June 14, 2012

時の守り神 (7)動物の好きな子供たち

ファームに来る子供に訊ねると、2つのタイプに分かれる。
動物の好きな子供と、苦手な子供である。
割合的には前者が多い。

動物が好きと称する子供の行動は、さらに2つのスタイルに分かれる。
動物で遊ぼうとする子供と、そうでない子供である。
割合的には前者が圧倒的に多い。

彼らは、オヤツをやったり触ったり抱き上げたり、とにかく動物と何かをしようとする。それも、次から次と違うことを要求する。やることが尽きたり親御さんの目が離れたりすると、ビデオゲームに興じていたりする。

こういうとき、「君ら、本当に動物が好きなん?」と心の中で思っている。
独断かもしれないが、子供は基本的に動物が「怖い」んだと思うし、そうあって然るべきだと思う。
それが、異種生物に遭遇したときの当然の感情だし、むしろそういう感情がベースになって敬意が生まれてくるんじゃないかと思う。

動物で遊びたがるのは、裏を返せば、そうやって彼らを操ってないと不安だからではないだろうか?
でないと、奴ら何するかわからないもんね。
(じゃあ、なぜわざわざ「好き」と偽るのかというと、それは親御さんを含む大人社会が「動物と仲良く遊ぶ子供」を望んでいて、その無言の期待に応えようとするからだと思う。)

数は少ないけれど、動物が好きと言いながら、特に動物と遊ぼうとしない子供もいる。
その手の子供は、はしゃいだり動物を呼び寄せたりせず、さりげなく、でもしっかりと見ている。そのうち気がつくと、動物の近くで虫捕りに勤しんでいたりする。
そして長い時間、そうしている。

それが良いか悪いかは知らないが(そういう子供のナレノハテが、ムツゴロウ氏や千石先生やサカナくんかもしれない)、動物たちが人間に対して見せる態度と似ているのは確かである。
そうやって、身体中のセンサを開放し、相手を「感じ」ようとしているのだろう。

自然に対する態度は、そうあるべきなのかもしれない。


おわり


時の守り神 (6)脳化社会の住人

福岡伸一氏によれば、私たちは自分で思っているほど外界から独立した存在ではなく、絶えず周囲と物質を交換し続けている、分子のゆるい「淀み」であるらしい。その淀み=動的平衡が、「生きている」ということの実相に近い。

だから、自身が自然の一部であると感知することは、錯覚でも特殊な体験でもスピリチュアルでもなく、普段忘れている自分のあり方を再確認しただけ、と言うべきかもしれない。

なぜ、それだけのことが難しいのだろうか?

どうやら私たちの脳は、自身を周りの環境からできるだけ隔絶し、心身のシステムが擾乱されるのを防ごうとする性向を持っている。
その端的な証左が家を作って中に住むことだが、特に最近はその密封度を高め、消臭や除菌や防ダニ処理を施し、室内環境を維持することに躍起になっている。
街を歩く人は何かに身構えるかのように表情が硬いし、眼鏡やヘッドフォンやマスクは、不快な刺激を遮断するための鎧のようである。

そうやって身の回りを固めることで清浄と安全を確保しているのだが、それは同時に、自然が有する混沌や未知性から遠ざかることでもある。
防御モードに入ってセンサ感度を下げた状態では、自然の音楽を聴くことは難しいのではないか?
そんな気がする。


