよく知りません.それこそ根も葉もないヨタ話です)

つづく

○ンチを超えてヒトは進化する? (2)

  − 意志は物理現象か? −

で,結論として "その感覚は進化のために与えられたものかも" という風に持っていきたいんですが,その前にまず,意志とは何なんだ?ということについて思うところを書かせてください.

もちろん,そんなことは心理学とか哲学とかでさんざん議論されてきたのでしょうが,それらを完全に無視して (てゆーか何も知らないので) 勝手に考えてみます.
ためしに,なぜか手元にある平凡社の心理学辞典で "意志" を引いてみると, 「その本質に関して長期にわたり議論が錯綜し定まることが無かった」 とあるので (素直にわからんと言えんかなぁ),少しくらい変なこと言ってもいきなりバックドロップかまされることは無さそうです.

例えばこんな文章を書いている自分の意志って,一体どこにどんな風にあるんだろうかと考えだすとワケわかんなくなってきます.
仮に脳の中にその実体があるとして,例えば 「山へ登ろう」 と考えたときの意志って,どこかの神経細胞の特定の状態として物理的に定義できるんだろうか?・・・とか.

そうやって悩んでると,実は意志なんてどこにも無いんじゃないかという気さえしてくるんですが,それでも自分の身体は何らかの目的に向かって意味ありげに動いているわけで,やっぱりどこかに何かの形ではあるんだろうなと思います.

犬や猫に意志があるかと問われれば,そりゃあるでしょうよと胸張って言いたいですが,これが虫や植物や微生物などになってくると自信が揺らいできます.でも,それらにしたって,生という営みに向かって意味のある活動をしてるんですから,その源である何かは意志と呼べそうです.
ミドリムシは光に向かって移動する習性があるそうで,これくらいは何かの化学的な反応で説明できるのかもしれませんが,それを意志と言っても私には違和感はありません.
どこまでが反応や反射でどこからが意志なのか・・・,その境界って実はハッキリしてないんじゃないでしょうか?

そうやって考えてくと,私の妄想は原始の海に漂っていた自己複製を始めたばかりの有機体にまで行き着いてしまいます.彼らの意味ありげな行動と言えばそれこそ "自己複製する" ことくらいでしょうが,それだってもう意志と呼べるんではないでしょうか.

もしそうだとすると,原始生命の段階では意志と行動が未分化だったということになりますし,結局のところ,生き物の意志は化学反応なり物理的な状態などに還元できると言えそうです.
想像を逞しくすれば,いわゆる生命以外のものでも意志があると考えることだってできそうです.
そりゃあ理屈もクソもありませんが,そう考えた方が面白いじゃないですか!

私は,十分複雑な系が何かの目的に沿った協調した行動を取るとき,そこに意志があると考えても許される気がしています.
つまり,現状で分析的な説明ができないのなら,外から観測してそれらしく見えれば,それを意志とゆーとかなしぁーないやん,みたいな・・・

つづく

○ンチを超えてヒトは進化する? (1)

○ンチをまったく厭わない犬たちを見ててスッゲ〜と思ったことないですか? 

自分たちのもそうですが,家畜のフンなんてまぁ嬉しそうに身体に擦りつけたり食っちまったり...
"キレイ好き" と言われる猫だって,草食動物の糞にはやっぱり積極的に擦り寄っていきます.以前飼ってた野良上がりなんか,どこかで拾ってきた腐ったお好み焼きを,わざわざ私の枕元まで得意げに運んできてくれたものです.

思うんですけど,動物たちに私たちのような "キレイ" とか "キタナイ" って感覚無いんじゃないでしょうか? 
泥だらけで有頂天になってる犬や,寝床のムシロに糞尿タレ放題の家畜たちを見てるとそんな気がしてきます.

もしそうなら,これは見過ごせません.
なぜって私は動物と人間を分けて考えるのがどうも性に合わないからです.
つまり 「ヒトは万物の霊長」 とか 「人間だけが感情を持つ」 みたいな考え方が苦手で,動物と人間は基本的に違わないと思ってますし,できれば植物や微生物も含めて,生物全体を連続的に考えたいと思っています.

ですから,動物の中で人間だけが○ンチをキタナイと感じるとしたら,これは私にとって由々しい問題なのです.
だいたい身体の一部と言ってもいいようなモノを,なぜ隠し字まで使って忌み嫌わねばならないのか? 
考えてみれば不思議な感覚ですよね!?

いや,別に 「○ンチを見直そう!」 運動をしたいわけではありません.
だってバッチィもんはやっぱりバッチィというか,感覚を偽ろうとしても無駄な抵抗です.
ここでは,なぜ人間が○ンチ(に代表される有機的な感触や匂い)を "キタナイ" と感じて避けてしまうのかを,するどく考えてみたいと思います.

つづく

犬との暮らしのパラダイム (3)

犬との暮らしにもたくさんのパラダイムがある.
しつけ,訓練,ドッグスポーツ,食餌,運動,疾患と検査・・・,あらゆるものに潜んでいる.
だいたい 「良くしつけされた犬が飼い主に寄り添い行儀良くふるまう」 とか 「人がコマンドを出して犬が従う」 というのだって,一見疑う余地が無さそうだが, "人と犬との望ましい関係" パラダイムの一つに過ぎない.

で,話は戻って Barbara氏のサービスのこと.
おそらく彼女が提供したかったのは,どう犬を訓練するかとか,どう問題行動を矯正するのかといったテクニックやノウハウではない (んじゃないかな).
むしろ犬とどうつきあって,そこから何を学ぶべきかを伝えたいのだ (きっと).
つまり犬との関係に対する一つのパラダイムを提唱したかったのだ (と思う).

「犬に学ぼう」 というセリフは,謙虚っぽくて耳にも心地良いのでよく使われるのだが,本当にそう信じて教わろうとする気持ちが持てる人は少ない (に違いない).
彼女はそれを実践し,確信を持って人に伝えようとしている.
ビジネス向けのコンサルも別に奇を衒ったわけではなく,彼女にしてみればごく自然な発想だったのだろう.

実は,自分たちのファームでも似たようなことができないかと考えている.
つまり,犬や動物たちと暮らすことの自分たちなりのパラダイムを実践し,あわよくばそれを発信していきたい,,,普段当たり前と思っていることを,ふと立ち止まって考えられるようなほわっとした場を提供したいと.(カッコつけすぎ?)

どうやって?というのと,Hiroさんの暴走をどう食い止めるかという大きな課題が残ったままだが,少しずつ形にしていきたいと思っている.
乞うご期待,と言えるかどうか・・・

おわり

犬との暮らしのパラダイム (2)

話はいきなり脱線してマンションに突っ込むのだけれど,最近,"パラダイム" について話を聞いたので,その受け売りをちょっと.

この単語,元々は文法用語であったのが科学分野に流用され,今では 「人々のものの見方・考え方を根本的に規定している概念的枠組み」 という広い意味で使われている.
「根本的に」 ということは,言い替えれば 「見ることも触ることもできず,言葉で表現されることはおろか意識にも上らない」 ということである.
じゃあ現実に影響が無いかというととんでもなくて,おそらく人の意識と無意識の中間あたりにどっかと居座り,その人の思考や行動を強力にコントロールしているのである.

例えば,ある人が 「明日,どこかに遊びに行こう」 と考えたとする.
こんな時,普通は 「もし今日から明日にかけて太陽や地球が消滅せず,もし大事故や天変地異が起こらず,もし私が今日と同じように元気で,もし・・・」 とは考えない.疲れるからである.
実際には明日のことはわからないし,例えば今から10分後にすべての物質が物質であることを止めバラバラの原子に還ったとしても,誰にも文句は言えないはず.
それでも,私たちは明日という日の存在を疑わない.
これは, "明日も今日と同じように存在するのだ" パラダイムが機能しているのである.
人はこのような共通のものからその人固有のものまで,重大なものから取るに足らないものまで,それこそ無数のパラダイムに依って生きている.

ちなみにことパラダイムに関して,どれが良くてどれが悪いかという議論は空しい.
まぁ大抵の場合,そのどれもが "正しい" のだ.
重要なのはいろんなパラダイムがあることを理解し,物の見方を変えたり,視野を広げたり,コミュニケーションを豊かにしたり,行動の選択肢を増やしたりすることなのである.

犬との暮らしのパラダイム (1)

京の片田舎でマイクロファームを開き,Hiroさんが動物たちと暮らし始めて1年を過ぎた.
これにはちゃんとした理由があるようで実は無いのだが,イギリスでボーダーコリーセンターを運営している Barbara Sykes 氏の影響が大きいことは確かだ.

