July 25, 2008

本当は怖いヒトの本能 (5)

なんか話ずれた.
例によって犬と結びつけてまとめてしまおう.

以前のヨタ話で犬のバランスについて書いたことがある.
どうしても自分はヒトよりイヌの方がバランスが良いように感じてしまうのだが,それって何?というテーマだった.そのときは,"身体(=自然)" 対 "脳" という図式をでっち上げたが,今回,2つの欲動のことを聞き知って,いや実はこのバランスのことだったのかもと思い直した.

犬は,互いを「名」で区別しその細かな差異に関心を払うことが無い.ことさら個を主張することもしない.群(それも"主体的に"選ばない.あくまで"縁"だ)になってしまえば,グレートデンも人もパグもミケも構成員として変わりは無い.仲間に劣等感を持たず,他の群を羨まず,自由だ正義だ平等だと(人目を気にして)力まない.そして,群としてのパフォーマンスが最大になるように自分の立場役割を見定め,そのように行動し,その上で個々の生を愉しむ.このあたりが,社会的動物としてのバランスではないだろうか.

だからといってそれをマネしようとしても詮無いことだ.もう人と犬は違いすぎる.
ただ彼らと暮らすことによって,(普段は意識に上らない)私たちの個体保存欲動と性欲動のバランス具合を自覚することはできる.

もしバランスが悪いとしたらどーしたらいいのか.
それはわからない.
第一,バランスが悪いことが悪いと決まってるわけじゃない,ってゆーか自然界には良いとか悪いとかの概念は無い.例えば,もしそうなることが自然のプログラムに組み込まれているのだとしたら,私たちに何ができるわけでもない.要するに何が言いたいのかと言うと,まぁそういうことだ...ってほらぁ,やっぱりまとまらない.

しょーがないからこのままぶった切ってしまおうと思っていたが,たまたま朝日新聞紙上で宮崎駿氏のメッセージを見かけたら気が変わって,シメの代わりにコピペさせてもらうことにした.
あまり脈略は無いんですが,今の気持ちにピッタリだったので...

「コナンのころは美意識に基づいた一種の終末思想がありましたが,そんなきれいな終末は来ず,どろどろ,ぐしゃぐしゃのまま21世紀はやってきた.
じゃあ今,何をよりどころにするのか.
人間がすべてを捨てても最後まで捨てないはずの子供ではないか.
ひとまず産まれた子供をみなで祝福し,一緒に苦しみながら生きましょう.
そんな風に思います.」


そ,そうですよね,監督!(涙)
 

本当は怖いヒトの本能 (4)

子宮への回帰を願う個体保存欲動は基本的に内向き指向になるが,性欲動は外向きの推力を持っている.繁殖のためには他の個体との接触が必須であり,特に人の場合,これが生き方や価値観の異なる他者との交流に繋がるからである.この2つの推力のバランスによって,人それぞれの生き方の色合いが決まる.
そして今の日本社会の空気は,おそらく"内向き"である.
個人主義,じこちゅー,モラトリアム,引きこもり,自分らしさ,他罰的,依存・嗜癖,オタク,オレ様,共同体の崩壊,老後の不安,,,などの世評タームを並べるとそうとしか思えない.

例えば少子化.この現象を個体保存欲動の昂進で説明することは難しくない.
もともと子孫を残すという行為は,その生物個体にとってはメリットが無いどころか,リソースの分け前が減り,行動が制限され,結果として快適さの著しい低下をもたらす.だから本来,子作り子育てなんてことは,性欲動がしっかり働いて個体保存欲動を適度に抑制してくれないことには,ちょっとできない相談なのである.
そう考えると今の出生率低下は意外でも何でもない.逆にここまで経済優先で自己実現万歳の世の中になっても,それなりに子孫を作り続けてるという事実に,生き物としてのシタタカさを見るようで感動すら覚える.

ついでに言うと今,少子化問題対策として雇用ルールの改訂とか,子育て負担の軽減とか,税の優遇とか打ち出されている.それはそれで必要だと思うのだけれど,それらが結局は損得勘定であり,個体保存欲動と同じ目線なのが気になる.

