October 22, 2006

言葉ノチカラ その四

う~困った.
たくボのエッセイなんだからこの話も何か犬に結びつけなくちゃいけない,って別に誰もそんなこと期待してないだろうけど自分はそうしたいと思っている.(じゃあ,グチんなよ)

で,"犬を取り巻く正論" のことを書いてたら,勢いよく筆がすべってとても表に出せない内容になってしまったので,気を取り直して "ダブルバインド" について書くことにする.

精神分析の世界で言うダブルバインドとは,上位から下位の者に対して告げられる否定的/命令的なメッセージと,さらにそれを否定する言外のメタメッセージが存在し,権力関係の絶対性故にその2つが逃れ難く作用することで,下位の者の世界観が歪んでしまう状況のことである.

これだと何のことかよくわからないが,例えば親から 「素直になりなさい」 と言われて,素直にイタズラをして家族の悪口を言った子供が,その親にこっぴどく叱られて面食らう...なんて状況がそれにあたる.
子供がその矛盾を突いても 「それとこれとは話が違う!」 か 「屁理屈を言うな!」 と怒鳴られるのがオチで, 「"素直" というのは "親の思い通りになれ" ということだ」 という素直な説明は決してなされない.
矛盾は弱者が引き受けるしかない.
(なんだ,単に 「タテマエとホンネが違う」 ってやつじゃないか)

これも一種の暴力だろう.
罵倒やネグレクトほど直接的ではないし,親心とか肉親の愛情という錦の御旗でカモフラージュされているため,子供の側には表立って抗う余地は無い.
その分だけタチが悪いとも言える.

まぁ人間なんてデタラメで言うことが一貫しないのは当たり前だから,普通はそのくらいの矛盾は子供でも適当に消化できるのだろうけど,それが例えば過剰に抑圧的に働いてしまったとか,親の関心が実は親自身にしかないなんてことが見えてしまったとき,心に爪あとが残ることがある.

人と犬の間に権力関係と言葉が存在する以上,犬に対するダブルバインドがあったって不思議じゃない.

人間同士の関係ほどややこしくはないかもしれないが,声によるコマンドとボディランゲージが食い違うとか,やってることと気持ちがバラバラといった状況くらいは普通にありそうだ.
感情の動きは身体の代謝バランスを変えるが,犬はそれを嗅ぎ分けることができるんだそうな.
ハラワタ煮えくり返ってる飼い主が 「ぐっぼ~い!」 なんて作り笑顔で迫ってきたら,これはさすがに犬でもちょっと引いてしまうかもしれない.

人間は頭が良いから,ダブルバインドの袋小路状況を認識し何とか対処しようともがき苦しむ.
その結果として,意識するしないは別にして自分を苦しめた上位者を憎むことになる.
例えば子供の場合,そういう矛盾もひっくるめて丸ごと親を愛する仕方を学ぶまでには,成功やら失敗やら,怒りやら悲しみやら,得意の絶頂やら失意のズンドコやら,燃える恋愛やら悲痛な失恋やら,まだまだたくさんの経験を積み重ねる必要がある.

犬はバカだ.
だから,その矛盾や食い違いをおそらくそれとは意識できずに真正面から引き受けてしまう.
引き受けたからといってどうこうできるわけもなく,せいぜいが困ってみせる程度である.
しかし犬は,その困惑を抱え込んだまま丸ごと人間を受け入れる.
ここが人間との共生を選んだ犬という動物の凄みだろう.
人間にとって辿りつくことがもっとも難しい境地の一つに,犬はあっけらかんと最初からいるのである.
無邪気にぶんぶん尻尾振りながら...

人間のことを精神分析学の岸田秀氏は 「本能の壊れた動物」 と定義し,哲学者の内田樹氏は 「一種のバケモノである」 と言い切った.
その見方は正しいと思う.
人間は幼年期に言葉を習得する.
それは純粋に単語や文法を学ぶだけではなく,同時に言葉に付随するその時代その集団のモノの考え方や常識や偏見などを,まっさらな脳に刷り込んでいく作業でもある.
つまり,誰もが一度は "洗脳" されてるわけだ.
私たちはカルト宗教や独裁国家やテロ組織の行う洗脳をおぞましく感じるが,少なくとも私たちの脳は似たようなプロセスを経て "作られた" ものだ.

往々にして,身体は本能に従って穏当な判断を下すのに対し,脳は過激に暴走する.
脳は自身の快楽や救いのためなら,生存上不利な行動まで求めてやまない(泥酔や暴飲暴食や過労や過激ダイエットなどなど.ジョギングとか健康人が採るサプリメントなんかもそうかもね).
よく "身体的快楽" と言われるが,そういった経験のほとんどは普通の身体感覚に脳が過剰な解釈を施したものに過ぎない.
そして人間は身体の主張に "耳を傾ける" よりも,脳の欲求に "身を委ねる" 傾向がある.
その脳に呪いをかけているのが,他ならぬ言葉なのである.
つまり人間は,言葉を操る(操られる)脳と本能に支えられた身体の間で不整合を生じた,アンバランスで奇妙な生き物だといえる.
(こうやって脳と身体を分けてイメージすること自体,脳の作り出した物語に過ぎないのだけど)

犬はそんな人間の言動を丸ごと受け入れなければならない.
鈍感なクセに情緒不安定で,興奮したかと思うと次の瞬間には落ち込んでたりする人間の相手はさぞ大変だろう.
四六時中一緒にいてよくバランスを保てるもんだと思う.

もしかして,彼らにもすでに言葉の呪いがかかっているのかな.
「犬は人間のパートナー」 とか...
 

(とりあえず)おわり
 

October 8, 2006

言葉ノチカラ その参

世代限定に見える現象も,突然世の中に出現したとは考えにくい.
少なくともその予兆くらいは,前からあったに違いない.
ギャル語文化で思い当たるのは,メディア界で目立つ言葉の大量消費現象である.

昨今のTVやラジオは,発話の間が空くことを極端に忌み嫌う.
バラエティ番組では,練習を積んだ芸能を見せるというよりは,ちょっと気の利いたアドリブっぽいコメントが持てはやされている.
番組の作りは怖ろしいほど画一的で,どのチャネルを見ても複数のゲストタレントたちがひな壇に並び,一組の司会者とテンション高いやりとりを繰り広げている.
この形式の狙いが何なのかは知らないが,少なくとも,番組空間の言葉密度を上げることには成功している.
タレントに求められるのは,"空気を読" んで違和感無く "場をつなぐ" こと.
その代わり一つ一つのセリフは,テロップが無いと聞き漏らしてしまうような,その時その場でしか力を保持できない言葉である.(その証拠に大ウケした場面を人に紹介しようとしても,1日経てば何がおもしろかったのかまるで思い出せない)

新聞,雑誌,インターネットでは,犬サイトに書かれた場違いな時事世評ネタのようなどーでもいい記事の他に,どこからも文句のつけようがない "正論" がやたらと目につく.
それは例えば, 「○×のリーダーシップが期待される」 か 「国民的な議論が必要だ」 か 「関係者に猛省を促したい」 のどれかで締めくくられる朝日新聞的社説とか,事件が起こるとわざわざ被害者に "現在のお気持ち" を尋ねて,それに対して今は気持ちの整理がつかないと言いながら警察やら学校やら役所やらへの "強い不信感" を訴えるインタビュー記事とか,何が何でも昔と田舎と外国は良くて,現代と都会と日本は良くないという文化評論記事とか,一旦不祥事が起こると重箱の隅まで穿り返し,とにかく 「組織ぐるみの問題」 に仕上げて責任者の謝罪を求める報道記事とか,マニフェストを読んだこともないのに 「政策の説明が不十分」 と詰る市民の声を取り上げて "国民不在の選挙を浮き彫りにする" 世論調査記事...などである.

気の利いたコメントと,どーでもいい記事と,文句のつけようがない正論では,それぞれ中身は随分と違うようだが,差し当たり大衆の誰をも傷つけず,違和感無く紙面や画面を埋めることができるという点で,実はよく似ている.
しかもそれらは,仲間内で承認され登録済みの(力を希釈された)ジャーゴンだけを繰り返し使用する "ギャル語" と,見かけは相似形なのである.

人々は物を大量消費することに価値を置いてきた.
同じように言葉も,その力を磨いて強化するというよりは,大量生産/消費する方向を選んでいるように思える.
"ギャル語" 文化は,それをちょっぴり先鋭的に表現しただけなのかもしれない.

他人との行き違いが一歩間違えば死まで招くような時代には,ここ一番で言葉を厳選し,それこそ 「腹を割って話す」 ことが必要とされた.
しかし,現代の日本はそうではない.
そうしなくてもすむように,人は社会を変え文化を作ってきた.
きっと人間はそのように進化しているのだろう.

「このあいだおな中だったマキコの元カレが超キムタクに似てるっていうから、プリクラ見せてもらったの。そしたらー、ただのロンゲでガングロなだけなのー。ぜんぜんキムタクじゃなくてー超サイテー。背は高いんだけど、腰パンとかしちゃってー超変なの」
「でも、マキコもけっこうガンブーだから、超お似合いじゃん」
「でも、マキコの今カレってパー件売るとか言って、パチこいて最悪 。マユミもCD借りパクされたって。この前、ケイタの番号がベルに入ったからウザベルかと思ってシカッティングしてたら、ヤツに拉致るとか言われてゲキムカ 」
「やっぱ、○うはシカッティングがOKティングだよね」
「コギャル語ワードバンク」の会話サンプルより)

どんな言葉にしたって,それを創造して使いこなすことは容易ではない.
彼女たちはそのための努力を惜しまない.
そこには,今の時代を生きるための何かが含まれているのだろう.
国語力低下の主犯であるかのように彼女らを非難しても始まらない.

んが,でも,しかし,さはさりながら,,,だ.
娘や近所の子がギャル語を使ってきたら,やっぱりオヂサンは 「ちゃんと喋れよ」 って文句言うだろうな.

だってめっちゃキモいんだもん.


つづく
 

October 6, 2006

言葉ノチカラ その弐

日本人の国語力が落ちて若年層の語彙が少なくなったとよく指摘される.

平日昼下がりの電車内,外回り仕事でクッタリした身体を座席に預けながら,女子中高生らの言葉をシャワーのように浴びるのは不条理で目くるめく体験だ.
速いテンポに圧倒的な発話量,目立つ同一フレーズのリフレイン.
どことどころ意味不明.
"ギャル語" は現代の呪文だ.

以前,某民放で 「ギャルサー」 という連ドラが放映されていた.
学校にも家庭にも身の置き所が無い "ギャル" たちが渋谷に集い,パラパラのダンスサークルを作って活動しているところに,アリゾナ育ちの日本人カウボーイ(!)が現れて,感動ドラマを繰り広げるというハチャメチャなストーリーである.

その何話目かに,仲の良かった友人を除け者にしようとする少女の話が出てくる.
その少女が友人に向かって自分の嫌悪感をぶつける場面が何度も出てくるのだが,そのたびに少女は 「てめぇ,うぜーんだよっ!」 とだけ繰り返す.
本来その後に続くはずの,相手のどこがどう "うざい" のか,あるいは今まで気が合ってたのになぜ "うざく" なったのか,などの説明はできない.
あとは,別れ際に 「死ねっ!」 と吐き捨てるだけである.
目を見開いて相手を睨みつける少女(戸田恵梨香ちゃん♪)の表情は,言いたい事や片付かない思いを山ほど抱えながら,感極まってしゃくりあげるしかない童女のようである.

もちろんそれは脚本用に作られたセリフだ.
しかしその暴力的に拙い表現には,むしろ痛々しいリアリティを感じた.

そこでふと思った.
もちろん国語力の低下もあるだろうけど,ギャルたちの語彙が少ないのにはもっと積極的な意味があるんじゃなかろうかと.

先に述べたように,言葉は呪いでもある.
人を勇気づけることも,修復不可能なまでに傷つけることもできる.
そしてその傷の部位や深さは,時として発話者本人の意志とは無関係である.

年若く抵抗力の少ない彼女たちは,言葉によって自分が簡単に傷つくこと,また同じくらい簡単に人を傷つけてしまうことを本能的に知っている.(この "傷つく" というのも手垢がついた感じであまり使いたくないけど,他に適当な単語を思いつかない.他人の語彙のことなんか言えないね)
でも,人は言葉抜きでコミュニケーションすることはできない.
使う言葉を極端に限定し,かつそれらを擦り切れるくらい大量に消費する "ギャル語" のお作法は,コミュニケーションを維持しながら一つ一つの言葉の力は希釈してしまおうという,少年少女たちが編み出した防衛手段なのではないだろうか.

世の中には 「心の触れあい」 という口当たりの良いフレーズが氾濫している.
しかし本来人間にとって,(本人のも含めて)他人の心の深淵を覗き込むことは怖ろしい体験なはずだ.
隠しておきたいこと,知りたくないことは誰にだってある.
「心を触れあわせる」 ことは,覚悟と勇気のいる"野蛮な"(別に悪い意味じゃない)行為だ.

言葉は時としてその回路を開く鍵になる.
そういう危ないことには触れず,そこそこ楽しくやってけるんならそれでいーじゃんという理屈があっても不思議ではない.


つづく
 

October 4, 2006

言葉ノチカラ その壱

朝日新聞のTVコマーシャルのコピーに,

 言葉は未来
 言葉は思い出
 言葉は鎖
 言葉は慰め
 言葉は翼
 言葉は現実
 言葉は夢
 言葉は希望
 私たちは言葉の力を信じている

というのがある.
いろいろ好きだ嫌いだの意見があるが,個人的にはここに 「言葉は呪い」 というのを加えて欲しかった.

発声された言葉に実質的価値があると信じられた時代,祝や呪はその基本的なかつ重要な機能だった.
夢枕獏描くところの安倍晴明によれば,名前を口にすることはすでに呪術の一部だったのだそうな.
(そういえばこの間観たゲド戦記でもそんなこと言ってたな)

呪文によって物を動かしたり天災をコントロールできるかどうかは知らないが,少なくとも人間に対して,言葉が強力な力を持つことは疑いようがない.
人は人(自分自身を含む)が発した言葉によって感情を動かされ,行動を左右され,自由を制限される.
幼い頃にかけられた何気ない一言が,その人の一生を決定することだってある.
言葉は時や場所を超えて作用し,しかも目に見えない.
呪術と言うと何やらオドロオドロしいが,外形的には十分にその機能を備えている.

小泉元首相の手腕をあーだこーだ言えるほど政治に詳しく無いけれど,彼が言葉の力を巧みに使う政治家だったことは確かだ.
2005年衆院選挙前,彼は 「郵政民営化」 をぶち上げた.
メディアも政治家も国民も一斉に注目し,当然,誰もがその詳しい説明を待った.
しかしいくら待っても説明はなされない.
気がつけば,選挙は自民党の圧勝に終わっていたのである.

小泉元首相は 「先手を取る」 呼吸を心得ていた.
武道の世界で 「先手を取る」 とは,必ずしも先制攻撃を意味するのではなく,相手を待ちの態勢にして自分の一挙一動に意識を固着させ,行動の自由を奪ってしまうことを本来の目的とする.
一旦先手を取られた者は,自分から技を仕掛けることができなくなってしまう.