氏が提供するゲスト向けのサービスは,ちょっと変わっている.
もちろん,しつけ相談など普通のメニューもあるのだが,メインは "シープドッグ体験" .
"講習" でなく "体験" なところがミソである.
文字通り,犬と一緒に作業するということを,羊追いを介してゲストに体感してもらう.
もちろん,コマンドやボディアクションも教えるけれども,決してそれが主目的ではない.犬の訓練でもないから,ゲストの犬ではなく熟練した彼女自身の犬を使う.

これだけでも十分ユニークだと思うのだが,最近,何をトチ狂ったか企業向けのコンサルテーション(研修)まで始めた.
バリバリのビジネスパーソンやプロジェクトマネージャーたちに,チームワークとは何ぞや?コミュニケーションとは?なんてことを,犬との共同作業を通して説くのだそうである.

何考えてんだ,この人は?・・・と最初は思ったのだが,今は少しわかるような気がする.

笑う人間



我が家の犬は現在4頭です.
夜9時を回った今,ストーブの前で3頭が惰眠をむさぼっています.
もう1頭の子犬は,庭で 「部屋に入れて〜」 とヒャンヒャン喚いています. トイレに出した時,遊びに夢中で呼んでも帰ってこなかったので放ったらかしにされているのです.

こんなとき,3頭の成犬たちは子犬のことをどう思っているのでしょう?


唐突ですが,動物の中で笑うことができるのは人間だけ...という説があります.
確かに,他人のおかしげな様子を見てケラケラと笑えるのは人間の専売特許かもしれません.
でも,この手の話には人間至上主義的な匂いがあって,これまではどうも肌に合いませんでした (実は "動物善良主義" も苦手ですが).

ところが,今は亡き中島らも氏が鋭くも看破したところによると,古今東西ありとあらゆる笑いの源泉は 「差別」 にあるんだそうです.
つまり,いろんな笑いを分析していくと,共通項として残るのは 「俺はそんなバカしない」 「ああ自分でなくて良かった」 などの一種の優越感であるとのこと.
なるほど,そう思って手持ちのジョーク集を見直してみたら,まさにそこは差別のオンパレードでした.
男性,女性,年寄り,子供,政治家,タレント,偉い人,偉くない人,普通じゃない人,普通すぎる人・・・およそありとあらゆる人が差別され,笑い飛ばされています.

 −動物の中で笑うことができるのは人間だけ−
 −あらゆる笑いの源泉は差別である−

この2つを素直〜に結びつけると,「人間は差別する」 ということになります. うんうんなるほど,これだったらしっくりきます.

差別というのが過激なら,「自分と他者とを比較する」 と言い換えても良いでしょう.
とにかく人間というのは,相手が他人だろうが動物だろうが,自分と比較してユーエツ感やらレットー感やらを感じてないと気がすまない動物なのです.
別にこれは悪い意味で言ってるのではなくて,例えばレットー感は頑張りの原動力になりますし,他人を気の毒がったり思いやったりすることだって,ユーエツ感の表現形の一つです.
だから,ときどき心が苦しくなったりもするんだと思いますが,でも本当に差別の無い世界ができたとしたら,人間は退屈で死んじまうんじゃないかな?

それで,犬の話.
犬が他犬と自分を比較しているか? ユーエツ感やレットー感を感じているか?? はたまた差別意識はあるのか??? 
本当のところはわかりませんが,多分,群として役割や順位はあったとしても,比較や差別は無いんじゃないでしょうか? 

例えば冒頭の場面,もし犬が 「かわいそうだから○×も入れてあげようよ」 なんて言い出したとしたら・・・,すごく嫌かも.(笑)
「今,あんたは相手を心配して見せて自分の優位を確認する一方で,自分はこんなに思いやりのある犬なんですよとアピールしてるでしょ」 と,人間である私はすぐに勘ぐってしまうからです.

もちろん,部屋のあちこちで行き倒れている犬たちはそんなムダなことはしません.
それぞれ,今の心地よい境遇を満喫するのに一生懸命です.
外の子犬にしても,ただ部屋に入りたいから鳴いているのであって,差別されてるという意識は無いでしょう.
だから,こちらも余計な気を使わずに済みます.

多分,私は動物たちのそういうところが好きなんだと思います.
(これもユーエツ感なのかもね)

コトバと情報と犬 (4) −犬を観る−

 例えばここに 「ボーダーコリーは○○である」 と書いたとします.
 ○○に入るのは 「羊を追う」 でも 「ハイパー」 でも 「シャイ」 でも 「賢い」 でも 「ずるい」 でも 「面倒臭い」 でも,まぁ何でもいいんですが,とにかくそんな文句があるとして,これが一般に流通するようになるとどんどんそれっぽくなって,いつのまにかボーダーコリーの情報として定着します.
 コトバとして発信された途端,そのときの状況やら雰囲気やら,何よりそれを言った人の 「思い」 までもが,ごっそり抜け落ちてしまうのに,,,です.

 ボーダーコリーというか犬と暮らす上で情報は確かに貴重です.それらを知ろうとしないとうのは飼い主としての怠慢とさえ言えるでしょう.でもその一方で,それを知ってたからといっても実際には屁の突っ張りにもならない,ってのは言い過ぎだとしても,あんまりそれに自信持ってもなぁ〜,とも思うわけです.
 犬は一頭一頭違いますし,また自分も犬も状況も,刻一刻と変わっていくんですから.

 結局,色んな知識や他人のアドバイスがあったとしても,犬を目の前にしたときはそれらを一旦忘れて,自分で見て触って感じる(これに "観る" という漢字を当てはめてみました)くらいの気持ちが大事なんじゃないでしょうか. 「自分の犬に対しては自分が専門家」 というのは,きっとそういうことなんだと思います.
 生き物どうしの出会いは一期一会.その瞬間瞬間にこそ意味があるのであって,だからこそ何物にも代え難い価値があるのでしょう.

−−

 要するにこのヨタ話は,「コトバや知識に振り回されず,自分の犬を観る時間と気持ちを大事にしたいと思ったんだよぉ...」 って言いたかったわけです.付け加えれば,犬と何かをしようと入れ込んでいるときは,案外それが見えにくいのでは? と感じていることも.

 たったそれだけのことを言うのに,何だこの回りくどい文章わ,,,と思った人は正しいです.
 そう,それこそがまさにコトバの限界を証明しているのです.
 決して決して私の説明が下手だと勘違いしないように. (キッパリ)

コトバと情報と犬 (3) −情報は不変−

 ちなみに,ここで "コトバ" と言ってるのは,意図を伝えるための話し言葉だけでなく,コトバで表現される情報一般を指しているつもりです.つまり,本やテレビや他人のアドバイスなどで得られる "知識" も含まれています.

 最近は犬に関する情報が増えました.りん姉を迎えた当時は例えば 「ボーダーコリーって何?」 と調べようと思っても手がかりが少なくて困ったものです.それから思えば,まだ充分ではないかもしれませんが,随分と状況は良くなってきたようです.
 しかし,どうもこの情報やら知識やらが曲者ではないかと疑っています.

 「めまぐるしく変化する情報」 という決り文句まであるだけに,「情報は不変である」 なんて言うとわざと奇を衒ってるように聞こえるかもしれませんが,実はこれはとても当たり前のことです (ここ,実は養老孟司先生の受け売り).
 例えば目の前に一枚の葉っぱがあるとして,それを 「端の欠けた黄緑色の葉っぱ」 というコトバで情報化したとします.その瞬間,その情報自体は未来永劫不変のものになりますが,葉っぱそのものはすぐに変色して形を変えていきます.「ものは変化するが情報は不変」 なのです.情報はものが抽象化された記号に過ぎないから,,,なんだと思います.

 対照的に,物や概念は時とともに変化します.そしてその変化の激しいものの代表選手が生き物です.人間の身体の細胞は2ヶ月も経てばほとんど一新されてしまうのだそうで,定義によっては,2ヶ月前の自分は他人と言った方が良いかもしれません.それくらい激しく変化しています.

 要するに 「生き物に関する情報」 は,激しく変化するものを変化しないもので表現しているわけですから,ウソとまでは言えないまでも,どこかに無理を孕んでいる可能性が高いのです.

コトバと情報と犬 (2) −コトバの威力−

 で,コロッと話を変えて ”コトバ”について書きます.最近,人間ってコトバに頼ってるなぁとあらためて思うのです.