最近の環境問題でも思ったけれど,経済のワーディングに拠らない方策というのは,私たちにはもう発想すらできないのだろうか?
そもそも,少子化現象を問題として捉えること自体,物事を経済の色メガネで見てしまっていることの証とも言えるのだけれど.
 

本当は怖いヒトの本能 (3)

もちろんこれは狭い世界の一つの例に過ぎない.
しかし社会的な「役割」や「型」を差し置いて,個の確立を奨励するような社会は未だかつて存在しなかった・・・とまで言い切る自信は無いけれど,現代の日本が,個人の欲望すなわち個体保存欲動を肯定し,かつて無いほど強化している社会だということは言えると思う.
経済至上主義とか市場原理主義,あるいはそれらに母屋を乗っ取られた感のある民主主義のことを言っている.
理由は単純,物やカネの流通を促し経済を活性化させるためには,消費単位をできるだけ細分化(村や家族単位に売るより,個人に一台ずつテレビを売った方が儲かる)し,個々の欲望を最大化することが手っ取り早いからである.

そんな現代でも,個人的欲望をあからさまに表にするのはハシタナイみたいな感覚はあるし,それを抑制するシステムも生き残っている.村上世彰氏の「カネを儲けて何が悪い?」発言を聞いて,え~!?と感じた人は少なくないだろう.
しかしちょっと捻って「自己実現」とか「自分らしさの発見」とか「自分探し」とかの表現にすればどうか.あるいはもう半捻りして「自然体で生きる」「自分に素直」「ほんとうの私」「等身大」あたりでも良い.おそらく違和感抱くどころか,両手でハグして背中パンパンできるのではないだろうか.
村上発言と「自己実現」の間には大きな隔たりがあるように聞こえるが,個人の欲望の肯定という切り口から見れば実は良く似ている.  

大体世間では,個々人の中にあらかじめ確固とした自己があり「きちんと向き合えば本当の自分が見えてくる」なんてことがもっともらしく語られているが,あんまり自信満々に言われると,つい,本当かよ?と混ぜっ返したくなる.それって近代の西洋文化が作り上げた幻想なんじゃないのかって.
いや,それはこの際どっちでもいい.
問題はそれらの言い回しが氾濫しているという事実であり,そこから窺い知れるのは,私たちの意識がどうやら過剰に自分に向かっているらしい,ということである.

もちろん,いつの時代のどんな社会にも自意識過剰なグループは存在した.しかし彼らは普通"子供"と呼ばれ,これから視野を広げ社会性を養うべき人間として区別されていた.
今やその境界はあいまいになり,社会全体の中に,自意識を奨励し成熟を抑制するような気圧が存在する.みんなで寄ってたかって個体保存欲動を"褒めて育て",結果として性欲動を抑制してるように思えてならない.
 

本当は怖いヒトの本能 (2)

ところで対立する2大本能と言えばフロイトのエロスとタナトスを思い出す(って知らんかったくせによく言うな,おめーわよー).エロスは生きることや創造や生殖を,タナトスは死を希求する本能とされる.
切り口は違うが,エロス/タナトスに含まれるさまざまな欲望は個体保存欲動と性欲動でも説明できる.ただ,タナトスの「死を積極的に希求する」ような欲望は個体保存/性欲動には見当たらない.強いて言えば,性欲動の「個体の死なんかどーでもいい」がそれに相当する.

タナトスは人の破壊的衝動を説明するために考案されたものだが,どこか余分にヒューマニズムが混じってるようで座り心地の悪いところがある.まろ的には「どーでもいい」くらいの方が人智を超えた無常感が漂っていて腑に落ちる.

他の動物と較べたとき,ヒトの特徴は個体保存欲動が強いことだろう.個体としていかに快適に,有意義に生きるかということに思考と行動のリソースが集中的に投入される.

それが行き過ぎるとどーもうまくない,ってんでご先祖たちは,個体保存欲動をコントロールすることに営々と取り組んできた.宗教はもとより,道徳倫理,社会ルール,社会制度,慣習,なんちゃら道,しつけ,,,いわゆる「人の生き方」に関わる文化資産は,多かれ少なかれ個人の「我と欲」(≒個体保存欲動)の抑制をテーマとしてきた.その一方で,成熟と交流を促すさまざまな仕掛けが社会システムの中に作り込まれてきた.