首相の目論見どおり,選挙は彼のペースで終始した.
すべての候補者は(賛成にしろ反対にしろ)郵政民営化への態度表明を強いられたし,対抗馬であるはずの民主党なんか, 「問題は郵政民営化だけではない!」 という何だか訳のわからないスローガンを掲げる羽目になってしまった.

小泉元首相の言葉はよく 「内容が無い」 と批判された.
しかし,少なくとも国政を動かす力はあった.
意味不明だが強い力を持っている・・・これはまさに "呪文" である.

つづく
 

September 20, 2006

キャッチボール

考えてみればキャッチボールは不思議な遊びだ.
2人で向き合って,一人がボールを投げ一人が受ける.
あとはそれを延々と繰り返すだけ.
これのどこがおもしろいのと問われれば答えに窮するが,この歳になるまでもう何千回何万回もやっただろうに,いまだに飽きるということがない.
はじけるような喜びや達成感は無いけれど,シミジミとおもしろい.

小さかった頃の遊びを訊ねられて, 「お父さんとのキャッチボール」 と答える人は多い.
実際には色んな遊びをしたろうから,キャッチボールが特に記憶に残りやすい遊びだとも言える.
ボールを投げてキャッチするという単純な行為に,どこか心の琴線に触れるものがあるのかもしれない.

文化人類学とやらの世界では 「人間社会を基礎づけているのは "交換" に対する欲望である」 という有力な説があるらしい.
つまり,物や言葉や家族などを交換したいという欲求が社会や文化を築く礎になった...というよりもうちょっと過激に,そもそも社会や文化はそれらの交換をするために築かれた,というのがその主張である.
その正否はともかく,人間が "交換" が好きで好きでたまらない動物であるのは確かなようである.

そこで思った.
キャッチボールに妙な魅力があるのは,それが交換を擬した遊びだからではないだろうか.
自分の投げたボールが相手に渡り,それがまた自分の元に返ってくる.
返ってくるボールには,相手によって何らかの意味(コースとかスピードとか回転とか)が付与されている...
おそらく私たちは,投げたり受けたりの身体運動の快感のほかに,「相手とボールをやり取りしている」 ことに,何やら奥深い満足を感じているのだろう.
我ながら変な動物だ.

犬はどうだろ?

そういえば,私の知っている犬たちはほとんど例外なくボール遊びが好きだ.
最近までこれは,動くものに対する追っかけ衝動の発露,つまり逃げていくボールを獲物に見立てた一種の 「狩りごっこ」 だろうと思っていた(猫が猫じゃらしに夢中になるように).
でもキャッチボールを上のように考えると,それだけじゃない気がしてくる.

レトリーブ遊びをせがむ犬たちを見ていると,一番集中して楽しげな時,つまり期待が膨らんで 「もう,たまらん~っ!」 状態になるのは,人間がボールを拾い上げてから投げるまでである.
つまり彼らは,この短い時間の人間とのやりとりに夢中になってるんじゃないだろうか.
ボールを追っかけたり,キャッチしたり,人間の元に運んできたりするのは,むしろそのおまけという感じがする.

そう言えば,彼らをもっと喜ばせる遊び方がある.
それは犬がボールを咥えたときに,そのボールが欲しい~!とこちらから追いかけてやるのである.
ときどきはゆ~っくりと近寄って,犬が警戒しだしたらババッと駆け寄ったりして.
これは効く.
犬はすぐに,キャーキャー言いながら得意満面で逃げ回るようになる.
たぶん,この遊びの方が相手とのやりとり(駆け引き)がずっと濃厚だからだろう.
まぁ,やつらをイイ気にさせるとロクなことがないので,そんな遊びはしない方がよいのだけれど.

そんなこんなを考え合わせると,彼らがレトリーブ遊びに夢中になるのは,狩りごっこというよりはむしろ,「ボールを介した人とのやりとり」 が楽しいからではないかと思える.

もしかしたら犬も, "交換" に対する欲求を持っていて,それを人間と交わすことに無上の喜びを見出す動物なのかもしれない.
人間も変なら犬も変である.

ところでキャッチボールは"キャッチ"ボールであって,なぜ"スロゥ"ボールとか"ピッチ"ボールとは言わないのだろうか?(あちらでも"play catch"と表現するらしい)

「ボールを投げる」 局面では,動作を起こすのもコントロールするのも自分である.
主体的ではあるけど単純と言えば単純だ.
しかし 「ボールを受ける」 ためには,相手の投げたボールを見てスピードや軌跡を判断しながら自分の運動を制御しなければいけない.
つまり,ボールに反映された相手の意思や行動を受容することがまず要求されるのである.
そこに技術的にも心理的にもより滋味深いものがある...なんてことが, "キャッチ" ボールという名前に込められてるのではないだろうか.

あ,なんか無理やり "良い話" にしようとしている...
やめとこ.
 

August 18, 2006

犬にまつわるコミュニケーションの話 (2)

私たちが知っている他のコミュニケーション手段に比べ,コトバは論理的,抽象的な情報を伝えることに長けています.
圧倒的に優れています.
しかし,感覚や気分を伝えることはそれほど得意じゃありません.
そして本来,それを補うのが表情や身振り,匂いなどだったはずなのですが,どうも人間はコトバを発達させる過程で,他の感覚によるコミュニケーション能力を急激に弱めてしまったようなのです.
(あるいは,感覚や気分は相手から隠した方が有利なこともある故,コントロールしやすい語調やコトバで表現することにしたのかも)

ちょっともこみち,じゃなくて横道.

アメリカ人が世界のどこでも米語で押し通そうとするのは有名な話ですが,例えばフランス人は,自分たちが愛してやまないParisをアメリカ人が "パリス" と言うのが,つまり米語風に語尾の "s" をはっきり発音するのが鳥肌が立つほど嫌なんだそうです.

当のアメリカ人がそれを察するのは難しい.
なぜなら,一般マナーとして,フランス人が面と向かって相手を非難することはないだろうし,また人間には,相手の鳥肌(感情)はなかなか見えないものだからです.
(犬だったら,匂いでわかるかもね)

犬と人のコミュニケーションにも似たところがあります.

両者のコミュニケーションに使われるのはもっぱら "共通言語" であるコトバです.
とゆーよりは,両者とも相手に対してメッセージを発しているのだけれど,それを理解しようと努めるのは半ば一方通行的に犬の側です.
そして,自己流コトバで押し通す人間には,犬が感じているかもしれない違和感を察することは,構造的に難しいのです.

じゃあ,どうすりゃいいのか?
普通はここで 「だからもっと犬を理解しましょうよ」 とくるのかもしれませんが,それもちょっと安易に過ぎるような気がします.
いや,まぁそれはそうなんですけど,それを大上段に掲げてしまっていいのかどうか...

哲学の世界では,他者や時間は 「理解不能なもの」 と相場が決まっているようです.
そもそも私たちは,他人どころか自分自身(の中の他人)でさえ理解できないのだから,種まで違う生き物が理解できるはずがありません.
多くの人がコミュニケーションの目的は 「お互いを理解すること」 だと考えていますが,そんな大それたことを目指すから,不都合や摩擦やフラストレーションが絶えないのではないでしょうか.
私たちはお互いに理解を超えた存在なんだと認識し,相手に対する畏怖と敬意を持つことが,コミュニケーションの第一歩だと思うのです.

私は,コミュニケーションの目的はコミュニケーションすること自体にあると思っています.
そのためにこそ人は,相手の感情や置かれた状況を類推しようと努めるし,自分の意図が相手に伝わるように工夫もする.
逆に言えば,そういう地道で丁寧な作業を続けないと,コミュニケーションは維持すらできないということです.
(そのしんどい作業を支えるエネルギーは, 「相手を理解する」 ことが絶望的な状況にありながら,それでも相手と関わっていたいという切ない欲望です)
本来,生き物同士のコミュニケーションは,そういうデリケートな緊張状態の中でこそ成り立つものだと思います.

先の例,件のアメリカ人が相手の嫌悪感を知るためには,フランス語の発音規則やその背後にある音韻的な美意識まで理解しなければなりません.
じゃあそれらを知らない限り,永久に嫌われ続けるのかというとそんなことはないし,逆に知ったからと言って好意を持たれるとも限らないでしょう.
彼が嫌われる本当の理由は,事実上の世界共通言語となった米語を振りかざし,他国の首都を我流に発音してはばからない尊大な態度にあるからです.
相手文化に対するちょっとした気遣いや敬意,あるいは自己流にしか発音できないことに対する含羞があれば,なにも鳥肌まで立てられることはないでしょう.

コミュニケーションは技術ではなく,倫理の問題だと思うのです.

相手が人だろうと犬だろうと.

 
おわり
 

犬にまつわるコミュニケーションの話 (1)

何だか同じような話ばかりで申し訳ないですが,と恐縮して見せつつ,なに,最初にこう断っとけば大抵のことは許されるのさと世間様をなめきった態度で,犬と人のコミュニケーションについて思ったことを書きます.

普通,私たちは話し言葉を使って犬をしつけたり,仕事を指示したり,芸を教えたりします.
そして上手下手,紆余曲折,七転八倒はあるにしても,いずれ犬はその言葉に応えるようになります.
それを私たちは 「犬に○×を教えた」 とは言うけれども,なかなか 「犬が自分の言葉を理解した」 とは表現しない.
これってちょっと片手落ちですよね?と思ったりするわけです.

人の話し言葉(以下,"コトバ" と表記)が,身振りなど他のコミュニケーション手段と決定的に異なるのは,それが記号でしかないという点です.
例えば,「犬」を説明するための身振り手振りであれば,どこかで犬の容姿や性質を表していますから,やがてその意味を連想することができるでしょう.
しかし, 「い」 「ぬ」 という音の連なりと,犬という動物の間には何ら必然的な関連はありません.
あるのは 「その一連の音が四本足で歩く人懐っこい動物を指す」 という人工的なルールだけです.
このルールを知らない限り,いくら想像力を働かせても両者の関係に辿りつくことはできない.

犬はコトバを知りません.
これは,私たちが 「へへ,外国語は苦手で...」 と照れるのとは,まったくレベルの違う話です.
私たちが未知の外国語を聞いたとき,たとえその単語や文の内容はチンプンカンプンでも,とにかくそこに 「あるルールに則った単語や文がある」 ことは知っています.
ところが犬は,「記号を使ったルールベースのコミュニケーション」 という概念そのものを持たないのです.(たぶん)
この差は大きい.

それでも犬は,コトバから飼い主の意図を理解しようと努める.
そして彼らは彼らなりの解釈で,一定の響きを持つ一連の音声と,飼い主が自分に望んでいる行動とを結びつけ,それを実践してみせます.
その圧倒的に不利な条件を勘案すれば,これを 「コトバを理解した」 と表現することくらいは許されてもいーんじゃね?と,個人的には思うのです.

人が人に 「犬に○×を教えた」 と言うとき,そこには 「教えるのには結構な技術と忍耐と努力がいったんだかんな」 という微かな自負が漂いますが,犬にだって同じくらい,いや多分それ以上の苦労があったはずなのです.


-(2)に続く-
 

June 30, 2006

幸福体験

ずっと以前に同じようなことを聞いたことがあって,その時はふ~んというくらいでほとんど忘れてたのだが,なぜかここ最近(といっても1年くらいの間),立て続けに「それ」の話を聞いたり読んだりすることが重なった.

それ」は一種の感覚である.
もっとも,単純に五感を介して入ってくる刺激ではないので,本当に感覚と言えるかどうかはあやしい.
最近流行り(か?)の身体感覚というやつかもしれない.

きっかけは様々だ.

ジョギングのランナーズ・ハイであったり,麻薬によるトリップであったり,ヨガの瞑想であったり,宗教的な信仰を深めたときであったり,良い出産であったり,長年の武道の修練であったりする.

中には,子供時代に一人で夕焼けを見つめていて,突然「それ」を感じたなんて人もいる.
その人の場合は「それ」が原体験になっていて,何か辛いことがあるたびにその感じを思い出しては立ち直るということを何十年も繰り返してきたらしい.

体験者の表現はいろいろだが,共通するのは,「自分が自然(宇宙)のネットワークの一部を構成していて,互いにシンクロしていることを実感する」 というあたりだ.
"宇宙との連帯感" と言ってもよさそうである.
異常なほどの多幸感を伴うらしい.

悲しいかな悔しいかな,自分はそんな経験をしたことが無い.
でも,「あぁそういう幸福感ってあるかもね」 という感じだけはする.
我ながら切ない立場である.

大体,生きることの不条理って,情け容赦も無く広い宇宙にポツンと浮かぶ地球という星で,理由も目的も知らされないまま生まれ,そのまま死んでいくことに集約されると思うのだが,それがある時突然,自分が宇宙や自然と一体であり,祝福されており,存在することに意味があるということを実感するのである.
これは幸福以外の何物でもないだろう.
やがて訪れる死さえ,穏やかに受け入れられるような気がする.

それ」に穏当な理由をつけるとすれば,例えばヒトの共通的な願望が脳の覚醒レベルの低下によって意識の表層に上ったものだとか,あるいは臨死体験のようにある特殊な状態下にある脳機能の一つだ,といった風に説明できるかもしれない.

でも,それじゃあつまらないというか,そうであってほしくないという気持ちが自分にはある.
ここはやはり細胞や分子レベルで何か未知の共振運動みたいなものがあって,それが幾重ものフィルターをすり抜けて,ふとした拍子に意識の表層に浮かび上がってくるというふうに解釈したい.(例えば,だけど)
つまり感覚通り,宇宙と交信したのである.
その方がうれしい.

で,もしそうだとしたら,動物や植物や微生物たちも同じ感覚を覚えているはず.
いや,大脳皮質という厄介なものが発達していない動植物たちの方が,もっと頻繁に,もっと豊かに,もっとリアルに感じているに違いない・・・と,どうやら人間の中でも鈍感なタチらしい自分はひがみを込めて思ったりする.

ジリジリ照りつける夏の日の下,あるいは刺すような氷雨が降りしきる中,黙々と草を食み続ける羊たち.
そんな彼らが突然,身を捩るようにして躍動するときがある.
それを見ていて 「お,今,感じたな?」 なんて思う.
朝,いつものトイレの時間に,さほど広くも無い囲いの中で突然爆走を始める犬たち.
ヒゲから尻尾の先まで力がみなぎっている.
ヤツらも「それ」を感じたのかも.

動物たちは,生まれることも食べることも遊ぶことも寝ることも死ぬことも,みんな等しく重要で意味があるなんてことを身体で理解してるんだ,きっと.
彼らには虹の橋なんか必要無いわけだ.

人間ってずいぶん損な生き物だという気がしてきた.
 

June 10, 2006

贈るきもち

ファームが近所に知られてきたせいか,家畜用にと言って,農家の方々がクズ野菜や米ぬかなどをわざわざ届けてくださいます.
たまに,「好きなだけ持ってっていいよ」 と言っくれる野菜をこちらから収穫に行ったりもする.
ほんとうに,ありがたい.