 人間の心には意識と無意識とがあって,意識は氷山の一角みたいなもので,それよりずっと大きいのが無意識の領域であることが知られています(どうやって較べるんだろ?).しかし,人間の行動を決定しているのは,少なくとも表面的には意識です.そしてその意識がもっぱら頼りにしているのがコトバです.
 よく,英語に慣れた人が 「一人で考え事するときも英語で考えてんだよな〜」 なんて嬉しそうに言ってますが,まさに意識がコトバで考えていることを示しています.

 確かにコトバは強力です.状況,景色,事象,思考,感情,論理,,,およそありとあらゆることが表現できます(逆に考えれば,人間はコトバで表現できるものしか認識していないから,と言えるかもしれませんが).
 コトバに弱点があるとすればその伝達効率でしょう.百聞は一見にしかずと言いますが,例えば絵画の内容を伝えようとすると,絵を相手に見せれば一瞬で事足りますが,口で説明すると何百何千ものコトバを費やさないといけない.あくまでコトバは事象や論理の一端だけを抽象化した記号に過ぎない,ということなんでしょう.

 人間がここまで文明を築いてこられたのは,間違いなくコトバのおかげです.でも,もしその進歩に限界があるとすれば,それもやっぱりコトバのせいだろうと考えています.
  「個を見て全体を見ない」 というのは人間の考え方の短所の一つだと思いますが,まさにコトバの性質がそのまま反映されているのではないでしょうか.(逆に言えばそんな不完全なコトバだからこそ,大切に扱わなくてはいけないのでしょう.)

 一方,犬のコミュニケーションは基本的にマルチモーダルです.声だけでなく姿勢,視線,耳,尻尾,被毛,呼吸,匂い,,,色んなチャネルをいっぺんに使ってメッセージを伝えています.私たちはコトバを使って自分の意図を犬に伝える(押しつける?)ことには真面目に取り組みますが,彼らからのメッセージはなかなかわからないし,あまりわかろうとしていないように思えます.
 そして多分,マルチモーダルな情報を理解するためには無意識領域も動員して高速並列処理する必要があるのですが,それが意識=コトバ優位の脳になってしまった人間には結構難しいことなのです.私たちは普段,無意識=身体からたくさんの情報を得ていますが,意識の世界に持ってくる過程でそのほとんどを切り捨ててしまうからです.

コトバと情報と犬 (1) −犬と一緒に何もしない−

 2年ほど前のある日,りん姉といつもの遊び場に行ったときに,ふと 「何もせんとこ」 と思い立ち,犬を放してボーッとしてたことがあります.
 その頃はと言えば,気軽にできるし犬も喜んでると思っていたので,遊びに行くと決まってボールやフリスビーなどのレトリーブ遊びをしていた時期です.

 何でそんなことを思い立ったのかというと,どこかで 「動物はとてもシャイでデリケート.彼らと会話するコツは,相手から話し掛けてくれるのを辛抱強く待つこと」 みたいなことを聞いたことがあって,それが頭の隅っこにでも残っていたのかもしれません.

 結果は驚きでした.たった数分の間でしたが,りんはいつもとまったく違うことを語りかけてきてくれたのです...な〜んてのはウソで,彼女は匂いとりと草食いに忙しくて会話どころではありませんでした.
 ま,勝手にそんなことを思い立って何かを期待するのは虫が良すぎるってもんですね.きっと日常生活の中でそんな時間と気持ちを持てるかどうかが問題なのでしょう.

 そのときの意外な発見はむしろ自分の感覚でした.
 広い場所に犬といて何もしないでいると,妙に手持ち無沙汰で居心地が悪い.
 今は慣れましたが,その頃は物を投げないというただそれだけのことに,随分と精神力がいったものです.一度 「犬と一緒に○○をする」 ことを覚えてしまうと,今度は 「何もせずただ一緒にいる」 ことが難しくなる,ということかもしれません.

 他と較べても,犬はとても人間に影響されやすい動物です.うちの犬たちを見てても,ときどき,気の毒になるくらい.(笑)
 最近,道を踏み外して色んな家畜たちと一緒に暮らすようになってしまいましたが,家畜というだけあって,彼らも人間になついてくれます.でもやっぱり彼らは彼ら自身の世界で生きてるって感じです.
 それに比べれば,犬はどうしようもなくこちら側の住人なんですね.それだけに,彼らのホンネが聞きたければ意識してそんな時間を作らないといけないようにも思えます.たとえ彼らの言い分はわからなくても,その気持ちを持つということ自体に何か意味があるような気がします.

 (犬の言い分を聞こうなんて,もしかしたら不遜で不健康なことかもしれませんから,とても人様に勧められることではありませんが...)

コドモ星人ひゅうまん

 前の記事では勢いで 「人間の精神は未熟」 なんて書いてしまいましたが,かなり本気でそんなことを考えています.なんでか? ということなんですが...

 大体,人間の生き物としての特徴といえば,進化(生き残り)の方向として 「オツムと道具」 の発達を選んだことだと思うんですが,まぁ今のところそれが成功し,地球上でちょっとした繁栄を築いているわけです.
 その一方で,そのオツムや道具を活用するために,人間はほとんど一生を 「学ぶ」 という作業に費やすことになりました.私たちが人間らしい生活を営むためには,いろんなことを習得する必要がありますが,これは 「ハイ,学校を卒業したから終わり!」 みたくお手軽なものではありません.この進化の道を選んだと同時に,この楽しくも重い宿題を背負ったのが,人間という生き物だと思うのです.

 問題はこの 「学ぶ」 という行為なんですが,これには優秀な記憶力とともに,モチベーションになる好奇心や,新しいものにチャレンジする冒険心などが欠かせません.そしてこれが,実はオトナの精神には不得意なことだと思うのです.オトナは,知識や経験を活用し,冷静な判断で安全を守ることには長けていますが,危険を伴うかもしれない新しいことには保守的になりがちです.他の動物の場合,生きるのに必要なことくらいは大体若いうちに習得できてしまうので,それでOKなのでしょうが,学ぶこと自体が生きる目的みたいな人間の場合,心まですぐにオトナになってしまうとマズイわけです.かくして私たちは,歳は食ってもコドモの心を持ち続ける動物になったのではないかと考えています.
 人間の身体って体毛が少なくて頭が大きいのが特徴ですが,これをサルのネオテニー(幼児期の形質を残したまま成熟し,繁殖する現象)と解釈する説もあります.実は身体だけでなく,精神や心にもネオテニー的な現象が及んでいるのではないでしょうか?
(と,ここまで書いてWebで 「ネオテニー」 を検索してみたら,身体だけでなくオツムのこともしっかり書いてありました.自分で考えたと思ってたのに,オリジナルでも何でもなかったわけですわ...)

 要するに,知恵に溢れた 「賢い」 生き物であるためには,精神はコドモっぽい方が都合良いのではないか?ということです.そう思って人間社会を見渡してみると,なるほどと思えることがいくつかあります.

 例えば,人間はお互いに殺しあう,ほとんど唯一の生き物だと思うんですが,これなんか,まさにコドモ的精神のなせる技だと思えるのです.子供は,自分勝手だし他人との境界もあいまいなのでしょっちゅう喧嘩します.幸い,それほど知恵や力が無いので大事には至りません.そして,大人になる頃には分別がついて,他人のことを尊重できる(あるいは,他人は他人と割切れる)ようになる...はずでした.
 でも,コドモ心を多く残した人間にはちょっと無理があったようです.現在も世界のあちこちで紛争が続いているのは,いずれも複雑な理由があるのでしょうが,その根っこにあるのは,他人や他民族に対する過剰な感情とそれを抑制し切れない,私たちのコドモ的精神構造にあるのではないでしょうか.

 もう一つ例に挙げたいのが,神さま仏さまです.神や仏はいろんな民族共通に見られる概念ですが,そのイメージには,父や母のそれがいつもついて回っているように思えます.イエスは包容力のある父,アッラーは規律に厳格な父,仏や阿弥陀様は無条件に包みこんでくれる優しい母,といった具合に.これなんか,オトナになり切れない人間の精神が,父や母を無意識に求めているからだと解釈できないでしょうか? (その意味では,神や仏に母的イメージを求める社会の方が,父的なものを求める社会よりも,コドモ度が強いと言えるかもしれません)

 こう考えると宗教の救いを必要とするようなさまざまな人間の業...老いや死に対する恐怖,癒されない孤独感,果ての無い所有欲,他人や他民族への競争心や嫉妬...そんなことも全部,コドモ的精神に関係があるような気がしてきます.もちろん,そのプラスの面だって山ほどあるし,マイナスがあるからこそより良い暮らしを求めて発展していくのでしょうが...ああ,まさに宗教くさくなってきたので,この辺で止めますね.

