November 29, 2011

エコ的なことについて

こんな辺ぴな田舎でも、ゴミ収集のルールは街とほとんど同じで、しかもきっちりと運営されている。(この辺が日本という国のすごいところだと思う)
燃やすゴミ、ビニール・プラスティック、ペットボトル、缶、燃やさないゴミに分別し、決まった収集日に決まった場所に出す。新聞・雑誌は、「リサイクル大作戦」という小学校のイベントがあって児童父兄が集めに来るので、束ねて保管しておく。
街と少し違うのは、昔懐かしい「ガラクタ屋さん」が回ってくること。付近をトラックで流しているおっちゃんを呼び止め、金属や粗大ゴミを引き取ってもらう。日常的に農業資材や建築材料の余りなどが出るので、結構重宝している。
ゴミセンターに持ち込んで有料で処理してもらうという最後の手段もあるから、これらを利用すれば、日常生活のゴミは不便なく処理できる。

それでも、ファームではできるだけゴミを出さないようにしている。別にエコとかロハスとか気負っているつもりはなく、なんとなく、、、である。
生ゴミ類は、鳥たち(にわとりとカモ)に活躍願っている。
にわとりの顔をじっくり見ると、その造形がまさに恐竜の末裔という感じだが、彼らの食生態も顔と同じくらいワイルドである。野菜、草、穀物、肉、虫など、およそ口に入るものは何でも消化してしまう。何も見当たらないときは、雑草や土をせっせとついばんでいる。彼らには満腹という感覚が無く、エサがあるかぎり食べ続けるんだそうである。
ファームでは、豆腐屋からもらったオカラと、近所の自動精米機で集めた米ぬかを混ぜて飼料にしているが、生ゴミや食事の余りが出れば、そのまま鳥エリアに放り込んでいる。20羽余りの鳥たちがワァッと集まったかと思うと、すぐに影も形も無くなる。羊や馬はわりとすぐに腹を壊すので、飼料の状態にはそれなりに気を配っているが、鳥の場合は、腐ろうがカビだらけだろうが、まるで平気である。
あの滋味深い卵が産まれるのは、その悪食ゆえかもしれない。

そんな鳥も、土には叶わない。
ファーム暮らしをしていると、土というのはつくづく偉大だと思う。生ゴミはもちろん、油、塗料、糞尿など、ありとあらゆる有機物を分解してしまう。条例違反かもしれないが、家畜や鳥にもやれない廃棄物は、使っていない畑に撒いてしまうことにしている。直後はちょっと汚い感じもするが、あっというまに「無かったこと」にしてくれる。ある研究によると、ヒトの足跡大の地下に生息する虫や微生物は3兆を超えるらしい。この浄化能力を利用しない手はない。
本当だったら人間の糞尿も土に撒くべきだろうが、さすがに躊躇われる。汚水は合併浄化槽で処理するので、結局は微生物の力で分解しているのだが、食べたものを直接的に土に還元しないというのは、どこかバランスを欠いている気もする。

小さな畑で使う肥料は、自家製の堆肥で賄っている。
馬を飼っているので、放っておいても、一輪車に半分くらいの馬糞が日々出るが、こいつは積み上げておくだけで、格好の堆肥になる。牛や羊などの偶蹄目と違って、馬は反芻をしないので、排泄物(ギョーカイ用語で「ボロ」という)に未消化の繊維質が大量に残っていて、堆肥の材料として最適なのだ。本来は定期的にかき混ぜたりして、それなりの手間をかけなければいけないのだが、面倒臭いので放ったらかしである。それでも、冬場には湯気が上がるくらい盛んに発酵して、排泄物としての匂いや不潔感はほんの数日で消える。そのうち、カブトムシやクワガタの幼虫が巣食いだし、分解が加速する(ちなみに、その幼虫を鳥たちに投げてやると争うようにして食べる)。彼らのフンは、もう良質の土そのものに見える。そうやって半年から一年寝かしておいたやつを畑に鋤きこむのである。
化学肥料のような即効性は無いので、最初の1~2年は失敗が多かったが、最近は土が柔らかく黒っぽくなってきて、野菜が威勢よく育つようになってきた。実は農作業は苦手というか、どこか億劫なのだが、「土を作る」ことだけは結構楽しい。ほんの少しだけど。

紙やビニールは、庭で焼却している。地面の上で火を焚くことは禁止されているので、廃家に残っていた古い五右衛門風呂の釜の中で、月に2~3回燃やしている。最初はビニール類を除いていたが、最近は、面倒臭いので(こればっかり)一緒に燃やしてしまう。何でもないことのようだが、これも郊外だからできることで、煙を出したくらいでは、隣近所から苦情が来ることは無い。