つづく
 

時の守り神 (5)治療的効果

と、せっかくここまで考えをまとめてきたのに、以下の文章に出会ってあっさりとリセットされてしまった。少し長いが引用する。

-引用ー

自然が教えてくれるものとは何か。
命の尊さとか大地の恵みとか、定型的な言い方はいくらもあるが、自然から子供が学ぶ最大のものは私見によれば「時間」である。
自然の中では雲も、風も、木も、花も、虫も・・・みな時間の中で動いている。あるものは速く、あるものはゆっくりと。だが、停止しているものは一つもない。一輪の花も一匹の虫も、自然の中では絶えず動いている。ランダムに、だが、紛れもなくある種の「天上的秩序」にしたがって動いている。
(中略)
私たちが雲を観て飽きることがないのは、それが風に流れて、形を変えて、一瞬も同じものにとどまらないにもかかわらず、それが「今まで作っていた形」と「これから作る形」の間に律動があり、旋律があり、階調があり、秩序があることを感知するからである。雲を観る人間は、空間的現象としての動きを一種の「音楽」として、つまり時間的な表象形式の中に読んでいるのである。
海の波をみつめるのも、沈む夕日をみつめるのも、嵐に揺れる竹のしなりをみつめるのも、雪が降り積むのをみつめるのも、すべてはそこにある種の「音楽」を私たちが聴き取るからである。
その「音楽」は時間の中を生きる術を知っている人間にしか聞こえない。
自然に沈潜するというのは「そういうこと」である。
(中略)
自然の中の生活は、万物を「音楽」として聴くこと、「空間を時間的に表象する」ことへと私たちを絶えず誘うのである。
私が先に「場の力」と呼んだのはそのような誘惑のことである。
それは「今、ここにいる他ならぬこの私」の把持しうる領野を超えて、世界が未知へと拡がっていることを、そして、私自身がこの未知性の拡がりによって賦活されていることを思い出させてくれる。

-引用終わり-(内田樹「態度が悪くてすみません」より)

うんうんと頷きながら読んできて、最後の1文でのけぞってしまった。
なるほど!
考えてみれば、大のオトナが元気になろうってんだから、ただ束縛から逃れるだけじゃなく、そんな積極的な作用が必要かもしれない。

それにしても、「未知性の拡がりに賦活されている」って、言い得て妙だと思いませんか。

自然というのは、宇宙的視野では閉じた生態系かもしれないが、そこに暮らす者にとっては十二分に広大かつ複雑であって、あらゆる可能性を秘めた開放系である。
そこで展開されている壮大な運動に、紛れもなく自分も参加しているということが感知できれば、少なくとも、自分の暮らす世俗社会を客観視し相対化したことになる。
これは、古来から宗教や心理療法が目指してきた、治療的技法の一つでもある。
自然の天上的秩序を「美しい」と感じ、それによって癒されたり元気になるというのも、十分頷けるのである。


つづく
 

時の守り神 (4)時間は遍在する

自然界では、それを構成する一切合切が固有のリズムを持っている。
数分で世代交代する菌もあれば、樹齢数千年の木もある。流れる水は一瞬も留まらないが、川の流れは悠久である。

たぶん時間というのは、万物を律する基軸として厳然としてあるのではなく、それぞれのモノに付随した固有のものとして存在する。。。これは科学的ではないけども、少なくとも自然界で暮らす私たちは、そう捉えた方が「自然」ではないだろうか?

それぞれ固有の時間だからして、他者にはどうすることもできない。
ジタバタせず、相手の時間を尊重し、せいぜい寄り添うしかない。
ちょうど、アサガオの種を植えた鉢植えに「早く芽が出ますように」と手を合わせるように。

みつめることで対象のリズムに共振し、それによって強迫的な時間の呪縛から逃れる・・・熱帯魚を鑑賞するということ、あるいは動物や自然を見るということは、そういうことではないだろうか?


つづく
 

時の守り神 (3)時間に追われる

友人の言った「時間を忘れる」というのは、夢中になることの修辞的な表現だが、もしかしたら彼は文字通り「時間」を忘れたんじゃないか、と考えている。
ただし、そんじゃそこらの時間ではなく、私たちが現代生活の中で否応なく意識させられているところの「時間」という意味で。

本来、時間というのはどうすることもできないものだが、私たちの意識の中では少し違う。
私たちは往々にして、時間を実体のあるモノのように、もっと言えば消費の対象のように捉えている。(その理由を遡れば、たぶん時間を数字で表象したことに、さらには時間を時間と名付けたことにまで行き着く)
だから、私たちは「時間」を使ったり節約したり稼いだり割いたり、あるいはムダにしたり捨てたりできるのであり、つまりは努力と心がけ次第でコントロールできるものと錯覚している。
そして現代の飽くなき効率化圧力の下で、時間と競い、格闘し、挙句の果てに「追われる」羽目に陥ったりする。

友人が水槽に見入って忘れたのは、この種の「時間」感覚のことだと思う。


つづく
 

時の守り神 (2)時間を忘れる

どちらかというと、自分は「動物好き」に分類される人間だと思う。
子供のころからずっと、犬猫と暮らしたいと思っていたし、事情が許す限りそうしてきた。
事情が許さなくても、無理して猫を飼ったくらいである。夫婦そろってアパートを叩き出されたが。