史実だか司馬氏の創作だかは知らないが,少年時代の吉田松陰は,勉強時間に虫に刺された頬を掻いたのを見咎められ,家庭教師役だった叔父から半殺しの目に合わされたのだそうな.その叔父が特に凶暴だったとか,不幸な少年時代を背負ったDV野郎だったというわけではない.「本来,公に属するはずの勉学の時間に,頬を掻くという私の行為を優先した.今これを見逃せば将来どうしようもない人間になる」という信念がそうさせたのである.当時の社会にはそんな価値観があった.
 

本当は怖いヒトの本能 (1)

(今回はとても書きにくかったから,きっと読みにくいに違いない.じゃあ書くなよって!?)

人間には,個人としてより良く快適に生きようとする欲動と,子孫を残し命の連鎖を繋ごうとする2つの基本的な欲動がある...というようなことを精神科医の斉藤学という人が書いていて,言われてみれば当たり前のことのようだけれど,こーいう大事っぽいことほど学校で教えてくれなかったと拗ねつつ,思いついたヨタを2,3.

斉藤氏に倣って前者を個体保存欲動,後者を性欲動("性欲"じゃないかんね)と呼ぶ.
個体保存欲動は,腹一杯食べたいとか,安全に暮らしたいとか,長生きしたいとか,目立ちたいとか,そういう誰にも覚えのある本能である.個性なんてのもここから派生してくるらしい.
性欲動は個体よりはヒトという種,あるいは生命の一員としてDNAを途切れず後世に引き継ごうとする本能である.個体の安全や快適なんか二の次だし,個性どころか,ヒトのDNAが蛆虫のそれより価値があるわけではない.

2つの欲動は基本的に対立している.
個体保存欲動のもっとも根源的な欲望は,安全と快適が保障された子宮への回帰なのに対し,性欲動は「「汝は性的に成熟し,性交し,子孫を残せ」と命じる非情な推力」だからだ.
個体保存欲動にとって老いと死滅はもっとも忌避すべきことだが,性欲動にとってはまぁどーでもいいことだ.いやむしろ,DNA継承の役目を終えた個体にはサッサとお引取りいただいた方が好都合かもしれない.

どちらがより根深いかというと,そりゃあ人は人である前に生きものなんだから,性欲動だろう.だから普通は性欲動の方がより無意識的に作用し,両者が対立する局面では,個体保存欲動を抑圧することになる.否応無く誕生し,成熟し,やがて世代交代して死を迎えるという流れには,どんな欲動も逆らうことはできない.
 

May 6, 2008

コトバで考える葦(4)

経験が教えるところによると,犬には何かをさせるより,させない(ことを理解させる)ことの方がはるかに難しい.「しないこと」を教えるときには,別の行動や考え方に置き換える方が話が早かったりする.
例えば「騒ぐな」は「座れ」とか「伏せろ」,「吼えるな」は「吼えろ」(=それ以外は吼えるな),「ソファに乗るな」は「君の居場所はこのタオルの上」とか「そのソファは俺んだから遠慮しろ」などなど...

ファームで家畜を世話しているとき,それをケージの中から見ている犬たちは大騒ぎだ.これを静めるために「ぎぶあっぷ」とか「びへいぶ」などとつい叫んでしまうが,犬たちがこれを「騒いではいけない」と理解しているとは思えない.一瞬静かになっても数秒後には元の木阿弥だからね.(それにしても,吼えると決まって不機嫌になる自分という人間は,彼らの目にはどう映っているのだろう?)

コトバを使わない犬たちには,否定の概念そのものが無いのかもしれない.だとすると,「させない」ことを理解させることは難しくて当然だし,それなりの工夫がいるのだろう.

だから,普段の生活で "No" を連発するよりは,それを言わずに済むように気を配ってやる方がTLCかもしれない.
犬をできるだけ自由にしてやるのは人道的には正しげに見えるが,犬道的にはどうなんだろう? 人の周りをうろついて "No" の集中砲火を浴びるよりは,安全を保障された自分の場所で落ち着いている方が心安らかかもしれない.
本当か?
わかんないよね,そんなの.