そんなこんなで、ゴミ収集に出すのは、せいぜいビン/缶、ペットボトルくらいである。
だからといって、この生活が「地球に優しい」などと悦に入ってるわけではない。相変わらず、電気を使い、水道をじゃぶじゃぶ使い、車を乗り回して、地球のリソースをせっせと費消しながら暮らしている。本気で環境を憂えるなら、経済活動を大幅に縮小して、少なくとも大正や昭和初期の暮らしに戻るべきだと思うが、まぁできそうもない。

そういえば、2008年のブログに以下のようなことを書いた。
世に言われる"エコ"的なことって、ほとんど自己満足の世界だと思うのだが、自分の文章を読み返してみても、そんな気分に浸っていたことがよくわかる。


そう言えば,みわファームに居を構え,庭や畑を放浪するニワトリの卵を始めて食べたとき,「あれ?」と思った.

ファームでは生ごみを畑に捨てるのだが,それらは虫に食われたり,腐って草や野菜の栄養になったりする.
ニワトリたちはその土や虫や草や野菜を啄ばんで卵を産む.
そしてその卵を人が食らう.

頭ではわかっていたつもりの命の連鎖が,こんなにも眼の前で,こんなにも小さなループで,こんなにもあっけなく実現しているのを見て,他愛なく感動してしまったのである.
それを自然と呼ぶなら,自分はそれ以上でも以下でもない,身体のありとあらゆる成分を周りの環境と交換しながら生きていると言うことを,あっさりと見せられてしまったのである.
逆に言えば,街暮らしだった頃には,そんな当たり前の感覚すら失くしてしまっていたことに気づかされたのである.

ミ ナ サ ン  コ レ ハ タ イ ヘ ン ナ コ ト デ ハ  ナ イ デ ス カ ?

そんな風な気持ちだった.
 
 

June 7, 2011

アジールとしてのファーム(5) -開放農場へ-

正直、生活の糧を得るわけでもなく、家畜や何頭もの犬を養うなんてことは、道楽以外の何物でもない。
牧場といったって、生産のためには広さも動物の数も不十分だし、観光のための設備も無い。
そんな中途半端な牧場に、物好き以外にどんな意味があるんだろうか?

少なくとも自分の場合、週末をファームで過ごすことで、街やオフィスにある壁を、半歩下がって眺めることができた。
つまり、街からさほど離れていないちっぽけなファームを、個人的なアジール(=逃れの地、避難場所)として使っていたわけである。
おかげで、この8年間を楽しく過ごすことができた。今、そういう体験をもっと多くの方と共有できないかと考えている。

ただ、そういう体験って、どう言えばいいんでしょうね?

「自然を満喫」とか「動物との触れあい」なんて言うと、通りは良いのだけれど、ファームは決して「手付かずの自然」なんかじゃない(だからこそ、ホッとできると思ってるけど)。動物たちにはあまり触れあわずに、できるだけ放ったらかしにしておきたいと思っている。

でないと、彼らの生活リズムを乱してしまうからね。
それでも、お茶でもしながらそんな空間に浸っているだけで、結構贅沢な気持ちになれるのである。
そんな体験。。。

まぁこういうことをあまりムキになって考えてもロクなことはない。
周りの方のお知恵も拝借しながらゆるゆる考えていけば、そのうちまとまるだろうとタカを括っている。
世の中なめてますよね。


おわり
 

アジールとしてのファーム(4) -異なる時間-

では、壁の成長を食い止めるには、どうすればいいのだろう?
その一つは、単純だが、壁以外のものに目を向けることだと思う。

前にも書いたけれど、養老孟司さんの卓見に「古今東西の自殺者の遺書には、花鳥風月が書かれていない」というのがある。健康や人間関係や恋愛や職業や経済問題など、人の悩みは千差万別だが、共通するのは、自然に対する眼差しが欠けていることだという。
なるほど。
それが、壁の重圧に苦しむ心的状態であるなら、逆に、ムリにでも自然に目を向けることによって、その状態を脱却できるかもしれない。

ウツな状態から回復した人には、それまでモノトーンの世界に生きていたかのように、自然の色彩の鮮やかさに感動した経験を持つ人が多い(自分にも、草の葉に溜まった露に感動して、わけもなく涙が流れた経験がある)。まぁそこまで劇的にいかなくても、自然に眼差しを向けることで、気分が変わることはよくある。