 例によって今回も 「だから何なんだ?」 という感じの与太話なのですが,まぁ世の中では,そういうコドモ的動物である私たちが社会を作り,犬や子供を育てているわけです.ちょっとしたことで感情的になったり,相手の気持ちを考える余裕を無くすのも仕方がないように思えます.逆に考えれば,自分のコドモ的部分を自覚してそれをいかにコントロールしていくかが,子育て犬育ての極意ではないだろうか?...そんなことを考えたりしています.

擬人化考

 犬を擬人化してはいけない・・・しつけ本の類にもよく書いてあって,あぁそうだろうなと思ってました.

 確かに,お飾りの洋服を着せたり,人間の食事を与えたり,毎日シャンプーしたり,あるいは犬には理由がわかりっこないのに怒りをぶつけるといった行為は,何だかんだと問題がありそうです(まぁ目を吊り上げるほど罪深いとも思えませんが).こういうのを擬人化というなら,確かに 「いけないこと」 の部類に入るのかもしれません.

 でも,ありとあらゆる擬人化が悪いとも思えないのです.上のようなのを 「悪い擬人化」 と呼ぶとしたら, 「良い擬人化」 ってのもあるんじゃないか?ということを最近感じています.その一番良い例がコミュニケーションです.

 言葉が通じる通じないに関係なく,コミュニケーションの基本って,自分の出したメッセージを相手がどう感じたり解釈したりするかを想像することだと思うんです.もちろんその逆に,相手のメッセージにどういう意図があるのかを想像するってこともあるでしょう.そうしてわけがわからないなりにメッセージをやりとりしながら,相手の反応を見て,共有できる部分を少しずつ増やしていくことが,やがて相手を理解することにつながるんだと思います.

 要するに,コミュニケーションには相手の気持ちを推し量るということが欠かせないわけですが,これって何を手がかりにどうすればいいんでしょうか? 読心術みたいな超能力があれば別ですが,まぁ基本は自分の思考や感情を相手に投影する,つまり相手の立場に自分を置き換えてみるってことだと思います. 「自分がこういう風に言われたらどう感じる?」 とか 「自分がこういうことを言うとしたら,何を考えてるときだろうか?」 みたいなシミュレーションですね.これを 「共感」 ということばに置換えても良いと思うんですが,言ってみれば相手に共感することがコミュニケーションの基本だと思うわけです.そして,相手が違う生物種の場合,これって立派な 「擬人化」 なんじゃねーのか? というのが私の考えです.

 ただ,ここでさじ加減が難しいのですが,何でもかんでも自分に置換えて考えるのも,きっと × なんですよね.人間どうしでもそうですが,相手の背景や事情を考えずに自分の感情や考えを押しつけてしまうと,これは単なるジコチューやワガママや勘違い野郎になってしまいます.ここはやはり相手が犬という独立した生き物であることを肝に銘じ,犬としての考え方や習性を尊重することが大事なんだと思います.
 ただ,そうやってお互いの違いを認識した上でやっぱりどこかで共感が必要なわけで...あー,もう,ややこしいのでやめますが,結局,コミュニケーションには犬の理解と良い擬人化の両方が必要なんではないかということです(どちらに重きを置くかは,人それぞれでしょうが).

 「犬の顔色を伺うなんざぁニンゲン様の沽券にかかわる!」 という考え方だってあるでしょうし,それが 「悪い」 なんて誰にも言えないはずです.ただ,せっかく何かの縁で犬という生き物と暮らしてるんだから,少しでも相手とわかりあえた方が得だとも思います.

 「擬人化はダメ」 というセリフが決り文句になって,犬の心や感情をしん酌しないことが信念になってしまっては,本末転倒とまでは言えなくても,ちょっと行き過ぎではないでしょうか.
 そう言えばこの 「ことばが一人歩きする」 という現象,犬飼いの世界には多いような気がするんですよね.いや,反省も込めてですが...

こんなリスペクト

 フツーに考えると,他の生き物に対するリスペクトとは,まずその生き方に干渉しないことになると思うんですが,こと犬に関しては,生活圏が重なる上に一部の意思疎通まで可能なだけに,これがなかなかに難しい.私たちにできることとしては, 「姿や習性をあるがままに尊重する」 というあたりでしょうか.

 ただ,今の犬に関しては, 「そもそも人間が改造してきたんだから, 「あるがまま」 なんて意味が無いのだ」 という声もあります.
 確かにそうかもしれません.
 でもちょっと見方を変えれば,彼らも自分たちの子孫を残すために,進んで人間に近づき,容姿や習性を変えてきたとも考えられます.肉食獣として比較的貧弱な武器しか持たなかった彼らにとって,これが生き残りをかけた懸命の戦略だったのかもしれません.もしそうだとすれば,人間と暮らすことが彼らの戦いであり,それを被害者として決めつけてしまうのは,実は不遜な態度という気がします.一見,人間に依存しているように見えても,立派に独立した生き物には違いありません.

 犬は,ときとして哀しいまでに従順です.暴力をふるわれてもその飼い主を慕いますし,飼い主が望むとあらば,自身の身体を傷めても献身を厭わないでしょう.
 これは人間という,頭が良くて情にもろい反面,気分屋でときに酷薄な生き物と暮らすために,彼らが身につけた武器なのかもしれません.愛と忠誠を一方的に証明し続けなければ,この気まぐれな生き物があっさりと背を向けてしまうということを,彼らは骨身(DNA)に染みて理解してきたのでしょう.
 なんだかイビツで哀しい関係のように思えますが,それが,大きな力を持ちながら未熟な精神しか持てなかった人間の宿命という気がします.

 だとすれば,その一員として自分はどんな面を下げて犬とつき合えばいいのか?
 これが悩ましいところです.

 で,あれこれ考えたんですが,結局のところ,自然体でつきあうしかないのかなぁという気がしています (なんや,それわぁ). 「人間様がご主人だ」 と力んでみせるのも滑稽ですし,逆に同情するというのも,(戦士に対して)ふさわしい態度とは思えません.

 現在,人間が犬に対してしていること...その中には随分と過酷なこともあるでしょう.でも,それをとやかく言う 「理屈」 を私は持てません ( 「感情」 はあるけど).第一,自分だってその一人かもしれません.

 ただ個人的には...個人的にはですよ,何をするにせよ 「犬のため」 とか 「犬が喜ぶから」 という言い方(言い訳?)はしたくないなぁと思っています.カッコつけて言うと,人間と犬との関係にある哀しみみたいなものを,いつもきちんと意識していたいと思っています.

 そして他人はどうあれ,自分が一番良いと思える関係を自分の犬と築いていく...今のところこれが,私にとっての犬族へのリスペクトです.

あんなリスペクト

 最近, 「リスペクト」 ということばを,ちょいちょい耳にするようになってきました.

 辞書を引くと 「尊敬,尊重,敬意,重視」 などの訳語が並んでいます.
 先日も,あるバラエティ番組の若手コメディアンが,ムチャを要求するスタッフに向かって 「いろもんリスペクトは無いんかい!!」 って叫んだのを聞いて,ちょっとびっくりしました.日本語としても定着しつつあるらしい.

 ちなみに,犬の世界で初めてこのことばに出会ったのは,このサイトでも紹介しているバーバラ・サイクスの文章にあった "control with respect" というフレーズでした.犬と人間がお互いを尊重する...犬が人間に敬意を払ってわきまえる...相手のことを大事に考える...簡単なようでもあるし,とても難しいようでもあるし,なかなか奥の深いことばだと思いました.

 これから,自分にとってこれが犬との暮らしのキーワードになりそうな予感がするんですが,それがなんなのか,もう少し考えてみたくなりました.

 唐突ですが,私の生き物観には結構殺伐としたところがあります.

 すなわち,およそこの世で生きとし生けるもの,みんな自分の子孫の繁栄を願って,地球上で懸命の戦いを繰り広げている...そんな感じです.あ,別に殺し合いをしてるという意味ではないですよ.それぞれの生き物がそれぞれの方法で,一生懸命に種の未来を切り拓いている,という感じです. 「他の生き物のことなんか考えていられない」 というのが,正直なところではないでしょうか.

 「そうでもないよ.少なくとも私たちの良心は共存共栄を望んでいるし,絶滅しそうな動物の話を聞くと胸が痛くなるもん」 という声も聞こえてきそうですが,これは,豊富な生物種のバラエティがないと自分たちも生き延びられないということを,私たち人間も身体の奥深いところで理解しているためかもしれません.