そうか,エンドレスで悩み考え続けるのがTLCの極意なのですね,ばぁばら導師様!


おわり
 

コトバで考える葦(3)

...と,ホントはここで話は終わってるのだが,たまたま「否定」に関するおもしろい話を聞きかじったので,ついでに知ったかぶりをする.

それは,私たちは普段「無い」とか「しない」という否定のメッセージを易々と伝えているけれど,コトバを使わずにこれをしようとすると,たちまち途方にくれてしまうという話.

例えば「テーブルの上にりんごが無い」ことを言いたいとする.
コトバを使えば,まさに今書いたような一文で事足りるが,これを他の手段,例えば絵で表現しようとすると,途端に話はややこしくなる.
何も乗ってないテーブルを100枚描いても,"りんごが無い"というメッセージは伝わらない.そもそもイメージは空間を埋め尽くすものであって,不在や欠如を含まないからである.
あえて伝えようとすれば,例えば,1)りんご以外のすべての物が乗っているテーブルを描く,2)りんごの乗っているテーブルと乗っていないテーブルを描いて対比させる,3)点線でりんごを描いて不在を強調する,などの工夫が必要になる.

1)はそもそも描けないし,仮に描けたとしてもりんごが無いことに思い至るかどうかは怪しい.
2)や3)だったら可能かもしれないけれど,これらは絵画というより,すでに "絵で表現したコトバ" である.2枚の絵や点線の中に,すでに論理と時間が畳み込まれているからである.

同じように,「しないこと」を伝えるのも難しい.
犬同士が道ですれ違ったとき,相手に「近づいたらぶっ殺すぞ」と意思表示することはたやすい.
しかし「殺さない」「殺す気が無い」ことを伝えるのはどうか.
敵意の無いことが表現できても,それだと「殺さない」を明示的に伝えたことにならない(敵意が無くても殺すことはできる).あえてやるなら,相手を噛んで噛んで噛んで噛んで噛みまくって,それでも止めを刺さない...といった行為に訴える他ない.

ことほど左様に,イメージや動作で否定のメッセージを伝えることは難しい.
では,なぜコトバを使えば簡単なのだろうか? 長い人類の歴史の中で,コトバが強化洗練され,それらの機能が付加されてきたのだろうか?

おそらくそうじゃない.
どうも言語活動と否定の概念は,根っこのところでガッツリ結びついているらしいのである.

幼児の成長に注意していると,何年もかけて徐々にコトバを習得していくというよりは,ある日を境に一気に学習が進む様子が観察される.発達心理学が伝えるところによると,これは,赤ん坊が「(おっぱいが)無いこと」を認識する時期と一致する.つまり,物を "存在" として捉えるだけでなく, "不在" とのセットで理解したとき,人は人となり,言語活動が始まる(らしい)のである.
コトバとは,このような世界観と一体のものなのだろう.それくらい精神活動が高度になって,ようやくコトバが使えるようになる,ということかもしれない.


つづく
 

May 5, 2008

コトバで考える葦(2)

一体どっちが正解なのだろう...などとすぐに白黒つけたくなるのもいかにもコトバ的だ.

コトバは事象の単純化や抽象化,カタログ化(名付けて分類して一丁上がり)を指向するものだが,それでとりあえず「わかった気に」させてくれるところが偉い.しかし少なくとも生き物は,限られたコトバですっきり説明できるほど単純なものじゃない(はず).

新たな理説を主張するために,まず既存の説を否定してかかるというのはコトバ的思考のお作法である.「従来の説は間違いだ」って言わないと迫力出ないからね.「従来の説も少しは合ってるけど,この説だって半分くらいは正しいと思うよ...」などとウダウダ言ってると聞いてる人は寝てしまう.
「犬は人をアルファと見なしている」というのは確かに乱暴かもしれないが,だからって「それは間違い」と言い切るのだって同じくらい乱暴な行為だと思う.