ファームでの暮らしを始めて間もないとき、農家の方からおもしろい話を聞いた。
「水田農家は、毎年、営々と田植えと収穫を繰り返してるように見えるが、それも、高々20回くらいのもの」なんだそうだ。
つまり、20歳から働き始めて60歳まで働くとして、現役時代が40年。そのうち20年は親を手伝うとしたら、自分でやりたいようにやれるのは大体20年だ。そして何か新しいことを試しても、その結果は1年経たないと(収穫してみないと)わからない。
そういう世界である。
だから「焦ってもダメ」なんだと。

考えてみれば当たり前の話だが、仕事の関係で「時間に追われていた」自分には、とても新鮮に聞こえた。
人間のやることは、やりようによってはいくらでも「前倒し」したり「加速」したり「効率化」することが可能だ。
しかし、自然相手だとそうはいかない。
変化を起こすには、それなりの時間をかける必要がある。

それ以来、ファームにいるときは街やオフィスとは違う時間が流れているように感じたし(もちろん錯覚だけど)、それだけで、色んなことから救われた気がする。

効率化は人間の活動にはどうしても必要だ。全然「悪い」ことじゃない。
しかし、そればかりに没頭すると、いつのまにか時間の感覚が歪み、息苦しい壁が形成されてしまうこともある。
ときにはそこから半歩下がって、壁を斜に見て相対化することが、人には必要なのだろう。

日がな一日草を食み、ときに日溜りに寝転がる動物たちを見ていると、それができる気がした。
自分にとって、ファームで過ごすということには、そういう意味があった。
 
つづく
 
 

アジールとしてのファーム(3) -時間という壁-

壁の代表的な例として「時間」がある。
個人的な話で恐縮だが、実は自分もこの時間という壁に弱い。
標準語で言えば"いらち"と言うんだろうか? 物事がスケジュール通り進まないと、すぐドキドキしてしまう。

約束の時間に相手が来なかったりすると、表面は平静を装いつつ、相手を呪ったり予定を疑ったり、心の中は千々に乱れている。
仕事の打合せなんか、大抵5分前には着席している。たまに遅れることがあっても、それは「この打合せなんか、それほど重要視してないかんね」というポーズであって、緻密に計算された演出なのである。(誰もそんなこと気にしてないのにね)

逆に予定を立てるときは、(後で焦るのが嫌なので)必要以上に多く時間を見積もってしまう。
例えばある所に行くのに、電車を1回乗り継ぐとする。A路線で15分、B路線で20分かかるとすると、それぞれ余裕をかまして20分+30分=50分と計算する。そこから出発時間を決めるときに、「まあざっくり1時間だから、12時に家を出ればいいわな」と、ここでもゲタを履かせてしまう。で、実際にその日になると11時半くらいにはそわそわしてきて、家を出てしまうので、おそろしく早く目的地に着いてしまうことになる。
その余った時間をどうするかというと、ぼーっとしながら無為につぶしているのである。
人からすればアホらしく感じるだろうが(自分で書いててもアホらしい)、たぶん、その方が時間に焦ってイライラするよりましなのだ。

時間が足りないのに、試験の解答用紙が真っ白だとか、急に別の用事が割り込んでくるとか、行き先表示がうまく読めずに逆方向の電車に乗ってしまうとか、指が膨れて靴紐がうまくほどけないとか、そんな夢をよく見る。夢の中では「おしっこチビリそー」という古典的な表現がぴったりな気持ちで、実際、こんなところに書けないくらい恥ずかしい事態に陥ってしまったこともある。

まぁ、わかりやすい性格ですね。
時間というものに強迫観念があるんでしょう。

世間ではよく「時間に追われる」という言い回しを使う。
実際に時間が人を追いかけるわけはないから、これは、正確な表現とはいえない。「時間内にやるべきことが多すぎる」とでも言うべきか。それでも「追われる」という表現は、ある種の心的状態を表すのにドンピシャである。
それにちょっと落ち着いて考えると、「やるべきこと」もそれほどじゃないことが多々ある。であるなら、これはもう思い込みや幻想と言っていい。

ただ「幻想なんだから、そんなもの無視すりゃいーじゃん」と軽々には言えないところが、幻想のやっかいなところである。
幻想によって人は生きも死にもするし、社会を動かしもする。
そして幻想によって、ときに耐え難いまでに高く堅固になることが、壁のやっかいなところである。

つづく
 
 