 何を言いたいかというと,要するに生き物というのは,戦いの場を共にする戦友みたいなもんではないかと思ってるわけです.そして,そういう関係だからこそ,リスペクトが生まれるんではないかと.
 例として変かもしれないけど,戦場では敵とか味方とか関係なく,敬意を表する精神ってありますよね? 私の想像するリスペクトって,この感覚に近いものがありそうです.


続く

犬好き DNA (2)

 以上は,もちろん根拠も証拠も無い想像上のお遊びです.

 でも,同じ犬飼い(犬好き)でもA人種,B人種の区別が存在するというのは,いろんな人と話をしてきて,なんとなく感じるところです.この両人種が犬の話をすると,どうしても議論がすれ違ってしまいます.たとえ表面的には同じ内容を語っているようでも,心情といおうか,基本的な態度みたいなところで,なかなか埋めることのできない溝があるからです(別に埋める必要など無いかもしれませんが).逆に同じ人種同士の会話だと,意見は違っていてもそういった違和感は存在しません.意見を交換してお互いの考え方が理解できたとしても,このへんの感覚まで共有することは,なかなか難しいみたいです.だから,遺伝のレベルで,すでにどこか違いがあるのではないかと,屁理屈をくっつけてみたわけです.

 もちろん,嗜好や好き嫌いには学習とか経験などの影響が大です.でも例えば,ほんの2〜3歳の子供でも,犬を怖がる子とそうでない子に分かれることや,「メロメロの犬好き」 の大人でも,小さい頃に犬に襲われて怖い経験をした人が案外多いことを考えると,経験だけではないもっと根深いものを感じてしまいます.

 A/B人種の見分け方?
 人間には知識とか理屈とかがあって,嗜好や態度にもいろんなフィルターがかかってしまうので,これはなかなか難しい.でも例えば, 「しつけ上良くないと頭ではわかっていても,どうしても犬を寝床に入れてしまう」人...これなんかB人種に近いと思われます.こういう人は,人間同士より,むしろ毛皮動物と触れ合って眠る方が安心できてしまうんじゃないでしょうか.これを心理実験で確認した例もあるそうです.

 高齢者や精神障害者の施設なんかでは,ほとんど感情を表すことがなくなり,自分の世界に閉じこもってしまう人の話を良く聞きます.その中で,いわゆるセラピーアニマルたちと触れ合うと,急に心を開いて人間らしい表情を浮べる人たちもいます.こういう人たちも,実はB人種なんではないかと思います.逆にもしそうだとすると,効果の無い人(A人種)もいるはずであり,一度,現場の人に確かめてみたいところです.

 しつけの方法論やテクニックを重視するのは,どちらかというとA人種かもしれません.B人種は, 「一緒に暮らしてれば相手の気持ちは何となくわかるさ」 くらいに思ってるので(思い込んでるので),その辺がついつい良い加減になってしまいます.

 もちろん今回も, 「どちらが良くてどちらが悪い」 という話ではありません (これだけは,しつこく念を押しとかないとね!).ただ,議論が紛糾したときなんか,こんなことをチラリと意識してみると,案外,相手の考えにシンパシィを感じるかもしれません.
 また,いわゆるしつけ本の類を読むと, 「自分のライフスタイルとその犬種が合っているか,あるいは,自分は犬と何をしたいか/どんな関係になりたいかを,犬を迎える前に十分に考えましょう」 なんてアドバイスをよく目にします.そのついでに,自分は犬に対してどんな感覚を持っているか,どんな人種なのかを振りかえってみるというのはどうでしょうか? A人種向け,B人種向けの犬種ってのもあったりして.

犬好き DNA (1)

 ちょっと危ない領域になるかもしれない...

   世間には,犬好きと犬嫌いとかいう分類があって,犬を飼ってる人は,自動的に犬好きというレッテルを貼られてしまいます.それはまぁいいとして (ほんとはよくないんですが),最近感じるのは,犬飼いの中にも2つの 「人種」 があるのではないか,ということです.どんな? というのを言葉で説明するのは難しいのですが,例えを並べてみると,

 [しつけや服従に厳格]←→[あまりこだわらない]
 [犬を "飼う" 感覚]←→[犬と "暮らす" 感覚]
 [犬といると緊張する]←→[だらけてしまう]
 [犬を制御しようとする]←→[犬とかけ引きしようとする]
 [犬とは1頭ずつ相手したい]←→[群の中にいるのが好き]
    ・・・

という感じです.
 仮に左側をA人種,右をB人種と呼ぶとすると,2つの人種間の犬に対する態度や考え方は,かなり異なるような気がします.こういう違いがどこからくるのか...以下のように考えてみたんですけど,どうでしょうか?

 基本的には,A人種の人は犬に対して身構えるような印象があります.考えようによっては,これは人間のごく自然な反応かもしれません.この態度が,人間が 「牙を持った大型4つ足毛皮動物」 に対して抱く,潜在下の 「怖れ」 の感情(が形を変えたもの)とも解釈できるからです.なんせやつらは,道具や武器を獲得するまで,人間(類人猿)にとって命の脅威でしかなかったでしょうから.逆に恐怖したからこそ,用心深く生き延びることができ,また知能や技術も進歩したに違いありません.その経験が,種共通の記憶として,今も DNA のどこかに刻み込まれているとしても,不思議ではないと思います.

 では,B人種は何者なんでしょう? ここでは,それが人間と犬との出会いに関係すると考えてみました.

 人類の遠い祖先の中に,自分たちの残飯を狙ってうろついていた狼を利用しようとしたグループが現われました.彼らは,狼が恐ろしい他の猛獣の見張り役やボディーガードになってくれることを感じていました.やがて2つの生き物は食べ物を分け合い,一緒に暮らすようになりました.グループの中で母性愛が強いメンバー(多分女性)は,狼の子から特に人懐こい子を選んで,自分たちで育てようとまでしたでしょう.人間と犬との出会いって,こんな感じだったんではないでしょうか?

 数年前に少し流行った 「利己的な遺伝子」 みたいな考え方をすると,自らのコピー(血縁関係の子孫)の繁栄のため, 「4つ足毛皮動物と暮らす」 戦略を持った遺伝子があったということになります.この遺伝子に操られる人は,自分に懐いた動物といることに,恐怖より安心感を覚えたはずです.特に,目の効かない夜間や無防備な就寝の時間には,半ば切ない思いで,毛皮をまとった俊敏な身体との接触を求めたのではないでしょうか? (一方,狼の遺伝子の中にも,「2本足の頭の良い動物と暮らす」 戦略を選んだものがあり,それが人間をリーダーと見なすように指示し,姿や習性を人間好みのものに変えていった・・・と解釈できます)

 B人種の祖先は,こういう遺伝子をもったグループだったのではないかと想像します.当初,B人種遺伝子は,人類の中でごく少数派だったかもしれません.しかし,狼との共同生活で猛獣の脅威から身を守る術を身につけ,ついでに狩の成績まで上げることに成功し,徐々に数を増やしていったことでしょう.もし,その状態があと何千年か続いていれば, 「狼と暮らす派」 が多数派になっていたかもしれません.ところがやがて,人類は武器や道具で自らを守ることを覚え,生き延びる上でA人種の不利は無くなりました(あるいはA人種も,学習や模倣によって狼族と暮らすことを覚えたかもしれません).そして,両人種ともめでたく繁栄することになったわけです.


(2)に続く...

育てるということ (5) − さいごに −

 人間の場合, AC 的傾向が強い親は,第三者に対して閉鎖的でルールの多い,温かみや笑いの少ない家庭を作り勝ちです.そしてそんな家庭が,やはり AC 的性格の強い子を育ててしまいます.また,虐待や暴力で育てられた子は,それらを恐怖して感覚を鈍磨させる一方で,そういう関係を理想化するという困った性質を持っています.だからそういう子供は,成人してからカルト的な組織に耽溺したり,やはり暴力に支配される家庭を作る傾向があると言われています.アルコール依存症の父を持つ娘は,意識の上ではそれを嫌悪しながらも,やはりアル中っぽい性格の夫を選んでしまい勝ちです.そう,AC 的性格だけでなく,暴力や虐待そのものも世代を越えて伝播する性質を持っているわけです.始末の悪いことですが...

