March 1, 2008

シーツの神様 (4)

関係性というのは本来,よりよく生きるための手段であって,それぞれが利己的に利用すべきものだと思う.
しかし最近の空気を嗅いでいると,それ自体が目的と錯覚するくらい意識過剰になっている.
すぐKYとか言うし.
何かをするためじゃなく,関係性を保つことそれ自体に,エネルギーを注ぎ神経をすり減らしている.
人の上にシーツが君臨している...

じゃあ犬はどうだ?
犬にも多分,シーツは必要だ.
ぐびなんて未だにシーツ吸ってるし...ってこれは話が違う.
もとい.
犬だって関係性の中で生きているし,ある意味,人間よりデリケートだ.
喧嘩もあるし,空気の読めるヤツ,読めないヤツだっている.
でも,いじめやらバッシングやら引きこもりやらといった不健康な匂いはない.
意識の度合いとゆーか濃さとゆーか,そんなものが適度なバランスに保たれている感じがする.

なぜだろう?---それは多分,彼らが4本足で立っているからだ.
4つ足を踏ん張り,地面としっかり繋がっているから.
つまり,群との関係性に神経を使いながらも,身体で自然とがっつり関係しているから...だと思う.

養老孟司先生(こればっかりだな)曰く,「古今東西の自殺者の遺書には花鳥風月が書かれていない」のだそうだ.
遺書には普通,生活や人間関係への悩みと呪詛が縷々綴られるが,それ以外,特に自然への関心や眼差しはすっぽり抜け落ちている.
関係性への意識が人々を追い詰めるくらい過剰になっているとすれば,それは自然との関係性に対する意識が希薄になっていることの証でもある.
生きるか死ぬかの瀬戸際に花鳥風月は無いやろうとも思うが,まさにそれを「無いやろう」と感じてしまう私たちの感覚がすでに病んでいるのかもしれない.
人との関係性に押しつぶされそうなときは,まず自然との関係性を回復すべきなのかもしれない.

つづく
 

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