草の無くなる冬場には貴重な飼料だし,放牧の季節でも色んなものを食べさせてやりたいから,遠慮無く,片っ端からいただくことにしてます.
確かに農家の方にとってはクズかもしれないけれど,へろへろ野菜しか作れない自分たちから見れば立派な出来映え. 「家畜たち大喜びなんですよ~」 とか言いながら,こっそり人間もいただいてます.
(「あんな出来損ない食べるんか!?」 とビックリされるのも不本意なので,黙ってますが)

それにしてもみなさん,作業の大変さをアレコレ愚痴る割には,結局は食べ切れずに近所に配る羽目になるとわかっている野菜を,丹精込めて拵えてらっしゃる.

なんで?・・ってそりゃやっぱり 「喜んでもらいたい」 からでしょう.
"素朴な人情" というやつです.

ただ思うんですけど,他人に(物やサービスを)贈与するという行為には,そういうホノボノした感じよりもうちょっと止むに止まれぬ的な, "人が人であるための情動" みたいな深刻な一面もあるんではないでしょうか.
今日の社会や経済は,そのために成立したと言えるくらいの.

遠い祖先の一人がある日,たまたまたくさんの食糧を手に入れました.
家族(がいたかどうかは知らないが)で食べきれないくらいの量です.
腐らすのももったいない(という概念があったかどうか知らないが)ので,近くの知り合いに譲ってみたところ,これが何やら "気持ち良い" ではないか.
"自分が必要とする以上の物をせっせと作る" ことはヒトという動物の奇行の一つだと思いますが,それはこの快感にドライブされるところが大きかったのでしょう,たぶん.

もちろん,貰う方だって苦労せず物が手に入るのだからありがたい.

ただ,ありがたいのは確かなんですが,その一方でどこか尻の座りが悪い.
相手に対して引け目というか,何か心の負担を感じてしまうのです.
そして人は,この負担を軽減するもっとも簡単な方法が,"(別のものを)贈与し返す" ことであることを発見する.
たぶん,これが物々交換の始まりだったのでしょう.


ところで贈与の交換は,普通,等量ではなく過剰に行われます.
言葉を贈り物に例えるとその辺の機微がわかります.

 A: 「こんにちわ」
 B: 「こんにちわ」
 A: 「良い天気ですね」
 B: 「良い天気ですね」
 A: 「お元気そうですね」
 B: 「そちらこそお元気そうで」

これじゃあ話が弾まないどころか,下手すりゃ殴り合いです.
ここはやはり,

 A: 「こんにちわ」
 B: 「こんにちわ,良い天気ですね」

とか何とか,ちょっぴり "おまけ" を付けて返すのが愛想(いい言葉!)というもんでしょう.
でないと会話になんないし.

経済の世界では "等価交換" が公理のように言われていますが,もし上記が正しいとすると,そうではないかもしれません.
流通の基本が贈与だとすると,返礼は過剰に行われるのが自然なはず.
だから,物の値段が高い・・・すなわち物を譲ってもらったときにそのお返しが割高なのは,哀しいかな理に適っているのかもしれません.
まぁそのおかげで,客も大きな顔をしてられるのでしょうが.
(だからってことさら威張るのもどーかと思うけど・・・)

日本のサラリーマン軍団のほとんどは,(実態はどうあれ)内心では 「俺は給料以上に働いている」 と思ってるんだそうです.
だから 「仕事キツイ割りに給料安い」 とか 「あーあ毎日サービス残業かよ」 などとボヤきながら,おいしいお酒が飲めるわけです.
会社に恩を売ってるような気分に浸れるからね.
日本が平和なのは,案外,そんなところに原因があるのかもしれません.

あ,でも,そうすっとアレっすよね,「一攫千金」 とか 「楽して儲けた」 ことを自慢しつつ蓄財に精を出したり,あるいは一方的にサービスを享受して平然としてられる人は,"人の定義から外れる" という意味での "新人類" か,もしくは何か別の生き物と思ったほうが良いのかも.
(野菜をいただきまくってニコニコしてる私らって・・・)

--

ところで,この先は例によって, 「犬たちって生産こそしないけれど,出血大サービスの精神はあるんじゃないか?」 とか 「彼らが必要以上に張り切ってみせるのは,彼らなりの心の負担を軽減するためだ」 なんて話にこじつけたかったのですが,さすがに無理矢理っぽいので挫けました.

だれか,考えてみませんか?

April 6, 2006

犬も仕事もメタ言語 (4)

それは,例えばレトリーブを犬仲間に披露するときだったり,TVに出たときだったり,イベントでデモしたときだったり,競技会で活躍したときだったり,あるいは単に通りすがりのおっさんが「お,賢い犬やんけ」と呟くのを聞いたときだったりします.
つまり,他者との関係が生じることに新たな刺激を感じるのです.

この刺激は一般に,快にしろ不快にしろ,犬と対話することからくる刺激より強く深い.
だって人間ですもの.
こうして,もともと "人<=>犬" だったコミュニケーションの図式が "犬を介した人<=>人" に置き換えられていくわけです.

別にそれがマズイとか,犬がカワイソーなどと言いたいわけじゃありません.人であるA君が人とのコミュニケーションに犬とのそれより大きな魅力を感じるのは当然でしょう.
ってゆーか,むしろそうあるべきなんであって,まっとうな成人が犬とのコミュニケーションに全身を傾けるという図は,ちょっとバランスを欠いているようにさえ思えます.(余計なお世話ですが)
ジョンにしたって,もしそんなA君の気持ちがわかったとして,がっかりするでしょうか?たぶん,それは,無い(気がする).むしろ,喜び勇んでA君の期待に応えようとするのではないでしょうか?
それが犬という生き物だと思います.

要は人も犬もまるでオッケー.
双方がハッピィなんだから喜ばしい限りです.

ただですね,このコミュニケーションの図式と,人は意識的にしろ無意識的にしろ,人とのコミュニケーションを志向する生き物だということは頭の片隅に置いておきたいと思うのです.
犬と何をするにしても, 「犬が喜ぶから」 とか 「犬のため」 とか 「犬がやりたがるから」 などと恩に着せるのはフェアじゃないように感じます.
躾をするのも,犬連れ旅行に出るのも,競技会に出るのも,ペット同伴喫茶に入るのも,散歩に行くのも,山登りをするのも,健康診断をするのも・・・人がやりたいからやらせてるということ,犬はその人の意に沿うように振舞っているということを忘れたくないと思っています.
別にそう思ったからといってどこがどう変わるというわけでもありませんが,それって,やっぱり重要なことじゃないかと思うのです.

う~ん,どうも尻切れトンボになってしまいました.
別にそんなことを言いたかったんじゃなかった気がするんですが,もうここまで書いちゃったしな・・・

もう一度,頭ん中整理して出直します(ウソ).

おわり

犬も仕事もメタ言語 (3)

例によって無理やりの犬話です.

かなりの人が経験していると思いますが,犬というやつ,芸やスポーツを教えると最初はしぶしぶと言うか,まぁはっきり言って気乗りのしない様子で取り組みます.
しかしトレーニングを繰り返していくと,次第に積極的になり,ときには身体全体で喜びを表現するかのように熱心に取り組むようになります(ならないこともあるけど).

この変化は連続的ではなく, "ある時点を境に急に" やってくる感があります.
私たちはそれをトレーニングの賜物であり,犬が芸やスポーツ自体(ディスクやボールをレトリーブしたり,障害を走り抜けたりすること)の面白さに目覚めたと解釈しがちです.
でも実はそうではなくて,作業を通じて飼い主とコミュニケーションできるということを,犬が感じとったからだと考えられないでしょうか?
そのときはじめて,芸やスポーツは犬にとっても情熱を傾けるに足る仕事となり,それを通じて人とコミュニケーションすること,ボスであるところの飼い主に承認されることに "やりがい" を見出したのではなかろうか.
イヌも,ヒトとの関係を通じて初めて,(人がイメージするところの)"犬" という生き物になるのかもしれない.

タトエバノハナシ・・・

ある日,A君は飼い犬のジョンにボールのレトリーブを教えようと思い立ちます.
ジョンは衝動のまま逃げるボールは追いかけますが,持って帰ろうとはしません.
そこで,A君はリードを使ったりトリーツを使ったりしてそれを教えます.
ジョンは, 「ボールを持って帰る」 と何か楽しいことが起こるということを繰り返し経験します.
そういえば,そのときにA君も何やらうれしそうにしてるではありませんか.

「なんだ,Aはボールを持ってきて欲しいのか!」

もともと走ったり追っかけたりが好きなジョン,大好きなA君が望んでいるらしいレトリーブに喜び勇んで励むようになります.
一方のA君も,犬がうれしそうな様子を見て "心が通じた" 感を味わいウットリする.
ここにA君とジョンの間に一つのコミュニケーションが成立したわけです.
メデタシ,メデタシ.

ただし,このコミュニケーションは双方向とは言えません.
確かにジョンはジョンなりにA君の意図を理解したけれど,その逆となると怪しいからです.
これはある意味当然かもしれなくて,ジョンにとっては自分の生活を託すA君の意図を理解するということは大きなメリットになりますが,A君にはそれがありません.(それこそ 「犬の意図がわかったって一文の得にもならん」 わけですから)
ヒトも動物も,メリットが無いことに打ち込めるはずがありません.

だから来る日も来る日も同じことをしていると,A君はちょっぴりマンネリを感じるようになります.
そうそういつも,レトリーブごときで感動もしてられません.
特に天候の悪い日などは,半ば義務感で遊んでいる自分に気づいたりします.でも,そんなA君があらためて張り切るときがあります.

つづく

April 5, 2006

犬も仕事もメタ言語 (2)

どうやら人は,仕事そのものというよりは,それに付随する何か別のものを追い求めているらしい.
それが人と人との関係=コミュニケーションである・・・というのが,先のWebサイトの意見です.

なるほど言われてみれば,これも当たり前かもしれません.
例えばアートやプロスポーツはカッチョ良いし,仕事そのものの "やりがい度" が高そうな職業です.
「PowerPointが生きがいだ!」 と叫んでもお寒いだけですが,プロ野球選手が 「野球は自分の人生そのものっす」 と渋くつぶやくと絵になります.

でも,ほんとにそうでしょうか?
いや,その言葉がウソだと言う気はありませんが,彼が人生を賭けているのは本当に野球のプレーそのものなのでしょうか?
彼が野球を好きになったきっかけは,もしかしたらバットの芯でボールを捕らえたときの快感だったかもしれない.
あるいは,はるか頭上の打球をキャッチしたときの万能感だったかも.
確かに,最初のうちはそれらが野球をすることの十分なモチベーションになったでしょうが,でも,それを一生を賭けて追求する人はいないでしょう.
ダイエー時代の城島選手が新聞のインタビューに応えて次のようなことを言ってました.「"野球を楽しみたい" なんて言う選手がいるが自分は違う.やればやるだけ辛くて苦しい.でもそれがプロだと思っている.」
プロのスポーツとはそういうもんだろうなと,私も思います.

いや,スポーツに限らず仕事なんてきっとそういうもんでしょう.
仕事で対価を得るためには熟練や習熟が必要だし,そのためにはどうしても息の長い反復が必要です.
(最初に感じたかもしれない)仕事そのものに対する興味や興奮を維持するのは難しいでしょう.
それでも人はせっせと仕事に精を出す.
それはあながち生活のための我慢だけではないと思います.
そこには,そういう過程を経て初めて経験できる,"他者との質の高いコミュニケーション" が存在するから・・・というのは肯けるような気がします.

先の "野球は俺の人生" 発言の意味するところは,おそらく,試合を通じた対戦相手やチームメイトとコミュニケーション(勝ち負けはもっとも濃厚なコミュニケーションの一つでしょう)や,あるいはプレイというパフォーマンスを通じて観客や社会から承認を得ることが,彼の人生の重要なパートを占めていて,全力を傾けて取り組む価値があるということなのでしょう.

「ヒトは他人(ヒト)との関係性において初めて人になる」 ことが真実とするなら(←お,この言い回し便利・・・),仕事というメタ言語を介して他者とコミュニケーションすることは,呼吸や食事と同じとまではいかないまでも,それに近いくらい重要な意味を持つはずです.

(逆に言えば,本来,人はあらゆる仕事で相応の充足感が得られるはずなのですが,それを邪魔するのが "どこかに理想の仕事があるはず" とか "仕事が合わないから自己実現できない" などの都市伝説的決まり文句や,グローバルスタンダードという異名を持つ "何でもお金(報酬)で計る" 主義でしょう)

つづく

犬も仕事もメタ言語 (1)

とあるWebサイトの雑文コーナーに 「仕事はメタ言語である」 という一文を見つけて,ちょっととゆーかかなり感心したので,独創的改訂を加えつつ潔く文責を担おうと思う(盗作とも言う).

人はなぜ仕事するのか?

パッと思いつく理由は,
 1) お金を稼ぐため
 2) 生きがいややりがいを求めて
 3) 憲法で決められた義務だから
あたりか.

どれも当然だし,それぞれ当たってもいるでょう.

しかしこの世の中,常識的で当たり前と思われることの裏には,えてして意識に上らない隠れた意図があるというのは,私たちが経験的によく知っていることです(←お,この言い回し便利.説明抜きで納得できる気がする).
その意図とは?というのが,このよた話です.

その前に 1)~3) をもう少し掘り下げてみる.
1) のお金というのは理由として明白だし,今の社会システムが労働と報酬という形で成り立っている以上,生活の糧を得るために人は働かざるを得ません.
ただ,ここで考えたいのは,じゃあなぜ今の社会がこういうシステムになったかということです.
時に厳しくもあり,辛くもある仕事に,どうして万人が携わるようなシステムになったのか?

もし仕事の目的が必要な生活リソースを確保することだけなら,例えばまったく仕事をしない階級が含まれるような別の社会形態になってもよかったのではないでしょうか?あ
るいはもうちょっと現実的に, 「必要なお金を稼いだらササッと引退します」 という人がもう少したくさんいても良さそうなもの.
ところが現実はそのようではありません.
これから先,どんなに物質的な生産性が上がったとしても,仕事そのものが無くなる心配は無さそうです.

ここは一つ,そこに人間の根源的な欲求に関わる何かがあって,むしろ人は,誰もが仕事に携わることができるように社会を作ってきたと考えた方が座りが良さそうです.
((3)の憲法説も同じような理由で分が悪い.労働を義務づけた憲法は,初めにそれがありきと言うよりは,人々の標準的な営みを追認したものと考えるべきでしょう)

じゃあというわけで,(2)の仕事が "生きがい" や "やりがい" 説はどうでしょう.
この理由はよく耳にするし,もっともらしくもあるのですが (最近はちょっとひねった "自分探し" という言い方もある),ちょっと考えてみるとこれも怪しい.

だってさ~あ・・・

毎日毎日,PowerPointを激しくいじくって,データの切り貼りに明け暮れるのが果たして生きがいと言えるでしょうか?
いつどこにいようとお構いなしに押し寄せてくるメールに,帰宅後もビクビクするような仕事にやりがいなんてある?
会議で10分しゃべるだけのために,計画していた旅行を断念して往復7時間もかけて出張する意味があるのかよっ,おい!