今現在もたくさんの動物たちと暮らしている。
それで何をしたいのか?と問われたら、自分でもよくわからない。あえて言えば、日々を過ごす動物たちを眺めることが好きなのである。

近くに住む知合いは、実生活でうまく行かないこと(夫婦喧嘩とか!)があると、わざわざファームまでやって来る。
それで何をするでもない。一人でぼぉ~~~っと馬を見ている。
やがて、納得すると帰っていく。
おいおい勝手に来て勝手に帰んなよ、と思うが、気持ちはわかる気がする。
それだけで、ちょっぴり元気になれるんだよね。

ただ、動物と言ってもハムスターや小鳥は飼ったことがないし、爬虫類や昆虫も、できれば一つ屋根の下で寝起きするのは避けたい方である。
観葉植物を室内に置いたり、観賞魚を飼うという趣味も、長い間理解できなかった。
手間もお金もかかるのに、あんな反応の無いものと暮らして、一体何がうれしいのか?

ところが先日、ある友人からおもしろい話を聞いた。
彼は自分で会社を切り盛りするメチャクチャ忙しい人物だが、一時期、大層な水槽を買いこんで熱帯魚を飼育していたらしい。

「で、何が良いわけ?」
「よくわからん、、、けどハマるんだよ」
「まさか、世話すると懐くとか、話ができるようになるとか、恩返ししてくれるとか言うなよな」
「そーじゃない。ただ見てるだけだ」
「見ておもしろいのか?」
「別に。ただ不思議なことに、みつめだすとそのまま1時間でも2時間でも見てられるんだ」
「へぇ」
「ほんとに、時間を忘れるんや」
「・・・」
「ま、いいから騙されたと思って飼ってみ」

騙されるのはヤだから飼わないけど、その感じは理解できる気がした。
もしかしてそれって、自分が動物を眺めていたいのと同じじゃないだろうか?さらには海や山や空に見入ることにも通じるのでは、と。

私たちはどうやら、動物や自然を見つめることで何かしらの恩恵を受けているらしい。
そしてそのキーワードは、たぶん「時間」である。


つづく
 

時の守り神 (1)自然は美しい?

若いころ、その甘美な響きに惹かれて何度か「心理学」の講義を受けた。
心理を科学するのであるからして、ヒトの心なんぞ手に取るようにわかるようになるに違いない・・・という稚拙な期待は早々に打ち砕かれ、膨大な蓄積の前にただ立ち尽くすだけであった。

一口に心理学といっても、その守備範囲はやたらと広い。
知覚、認知、情動、言語、行動などがそれぞれ個別の領域として成立してるし、生理学や脳科学に近いものから、精神分析や哲学に近いものまである。幼児と児童と成人と高齢者ではまた違う。自然科学でもあり人文科学でもある。それらをまた、基礎、実験、応用(臨床)と括ったりするもんだから、もう訳がわからない。

ということで、その学問領域と研究者に畏敬の念を抱いたわけだけども、その一方で、厚顔無恥だった学生が「何やってんだ、お前らは」と心の中で毒づいたことも告白しておく。狭い専門分野に閉じこもって何をチマチマ研究してやがるんだ!?と。

例えば錯視現象などは隅から隅まで研究されていて、そのメカニズムを鮮やかに説明してくれる。でも、そんな特殊ケースをいくら積み上げでも、普通に見たり聞いたりするものの印象はどう形成されるか、なんてことは皆目わからない。
なぜ絵画や音楽が心地よく、落書きや騒音はそうではないのか、とか。
「異常」な知覚は、普通と違うポイントを指摘すれば事足りるが、普通の知覚は視覚システム全体を説明しないといけないから、、、かもしれない。

中でも、子供のころからずっと頭にあったのが「自然に対する印象」というテーマ。
私たち人間は海や山や空を見ると「美しい」と感じ、救われたり癒されたり元気になったりするけれど、それって一体なぜ?という疑問である。
残念ながら、壮大な学問体系である「心理学」は何も答えてくれなかった(自分が知らないだけかもしれないが)。
我ながら青臭い疑問だと思うが、今でも引きずっている。たぶんこのまま棺桶まで持っていくんだろう。


つづく