 これがイヌにも当てはまるような気がします.私のせま〜い見聞の中でも,暴力的なボスの元ではその群全体が暴力的なルールで支配されているかのような印象を受けます.他人に攻撃的なイヌの飼い主は,やはりどこか他人に対して警戒しているところがあるように感じられます.逆に,大らかで自信を持っているボスのもとでは,群全体もなごやかな雰囲気になりますし,なんとなく暖かくてユーモラスな空気さえ漂っています.もちろん,私自身の先入観や思い込み,それにイヌそのものの個性もあるでしょうが,だいたいの傾向としてはそんなに外れていないと思います.
 どんな群にしたいかは,個人の価値観の問題になるので,どれが良くてどれが悪いなんて言えません.でも,もしイヌと人間に共通する部分があるとすれば,適切な母性と父性に育てられなかった子は,辛い生きにくさを背負っているのではないでしょうか? 飼い主や他人や他イヌへのヒステリックな攻撃...このうちのいくらかは,うまくオトナになれなかったイヌからの,心の悲鳴なのかもしれません.

   人間どうし一緒に暮らしていれば,たとえ1日数時間の同居でも両者の性格は相互に侵入しあいます.イヌは全身で飼い主を見ています.しかも,ことばという変なフィルターを通さずに,気分や感情の動きを身体全体をアンテナにして感じています. 「イヌを見れば飼い主がわかる」 ということばもあります.犬の性格が飼い主の性格,特に無意識の領域のそれを反映したとしても,全然不思議ではないと思います.
 というわけで,まったくもって独断的なことを,ノンノンシャンシャンと書き連ねてきました.特に後半は 「これが正しいのだ」 なんて主張するつもりは毛頭ありません.独り言みたいなものだと思ってください.

 まぁ,最後にざっくり言ってしまえば, 「イヌも子供も育てるのことの本質は同じ.母性と父性が機能することが必要だし,何よりも,育てる側が オトナ でないと難しいのでは?」 ということを言ってみたかったわけです.

そんなけ!

育てるということ (4) − 人とイヌと父性 −

 ああ,やっと人とイヌの話にたどり着けました.

 大抵の場合,7〜8週目くらいからイヌは飼い主のもとに移ります.これは,ちょうどイヌの行動範囲が群の中に拡大する頃です.したがって,ここで子イヌが出会うべきなのは,母性よりも父性ではないかと想像できます.つまり,本来の群に代わってルールや掟を教えてくれ,外の世界に導いてくれるとともに,自分を守ってくれる新しい群です.もちろん,デジタルの世界ではありませんから, 「昨日まで母性,今日から父性!」 なんて杓子定規に行くはずはありません.イヌの心の発達に対して,父性の役割の比重が段々に増してくるだろう,くらいの意味です.そして,その安心感の核になるべきものが,先に書いたような資質を持ったボスなんではないかと思うわけです.

   繰り返して言いますが,母性が不必要というわけではありません.特に子イヌが小さいうちや迎えたばかりの頃は,包み込むような温もりも大事でしょう.ただし,多過ぎる母性がイヌの心の成長を妨げる可能性はあると思っています.
 またちょっと,人間の話に戻ります.
 先に,年少期の母性の不足が心の成長に悪影響を及ぼすと書きましたが,その反対に,母性が濃厚過ぎても害があります (むしろ日本の機能不全家族は,こちらの方が多数派と言われています).よくあるのは,[夫の存在感が希薄,あるいは不和] → [夫や外の世界にも向けられるべき母の関心が,子供に集中する] → [不幸そうな母を子供がかばおうとする] という図式から,いわゆる 「母子カプセル」 なるものが形成されてしまう,というパターンです.こういう中で子供が成長すると,幼児的な万能感はありますが,一人立ちのできないイビツな精神が形成されていきます.これは,当人にとっては母親の自我に飲み込まれてしまうような恐怖でもあり,母親に対する暴力や,極端な場合にはその命を奪うような事件にまで発展することがあります.

 イヌの場合は,無意識レベルでそこまで深い相互作用は無いかもしれませんが,似たような状況はあるかもしれません.あまりにも家族や飼い主の関心がイヌに集中し,その一挙一動が見られているような感じになると,守られている安心感はあるかもしれませんが,自分を見失うような感覚にもなるんではないでしょうか? イヌといえども,ある程度の自立のためには,ちょっとは一人でものを考えたり,自分の世界を持つ時間が必要なんではないかと思います.全部がそうではないでしょうが,いわゆる 「権勢症候群」 というやつの何割かは,人間で言う幼児的万能感(よーするにワガママ)の表われではないかと思っています.

 もし,この段階で多く求められているのが父性だとしたら,飼い主は厳しさと寛大さの両面を持っており,なにより揺るがない自信を持った大きな存在でなくてはいけません.まぁ,そう言うと大層ですが,そこまで力を入れなくても人間が普通に接していれば,イヌからは自然とそんな風に見えるのかもしれません (ゴハンくれるしね!) .ただ,四六時中べったりと過ごしたり,細かいことにイチイチ腹を立てたりすると,イヌも息苦しくなってくるかもしれません.また,暴力で服従を強いたりすると,イヌの自信を無くさせたり,感受性を鈍磨させてしまうことにもつながるでしょう.さらに,自信の無い態度でイヌを混乱させたり,イヌの反抗(?)にオロオロしたりすると,今度は群でいること自体が不安になり (野生であれば,このボスに従っていたんじゃ自分の命が危ない...という恐怖),どこかで歯車が狂ってくるかもしれません.人間にも残されているはずの動物としての能力を信じて,まずは自然体で接するのが大事なのではないでしょうか.

<続く>

育てるということ (3) − イヌの場合 −

 さて,前半は本からの受け売りでしたが,後半は,単なる個人的な妄想です ( ← まさに与太話!).ぶっちゃけて言ってしまえば,人もイヌも同じと考えたらどうだろうか?って思ってみたわけです.根拠は無いです.でも,両方とも群で暮らす雑食性の哺乳類ですから,共通する部分が多くても不自然ではないように思えます.実際,ゴリラやチンパンジーでは,人とすごく近い精神形成のプロセスを持っていると言われています.

   まず,赤ん坊が生まれて最初に抱かれる感覚.これはイヌで言えば,おっぱいを求めてお母さんのお腹に顔をうずめる感覚になるでしょうか.イヌの本を読むと,7〜8週目くらいまでは,子イヌは母イヌと兄弟の中で暮らすべきだとされています.その理由としては, 「親に守られる経験や兄弟間の遊びを通じて,最初の社会化を学ぶこと」 が挙げられています.これは,幼児が身体感覚を通して母性愛を受け取るプロセスに似ているように思えます. 「7〜8週以前に親元を引き離すと攻撃的なイヌになりやすい」 と言われます.この時期に包まれるような安心感を十分体験できず,自分を愛する能力を育てられないのかもしれません.それが自分に対する自信の無さにつながり,必要以上に他のイヌや人へのガウガウにつながる...こう考えると,生まれて1ヶ月くらいでペットショップに出すような行為は,すごく危なっかしいことのように思えてきます.
 ちなみに, 「兄弟のプロレス遊びを通じて,相手が痛がってるのを見て加減を覚える.だから,兄弟から早く離すと攻撃的になりやすい」 という解釈には,個人的にはどうもスッキリしないところもあります.噛む加減なんて,ほんとに試してみないとわからないものなのかなぁ?って.私も人を殴るとしたらその目的によって手加減するでしょうが,それは子供のときに他人の反応で試したからだとは思えません.まぁ,どっちでもいい話かもしれませんが..

 その後,イヌは少しずつ,母イヌの懐から外の世界に出ていき,そこで,母兄弟以外の群と交わることになります.そこで,しだいに群として迎え入れられ,他の成犬たちから教育を受けたりします.この群の中にいれば,子イヌは外敵や餓えから守られるわけであり,おっぱいにむしゃぶりつくのとは別の安心感を体験します.私は,これが人間で言う父性の役割を果たしているんではないかと想像しています.掟やルールを教えつつ,未成熟な個体を(身体的にではなく,存在として)大きく包み込んでやるというのは,まさに父性の機能だと思います.そして,その代表的あるいは象徴的な存在が,ボスなんではないでしょうか.

 したがって,ボスの条件としては 「力が強くて頭も良い」 ということもあるでしょうが,むしろ群のメンバーが求めるものは,どんな敵や災難が襲って来たとしても,このリーダーに従ってさえいれば大丈夫だという,大きな安心感なんではないかと思います.だとすると,冷静な判断力や落ち着き,さらには自信に満ちた態度などが,ボスの資質としては欠かせないということになります.