これは多分断言できると思うのですが, 「これが私の理想の仕事」 と腹の底から納得してる人なんて,ほとんどいないのではないでしょうか?
世の仕事の99%は(少なくとも必要な作業のほとんどは),辛かったり,しんどかったり,汚かったり,カッコ悪かったり,バカげてたり,退屈だったりする.
誰もがベッドで独創的なアイデアを思いつき,窓の大きなオフィスで企画書にまとめ,ランチで同僚にジョークを飛ばしてから,午後にクライアントを唸らすプレゼンをして,夜にはジムで心地よい汗を流すわけではないのだ.
(それはそれで苦労多そうだけど)

ね,やりがいや生きがいってのも,首を傾げたくなるじゃないですか.

つづく

February 25, 2006

○ンチを超えてヒトは進化する? (5)

  − 進歩が目指すのは何なのか? −

というわけで,ここまでの想像を積み重ねると,「遺伝子を束ねるような何かの意志が,有機物や自然から離れる方向にヒトを導いてきた」 ことになります.
では,なぜそんな方向を目指すのかということですが,これはわりと簡単に推理できます.

つまり,遺伝子の 「時を超えて存在し続ける」 という目的からすると,有機体の細胞を乗り物とする今のやり方は必ずしも最適なものではなく,むしろとても弱いものだからです.
ちょっと太陽がくしゃみをしただけで,ちょっと地球が身震いしただけで,ちょっと流星とぶつかっただけで,ちょっと空気の組成が変わっただけで,生物は壊滅的な打撃を受けてしまいます.
代謝と自己複製を実現するためには柔軟な組織体が必要だったわけですが,環境が激変する場合はそれがそのまま弱点になるわけです.

これに対抗する手段が種の多様性と環境への適応能力だったわけですが,それだけでは心許ない,その他にも手を打っとこうとどこかの意志が企んだとしても不思議ではありません.
それが,ヒトに自然から離れようとする本能を与え (あるいは,そういう本能を持ったヒトという種を創り),その制約から逃れる手段を模索しているのではないでしょうか.たとえ地球レベルで環境が激変して,乗り物である有機体が死滅しても "生命の記憶" は生き延びられるように・・・

生き延びた先に何があるのかは想像もできません(そう言えばこのテーマ,若い頃読み倒した小松左京さんのSFに何度も出てきたなぁ).
ただ,そういう大目的を前にすれば,乗り物であるヒトの身体が多少悲鳴を上げるくらいは取るに足らないことだろうなと,変に納得してしまいます.

最後にもう一つだけ.
最近気になってることがあって,それは私たち現代人が,何かに追いかけられるような切迫した気持ちをかなり共通的に持っているということです.
価値観は多様化しているはずなのに,"スピードと効率" はますます持てはやされ,その結果, "進歩=自然離れ" が加速しているように見えます.
もしかしたらそれは,何らかの手段で先が長くないことを予見した意志が,人間に対して追い込みのムチを入れているのではないでしょうか.
あるいは,人間に仕込んでおいた自滅のプログラムを作動させ,滅亡と生き延びるための技術開発のどちらが早いかという,一種の賭けに出たのかもしれません.
焦りにも似た感覚は,実は遺伝子の焦りそのものだったりして...

あ,そういえば,キレイ・キタナイ感覚以外にも,異種生物を共生ではなくペットとして一方的に可愛がろうとするというのも人間だけの習性ですね.
もしかしたらこれは,そこから離れることを宿命付けられた人間が,"自然" に対する惜別の情をペットに投影していると考えられないでしょうか?

なぜなら・・・・,もういいか(笑)

おわり

○ンチを超えてヒトは進化する? (4)

  − 進歩はヒトを幸せにするのか? −

ここで最初の問題に戻ります.
「○ンチを忌み嫌う」 という独特の感覚を,なぜ人間だけが持っているか?・・・です.
私は,○ンチが有機的なモノを,さらには "自然" そのものを代表しているのではないか,そして, 「○んち=有機的なもの=自然」 を嫌って離れようとする感覚が,ヒトという生物種の進化の方向を示していると思っています.

実際これまで,ヒトの文明は自然から離れることを是としてきました.
人工の建物で暮らし,身体的な限界を超えて移動し,地球外に飛び出し,生活環境を "清潔" にし・・・,これらすべては私たちが直観的に 「良いこと」 と感じ,汗水たらして実現してきたことです.
そしてまさにこの "自然離れ" 運動を進める原動力になってるのが,○んちをキタナイと感じ,その匂いをクサイと感じる感覚なのではないでしょうか.

ただ冷静に考えると,これが私たちそれぞれの生物個体にとっては,必ずしも 「良いこと」 ばかりではないことに気がつきます.
例えば,性能の良い移動手段を獲得した私たちですが,交通事故で命を落とす確率はどんな病気よりも高くなっています.例えば,恐らくは私たちが作り上げてきた "清潔な" 生活環境のせいで,多くのアレルギー疾患に悩まされるようになりました.例えば,ストレスの多い現代生活が心身を病む原因にもなっています.例えば・・・

確かに昔にくらべて生活は楽にも便利にもなったんですが,その一方で,私たち自身が引き起こした環境変化のスピードに,私たちの身体や心が追いつけずに悲鳴を上げているようにも見えます.

ドーキンス氏であれば,それは人間の頭脳が生み出した新しい自己複製子(ミーム=文化や知識の複製の基本単位)のせいであって,必ずしも遺伝子本来の目的ではないと言うかもしれません.
でも,私はこれら環境変化がミームの働きだとしても,やっぱりそれは遺伝子が志した方向ではないかと思っています.
そのわけは,次のページで述べたいと思います.

ところでこれから先,もし人間が環境変化のスピードが速すぎると反省したとして,私たちは "進歩" を止めたり逆戻りさせることはできるのでしょうか?
もし進歩の原動力が感覚だという見方が当たっているとすると,答えは否です.
理屈は思想は人間の意志の力でいくらでも変えられますが,感覚はそうはいかないからです.
感覚は私たちの脳と言うよりはもっと深いところ(恐らくは生きる主体であるところの遺伝子のレベル)から与えられたものだからです.

つづく

○ンチを超えてヒトは進化する? (3)

  − 遺伝は意志か? −

今,学説としてどう扱われてるかは知りませんが,R. ドーキンス 「利己的な遺伝子」 の基本概念は 「生きることの主体は遺伝子にあって,あらゆる生物個体はその一時的な乗り物に過ぎない」 「遺伝子の目的は時を超えて存在し続けること」 です.

この遺伝子を擬人化したイメージ(メタファ)は素人頭にもわかりやすい.
私なんか, 「生まれようと思って生まれた人はいないし,どんなに生きようと思ったって寿命が来るんだから,何で "主体的に生きる" なんてエラソーに言えるんだ?」 と以前から思ってたくらいですから,疑うどころか勢いよくうなずいてしまいます.

そう考えると今度は,例えばヒトの遺伝子は各個人に乗っかっているわけだけれど,それらを総体として捉えることもできる,あるいは捉える必要があるんじゃないかと思えてきます.
つまり,例えば各個人の容姿などはそれぞれの遺伝子によって決まりますが,ヒトという種の進化の方向を決めてきたのは遺伝子全体としての意志ではないかということです.

私は高校の頃に,生物の進化は突然変異と自然淘汰のおかげと習いましたけど,本当にそうなんでしょうか? 
動植物の優れて合目的的な機能を知れば知るほど,それが突然変異の結果ですと言われても,なかなかポンと手を打つ気にはなれません.
環境への適応ではランダムな突然変異よりも確率高く "良い形質" が現れるんだそうですが,それにしたって,その変化が適応に有利だということを何がどうやって判断しているのでしょうか?
そこに意志の存在を勘ぐりたくなります.

それは神さまが・・・というのは,この歳までロクな信仰も無しに生きてきた自分としてはバチが当たりそうでとても言えませんが,その代わりと言っちゃあ何ですが,各生物に散らばった遺伝子が何らかの手段(例えば量子レベルの何ちゃら効果とか)で交信しあって,総体として何らかの意志を持ってるんじゃないかと想像すると楽しくなってきます.

(ちなみに私は進化論も創造論もよく知りません.それこそ根も葉もないヨタ話です)

つづく

○ンチを超えてヒトは進化する? (2)

  − 意志は物理現象か? −

で,結論として "その感覚は進化のために与えられたものかも" という風に持っていきたいんですが,その前にまず,意志とは何なんだ?ということについて思うところを書かせてください.

もちろん,そんなことは心理学とか哲学とかでさんざん議論されてきたのでしょうが,それらを完全に無視して (てゆーか何も知らないので) 勝手に考えてみます.
ためしに,なぜか手元にある平凡社の心理学辞典で "意志" を引いてみると, 「その本質に関して長期にわたり議論が錯綜し定まることが無かった」 とあるので (素直にわからんと言えんかなぁ),少しくらい変なこと言ってもいきなりバックドロップかまされることは無さそうです.

例えばこんな文章を書いている自分の意志って,一体どこにどんな風にあるんだろうかと考えだすとワケわかんなくなってきます.
仮に脳の中にその実体があるとして,例えば 「山へ登ろう」 と考えたときの意志って,どこかの神経細胞の特定の状態として物理的に定義できるんだろうか?・・・とか.

そうやって悩んでると,実は意志なんてどこにも無いんじゃないかという気さえしてくるんですが,それでも自分の身体は何らかの目的に向かって意味ありげに動いているわけで,やっぱりどこかに何かの形ではあるんだろうなと思います.

犬や猫に意志があるかと問われれば,そりゃあるでしょうよと胸張って言いたいですが,これが虫や植物や微生物などになってくると自信が揺らいできます.でも,それらにしたって,生という営みに向かって意味のある活動をしてるんですから,その源である何かは意志と呼べそうです.
ミドリムシは光に向かって移動する習性があるそうで,これくらいは何かの化学的な反応で説明できるのかもしれませんが,それを意志と言っても私には違和感はありません.
どこまでが反応や反射でどこからが意志なのか・・・,その境界って実はハッキリしてないんじゃないでしょうか?

そうやって考えてくと,私の妄想は原始の海に漂っていた自己複製を始めたばかりの有機体にまで行き着いてしまいます.彼らの意味ありげな行動と言えばそれこそ "自己複製する" ことくらいでしょうが,それだってもう意志と呼べるんではないでしょうか.

もしそうだとすると,原始生命の段階では意志と行動が未分化だったということになりますし,結局のところ,生き物の意志は化学反応なり物理的な状態などに還元できると言えそうです.
想像を逞しくすれば,いわゆる生命以外のものでも意志があると考えることだってできそうです.
そりゃあ理屈もクソもありませんが,そう考えた方が面白いじゃないですか!

私は,十分複雑な系が何かの目的に沿った協調した行動を取るとき,そこに意志があると考えても許される気がしています.
つまり,現状で分析的な説明ができないのなら,外から観測してそれらしく見えれば,それを意志とゆーとかなしぁーないやん,みたいな・・・

つづく

○ンチを超えてヒトは進化する? (1)

○ンチをまったく厭わない犬たちを見ててスッゲ〜と思ったことないですか? 

自分たちのもそうですが,家畜のフンなんてまぁ嬉しそうに身体に擦りつけたり食っちまったり...
"キレイ好き" と言われる猫だって,草食動物の糞にはやっぱり積極的に擦り寄っていきます.以前飼ってた野良上がりなんか,どこかで拾ってきた腐ったお好み焼きを,わざわざ私の枕元まで得意げに運んできてくれたものです.

思うんですけど,動物たちに私たちのような "キレイ" とか "キタナイ" って感覚無いんじゃないでしょうか? 
泥だらけで有頂天になってる犬や,寝床のムシロに糞尿タレ放題の家畜たちを見てるとそんな気がしてきます.

もしそうなら,これは見過ごせません.
なぜって私は動物と人間を分けて考えるのがどうも性に合わないからです.
つまり 「ヒトは万物の霊長」 とか 「人間だけが感情を持つ」 みたいな考え方が苦手で,動物と人間は基本的に違わないと思ってますし,できれば植物や微生物も含めて,生物全体を連続的に考えたいと思っています.

ですから,動物の中で人間だけが○ンチをキタナイと感じるとしたら,これは私にとって由々しい問題なのです.
だいたい身体の一部と言ってもいいようなモノを,なぜ隠し字まで使って忌み嫌わねばならないのか? 
考えてみれば不思議な感覚ですよね!?

いや,別に 「○ンチを見直そう!」 運動をしたいわけではありません.
だってバッチィもんはやっぱりバッチィというか,感覚を偽ろうとしても無駄な抵抗です.
ここでは,なぜ人間が○ンチ(に代表される有機的な感触や匂い)を "キタナイ" と感じて避けてしまうのかを,するどく考えてみたいと思います.

つづく

犬との暮らしのパラダイム (3)

犬との暮らしにもたくさんのパラダイムがある.
しつけ,訓練,ドッグスポーツ,食餌,運動,疾患と検査・・・,あらゆるものに潜んでいる.
だいたい 「良くしつけされた犬が飼い主に寄り添い行儀良くふるまう」 とか 「人がコマンドを出して犬が従う」 というのだって,一見疑う余地が無さそうだが, "人と犬との望ましい関係" パラダイムの一つに過ぎない.

で,話は戻って Barbara氏のサービスのこと.
おそらく彼女が提供したかったのは,どう犬を訓練するかとか,どう問題行動を矯正するのかといったテクニックやノウハウではない (んじゃないかな).
むしろ犬とどうつきあって,そこから何を学ぶべきかを伝えたいのだ (きっと).
つまり犬との関係に対する一つのパラダイムを提唱したかったのだ (と思う).

「犬に学ぼう」 というセリフは,謙虚っぽくて耳にも心地良いのでよく使われるのだが,本当にそう信じて教わろうとする気持ちが持てる人は少ない (に違いない).
彼女はそれを実践し,確信を持って人に伝えようとしている.
ビジネス向けのコンサルも別に奇を衒ったわけではなく,彼女にしてみればごく自然な発想だったのだろう.

実は,自分たちのファームでも似たようなことができないかと考えている.
つまり,犬や動物たちと暮らすことの自分たちなりのパラダイムを実践し,あわよくばそれを発信していきたい,,,普段当たり前と思っていることを,ふと立ち止まって考えられるようなほわっとした場を提供したいと.(カッコつけすぎ?)

どうやって?というのと,Hiroさんの暴走をどう食い止めるかという大きな課題が残ったままだが,少しずつ形にしていきたいと思っている.
乞うご期待,と言えるかどうか・・・

おわり

犬との暮らしのパラダイム (2)

話はいきなり脱線してマンションに突っ込むのだけれど,最近,"パラダイム" について話を聞いたので,その受け売りをちょっと.

この単語,元々は文法用語であったのが科学分野に流用され,今では 「人々のものの見方・考え方を根本的に規定している概念的枠組み」 という広い意味で使われている.
「根本的に」 ということは,言い替えれば 「見ることも触ることもできず,言葉で表現されることはおろか意識にも上らない」 ということである.
じゃあ現実に影響が無いかというととんでもなくて,おそらく人の意識と無意識の中間あたりにどっかと居座り,その人の思考や行動を強力にコントロールしているのである.