そもそも,群とかアルファとかメンバーとかは人間が勝手に定義したのだから,それとドンピシャの概念が犬の頭ン中にある方が不思議である.
群のメンバーとそうでない者を明確に区別するためには,群のメンバーに「群のメンバー」というレッテルを貼らないといけないが,きっと犬はそんなことしない.その場その場で自分の感覚に従ってそれなりの態度をとるのだ(と思う).
犬は家族を群と思っているのか,リーダーをアルファと見なしているのか,メンバーに序列をつけてその中で自分を位置づけているのか? おそらく,どれも少しずつ正解であり,少しずつ不正解なのだ.

コトバを否定したいわけではない.「コトバに頼らず自分の感覚を大事にしよう」などと安直に言いたいのでもない(そんなことを前に書いた気がするけど).むしろその逆で,犬を少しでも理解しようとするなら様々な理説=コトバに触れるしかないと思っている.私たち人間には,周りをコトバで埋め尽くす以外に事の本質に迫る手立てが無いのだから.

それでも,コトバは決して万能ではないこと,そして私たちはコトバの枠組みの中でしか考えられないことは,自覚しておいた方が良いと思う.
そしたら何か変わるのかって?
いあ,別に...
でも自覚からは「節度」が生まれるし,それこそがヒトの貴重な資源だと思うのである.


つづく
 

コトバで考える葦(1)

ヨークシャの農場主バーバラ・サイクス氏のトレーナとしてのモットーは,TLC(Think Like Canine)という.

「犬のように考える」「犬として思う」「犬目線になる」...一見ありふれたメッセージだが,こういうのは大抵,やさしく考えれば何ということはないのに,悩み出せばキリが無いものと相場が決まっている.
実際,お前らの頭ん中わかんねー!って,じぇちの理解不能な行動に直面するたび,深く深く絶望させられる.

人が人として考える時,どうしてもコトバが介在する.
「犬のように考える」には,まずこれがハードルになる.

例えば,「犬は家族を群と見なして,そのリーダーをアルファとして尊重する」という考え方.

一郎君とジョンは寝るときも食べるときもいつも一緒だった.それでまぁ仲良くやっていたのだが,ある日を境に生活が一変する.ジョンはベッドから追い出され,食餌は一郎君が終わるまで待たされるようになり,大好きだったソファ寝が禁止され,散歩のときは歩く位置まで決められてしまった.そういえば,一郎君の声まで何やら低くいかめしい...一郎君はその日なんちゃら講習会に参加して,パックリーダ説に感銘を受けて帰ってきたのだ.

頭=コトバで考えることで,生き物に対する態度までガラッと変えることができるのが,他には無いヒトという動物の特徴だ.考えてみれば,これは結構すごいことだ.動物が急に態度を変えたら,,,例えば怯えて逃げるだけだった鳥が,急に襲ってくるようになったら恐怖映画になってしまう.
じぇちはもともと人づき合いの不器用な犬だが,最近は随分と改心したようで,たま~に撫でてくれと自らせがむようにまでなった.それでも,手が届くまであと5cmというあたりでスッと身を引くような,基本路線の態度は変わらない.彼女の行動は奇怪で予測不可能だが,行動自体は変わってもその "奇怪で予測不可能" な感じはこの先もずっと変わらないだろう(泣).

ところでパック理論は,それがオオカミの習性の名残だとする論拠が納得しやすく,広く受け入れられた.しかし,そもそもその論拠自体がスカで,犬は人をアルファになんか見ていないという説もあり,どうも最近はそちらの方に勢いがあるらしい.


つづく
 
 

March 1, 2008

シーツの神様 (5)

そう言えば,みわファームに居を構え,庭や畑を放浪するニワトリの卵を始めて食べたとき,「あんれま!」と思った.

ファームでは生ごみを畑に捨てるのだが,それらは虫に食われたり,腐って草や野菜の栄養となったりする.
ニワトリたちはその土や虫や草や野菜を啄ばんで卵を産む.
そしてその卵を人が食らう.

頭ではわかっていたつもりの命の連鎖が,こんなにも眼の前で,こんなにも小さなループで,こんなにもあっけなく実現しているのを見て,感動してしまったのである.
それらを自然と呼ぶなら,まさしく自分は自然そのものだということ,身体のありとあらゆる物を周りの環境と交換しながら生きていると言うことを,あっさりと見せられてしまったのである.
逆に言えば,街暮らしだった頃には,そんな当たり前の感覚すら失くしてしまっていたことに気づかされたのである.

