では、壁の成長を食い止めるには、どうすればいいのだろう?
その一つは、単純だが、壁以外のものに目を向けることだと思う。
前にも書いたけれど、養老孟司さんの卓見に「古今東西の自殺者の遺書には、花鳥風月が書かれていない」というのがある。健康や人間関係や恋愛や職業や経済問題など、人の悩みは千差万別だが、共通するのは、自然に対する眼差しが欠けていることだという。
なるほど。
それが、壁の重圧に苦しむ心的状態であるなら、逆に、ムリにでも自然に目を向けることによって、その状態を脱却できるかもしれない。
ウツな状態から回復した人には、それまでモノトーンの世界に生きていたかのように、自然の色彩の鮮やかさに感動した経験を持つ人が多い(自分にも、草の葉に溜まった露に感動して、わけもなく涙が流れた経験がある)。まぁそこまで劇的にいかなくても、自然に眼差しを向けることで、気分が変わることはよくある。
ファームでの暮らしを始めて間もないとき、農家の方からおもしろい話を聞いた。
「水田農家は、毎年、営々と田植えと収穫を繰り返してるように見えるが、それも、高々20回くらいのもの」なんだそうだ。
つまり、20歳から働き始めて60歳まで働くとして、現役時代が40年。そのうち20年は親を手伝うとしたら、自分でやりたいようにやれるのは大体20年だ。そして何か新しいことを試しても、その結果は1年経たないと(収穫してみないと)わからない。
そういう世界である。
だから「焦ってもダメ」なんだと。
考えてみれば当たり前の話だが、仕事の関係で「時間に追われていた」自分には、とても新鮮に聞こえた。
人間のやることは、やりようによってはいくらでも「前倒し」したり「加速」したり「効率化」することが可能だ。
しかし、自然相手だとそうはいかない。
変化を起こすには、それなりの時間をかける必要がある。
それ以来、ファームにいるときは街やオフィスとは違う時間が流れているように感じたし(もちろん錯覚だけど)、それだけで、色んなことから救われた気がする。
効率化は人間の活動にはどうしても必要だ。全然「悪い」ことじゃない。
しかし、そればかりに没頭すると、いつのまにか時間の感覚が歪み、息苦しい壁が形成されてしまうこともある。
ときにはそこから半歩下がって、壁を斜に見て相対化することが、人には必要なのだろう。
日がな一日草を食み、ときに日溜りに寝転がる動物たちを見ていると、それができる気がした。
自分にとって、ファームで過ごすということには、そういう意味があった。
つづく
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