例えば,ある人が 「明日,どこかに遊びに行こう」 と考えたとする.
こんな時,普通は 「もし今日から明日にかけて太陽や地球が消滅せず,もし大事故や天変地異が起こらず,もし私が今日と同じように元気で,もし・・・」 とは考えない.疲れるからである.
実際には明日のことはわからないし,例えば今から10分後にすべての物質が物質であることを止めバラバラの原子に還ったとしても,誰にも文句は言えないはず.
それでも,私たちは明日という日の存在を疑わない.
これは, "明日も今日と同じように存在するのだ" パラダイムが機能しているのである.
人はこのような共通のものからその人固有のものまで,重大なものから取るに足らないものまで,それこそ無数のパラダイムに依って生きている.

ちなみにことパラダイムに関して,どれが良くてどれが悪いかという議論は空しい.
まぁ大抵の場合,そのどれもが "正しい" のだ.
重要なのはいろんなパラダイムがあることを理解し,物の見方を変えたり,視野を広げたり,コミュニケーションを豊かにしたり,行動の選択肢を増やしたりすることなのである.

犬との暮らしのパラダイム (1)

京の片田舎でマイクロファームを開き,Hiroさんが動物たちと暮らし始めて1年を過ぎた.
これにはちゃんとした理由があるようで実は無いのだが,イギリスでボーダーコリーセンターを運営している Barbara Sykes 氏の影響が大きいことは確かだ.

氏が提供するゲスト向けのサービスは,ちょっと変わっている.
もちろん,しつけ相談など普通のメニューもあるのだが,メインは "シープドッグ体験" .
"講習" でなく "体験" なところがミソである.
文字通り,犬と一緒に作業するということを,羊追いを介してゲストに体感してもらう.
もちろん,コマンドやボディアクションも教えるけれども,決してそれが主目的ではない.犬の訓練でもないから,ゲストの犬ではなく熟練した彼女自身の犬を使う.

これだけでも十分ユニークだと思うのだが,最近,何をトチ狂ったか企業向けのコンサルテーション(研修)まで始めた.
バリバリのビジネスパーソンやプロジェクトマネージャーたちに,チームワークとは何ぞや?コミュニケーションとは?なんてことを,犬との共同作業を通して説くのだそうである.

何考えてんだ,この人は?・・・と最初は思ったのだが,今は少しわかるような気がする.

笑う人間



我が家の犬は現在4頭です.
夜9時を回った今,ストーブの前で3頭が惰眠をむさぼっています.
もう1頭の子犬は,庭で 「部屋に入れて〜」 とヒャンヒャン喚いています. トイレに出した時,遊びに夢中で呼んでも帰ってこなかったので放ったらかしにされているのです.

こんなとき,3頭の成犬たちは子犬のことをどう思っているのでしょう?


唐突ですが,動物の中で笑うことができるのは人間だけ...という説があります.
確かに,他人のおかしげな様子を見てケラケラと笑えるのは人間の専売特許かもしれません.
でも,この手の話には人間至上主義的な匂いがあって,これまではどうも肌に合いませんでした (実は "動物善良主義" も苦手ですが).

ところが,今は亡き中島らも氏が鋭くも看破したところによると,古今東西ありとあらゆる笑いの源泉は 「差別」 にあるんだそうです.
つまり,いろんな笑いを分析していくと,共通項として残るのは 「俺はそんなバカしない」 「ああ自分でなくて良かった」 などの一種の優越感であるとのこと.
なるほど,そう思って手持ちのジョーク集を見直してみたら,まさにそこは差別のオンパレードでした.
男性,女性,年寄り,子供,政治家,タレント,偉い人,偉くない人,普通じゃない人,普通すぎる人・・・およそありとあらゆる人が差別され,笑い飛ばされています.

 −動物の中で笑うことができるのは人間だけ−
 −あらゆる笑いの源泉は差別である−

この2つを素直〜に結びつけると,「人間は差別する」 ということになります. うんうんなるほど,これだったらしっくりきます.

差別というのが過激なら,「自分と他者とを比較する」 と言い換えても良いでしょう.
とにかく人間というのは,相手が他人だろうが動物だろうが,自分と比較してユーエツ感やらレットー感やらを感じてないと気がすまない動物なのです.
別にこれは悪い意味で言ってるのではなくて,例えばレットー感は頑張りの原動力になりますし,他人を気の毒がったり思いやったりすることだって,ユーエツ感の表現形の一つです.
だから,ときどき心が苦しくなったりもするんだと思いますが,でも本当に差別の無い世界ができたとしたら,人間は退屈で死んじまうんじゃないかな?

それで,犬の話.
犬が他犬と自分を比較しているか? ユーエツ感やレットー感を感じているか?? はたまた差別意識はあるのか??? 
本当のところはわかりませんが,多分,群として役割や順位はあったとしても,比較や差別は無いんじゃないでしょうか? 

例えば冒頭の場面,もし犬が 「かわいそうだから○×も入れてあげようよ」 なんて言い出したとしたら・・・,すごく嫌かも.(笑)
「今,あんたは相手を心配して見せて自分の優位を確認する一方で,自分はこんなに思いやりのある犬なんですよとアピールしてるでしょ」 と,人間である私はすぐに勘ぐってしまうからです.

もちろん,部屋のあちこちで行き倒れている犬たちはそんなムダなことはしません.
それぞれ,今の心地よい境遇を満喫するのに一生懸命です.
外の子犬にしても,ただ部屋に入りたいから鳴いているのであって,差別されてるという意識は無いでしょう.
だから,こちらも余計な気を使わずに済みます.

多分,私は動物たちのそういうところが好きなんだと思います.
(これもユーエツ感なのかもね)

コトバと情報と犬 (4) −犬を観る−

 例えばここに 「ボーダーコリーは○○である」 と書いたとします.
 ○○に入るのは 「羊を追う」 でも 「ハイパー」 でも 「シャイ」 でも 「賢い」 でも 「ずるい」 でも 「面倒臭い」 でも,まぁ何でもいいんですが,とにかくそんな文句があるとして,これが一般に流通するようになるとどんどんそれっぽくなって,いつのまにかボーダーコリーの情報として定着します.
 コトバとして発信された途端,そのときの状況やら雰囲気やら,何よりそれを言った人の 「思い」 までもが,ごっそり抜け落ちてしまうのに,,,です.

 ボーダーコリーというか犬と暮らす上で情報は確かに貴重です.それらを知ろうとしないとうのは飼い主としての怠慢とさえ言えるでしょう.でもその一方で,それを知ってたからといっても実際には屁の突っ張りにもならない,ってのは言い過ぎだとしても,あんまりそれに自信持ってもなぁ〜,とも思うわけです.
 犬は一頭一頭違いますし,また自分も犬も状況も,刻一刻と変わっていくんですから.

 結局,色んな知識や他人のアドバイスがあったとしても,犬を目の前にしたときはそれらを一旦忘れて,自分で見て触って感じる(これに "観る" という漢字を当てはめてみました)くらいの気持ちが大事なんじゃないでしょうか. 「自分の犬に対しては自分が専門家」 というのは,きっとそういうことなんだと思います.
 生き物どうしの出会いは一期一会.その瞬間瞬間にこそ意味があるのであって,だからこそ何物にも代え難い価値があるのでしょう.

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 要するにこのヨタ話は,「コトバや知識に振り回されず,自分の犬を観る時間と気持ちを大事にしたいと思ったんだよぉ...」 って言いたかったわけです.付け加えれば,犬と何かをしようと入れ込んでいるときは,案外それが見えにくいのでは? と感じていることも.

 たったそれだけのことを言うのに,何だこの回りくどい文章わ,,,と思った人は正しいです.
 そう,それこそがまさにコトバの限界を証明しているのです.
 決して決して私の説明が下手だと勘違いしないように. (キッパリ)

コトバと情報と犬 (3) −情報は不変−

 ちなみに,ここで "コトバ" と言ってるのは,意図を伝えるための話し言葉だけでなく,コトバで表現される情報一般を指しているつもりです.つまり,本やテレビや他人のアドバイスなどで得られる "知識" も含まれています.

 最近は犬に関する情報が増えました.りん姉を迎えた当時は例えば 「ボーダーコリーって何?」 と調べようと思っても手がかりが少なくて困ったものです.それから思えば,まだ充分ではないかもしれませんが,随分と状況は良くなってきたようです.
 しかし,どうもこの情報やら知識やらが曲者ではないかと疑っています.

 「めまぐるしく変化する情報」 という決り文句まであるだけに,「情報は不変である」 なんて言うとわざと奇を衒ってるように聞こえるかもしれませんが,実はこれはとても当たり前のことです (ここ,実は養老孟司先生の受け売り).
 例えば目の前に一枚の葉っぱがあるとして,それを 「端の欠けた黄緑色の葉っぱ」 というコトバで情報化したとします.その瞬間,その情報自体は未来永劫不変のものになりますが,葉っぱそのものはすぐに変色して形を変えていきます.「ものは変化するが情報は不変」 なのです.情報はものが抽象化された記号に過ぎないから,,,なんだと思います.

 対照的に,物や概念は時とともに変化します.そしてその変化の激しいものの代表選手が生き物です.人間の身体の細胞は2ヶ月も経てばほとんど一新されてしまうのだそうで,定義によっては,2ヶ月前の自分は他人と言った方が良いかもしれません.それくらい激しく変化しています.

 要するに 「生き物に関する情報」 は,激しく変化するものを変化しないもので表現しているわけですから,ウソとまでは言えないまでも,どこかに無理を孕んでいる可能性が高いのです.

コトバと情報と犬 (2) −コトバの威力−

 で,コロッと話を変えて ”コトバ”について書きます.最近,人間ってコトバに頼ってるなぁとあらためて思うのです.

 人間の心には意識と無意識とがあって,意識は氷山の一角みたいなもので,それよりずっと大きいのが無意識の領域であることが知られています(どうやって較べるんだろ?).しかし,人間の行動を決定しているのは,少なくとも表面的には意識です.そしてその意識がもっぱら頼りにしているのがコトバです.
 よく,英語に慣れた人が 「一人で考え事するときも英語で考えてんだよな〜」 なんて嬉しそうに言ってますが,まさに意識がコトバで考えていることを示しています.

 確かにコトバは強力です.状況,景色,事象,思考,感情,論理,,,およそありとあらゆることが表現できます(逆に考えれば,人間はコトバで表現できるものしか認識していないから,と言えるかもしれませんが).
 コトバに弱点があるとすればその伝達効率でしょう.百聞は一見にしかずと言いますが,例えば絵画の内容を伝えようとすると,絵を相手に見せれば一瞬で事足りますが,口で説明すると何百何千ものコトバを費やさないといけない.あくまでコトバは事象や論理の一端だけを抽象化した記号に過ぎない,ということなんでしょう.

 人間がここまで文明を築いてこられたのは,間違いなくコトバのおかげです.でも,もしその進歩に限界があるとすれば,それもやっぱりコトバのせいだろうと考えています.
  「個を見て全体を見ない」 というのは人間の考え方の短所の一つだと思いますが,まさにコトバの性質がそのまま反映されているのではないでしょうか.(逆に言えばそんな不完全なコトバだからこそ,大切に扱わなくてはいけないのでしょう.)

 一方,犬のコミュニケーションは基本的にマルチモーダルです.声だけでなく姿勢,視線,耳,尻尾,被毛,呼吸,匂い,,,色んなチャネルをいっぺんに使ってメッセージを伝えています.私たちはコトバを使って自分の意図を犬に伝える(押しつける?)ことには真面目に取り組みますが,彼らからのメッセージはなかなかわからないし,あまりわかろうとしていないように思えます.
 そして多分,マルチモーダルな情報を理解するためには無意識領域も動員して高速並列処理する必要があるのですが,それが意識=コトバ優位の脳になってしまった人間には結構難しいことなのです.私たちは普段,無意識=身体からたくさんの情報を得ていますが,意識の世界に持ってくる過程でそのほとんどを切り捨ててしまうからです.

コトバと情報と犬 (1) −犬と一緒に何もしない−

 2年ほど前のある日,りん姉といつもの遊び場に行ったときに,ふと 「何もせんとこ」 と思い立ち,犬を放してボーッとしてたことがあります.
 その頃はと言えば,気軽にできるし犬も喜んでると思っていたので,遊びに行くと決まってボールやフリスビーなどのレトリーブ遊びをしていた時期です.

 何でそんなことを思い立ったのかというと,どこかで 「動物はとてもシャイでデリケート.彼らと会話するコツは,相手から話し掛けてくれるのを辛抱強く待つこと」 みたいなことを聞いたことがあって,それが頭の隅っこにでも残っていたのかもしれません.

 結果は驚きでした.たった数分の間でしたが,りんはいつもとまったく違うことを語りかけてきてくれたのです...な〜んてのはウソで,彼女は匂いとりと草食いに忙しくて会話どころではありませんでした.
 ま,勝手にそんなことを思い立って何かを期待するのは虫が良すぎるってもんですね.きっと日常生活の中でそんな時間と気持ちを持てるかどうかが問題なのでしょう.

 そのときの意外な発見はむしろ自分の感覚でした.
 広い場所に犬といて何もしないでいると,妙に手持ち無沙汰で居心地が悪い.
 今は慣れましたが,その頃は物を投げないというただそれだけのことに,随分と精神力がいったものです.一度 「犬と一緒に○○をする」 ことを覚えてしまうと,今度は 「何もせずただ一緒にいる」 ことが難しくなる,ということかもしれません.

 他と較べても,犬はとても人間に影響されやすい動物です.うちの犬たちを見てても,ときどき,気の毒になるくらい.(笑)
 最近,道を踏み外して色んな家畜たちと一緒に暮らすようになってしまいましたが,家畜というだけあって,彼らも人間になついてくれます.でもやっぱり彼らは彼ら自身の世界で生きてるって感じです.
 それに比べれば,犬はどうしようもなくこちら側の住人なんですね.それだけに,彼らのホンネが聞きたければ意識してそんな時間を作らないといけないようにも思えます.たとえ彼らの言い分はわからなくても,その気持ちを持つということ自体に何か意味があるような気がします.

 (犬の言い分を聞こうなんて,もしかしたら不遜で不健康なことかもしれませんから,とても人様に勧められることではありませんが...)

コドモ星人ひゅうまん

 前の記事では勢いで 「人間の精神は未熟」 なんて書いてしまいましたが,かなり本気でそんなことを考えています.なんでか? ということなんですが...

 大体,人間の生き物としての特徴といえば,進化(生き残り)の方向として 「オツムと道具」 の発達を選んだことだと思うんですが,まぁ今のところそれが成功し,地球上でちょっとした繁栄を築いているわけです.
 その一方で,そのオツムや道具を活用するために,人間はほとんど一生を 「学ぶ」 という作業に費やすことになりました.私たちが人間らしい生活を営むためには,いろんなことを習得する必要がありますが,これは 「ハイ,学校を卒業したから終わり!」 みたくお手軽なものではありません.この進化の道を選んだと同時に,この楽しくも重い宿題を背負ったのが,人間という生き物だと思うのです.