<続く>

育てるということ (2) − 人と父性 −

 こういう人たちのことを,オトナになり切れていないという意味でしょうか, AC(アダルトチルドレン)と総称することがあります.例えば,他国や他人の目をすごく気にするのは日本人共通の性癖でもありますが,言ってみれば日本人全体に,軽い AC 的な傾向があるのかもしれません.

   ただ,育てることが母性だけでカタがつくかというと,話はそう簡単でもありません.

 まっサラな赤ん坊が母性の中だけで成長すると,幼児的な万能感みたいなものから抜け出せなくなってしまいます.これは,世界が自分中心に回っているような感覚で,よーするに根っからの,それもガラスのように傷つきやすいワガママになってしまうわけです.生まれてきたばかりの赤ちゃんって, 「自分はみんなから愛されて当然」 みたいなゴーマンな顔つきしてますよね.あの感覚がいつまでも続いちゃうわけです.一時流行ったピーターパン症候群とやらも,この一症状かもしれません.
 これを防ぐには,誰かが 「この世にはルールっちゅうもんがあるんや」 みたいなことを,これも感覚として教えてやる必要があります.あるがままで受け入れるのが母性の役目なら,このワガママな怪物に限界を設定するのは父性の役割です (ちなみに,母性=母親,父性=父親という意味ではありません.その逆であってもいいし,他人でも一人二役でも良いわけです) .別の言いかたをすれば,母性にヌクヌクと包まれた子供を,適当な時点でそこから切り離してやるのが父性の役目です.そして,限界を設定することで子供に欲求不満を起こさせ,そのパワーをバネに親離れを促し,無事社会に放り出してやることが,育ての親の最後の努めということになります(思春期の子供に親父が煙たがられるというのは,まぁ正常ってわけです.哀しいことですが...).

 すなわち, 社会で生きていく能力を養うためには,母性と父性の両方が必要ということです.また,子育てという観点から見れば, 「母性愛」 「限界設定」 「親離れの促し」 が,(これさえできれば他の些細なことはどーでもええっちゅうくらい大切な)その3本柱ということになります.もちろん,生き物相手の話ですから,一から十まで判を押したようにはならないのですが,基本はそういうことです.

 ところで,ここの文章はあえてヒトゴトのように書いてますが,私も(そして私の母も),どちらかといえば AC 的性向が強い方だと感じています.もっとも,ただそれを悲観してるわけでもありません.まずはそういう自分を受け入れ,それをちゃんと認識した上で,乗り越えるなり利用するなりしていけば良いと思っています.かのクリントン前大統領の女クセの悪さも,出生の事情から来る AC 的性格の現われだと思われます.ただ,彼は自分自身を AC と認めて広言するという勇気ある行動に出ました.それが逆に,彼の社会的な成功のバネにもなっているのでしょう.

 ん〜,悪い癖でなかなかイヌの話に行きつけません.
 また,次回以降というわけで...

<続く>

育てるということ (1) − 人と母性 −

 「犬とのくらし」 なんてことにこだわる自分は,当然のことながら,依存とか嗜癖傾向の強い性格なわけです.特定の対象への執着が強い一方で,社会的な関わりとか人つき合いには,そこはかとなく 「生きにくさ」 を感じてたりします.こういう性格がどこから来てるのか...まったくの興味本位ですが,いくつか本を漁ったりしてきました.そうやって聞きかじったことを,まぁ一つのお遊びとしてですが,強引にイヌの話に結びつけてみようと思います.
 まずは,人間のはなし...

 普段,私たちは 「社会的な動物」 として,人との関わりの中で暮らしています. 「自分の欲求を満たしながら,他人とうまくやっていく」 「一方では競争しながら,一方では共感して肩を抱き合う」 なんてどう考えたって至難の技を,シラっとした顔で実践しているわけです.
 ただ,この技は,全部が全部生まれつき備わっているわけではありません.社会で暮らすこと自体が,人によっては大変な苦痛になることだってあります.オギャアと生まれてからオトナになるまで,私たちはこの能力を少しずつ養っているわけです.(ちなみに,私のオトナの定義は, 「自分なりの価値観を持ち,他人と対等で親密な関係が持てる能力を持った人」 みたいなところです)

 人が独立した人格として他人とうまく関わっていくためには,心の奥底に自分を認める感覚を持つことが欠かせません.言いかえれば, 「自分は世の中で必要とされ,あるがままで受け入れられる存在なんだ」 という感覚です.理屈ではなくて,あくまで感覚です.これがどこから芽生えるかと言うと,まずは赤ん坊時代に親に抱かれたときの肌の温もりであり,さらには,年少期に与えられる無条件の愛(≒母性)からくる安心感だと言われています.(無条件というのもミソです. 「良い子にしてたら」 「勉強ができたら」 なんていう条件付きの愛や,自分の不幸の穴埋めのための押しつけの愛では,やはり子供は安心することができません.そう,子供はまず安心できなければならないのです)

 逆にいえば,十分に母性に受け止めてもらえなかった子供は,どこか自分の存在に不安を抱いています.そして,きちんと自分を肯定できないまま成長してしまうと,今度は他人も肯定できなくなります.これが,生きにくさの元凶です.他人を受け入れ共感できないこと...これは社会的動物である人間にとって,ものすごく過酷で辛いことです.他人に優しくなるためには,まず自分に対して優しくなれること...というのは,単なることばの遊びでは決してありません.

 自分に対する不安というやつは,成長とともに意識下に押し込められます.でも,勝手に消えて無くなることはありません.その反動が,いろんな形の問題行動(薬物/アルコール/賭け事などへの依存,拒食/過食,非行,いじめ(いじめられ),不登校/出社拒否,引きこもり,自傷/自殺etc)や,鬱などの精神症状として表面化することがあります.ダメで価値の無い自分を罰したい,という無意識の願望がありますから,ともすれば自分自身を傷つけたり,わざと他人から罰せられるような行動に走り勝ちです (万引き常習犯の多くは,実は捕まることが目的なのです).
 まぁ,そこまで行かないとしても,こういう傾向をもった人は自分に自信がないので,他人の目や評価が過剰に気になります.自分が幸せかどうかより,人から見て自分が幸せかどうかを問題にします.いつも他人とつるんでないと不安です(でも,腹を割って自分をさらけ出せる友人はいません).

 また,自分に対する憎しみが,無意識のうちに他の対象に投影されることもあります.よくニュースになる小動物への虐待も,その何割かはこれが原因だと思われます.もっとも自分自身を投影しやすい対象は,何といっても自分の子供です.子供がかわいく思えるのは,自分がかわいいということの裏返しでもあるんですが,自分を肯定できていない人は子供に対して憎しみを抱くことがあります.これが,今流行り (?) の,幼児虐待の一因であると言われています.

<続く>

February 24, 2006

犬観 (2)

 それで,自分なりの犬観...というか,こんな関係になれたらいいな,ってやつですが...
 一番根っこにあるのは,やっぱり,犬は犬として人間と区別したい(というか,むしろ一緒にするのは相手に対して失礼という気持ち)ということですが,かといって,上下や主従関係で安易にくくってしまうのも好きではありません.人間と犬とはそれぞれが独立した種であり,それだけでお互いに相手を尊重すべき関係である...気持ちの上ではそうありたいと思っています.人間から見れば, 「犬は犬であり,犬であるが故に敬意を払う」 というところでしょうか.もちろん,彼らにも敬意を持って欲しいですし,人間と暮らすことを選択したんだから,その暮らし方を覚えてもらうことくらいは,受け入れてもらわなければなりませんが.
 これは,人と犬のどちらがボスになるべきか,という話ではありません.あくまで,気持ちの持ち方の問題です (もちろん,群としてボスは必要ですが,私にとってそれは上下ではなくて,むしろ役割分担だと思っています).犬観という意味では,日本風にも欧米風にも,ちょっと違和感を感じます.

 実は,こんなことを,子供の頃からボンヤリと考えていたような気がします.犬でも猫でも,毅然とした態度の子を見るのが好きでした.そんな彼らに相手してもらいたくて,いつも煮干を一握りポッケに忍ばせてたものです(これをうっかり洗濯機に入れると,無数の煮干片が洗濯物について,母親が怒り狂ったものでした).いじめられたり,邪険な扱いをされて卑屈になってる犬に出会うと,かわいそうというより,悔しく思ったことを覚えています.なんだか,大切にしていたプライドが傷つけられたようで.