アジールとしてのファーム(2) -壁と卵-

作家の村上春樹氏は、エルサレムで行われた文学賞の授賞式で、「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立つ」という、印象的なスピーチをした。
生き難さを考えるとき、この文学者的直感から生まれた暗喩は示唆に富んでいる。
「卵」とは人間のことだ。では、人間がぶつかって壊れる「壁」とは何だろう?
村上氏自身の説明によると、それは人が作り出す「システム」である。

(引用)
 この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
 
 しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。

そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。

(引用終わり)

「システムが自己増殖し、人間を組織的に殺し始める」なんていうと、何やらターミネーターやマトリックスの世界を思い浮かべるが、ここではもっと身近で、かつ原理的なことを指しているのだろう。個人的には、この「システム」は「人が考え出したありとあらゆる物や制度」だと捉えたい(内田樹氏はもっとラディカルに「システム=言葉」と読み解いた。さすが!)。
正しかろうが間違いだろうが、善意だろうが悪意だろうが、およそ人が人のために考え出した物や規則は、それがシステム化された途端に、壁を構成するブロックとなる。やがてその壁は「自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始める」のである。

例えば「犬をリードで繋ぐ」ことは、もともと、人と犬が共生するための心配りだが、一旦それが常識や良識やマナーとして登録されると、人の行動を制約するシステム=壁となる。それが良いか悪いか、あるいは正しいか間違いかを議論することはできるが、壁自体を無くすことはできない。
システムを構築するために力を尽くし、できたシステムは行使せずにはおられないのが、人間という生き物だからである。

人が生きるところに社会が存在し、社会ある限り壁が存在する。
しかも現代社会において壁は、ますます堅固に、精緻になりつつある。(それが「進歩」と見なされているから)

そしてほとんど全ての自殺者には、多かれ少なかれ、この壁の重圧に絶望した瞬間があると思うのだ。
 
つづく
 
 

アジールとしてのファーム(1) -重たい話から-

ファームを拓いて7年が過ぎた。動物たちとの暮らしを自分たちなりに試行錯誤してきた。いろいろと凸凹はあったけれど、総じてみればプラスの面が多かったと思う。
どうするという当ても無く、ただ「犬と暮らす」ために作ったちっぽけな牧場だが、それはそれで意味があるんじゃないかと思えるようになってきた。そんなことを改めて考えてみる。


いきなり重たい話になるが、日本の自殺者数は年間3万人だそうだ。
ネットで調べると、人口10万人当たり25.8人で、これはWHOの調査対象104カ国中の5位。いわゆる先進諸国の中では堂々のトップを走る。1998年以降13年連続で3万人を超えており、今も増加傾向にある。
これって何なんだろう?

何だかんだ言って、日本は悪くない国だと思う。
深刻な飢餓は無いし、義務教育はほぼ100%だし、医療費は抑制されてるし、凶悪犯罪は少ないし、貧富の差が拡大してるといってもアラブ諸国や米国や中国やロシアの比じゃないし、表現は自由だし、食料買うのに行列しなくてもいいし、識字率は99.8%だし、プロ野球もJリーグも大相撲も盛んだし、テロは無いし、電車もバスも時間に正確だし、酷寒でも酷暑でもないし、国歌に起立しなくても強制収容所に送られないし、それに何より、60年以上に渡ってただの1人の戦死者を出していないし。
そりゃあ課題も山積みだが、人々がかくあるべしと作り上げてきた国としては、かなり良い線行っていると思う。

なのに、3万人。
正直、今まではこの数字を見聞きしても、それが多いのか少ないのか、どうもピンと来なくてスルーしていたのだが、今回の震災で死者&行方不明者が2万4千と聞いたとき、初めて「うっ、、、」という気持ちになった。
震災の場合はほんの数日間の被害者数とはいえ、500年あるいは1000年に一度とも言われている大災害だ。それに匹敵する数の人が、毎年毎年、自ら命を絶っている(しかもその背後には、10倍とも20倍とも言われる未遂者がいる)。これは大変なことかもしれない。
いくら豊かで安全であっても、「生きやすい」とは限らない、ということ。人間は難しい。

この事実は、世界に向けてもっと声高にアナウンスされてもいい。
と同時に、政治の貧困や企業の横暴などを「悪者」に仕立て安直に原因を求めるのは、ことこの問題に関しては自重すべきだと思う(実際、日本は「悪くない国」なんだし)。
たとえ居心地が悪くても、誰もが、自分自身の問題として考えるべきだと思う。

つづく