 問題はこの 「学ぶ」 という行為なんですが,これには優秀な記憶力とともに,モチベーションになる好奇心や,新しいものにチャレンジする冒険心などが欠かせません.そしてこれが,実はオトナの精神には不得意なことだと思うのです.オトナは,知識や経験を活用し,冷静な判断で安全を守ることには長けていますが,危険を伴うかもしれない新しいことには保守的になりがちです.他の動物の場合,生きるのに必要なことくらいは大体若いうちに習得できてしまうので,それでOKなのでしょうが,学ぶこと自体が生きる目的みたいな人間の場合,心まですぐにオトナになってしまうとマズイわけです.かくして私たちは,歳は食ってもコドモの心を持ち続ける動物になったのではないかと考えています.
 人間の身体って体毛が少なくて頭が大きいのが特徴ですが,これをサルのネオテニー(幼児期の形質を残したまま成熟し,繁殖する現象)と解釈する説もあります.実は身体だけでなく,精神や心にもネオテニー的な現象が及んでいるのではないでしょうか?
(と,ここまで書いてWebで 「ネオテニー」 を検索してみたら,身体だけでなくオツムのこともしっかり書いてありました.自分で考えたと思ってたのに,オリジナルでも何でもなかったわけですわ...)

 要するに,知恵に溢れた 「賢い」 生き物であるためには,精神はコドモっぽい方が都合良いのではないか?ということです.そう思って人間社会を見渡してみると,なるほどと思えることがいくつかあります.

 例えば,人間はお互いに殺しあう,ほとんど唯一の生き物だと思うんですが,これなんか,まさにコドモ的精神のなせる技だと思えるのです.子供は,自分勝手だし他人との境界もあいまいなのでしょっちゅう喧嘩します.幸い,それほど知恵や力が無いので大事には至りません.そして,大人になる頃には分別がついて,他人のことを尊重できる(あるいは,他人は他人と割切れる)ようになる...はずでした.
 でも,コドモ心を多く残した人間にはちょっと無理があったようです.現在も世界のあちこちで紛争が続いているのは,いずれも複雑な理由があるのでしょうが,その根っこにあるのは,他人や他民族に対する過剰な感情とそれを抑制し切れない,私たちのコドモ的精神構造にあるのではないでしょうか.

 もう一つ例に挙げたいのが,神さま仏さまです.神や仏はいろんな民族共通に見られる概念ですが,そのイメージには,父や母のそれがいつもついて回っているように思えます.イエスは包容力のある父,アッラーは規律に厳格な父,仏や阿弥陀様は無条件に包みこんでくれる優しい母,といった具合に.これなんか,オトナになり切れない人間の精神が,父や母を無意識に求めているからだと解釈できないでしょうか? (その意味では,神や仏に母的イメージを求める社会の方が,父的なものを求める社会よりも,コドモ度が強いと言えるかもしれません)

 こう考えると宗教の救いを必要とするようなさまざまな人間の業...老いや死に対する恐怖,癒されない孤独感,果ての無い所有欲,他人や他民族への競争心や嫉妬...そんなことも全部,コドモ的精神に関係があるような気がしてきます.もちろん,そのプラスの面だって山ほどあるし,マイナスがあるからこそより良い暮らしを求めて発展していくのでしょうが...ああ,まさに宗教くさくなってきたので,この辺で止めますね.

 例によって今回も 「だから何なんだ?」 という感じの与太話なのですが,まぁ世の中では,そういうコドモ的動物である私たちが社会を作り,犬や子供を育てているわけです.ちょっとしたことで感情的になったり,相手の気持ちを考える余裕を無くすのも仕方がないように思えます.逆に考えれば,自分のコドモ的部分を自覚してそれをいかにコントロールしていくかが,子育て犬育ての極意ではないだろうか?...そんなことを考えたりしています.

擬人化考

 犬を擬人化してはいけない・・・しつけ本の類にもよく書いてあって,あぁそうだろうなと思ってました.

 確かに,お飾りの洋服を着せたり,人間の食事を与えたり,毎日シャンプーしたり,あるいは犬には理由がわかりっこないのに怒りをぶつけるといった行為は,何だかんだと問題がありそうです(まぁ目を吊り上げるほど罪深いとも思えませんが).こういうのを擬人化というなら,確かに 「いけないこと」 の部類に入るのかもしれません.

 でも,ありとあらゆる擬人化が悪いとも思えないのです.上のようなのを 「悪い擬人化」 と呼ぶとしたら, 「良い擬人化」 ってのもあるんじゃないか?ということを最近感じています.その一番良い例がコミュニケーションです.

 言葉が通じる通じないに関係なく,コミュニケーションの基本って,自分の出したメッセージを相手がどう感じたり解釈したりするかを想像することだと思うんです.もちろんその逆に,相手のメッセージにどういう意図があるのかを想像するってこともあるでしょう.そうしてわけがわからないなりにメッセージをやりとりしながら,相手の反応を見て,共有できる部分を少しずつ増やしていくことが,やがて相手を理解することにつながるんだと思います.

 要するに,コミュニケーションには相手の気持ちを推し量るということが欠かせないわけですが,これって何を手がかりにどうすればいいんでしょうか? 読心術みたいな超能力があれば別ですが,まぁ基本は自分の思考や感情を相手に投影する,つまり相手の立場に自分を置き換えてみるってことだと思います. 「自分がこういう風に言われたらどう感じる?」 とか 「自分がこういうことを言うとしたら,何を考えてるときだろうか?」 みたいなシミュレーションですね.これを 「共感」 ということばに置換えても良いと思うんですが,言ってみれば相手に共感することがコミュニケーションの基本だと思うわけです.そして,相手が違う生物種の場合,これって立派な 「擬人化」 なんじゃねーのか? というのが私の考えです.

 ただ,ここでさじ加減が難しいのですが,何でもかんでも自分に置換えて考えるのも,きっと × なんですよね.人間どうしでもそうですが,相手の背景や事情を考えずに自分の感情や考えを押しつけてしまうと,これは単なるジコチューやワガママや勘違い野郎になってしまいます.ここはやはり相手が犬という独立した生き物であることを肝に銘じ,犬としての考え方や習性を尊重することが大事なんだと思います.
 ただ,そうやってお互いの違いを認識した上でやっぱりどこかで共感が必要なわけで...あー,もう,ややこしいのでやめますが,結局,コミュニケーションには犬の理解と良い擬人化の両方が必要なんではないかということです(どちらに重きを置くかは,人それぞれでしょうが).

 「犬の顔色を伺うなんざぁニンゲン様の沽券にかかわる!」 という考え方だってあるでしょうし,それが 「悪い」 なんて誰にも言えないはずです.ただ,せっかく何かの縁で犬という生き物と暮らしてるんだから,少しでも相手とわかりあえた方が得だとも思います.

 「擬人化はダメ」 というセリフが決り文句になって,犬の心や感情をしん酌しないことが信念になってしまっては,本末転倒とまでは言えなくても,ちょっと行き過ぎではないでしょうか.
 そう言えばこの 「ことばが一人歩きする」 という現象,犬飼いの世界には多いような気がするんですよね.いや,反省も込めてですが...

こんなリスペクト

 フツーに考えると,他の生き物に対するリスペクトとは,まずその生き方に干渉しないことになると思うんですが,こと犬に関しては,生活圏が重なる上に一部の意思疎通まで可能なだけに,これがなかなかに難しい.私たちにできることとしては, 「姿や習性をあるがままに尊重する」 というあたりでしょうか.

 ただ,今の犬に関しては, 「そもそも人間が改造してきたんだから, 「あるがまま」 なんて意味が無いのだ」 という声もあります.
 確かにそうかもしれません.
 でもちょっと見方を変えれば,彼らも自分たちの子孫を残すために,進んで人間に近づき,容姿や習性を変えてきたとも考えられます.肉食獣として比較的貧弱な武器しか持たなかった彼らにとって,これが生き残りをかけた懸命の戦略だったのかもしれません.もしそうだとすれば,人間と暮らすことが彼らの戦いであり,それを被害者として決めつけてしまうのは,実は不遜な態度という気がします.一見,人間に依存しているように見えても,立派に独立した生き物には違いありません.

 犬は,ときとして哀しいまでに従順です.暴力をふるわれてもその飼い主を慕いますし,飼い主が望むとあらば,自身の身体を傷めても献身を厭わないでしょう.
 これは人間という,頭が良くて情にもろい反面,気分屋でときに酷薄な生き物と暮らすために,彼らが身につけた武器なのかもしれません.愛と忠誠を一方的に証明し続けなければ,この気まぐれな生き物があっさりと背を向けてしまうということを,彼らは骨身(DNA)に染みて理解してきたのでしょう.
 なんだかイビツで哀しい関係のように思えますが,それが,大きな力を持ちながら未熟な精神しか持てなかった人間の宿命という気がします.

 だとすれば,その一員として自分はどんな面を下げて犬とつき合えばいいのか?
 これが悩ましいところです.

 で,あれこれ考えたんですが,結局のところ,自然体でつきあうしかないのかなぁという気がしています (なんや,それわぁ). 「人間様がご主人だ」 と力んでみせるのも滑稽ですし,逆に同情するというのも,(戦士に対して)ふさわしい態度とは思えません.

 現在,人間が犬に対してしていること...その中には随分と過酷なこともあるでしょう.でも,それをとやかく言う 「理屈」 を私は持てません ( 「感情」 はあるけど).第一,自分だってその一人かもしれません.

 ただ個人的には...個人的にはですよ,何をするにせよ 「犬のため」 とか 「犬が喜ぶから」 という言い方(言い訳?)はしたくないなぁと思っています.カッコつけて言うと,人間と犬との関係にある哀しみみたいなものを,いつもきちんと意識していたいと思っています.

 そして他人はどうあれ,自分が一番良いと思える関係を自分の犬と築いていく...今のところこれが,私にとっての犬族へのリスペクトです.

あんなリスペクト

 最近, 「リスペクト」 ということばを,ちょいちょい耳にするようになってきました.

 辞書を引くと 「尊敬,尊重,敬意,重視」 などの訳語が並んでいます.
 先日も,あるバラエティ番組の若手コメディアンが,ムチャを要求するスタッフに向かって 「いろもんリスペクトは無いんかい!!」 って叫んだのを聞いて,ちょっとびっくりしました.日本語としても定着しつつあるらしい.

 ちなみに,犬の世界で初めてこのことばに出会ったのは,このサイトでも紹介しているバーバラ・サイクスの文章にあった "control with respect" というフレーズでした.犬と人間がお互いを尊重する...犬が人間に敬意を払ってわきまえる...相手のことを大事に考える...簡単なようでもあるし,とても難しいようでもあるし,なかなか奥の深いことばだと思いました.

 これから,自分にとってこれが犬との暮らしのキーワードになりそうな予感がするんですが,それがなんなのか,もう少し考えてみたくなりました.

 唐突ですが,私の生き物観には結構殺伐としたところがあります.

 すなわち,およそこの世で生きとし生けるもの,みんな自分の子孫の繁栄を願って,地球上で懸命の戦いを繰り広げている...そんな感じです.あ,別に殺し合いをしてるという意味ではないですよ.それぞれの生き物がそれぞれの方法で,一生懸命に種の未来を切り拓いている,という感じです. 「他の生き物のことなんか考えていられない」 というのが,正直なところではないでしょうか.

 「そうでもないよ.少なくとも私たちの良心は共存共栄を望んでいるし,絶滅しそうな動物の話を聞くと胸が痛くなるもん」 という声も聞こえてきそうですが,これは,豊富な生物種のバラエティがないと自分たちも生き延びられないということを,私たち人間も身体の奥深いところで理解しているためかもしれません.

 何を言いたいかというと,要するに生き物というのは,戦いの場を共にする戦友みたいなもんではないかと思ってるわけです.そして,そういう関係だからこそ,リスペクトが生まれるんではないかと.
 例として変かもしれないけど,戦場では敵とか味方とか関係なく,敬意を表する精神ってありますよね? 私の想像するリスペクトって,この感覚に近いものがありそうです.


続く

犬好き DNA (2)

 以上は,もちろん根拠も証拠も無い想像上のお遊びです.

 でも,同じ犬飼い(犬好き)でもA人種,B人種の区別が存在するというのは,いろんな人と話をしてきて,なんとなく感じるところです.この両人種が犬の話をすると,どうしても議論がすれ違ってしまいます.たとえ表面的には同じ内容を語っているようでも,心情といおうか,基本的な態度みたいなところで,なかなか埋めることのできない溝があるからです(別に埋める必要など無いかもしれませんが).逆に同じ人種同士の会話だと,意見は違っていてもそういった違和感は存在しません.意見を交換してお互いの考え方が理解できたとしても,このへんの感覚まで共有することは,なかなか難しいみたいです.だから,遺伝のレベルで,すでにどこか違いがあるのではないかと,屁理屈をくっつけてみたわけです.

 もちろん,嗜好や好き嫌いには学習とか経験などの影響が大です.でも例えば,ほんの2〜3歳の子供でも,犬を怖がる子とそうでない子に分かれることや,「メロメロの犬好き」 の大人でも,小さい頃に犬に襲われて怖い経験をした人が案外多いことを考えると,経験だけではないもっと根深いものを感じてしまいます.

 A/B人種の見分け方?
 人間には知識とか理屈とかがあって,嗜好や態度にもいろんなフィルターがかかってしまうので,これはなかなか難しい.でも例えば, 「しつけ上良くないと頭ではわかっていても,どうしても犬を寝床に入れてしまう」人...これなんかB人種に近いと思われます.こういう人は,人間同士より,むしろ毛皮動物と触れ合って眠る方が安心できてしまうんじゃないでしょうか.これを心理実験で確認した例もあるそうです.

 高齢者や精神障害者の施設なんかでは,ほとんど感情を表すことがなくなり,自分の世界に閉じこもってしまう人の話を良く聞きます.その中で,いわゆるセラピーアニマルたちと触れ合うと,急に心を開いて人間らしい表情を浮べる人たちもいます.こういう人たちも,実はB人種なんではないかと思います.逆にもしそうだとすると,効果の無い人(A人種)もいるはずであり,一度,現場の人に確かめてみたいところです.

 しつけの方法論やテクニックを重視するのは,どちらかというとA人種かもしれません.B人種は, 「一緒に暮らしてれば相手の気持ちは何となくわかるさ」 くらいに思ってるので(思い込んでるので),その辺がついつい良い加減になってしまいます.

 もちろん今回も, 「どちらが良くてどちらが悪い」 という話ではありません (これだけは,しつこく念を押しとかないとね!).ただ,議論が紛糾したときなんか,こんなことをチラリと意識してみると,案外,相手の考えにシンパシィを感じるかもしれません.
 また,いわゆるしつけ本の類を読むと, 「自分のライフスタイルとその犬種が合っているか,あるいは,自分は犬と何をしたいか/どんな関係になりたいかを,犬を迎える前に十分に考えましょう」 なんてアドバイスをよく目にします.そのついでに,自分は犬に対してどんな感覚を持っているか,どんな人種なのかを振りかえってみるというのはどうでしょうか? A人種向け,B人種向けの犬種ってのもあったりして.