ミ ナ サ ン  コ レ ハ タ イ ヘ ン ナ コ ト デ ハ  ナ イ デ ス カ ?

そんな風な気持ちだった.

人である以上,人との関係性を大切にし思い悩むのは,誠実でまっとうなことだ.
しかしそれはあくまで脳で考えること.(だけじゃないとも思うけど)
そうである以上,身体の抑制を超えてバランスを失う危険といつも隣合わせだ.

人の群生活にはウン百万年もの歴史がある.
シーツを手放せなくさせるのはその重みだろう.

しかし,そうは言っても高々ウン百万年なのである.
人のDNAには,36億年を生き延びてきたしたたかな命の記憶が刻まれているはずだ.
私たちはそこにもっと敬意を払うべきだと思う.
...って,こーゆーことを頭で考えてるから "ダメ" なんだろうけど.


おわり

シーツの神様 (4)

関係性というのは本来,よりよく生きるための手段であって,それぞれが利己的に利用すべきものだと思う.
しかし最近の空気を嗅いでいると,それ自体が目的と錯覚するくらい意識過剰になっている.
すぐKYとか言うし.
何かをするためじゃなく,関係性を保つことそれ自体に,エネルギーを注ぎ神経をすり減らしている.
人の上にシーツが君臨している...

じゃあ犬はどうだ?
犬にも多分,シーツは必要だ.
ぐびなんて未だにシーツ吸ってるし...ってこれは話が違う.
もとい.
犬だって関係性の中で生きているし,ある意味,人間よりデリケートだ.
喧嘩もあるし,空気の読めるヤツ,読めないヤツだっている.
でも,いじめやらバッシングやら引きこもりやらといった不健康な匂いはない.
意識の度合いとゆーか濃さとゆーか,そんなものが適度なバランスに保たれている感じがする.

なぜだろう?---それは多分,彼らが4本足で立っているからだ.
4つ足を踏ん張り,地面としっかり繋がっているから.
つまり,群との関係性に神経を使いながらも,身体で自然とがっつり関係しているから...だと思う.

養老孟司先生(こればっかりだな)曰く,「古今東西の自殺者の遺書には花鳥風月が書かれていない」のだそうだ.
遺書には普通,生活や人間関係への悩みと呪詛が縷々綴られるが,それ以外,特に自然への関心や眼差しはすっぽり抜け落ちている.
関係性への意識が人々を追い詰めるくらい過剰になっているとすれば,それは自然との関係性に対する意識が希薄になっていることの証でもある.
生きるか死ぬかの瀬戸際に花鳥風月は無いやろうとも思うが,まさにそれを「無いやろう」と感じてしまう私たちの感覚がすでに病んでいるのかもしれない.
人との関係性に押しつぶされそうなときは,まず自然との関係性を回復すべきなのかもしれない.

つづく
 

シーツの神様 (3)

犬の話に戻ろうと思ったけど,もう一つ連想したものがあるのでついでに.
それは「お散歩ベルト」のこと.
あれ,正式には何て言うんだろう?
一本のベルトの左右に電車のつり革みたいな取っ手がたくさんくっついてる道具だ.

このお散歩ベルト,一見すると何でもないのだが,実は,あのどーしようもなくアナーキーな保育園児たちを,一糸乱れぬ(は言い過ぎかな)行列にまとめて行進させる史上最強,空前絶後,天涯孤独のリーサルウェポンなのだ.
先生がベルトの端を持って歩くだけで,園児たちはそれに従ってぞろぞろと行進する.
一人としてつり革を離すやつはいない.
無理に引っ張って行列を乱すやつもいない.
周りをキョロキョロしてても,歩く方向はまっすぐだ.
保育園の運動会でその威力を目の当たりにしたときは,本当に驚いたものだ.