 そんな偏った価値観の私ですが,最近になって知った牧羊犬の世界は,なかなか魅力的に映りました.
 もともと,羊飼いは大変な重労働で,犬をことさら可愛がる余裕なんてなかったでしょう.彼らにとって犬は犬です.一つ屋根の下で暮らすわけではありませんし,餌だって粗末なものだったでしょう.でも,彼らの生活を支える犬の能力に関しては一目もニ目も置いています.牧羊犬に関する出版物やビデオを見ていると,その能力に対して,深い尊敬の念を抱いていた様子が伺えます(もちろん,そうでない人だってたくさんいたでしょうし,一部には犬を単なる道具と見なす風潮もあったとは思いますが...).
 「能力を愛する」 というのは,いかにも欧米風の考え方かもしれません.ただ,少なくともそこに関しては,犬を下に見ることはなかったはずです.生きるためにお互いがお互いを利用する...というのは,もともと犬と人間が出会った関係であり,自然界でもそれほど異常ではないと思います(少なくとも,一方が他方を保護して可愛がる,というのよりは自然なはずです).

 犬と人間が向き合うと,どうしても人間から犬に指図することになり勝ちです.でも,彼らは同じ方向を向いて,一緒に仕事をしています.そういうことが理屈でも何でもなく,日々の暮らしの中で培われてきたのかと思うと,なぜかうれしくなってきます.犬が本当に幸せかどうかなんて,金輪際,私たちにはわかるはずないのですが,それでも彼ら(作業犬)は幸せだったんだろうな,って思ってしまいます.

 口を半開きにして眠りこけているやつらを見ていると, 「こんなやつが尊敬できるか!?」 という思いも頭をよぎります.でもまぁ自分もそんな偉いことをしてるわけでもないし,それに,動物として人間の方が優れてるところって,実はほんの数えるくらいしかないんじゃないだろーか,という気さえしてきます(比べても意味無いことですが).
 そもそも,犬という種が人間社会の中で暮らし,その上,どうやら自分たちに好意まで持ってくれている(らしい)...これだけでも,たいへんな奇跡だと私には思えます.人間族の一人としては,その奇跡に感謝して,犬と一緒の生活を楽しんでいきたいと思っています(←ちょっと神がかってきたゾ!).

犬観 (1)

 自分はどんな風に犬と暮らしたいと思っているのか...なんてしょーもないことをツラツラ考えることがあります.
 犬を飼うことの価値観なんて,それこそ人それぞれでしょうから,基本的に 「あれが良くて,これがダメ」 なんてことは言えない世界ですね.もともと,犬を飼うことなんて,1から9.9くらいまでは人間の都合なんだから,自分で良かれと思うようにするしかないと思います.そりゃぁ,社会や自然(犬種も含めて)に影響が大きいような行為は,個人の勝手というわけにはいかないんですが...

 犬を飼うことの価値観を,自分では勝手に犬観と呼んでます.今まで,いろんな人のいろんな犬観に触れてきました.だからと言うわけではないですが,ここで,自分の犬観を整理しておきたいと,ふと思ったわけです(←平和だねぇ〜). 「ヒマで死にそうや〜」 っていう人だけ,ちょっとつきあってやってください.

 人の価値観には,自分の育った文化がすごく影響します.で,まず私たち日本人の犬観てどんなだろうと考えてみることにします.
 まず私の印象にあるのは,日本人って身内意識が強いってことです.赤の他人にはなかなか気軽に声をかけられないですが,一旦相手が身内だと考えると,思いっきり気を許したりします.あうんの呼吸ってやつでしょうか.それで,一から十まで相手のことがわかったような気になれるんですが,一部でも意見が違ったりすると,今度はひどく裏切られたような気分になります.
 身内の範疇以外の人に対してはどうでしょう? その場合,今度は,相手が自分より上か下かを決めないと,どうも落ち着きが良くありません.成熟した大人の関係というものがあるとすれば,それには 「相手の人格を尊重し,対等の関係でつきあう」 ことが含まれると思うのですが,これが,私ら日本人にはなかなかに難しいことだったりする.

 例えば, 「身内」 の一番大きなくくりは,日本人ということになるんでしょうが,仲間外とのおつきあいである外交とやらを見ていると,先進国に対しては必要以上にへりくだる一方で,途上国に対しては居丈高か 「援助してやる」 という態度になってしまいます. へりくだらず,かつ相手を尊重した上で,自国の意見を堂々と主張する,というのとはちょっと違います. 「身内」 の単位は,地域,隣近所,会社,サークル,友達,家族,個人...それこそ無数に考えられますが,ことごとくそんな傾向があるような気がします.

 それで,えーと,犬の話なんですが...やっぱり似たような傾向があるように思えます.犬を身内として見ないのは,むしろ人間として当たり前だと思うんですが,その結果,当然犬は下に見られます.昔ながらの 「犬畜生」 ってやつでしょうか.実は日本には,犬が人と適当な距離を置き,半分野生のままで人間社会の中をぶらぶらしていた時代があり, 「畜生」 的犬観はそれなりに良いバランスを持っていたわけです.やがて,日本でも犬が家庭に入ってくるようになったわけですが,この犬観はそんなに変わっていないようです.少なくなったとはいえ,相変わらず犬に対する社会的な偏見や蔑視が根強いのも,そのせいでしょう.
 その逆ってのもあります.犬をものすごく可愛がる...これは,意識の中で犬が 「身内」 になったことだと思うんです.それはそれでメデタイことなのかもしれませんが,これがちょっと行き過ぎると,犬を擬人化し 「うちの子」 として猫かわいがりすることにつながります.そんなとき,意に添わない形で犬の本能がチラリと覗いたりすると,裏切られた気分になって逆上したりします. 犬を恐れず蔑まず,犬を犬として受け入れるのが難しいのは,私たち日本人が大人になり切れていない証拠なのかもしれません.

 もちろん,これが良いとか悪いとかいう話ではありません.そんな風な 「犬観」 が日本的な文化としてあるんではないか?ってだけです.

 じゃあ,欧米風の犬観はどうでしょう? よく私たちは,犬たちが社会に受け入れられているさまを見聞きして, 「欧米の犬事情は進んでるね」 なんて言ったりします. 「犬はパートナーである」 というのも,欧米で生まれた言い方でしょう.確かに,日本に比べて犬が一定の市民権を得ている...とは言えると思います.

 ただ,彼らにしても,無条件で犬を受け入れるわけではありません.
 欧米の価値観を考えるときは,やっぱりキリスト教の影響を無視することはできません.キリスト教では,動物は人間(=神のしもべ)に統治される存在であり,人間に益する,あるいは仕えるものとして下に位置付けられます.犬がいくら真っ正直に生きたとしても,天国には行けないのです.また,人間であれば誰でも神に受け入れられるかと言えばそうでもありません.それには,神との 「契約」 を守る必要があります.
 欧米社会を見てみれば,この 「契約」 的な考え方が隅々にまで浸透しています.その典型がカイシャの雇用でしょう.日本人がカイシャに入るときは,なんとなく「仲間に入れてもらう」 的な意識があるんですが,欧米では 「契約を結ぶ」 以外の何者でもありません(最近は,日本人の意識もだいぶ変わってきたようですが).仲間社会 vs 契約社会,あるいは,母性原理の社会 vs 父性原理の社会と言えるかもしれません.

 これが,人間と動物との関係にも当てはまるように思えます.すなわち欧米では,犬はあくまで犬なんですが,一定の 「契約」 さえ守れば人間のパートナーとして受け入れられます.すなわち,よく 「しつけ」 され,人間社会のルールを守るもの,あるいは役に立つものだけが,人間によって 「祝福」 されるわけです.純血種は,犬を人間好みの姿や性質に作り変えたものですが,こういった犬観のたまものと考えても不自然ではないでしょう.姿や性質を人間好みに変えた代償(?)として,犬も社会に受け入れられるのです.そのかわり,飼い主はパートナーの一生に責任を負うわけであり,これには安楽死といったつらい決断も含まれます.
 それはそれで一貫した考え方かもしれません.ただ, 「人間に役立ってなんぼ」の考え方が行き過ぎると,犬を物や道具扱いすることにもつながります.クリスマスプレゼントに子犬を贈ったり,あるいはバカンスシーズンの終わりに犬を捨てたりする習慣も,この価値観とは無縁ではないと思います.

 念のため,繰り返しますが,これが良いとか悪いとかいう話ではありません.思うにそんな価値観なんではないか?ってことです.

 あー,なかなか本論に辿りつけません.ここまで書いて,どっと疲れてしまいました.
...ということで,自分の犬観については,次回に書くことにします(いつになるやら).