犬好き DNA (1)

 ちょっと危ない領域になるかもしれない...

   世間には,犬好きと犬嫌いとかいう分類があって,犬を飼ってる人は,自動的に犬好きというレッテルを貼られてしまいます.それはまぁいいとして (ほんとはよくないんですが),最近感じるのは,犬飼いの中にも2つの 「人種」 があるのではないか,ということです.どんな? というのを言葉で説明するのは難しいのですが,例えを並べてみると,

 [しつけや服従に厳格]←→[あまりこだわらない]
 [犬を "飼う" 感覚]←→[犬と "暮らす" 感覚]
 [犬といると緊張する]←→[だらけてしまう]
 [犬を制御しようとする]←→[犬とかけ引きしようとする]
 [犬とは1頭ずつ相手したい]←→[群の中にいるのが好き]
    ・・・

という感じです.
 仮に左側をA人種,右をB人種と呼ぶとすると,2つの人種間の犬に対する態度や考え方は,かなり異なるような気がします.こういう違いがどこからくるのか...以下のように考えてみたんですけど,どうでしょうか?

 基本的には,A人種の人は犬に対して身構えるような印象があります.考えようによっては,これは人間のごく自然な反応かもしれません.この態度が,人間が 「牙を持った大型4つ足毛皮動物」 に対して抱く,潜在下の 「怖れ」 の感情(が形を変えたもの)とも解釈できるからです.なんせやつらは,道具や武器を獲得するまで,人間(類人猿)にとって命の脅威でしかなかったでしょうから.逆に恐怖したからこそ,用心深く生き延びることができ,また知能や技術も進歩したに違いありません.その経験が,種共通の記憶として,今も DNA のどこかに刻み込まれているとしても,不思議ではないと思います.

 では,B人種は何者なんでしょう? ここでは,それが人間と犬との出会いに関係すると考えてみました.

 人類の遠い祖先の中に,自分たちの残飯を狙ってうろついていた狼を利用しようとしたグループが現われました.彼らは,狼が恐ろしい他の猛獣の見張り役やボディーガードになってくれることを感じていました.やがて2つの生き物は食べ物を分け合い,一緒に暮らすようになりました.グループの中で母性愛が強いメンバー(多分女性)は,狼の子から特に人懐こい子を選んで,自分たちで育てようとまでしたでしょう.人間と犬との出会いって,こんな感じだったんではないでしょうか?

 数年前に少し流行った 「利己的な遺伝子」 みたいな考え方をすると,自らのコピー(血縁関係の子孫)の繁栄のため, 「4つ足毛皮動物と暮らす」 戦略を持った遺伝子があったということになります.この遺伝子に操られる人は,自分に懐いた動物といることに,恐怖より安心感を覚えたはずです.特に,目の効かない夜間や無防備な就寝の時間には,半ば切ない思いで,毛皮をまとった俊敏な身体との接触を求めたのではないでしょうか? (一方,狼の遺伝子の中にも,「2本足の頭の良い動物と暮らす」 戦略を選んだものがあり,それが人間をリーダーと見なすように指示し,姿や習性を人間好みのものに変えていった・・・と解釈できます)

 B人種の祖先は,こういう遺伝子をもったグループだったのではないかと想像します.当初,B人種遺伝子は,人類の中でごく少数派だったかもしれません.しかし,狼との共同生活で猛獣の脅威から身を守る術を身につけ,ついでに狩の成績まで上げることに成功し,徐々に数を増やしていったことでしょう.もし,その状態があと何千年か続いていれば, 「狼と暮らす派」 が多数派になっていたかもしれません.ところがやがて,人類は武器や道具で自らを守ることを覚え,生き延びる上でA人種の不利は無くなりました(あるいはA人種も,学習や模倣によって狼族と暮らすことを覚えたかもしれません).そして,両人種ともめでたく繁栄することになったわけです.


(2)に続く...

育てるということ (5) − さいごに −

 人間の場合, AC 的傾向が強い親は,第三者に対して閉鎖的でルールの多い,温かみや笑いの少ない家庭を作り勝ちです.そしてそんな家庭が,やはり AC 的性格の強い子を育ててしまいます.また,虐待や暴力で育てられた子は,それらを恐怖して感覚を鈍磨させる一方で,そういう関係を理想化するという困った性質を持っています.だからそういう子供は,成人してからカルト的な組織に耽溺したり,やはり暴力に支配される家庭を作る傾向があると言われています.アルコール依存症の父を持つ娘は,意識の上ではそれを嫌悪しながらも,やはりアル中っぽい性格の夫を選んでしまい勝ちです.そう,AC 的性格だけでなく,暴力や虐待そのものも世代を越えて伝播する性質を持っているわけです.始末の悪いことですが...

 これがイヌにも当てはまるような気がします.私のせま〜い見聞の中でも,暴力的なボスの元ではその群全体が暴力的なルールで支配されているかのような印象を受けます.他人に攻撃的なイヌの飼い主は,やはりどこか他人に対して警戒しているところがあるように感じられます.逆に,大らかで自信を持っているボスのもとでは,群全体もなごやかな雰囲気になりますし,なんとなく暖かくてユーモラスな空気さえ漂っています.もちろん,私自身の先入観や思い込み,それにイヌそのものの個性もあるでしょうが,だいたいの傾向としてはそんなに外れていないと思います.
 どんな群にしたいかは,個人の価値観の問題になるので,どれが良くてどれが悪いなんて言えません.でも,もしイヌと人間に共通する部分があるとすれば,適切な母性と父性に育てられなかった子は,辛い生きにくさを背負っているのではないでしょうか? 飼い主や他人や他イヌへのヒステリックな攻撃...このうちのいくらかは,うまくオトナになれなかったイヌからの,心の悲鳴なのかもしれません.

   人間どうし一緒に暮らしていれば,たとえ1日数時間の同居でも両者の性格は相互に侵入しあいます.イヌは全身で飼い主を見ています.しかも,ことばという変なフィルターを通さずに,気分や感情の動きを身体全体をアンテナにして感じています. 「イヌを見れば飼い主がわかる」 ということばもあります.犬の性格が飼い主の性格,特に無意識の領域のそれを反映したとしても,全然不思議ではないと思います.
 というわけで,まったくもって独断的なことを,ノンノンシャンシャンと書き連ねてきました.特に後半は 「これが正しいのだ」 なんて主張するつもりは毛頭ありません.独り言みたいなものだと思ってください.

 まぁ,最後にざっくり言ってしまえば, 「イヌも子供も育てるのことの本質は同じ.母性と父性が機能することが必要だし,何よりも,育てる側が オトナ でないと難しいのでは?」 ということを言ってみたかったわけです.

そんなけ!

育てるということ (4) − 人とイヌと父性 −

 ああ,やっと人とイヌの話にたどり着けました.

 大抵の場合,7〜8週目くらいからイヌは飼い主のもとに移ります.これは,ちょうどイヌの行動範囲が群の中に拡大する頃です.したがって,ここで子イヌが出会うべきなのは,母性よりも父性ではないかと想像できます.つまり,本来の群に代わってルールや掟を教えてくれ,外の世界に導いてくれるとともに,自分を守ってくれる新しい群です.もちろん,デジタルの世界ではありませんから, 「昨日まで母性,今日から父性!」 なんて杓子定規に行くはずはありません.イヌの心の発達に対して,父性の役割の比重が段々に増してくるだろう,くらいの意味です.そして,その安心感の核になるべきものが,先に書いたような資質を持ったボスなんではないかと思うわけです.

   繰り返して言いますが,母性が不必要というわけではありません.特に子イヌが小さいうちや迎えたばかりの頃は,包み込むような温もりも大事でしょう.ただし,多過ぎる母性がイヌの心の成長を妨げる可能性はあると思っています.
 またちょっと,人間の話に戻ります.
 先に,年少期の母性の不足が心の成長に悪影響を及ぼすと書きましたが,その反対に,母性が濃厚過ぎても害があります (むしろ日本の機能不全家族は,こちらの方が多数派と言われています).よくあるのは,[夫の存在感が希薄,あるいは不和] → [夫や外の世界にも向けられるべき母の関心が,子供に集中する] → [不幸そうな母を子供がかばおうとする] という図式から,いわゆる 「母子カプセル」 なるものが形成されてしまう,というパターンです.こういう中で子供が成長すると,幼児的な万能感はありますが,一人立ちのできないイビツな精神が形成されていきます.これは,当人にとっては母親の自我に飲み込まれてしまうような恐怖でもあり,母親に対する暴力や,極端な場合にはその命を奪うような事件にまで発展することがあります.

 イヌの場合は,無意識レベルでそこまで深い相互作用は無いかもしれませんが,似たような状況はあるかもしれません.あまりにも家族や飼い主の関心がイヌに集中し,その一挙一動が見られているような感じになると,守られている安心感はあるかもしれませんが,自分を見失うような感覚にもなるんではないでしょうか? イヌといえども,ある程度の自立のためには,ちょっとは一人でものを考えたり,自分の世界を持つ時間が必要なんではないかと思います.全部がそうではないでしょうが,いわゆる 「権勢症候群」 というやつの何割かは,人間で言う幼児的万能感(よーするにワガママ)の表われではないかと思っています.

 もし,この段階で多く求められているのが父性だとしたら,飼い主は厳しさと寛大さの両面を持っており,なにより揺るがない自信を持った大きな存在でなくてはいけません.まぁ,そう言うと大層ですが,そこまで力を入れなくても人間が普通に接していれば,イヌからは自然とそんな風に見えるのかもしれません (ゴハンくれるしね!) .ただ,四六時中べったりと過ごしたり,細かいことにイチイチ腹を立てたりすると,イヌも息苦しくなってくるかもしれません.また,暴力で服従を強いたりすると,イヌの自信を無くさせたり,感受性を鈍磨させてしまうことにもつながるでしょう.さらに,自信の無い態度でイヌを混乱させたり,イヌの反抗(?)にオロオロしたりすると,今度は群でいること自体が不安になり (野生であれば,このボスに従っていたんじゃ自分の命が危ない...という恐怖),どこかで歯車が狂ってくるかもしれません.人間にも残されているはずの動物としての能力を信じて,まずは自然体で接するのが大事なのではないでしょうか.

<続く>

育てるということ (3) − イヌの場合 −

 さて,前半は本からの受け売りでしたが,後半は,単なる個人的な妄想です ( ← まさに与太話!).ぶっちゃけて言ってしまえば,人もイヌも同じと考えたらどうだろうか?って思ってみたわけです.根拠は無いです.でも,両方とも群で暮らす雑食性の哺乳類ですから,共通する部分が多くても不自然ではないように思えます.実際,ゴリラやチンパンジーでは,人とすごく近い精神形成のプロセスを持っていると言われています.

   まず,赤ん坊が生まれて最初に抱かれる感覚.これはイヌで言えば,おっぱいを求めてお母さんのお腹に顔をうずめる感覚になるでしょうか.イヌの本を読むと,7〜8週目くらいまでは,子イヌは母イヌと兄弟の中で暮らすべきだとされています.その理由としては, 「親に守られる経験や兄弟間の遊びを通じて,最初の社会化を学ぶこと」 が挙げられています.これは,幼児が身体感覚を通して母性愛を受け取るプロセスに似ているように思えます. 「7〜8週以前に親元を引き離すと攻撃的なイヌになりやすい」 と言われます.この時期に包まれるような安心感を十分体験できず,自分を愛する能力を育てられないのかもしれません.それが自分に対する自信の無さにつながり,必要以上に他のイヌや人へのガウガウにつながる...こう考えると,生まれて1ヶ月くらいでペットショップに出すような行為は,すごく危なっかしいことのように思えてきます.
 ちなみに, 「兄弟のプロレス遊びを通じて,相手が痛がってるのを見て加減を覚える.だから,兄弟から早く離すと攻撃的になりやすい」 という解釈には,個人的にはどうもスッキリしないところもあります.噛む加減なんて,ほんとに試してみないとわからないものなのかなぁ?って.私も人を殴るとしたらその目的によって手加減するでしょうが,それは子供のときに他人の反応で試したからだとは思えません.まぁ,どっちでもいい話かもしれませんが..

 その後,イヌは少しずつ,母イヌの懐から外の世界に出ていき,そこで,母兄弟以外の群と交わることになります.そこで,しだいに群として迎え入れられ,他の成犬たちから教育を受けたりします.この群の中にいれば,子イヌは外敵や餓えから守られるわけであり,おっぱいにむしゃぶりつくのとは別の安心感を体験します.私は,これが人間で言う父性の役割を果たしているんではないかと想像しています.掟やルールを教えつつ,未成熟な個体を(身体的にではなく,存在として)大きく包み込んでやるというのは,まさに父性の機能だと思います.そして,その代表的あるいは象徴的な存在が,ボスなんではないでしょうか.

 したがって,ボスの条件としては 「力が強くて頭も良い」 ということもあるでしょうが,むしろ群のメンバーが求めるものは,どんな敵や災難が襲って来たとしても,このリーダーに従ってさえいれば大丈夫だという,大きな安心感なんではないかと思います.だとすると,冷静な判断力や落ち着き,さらには自信に満ちた態度などが,ボスの資質としては欠かせないということになります.

<続く>

育てるということ (2) − 人と父性 −

 こういう人たちのことを,オトナになり切れていないという意味でしょうか, AC(アダルトチルドレン)と総称することがあります.例えば,他国や他人の目をすごく気にするのは日本人共通の性癖でもありますが,言ってみれば日本人全体に,軽い AC 的な傾向があるのかもしれません.

   ただ,育てることが母性だけでカタがつくかというと,話はそう簡単でもありません.

 まっサラな赤ん坊が母性の中だけで成長すると,幼児的な万能感みたいなものから抜け出せなくなってしまいます.これは,世界が自分中心に回っているような感覚で,よーするに根っからの,それもガラスのように傷つきやすいワガママになってしまうわけです.生まれてきたばかりの赤ちゃんって, 「自分はみんなから愛されて当然」 みたいなゴーマンな顔つきしてますよね.あの感覚がいつまでも続いちゃうわけです.一時流行ったピーターパン症候群とやらも,この一症状かもしれません.
 これを防ぐには,誰かが 「この世にはルールっちゅうもんがあるんや」 みたいなことを,これも感覚として教えてやる必要があります.あるがままで受け入れるのが母性の役目なら,このワガママな怪物に限界を設定するのは父性の役割です (ちなみに,母性=母親,父性=父親という意味ではありません.その逆であってもいいし,他人でも一人二役でも良いわけです) .別の言いかたをすれば,母性にヌクヌクと包まれた子供を,適当な時点でそこから切り離してやるのが父性の役目です.そして,限界を設定することで子供に欲求不満を起こさせ,そのパワーをバネに親離れを促し,無事社会に放り出してやることが,育ての親の最後の努めということになります(思春期の子供に親父が煙たがられるというのは,まぁ正常ってわけです.哀しいことですが...).