この行進の様子は,シーツのイメージとピッタリだぶる.
幼児たちにとって,つり革を手放すことは何らかの負の感情に繋がるのだろう.
想像するにそれは,ヒトとサルとの見分けもつかないような時代,DNAに刻み込まれた太古の記憶のせいだ.
親や群から離れることが死に直結した時代に凝縮された不安だ.
このお散歩ベルトもおそらく,シーツと同じく群=関係性の象徴なのだろう.
何のことは無い,ヒトという動物は幼少の頃から臨終まで,関係性にすがって生きているのである.
 
つづく
 

シーツの神様 (2)

なんで恥を晒してまで世界でもっとも下らない犬の喧嘩なんか持ち出したかというと,たまたま読んだ田口ランディという人の本の中にいじめの話があって,へぇなるほどと思ったときにこの犬たちのことを連想したからである.
以下はその本に書いてあった話.

その話は,「いじめとは何だろう?」という作者の問に対して,その友人が「それはシーツの皺だな」と答えるところから始まる.
それによると,人間というのは集団でシーツの端を持って歩いているようなものなのだそうだ.
ちょうど,でかい国旗を大勢で持って歩く,競技会の入場行進みたいに.(あれ,恥ずかしいよね)
家庭,学校,職場,ご近所,サークル,国家...,ありとあらゆるところにシーツは存在する.

シーツを持つこと自体はそれほど難しくはない.
しかし,人によってはつい肩に力が入りすぎたり,いい加減に持ってしまったり,他人と歩くスピードが違っていたりする.
そんなところに皺は生まれる.
そしてそれがいじめになる...という話.

先に明かしてしまうと,このシーツには "関係性" という名前がついている.

ある集団が一人の人間をいじめるとき,そこにはある暗黙のルールが存在する.
それは,いじめる側はもちろん,いじめられる側も「決してシーツを離してはいけない」というルールだ.
"シカト" 技の効き目が絶大なのはこのためだ.
いじめを公にして外部に助けを求めることは,このルールに抵触する.

聞いた話だが,ある責任感の強い親が息子が長期間いじめられてきた事実を知り,相手の家に押しかけて双方を諭し,最後に目の前で握手させて問題の解決を図ったのだそうだ.
その息子は翌日,自らの命を絶った.
このゲーム世界ではルール違反の罪は命より重い.

四六時中シーツを持って歩くことは疲れるし,実はシーツを持つことが必要かどうかなんて,本当のところ誰にもわかっちゃいない.
だからシーツを持つ人はいつも,「シーツを持たなければならない理由」を探している.
ボコボコにされてもシーツを離さない仲間を見ると安心できる.
少なくともいじめられてるヤツよりは,自分がうまくシーツを持てていると満足できる.
シーツにすがりつく自分の心を正当化できる.
こうして,シーツは次第に確固とした存在になり,やがて神のように人の上に君臨し始めるのである.
 

つづく
 
 

シーツの神様 (1)

どっこい生きてるみわファームの犬軍団4頭.
普段この4頭は敷地の中で入り乱れて生活しているが,それでも秩序らしきものはある.
わりと決まりきったパターンで毎日が過ぎていく.
しかしたま~に,そうやね年に2,3回,ぐとアニキが衝突することがある.

二人とも身体はごつくて固いので,結構な迫力だ.
以前はこっちもビビって止めに入ってたのだが,最近は少し放っておくことにしている.
見ていると双方で加減しながらやっているのか,迫力はあってもひどい傷が残ることは無い(サンのマズルが腫れてカピバラみたいになったことはあるが).
終わってしまえば後を曳くこともない...こともないけど,まぁそういうことにしときましょう.

なぜ衝突するのか,本当のところはわからない.
ただ今になって思い返せば,りん姉が逝って入れ替わりにカイがメンバーに加わったとか,お嬢さんたちに同時に春が訪れたとか,ぐにやらせていた作業をたまたまサンにやらせてみたときとか,何かしら非日常の出来事が起こったときだった気がする.
おそらく群としてのバランスみたいなものが微妙に崩れるのだろう.
ちょっとしたガス抜きみたいなものかもしれない.
この辺の機微は,さすが社会的動物というところか.

(ちなみにここまで努めて冷静に書いてきたが,実はこの2頭には結構腹を立てている.今度やったらブッ殺・・・しますよ)


つづく