September 20, 2006

キャッチボール

考えてみればキャッチボールは不思議な遊びだ.
2人で向き合って,一人がボールを投げ一人が受ける.
あとはそれを延々と繰り返すだけ.
これのどこがおもしろいのと問われれば答えに窮するが,この歳になるまでもう何千回何万回もやっただろうに,いまだに飽きるということがない.
はじけるような喜びや達成感は無いけれど,シミジミとおもしろい.

小さかった頃の遊びを訊ねられて, 「お父さんとのキャッチボール」 と答える人は多い.
実際には色んな遊びをしたろうから,キャッチボールが特に記憶に残りやすい遊びだとも言える.
ボールを投げてキャッチするという単純な行為に,どこか心の琴線に触れるものがあるのかもしれない.

文化人類学とやらの世界では 「人間社会を基礎づけているのは "交換" に対する欲望である」 という有力な説があるらしい.
つまり,物や言葉や家族などを交換したいという欲求が社会や文化を築く礎になった...というよりもうちょっと過激に,そもそも社会や文化はそれらの交換をするために築かれた,というのがその主張である.
その正否はともかく,人間が "交換" が好きで好きでたまらない動物であるのは確かなようである.

そこで思った.
キャッチボールに妙な魅力があるのは,それが交換を擬した遊びだからではないだろうか.
自分の投げたボールが相手に渡り,それがまた自分の元に返ってくる.
返ってくるボールには,相手によって何らかの意味(コースとかスピードとか回転とか)が付与されている...
おそらく私たちは,投げたり受けたりの身体運動の快感のほかに,「相手とボールをやり取りしている」 ことに,何やら奥深い満足を感じているのだろう.
我ながら変な動物だ.

犬はどうだろ?

そういえば,私の知っている犬たちはほとんど例外なくボール遊びが好きだ.
最近までこれは,動くものに対する追っかけ衝動の発露,つまり逃げていくボールを獲物に見立てた一種の 「狩りごっこ」 だろうと思っていた(猫が猫じゃらしに夢中になるように).
でもキャッチボールを上のように考えると,それだけじゃない気がしてくる.

レトリーブ遊びをせがむ犬たちを見ていると,一番集中して楽しげな時,つまり期待が膨らんで 「もう,たまらん~っ!」 状態になるのは,人間がボールを拾い上げてから投げるまでである.
つまり彼らは,この短い時間の人間とのやりとりに夢中になってるんじゃないだろうか.
ボールを追っかけたり,キャッチしたり,人間の元に運んできたりするのは,むしろそのおまけという感じがする.

そう言えば,彼らをもっと喜ばせる遊び方がある.
それは犬がボールを咥えたときに,そのボールが欲しい~!とこちらから追いかけてやるのである.
ときどきはゆ~っくりと近寄って,犬が警戒しだしたらババッと駆け寄ったりして.
これは効く.
犬はすぐに,キャーキャー言いながら得意満面で逃げ回るようになる.
たぶん,この遊びの方が相手とのやりとり(駆け引き)がずっと濃厚だからだろう.
まぁ,やつらをイイ気にさせるとロクなことがないので,そんな遊びはしない方がよいのだけれど.

そんなこんなを考え合わせると,彼らがレトリーブ遊びに夢中になるのは,狩りごっこというよりはむしろ,「ボールを介した人とのやりとり」 が楽しいからではないかと思える.

もしかしたら犬も, "交換" に対する欲求を持っていて,それを人間と交わすことに無上の喜びを見出す動物なのかもしれない.
人間も変なら犬も変である.

ところでキャッチボールは"キャッチ"ボールであって,なぜ"スロゥ"ボールとか"ピッチ"ボールとは言わないのだろうか?(あちらでも"play catch"と表現するらしい)

「ボールを投げる」 局面では,動作を起こすのもコントロールするのも自分である.
主体的ではあるけど単純と言えば単純だ.
しかし 「ボールを受ける」 ためには,相手の投げたボールを見てスピードや軌跡を判断しながら自分の運動を制御しなければいけない.
つまり,ボールに反映された相手の意思や行動を受容することがまず要求されるのである.
そこに技術的にも心理的にもより滋味深いものがある...なんてことが, "キャッチ" ボールという名前に込められてるのではないだろうか.

あ,なんか無理やり "良い話" にしようとしている...
やめとこ.