 すなわち, 社会で生きていく能力を養うためには,母性と父性の両方が必要ということです.また,子育てという観点から見れば, 「母性愛」 「限界設定」 「親離れの促し」 が,(これさえできれば他の些細なことはどーでもええっちゅうくらい大切な)その3本柱ということになります.もちろん,生き物相手の話ですから,一から十まで判を押したようにはならないのですが,基本はそういうことです.

 ところで,ここの文章はあえてヒトゴトのように書いてますが,私も(そして私の母も),どちらかといえば AC 的性向が強い方だと感じています.もっとも,ただそれを悲観してるわけでもありません.まずはそういう自分を受け入れ,それをちゃんと認識した上で,乗り越えるなり利用するなりしていけば良いと思っています.かのクリントン前大統領の女クセの悪さも,出生の事情から来る AC 的性格の現われだと思われます.ただ,彼は自分自身を AC と認めて広言するという勇気ある行動に出ました.それが逆に,彼の社会的な成功のバネにもなっているのでしょう.

 ん〜,悪い癖でなかなかイヌの話に行きつけません.
 また,次回以降というわけで...

<続く>

育てるということ (1) − 人と母性 −

 「犬とのくらし」 なんてことにこだわる自分は,当然のことながら,依存とか嗜癖傾向の強い性格なわけです.特定の対象への執着が強い一方で,社会的な関わりとか人つき合いには,そこはかとなく 「生きにくさ」 を感じてたりします.こういう性格がどこから来てるのか...まったくの興味本位ですが,いくつか本を漁ったりしてきました.そうやって聞きかじったことを,まぁ一つのお遊びとしてですが,強引にイヌの話に結びつけてみようと思います.
 まずは,人間のはなし...

 普段,私たちは 「社会的な動物」 として,人との関わりの中で暮らしています. 「自分の欲求を満たしながら,他人とうまくやっていく」 「一方では競争しながら,一方では共感して肩を抱き合う」 なんてどう考えたって至難の技を,シラっとした顔で実践しているわけです.
 ただ,この技は,全部が全部生まれつき備わっているわけではありません.社会で暮らすこと自体が,人によっては大変な苦痛になることだってあります.オギャアと生まれてからオトナになるまで,私たちはこの能力を少しずつ養っているわけです.(ちなみに,私のオトナの定義は, 「自分なりの価値観を持ち,他人と対等で親密な関係が持てる能力を持った人」 みたいなところです)

 人が独立した人格として他人とうまく関わっていくためには,心の奥底に自分を認める感覚を持つことが欠かせません.言いかえれば, 「自分は世の中で必要とされ,あるがままで受け入れられる存在なんだ」 という感覚です.理屈ではなくて,あくまで感覚です.これがどこから芽生えるかと言うと,まずは赤ん坊時代に親に抱かれたときの肌の温もりであり,さらには,年少期に与えられる無条件の愛(≒母性)からくる安心感だと言われています.(無条件というのもミソです. 「良い子にしてたら」 「勉強ができたら」 なんていう条件付きの愛や,自分の不幸の穴埋めのための押しつけの愛では,やはり子供は安心することができません.そう,子供はまず安心できなければならないのです)

 逆にいえば,十分に母性に受け止めてもらえなかった子供は,どこか自分の存在に不安を抱いています.そして,きちんと自分を肯定できないまま成長してしまうと,今度は他人も肯定できなくなります.これが,生きにくさの元凶です.他人を受け入れ共感できないこと...これは社会的動物である人間にとって,ものすごく過酷で辛いことです.他人に優しくなるためには,まず自分に対して優しくなれること...というのは,単なることばの遊びでは決してありません.

 自分に対する不安というやつは,成長とともに意識下に押し込められます.でも,勝手に消えて無くなることはありません.その反動が,いろんな形の問題行動(薬物/アルコール/賭け事などへの依存,拒食/過食,非行,いじめ(いじめられ),不登校/出社拒否,引きこもり,自傷/自殺etc)や,鬱などの精神症状として表面化することがあります.ダメで価値の無い自分を罰したい,という無意識の願望がありますから,ともすれば自分自身を傷つけたり,わざと他人から罰せられるような行動に走り勝ちです (万引き常習犯の多くは,実は捕まることが目的なのです).
 まぁ,そこまで行かないとしても,こういう傾向をもった人は自分に自信がないので,他人の目や評価が過剰に気になります.自分が幸せかどうかより,人から見て自分が幸せかどうかを問題にします.いつも他人とつるんでないと不安です(でも,腹を割って自分をさらけ出せる友人はいません).

 また,自分に対する憎しみが,無意識のうちに他の対象に投影されることもあります.よくニュースになる小動物への虐待も,その何割かはこれが原因だと思われます.もっとも自分自身を投影しやすい対象は,何といっても自分の子供です.子供がかわいく思えるのは,自分がかわいいということの裏返しでもあるんですが,自分を肯定できていない人は子供に対して憎しみを抱くことがあります.これが,今流行り (?) の,幼児虐待の一因であると言われています.

<続く>

February 24, 2006

犬観 (2)

 それで,自分なりの犬観...というか,こんな関係になれたらいいな,ってやつですが...
 一番根っこにあるのは,やっぱり,犬は犬として人間と区別したい(というか,むしろ一緒にするのは相手に対して失礼という気持ち)ということですが,かといって,上下や主従関係で安易にくくってしまうのも好きではありません.人間と犬とはそれぞれが独立した種であり,それだけでお互いに相手を尊重すべき関係である...気持ちの上ではそうありたいと思っています.人間から見れば, 「犬は犬であり,犬であるが故に敬意を払う」 というところでしょうか.もちろん,彼らにも敬意を持って欲しいですし,人間と暮らすことを選択したんだから,その暮らし方を覚えてもらうことくらいは,受け入れてもらわなければなりませんが.
 これは,人と犬のどちらがボスになるべきか,という話ではありません.あくまで,気持ちの持ち方の問題です (もちろん,群としてボスは必要ですが,私にとってそれは上下ではなくて,むしろ役割分担だと思っています).犬観という意味では,日本風にも欧米風にも,ちょっと違和感を感じます.

 実は,こんなことを,子供の頃からボンヤリと考えていたような気がします.犬でも猫でも,毅然とした態度の子を見るのが好きでした.そんな彼らに相手してもらいたくて,いつも煮干を一握りポッケに忍ばせてたものです(これをうっかり洗濯機に入れると,無数の煮干片が洗濯物について,母親が怒り狂ったものでした).いじめられたり,邪険な扱いをされて卑屈になってる犬に出会うと,かわいそうというより,悔しく思ったことを覚えています.なんだか,大切にしていたプライドが傷つけられたようで.

 そんな偏った価値観の私ですが,最近になって知った牧羊犬の世界は,なかなか魅力的に映りました.
 もともと,羊飼いは大変な重労働で,犬をことさら可愛がる余裕なんてなかったでしょう.彼らにとって犬は犬です.一つ屋根の下で暮らすわけではありませんし,餌だって粗末なものだったでしょう.でも,彼らの生活を支える犬の能力に関しては一目もニ目も置いています.牧羊犬に関する出版物やビデオを見ていると,その能力に対して,深い尊敬の念を抱いていた様子が伺えます(もちろん,そうでない人だってたくさんいたでしょうし,一部には犬を単なる道具と見なす風潮もあったとは思いますが...).
 「能力を愛する」 というのは,いかにも欧米風の考え方かもしれません.ただ,少なくともそこに関しては,犬を下に見ることはなかったはずです.生きるためにお互いがお互いを利用する...というのは,もともと犬と人間が出会った関係であり,自然界でもそれほど異常ではないと思います(少なくとも,一方が他方を保護して可愛がる,というのよりは自然なはずです).

 犬と人間が向き合うと,どうしても人間から犬に指図することになり勝ちです.でも,彼らは同じ方向を向いて,一緒に仕事をしています.そういうことが理屈でも何でもなく,日々の暮らしの中で培われてきたのかと思うと,なぜかうれしくなってきます.犬が本当に幸せかどうかなんて,金輪際,私たちにはわかるはずないのですが,それでも彼ら(作業犬)は幸せだったんだろうな,って思ってしまいます.

 口を半開きにして眠りこけているやつらを見ていると, 「こんなやつが尊敬できるか!?」 という思いも頭をよぎります.でもまぁ自分もそんな偉いことをしてるわけでもないし,それに,動物として人間の方が優れてるところって,実はほんの数えるくらいしかないんじゃないだろーか,という気さえしてきます(比べても意味無いことですが).
 そもそも,犬という種が人間社会の中で暮らし,その上,どうやら自分たちに好意まで持ってくれている(らしい)...これだけでも,たいへんな奇跡だと私には思えます.人間族の一人としては,その奇跡に感謝して,犬と一緒の生活を楽しんでいきたいと思っています(←ちょっと神がかってきたゾ!).

犬観 (1)

 自分はどんな風に犬と暮らしたいと思っているのか...なんてしょーもないことをツラツラ考えることがあります.
 犬を飼うことの価値観なんて,それこそ人それぞれでしょうから,基本的に 「あれが良くて,これがダメ」 なんてことは言えない世界ですね.もともと,犬を飼うことなんて,1から9.9くらいまでは人間の都合なんだから,自分で良かれと思うようにするしかないと思います.そりゃぁ,社会や自然(犬種も含めて)に影響が大きいような行為は,個人の勝手というわけにはいかないんですが...

 犬を飼うことの価値観を,自分では勝手に犬観と呼んでます.今まで,いろんな人のいろんな犬観に触れてきました.だからと言うわけではないですが,ここで,自分の犬観を整理しておきたいと,ふと思ったわけです(←平和だねぇ〜). 「ヒマで死にそうや〜」 っていう人だけ,ちょっとつきあってやってください.

 人の価値観には,自分の育った文化がすごく影響します.で,まず私たち日本人の犬観てどんなだろうと考えてみることにします.
 まず私の印象にあるのは,日本人って身内意識が強いってことです.赤の他人にはなかなか気軽に声をかけられないですが,一旦相手が身内だと考えると,思いっきり気を許したりします.あうんの呼吸ってやつでしょうか.それで,一から十まで相手のことがわかったような気になれるんですが,一部でも意見が違ったりすると,今度はひどく裏切られたような気分になります.
 身内の範疇以外の人に対してはどうでしょう? その場合,今度は,相手が自分より上か下かを決めないと,どうも落ち着きが良くありません.成熟した大人の関係というものがあるとすれば,それには 「相手の人格を尊重し,対等の関係でつきあう」 ことが含まれると思うのですが,これが,私ら日本人にはなかなかに難しいことだったりする.

 例えば, 「身内」 の一番大きなくくりは,日本人ということになるんでしょうが,仲間外とのおつきあいである外交とやらを見ていると,先進国に対しては必要以上にへりくだる一方で,途上国に対しては居丈高か 「援助してやる」 という態度になってしまいます. へりくだらず,かつ相手を尊重した上で,自国の意見を堂々と主張する,というのとはちょっと違います. 「身内」 の単位は,地域,隣近所,会社,サークル,友達,家族,個人...それこそ無数に考えられますが,ことごとくそんな傾向があるような気がします.

 それで,えーと,犬の話なんですが...やっぱり似たような傾向があるように思えます.犬を身内として見ないのは,むしろ人間として当たり前だと思うんですが,その結果,当然犬は下に見られます.昔ながらの 「犬畜生」 ってやつでしょうか.実は日本には,犬が人と適当な距離を置き,半分野生のままで人間社会の中をぶらぶらしていた時代があり, 「畜生」 的犬観はそれなりに良いバランスを持っていたわけです.やがて,日本でも犬が家庭に入ってくるようになったわけですが,この犬観はそんなに変わっていないようです.少なくなったとはいえ,相変わらず犬に対する社会的な偏見や蔑視が根強いのも,そのせいでしょう.
 その逆ってのもあります.犬をものすごく可愛がる...これは,意識の中で犬が 「身内」 になったことだと思うんです.それはそれでメデタイことなのかもしれませんが,これがちょっと行き過ぎると,犬を擬人化し 「うちの子」 として猫かわいがりすることにつながります.そんなとき,意に添わない形で犬の本能がチラリと覗いたりすると,裏切られた気分になって逆上したりします. 犬を恐れず蔑まず,犬を犬として受け入れるのが難しいのは,私たち日本人が大人になり切れていない証拠なのかもしれません.

 もちろん,これが良いとか悪いとかいう話ではありません.そんな風な 「犬観」 が日本的な文化としてあるんではないか?ってだけです.

 じゃあ,欧米風の犬観はどうでしょう? よく私たちは,犬たちが社会に受け入れられているさまを見聞きして, 「欧米の犬事情は進んでるね」 なんて言ったりします. 「犬はパートナーである」 というのも,欧米で生まれた言い方でしょう.確かに,日本に比べて犬が一定の市民権を得ている...とは言えると思います.

 ただ,彼らにしても,無条件で犬を受け入れるわけではありません.
 欧米の価値観を考えるときは,やっぱりキリスト教の影響を無視することはできません.キリスト教では,動物は人間(=神のしもべ)に統治される存在であり,人間に益する,あるいは仕えるものとして下に位置付けられます.犬がいくら真っ正直に生きたとしても,天国には行けないのです.また,人間であれば誰でも神に受け入れられるかと言えばそうでもありません.それには,神との 「契約」 を守る必要があります.
 欧米社会を見てみれば,この 「契約」 的な考え方が隅々にまで浸透しています.その典型がカイシャの雇用でしょう.日本人がカイシャに入るときは,なんとなく「仲間に入れてもらう」 的な意識があるんですが,欧米では 「契約を結ぶ」 以外の何者でもありません(最近は,日本人の意識もだいぶ変わってきたようですが).仲間社会 vs 契約社会,あるいは,母性原理の社会 vs 父性原理の社会と言えるかもしれません.

 これが,人間と動物との関係にも当てはまるように思えます.すなわち欧米では,犬はあくまで犬なんですが,一定の 「契約」 さえ守れば人間のパートナーとして受け入れられます.すなわち,よく 「しつけ」 され,人間社会のルールを守るもの,あるいは役に立つものだけが,人間によって 「祝福」 されるわけです.純血種は,犬を人間好みの姿や性質に作り変えたものですが,こういった犬観のたまものと考えても不自然ではないでしょう.姿や性質を人間好みに変えた代償(?)として,犬も社会に受け入れられるのです.そのかわり,飼い主はパートナーの一生に責任を負うわけであり,これには安楽死といったつらい決断も含まれます.
 それはそれで一貫した考え方かもしれません.ただ, 「人間に役立ってなんぼ」の考え方が行き過ぎると,犬を物や道具扱いすることにもつながります.クリスマスプレゼントに子犬を贈ったり,あるいはバカンスシーズンの終わりに犬を捨てたりする習慣も,この価値観とは無縁ではないと思います.

 念のため,繰り返しますが,これが良いとか悪いとかいう話ではありません.思うにそんな価値観なんではないか?ってことです.

 あー,なかなか本論に辿りつけません.ここまで書いて,どっと疲れてしまいました.
...ということで,自分の犬観については,次回に書くことにします(いつになるやら).

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