June 7, 2011

アジールとしてのファーム(3) -時間という壁-

壁の代表的な例として「時間」がある。
個人的な話で恐縮だが、実は自分もこの時間という壁に弱い。
標準語で言えば"いらち"と言うんだろうか? 物事がスケジュール通り進まないと、すぐドキドキしてしまう。

約束の時間に相手が来なかったりすると、表面は平静を装いつつ、相手を呪ったり予定を疑ったり、心の中は千々に乱れている。
仕事の打合せなんか、大抵5分前には着席している。たまに遅れることがあっても、それは「この打合せなんか、それほど重要視してないかんね」というポーズであって、緻密に計算された演出なのである。(誰もそんなこと気にしてないのにね)

逆に予定を立てるときは、(後で焦るのが嫌なので)必要以上に多く時間を見積もってしまう。
例えばある所に行くのに、電車を1回乗り継ぐとする。A路線で15分、B路線で20分かかるとすると、それぞれ余裕をかまして20分+30分=50分と計算する。そこから出発時間を決めるときに、「まあざっくり1時間だから、12時に家を出ればいいわな」と、ここでもゲタを履かせてしまう。で、実際にその日になると11時半くらいにはそわそわしてきて、家を出てしまうので、おそろしく早く目的地に着いてしまうことになる。
その余った時間をどうするかというと、ぼーっとしながら無為につぶしているのである。
人からすればアホらしく感じるだろうが(自分で書いててもアホらしい)、たぶん、その方が時間に焦ってイライラするよりましなのだ。

時間が足りないのに、試験の解答用紙が真っ白だとか、急に別の用事が割り込んでくるとか、行き先表示がうまく読めずに逆方向の電車に乗ってしまうとか、指が膨れて靴紐がうまくほどけないとか、そんな夢をよく見る。夢の中では「おしっこチビリそー」という古典的な表現がぴったりな気持ちで、実際、こんなところに書けないくらい恥ずかしい事態に陥ってしまったこともある。

まぁ、わかりやすい性格ですね。
時間というものに強迫観念があるんでしょう。

世間ではよく「時間に追われる」という言い回しを使う。
実際に時間が人を追いかけるわけはないから、これは、正確な表現とはいえない。「時間内にやるべきことが多すぎる」とでも言うべきか。それでも「追われる」という表現は、ある種の心的状態を表すのにドンピシャである。
それにちょっと落ち着いて考えると、「やるべきこと」もそれほどじゃないことが多々ある。であるなら、これはもう思い込みや幻想と言っていい。

ただ「幻想なんだから、そんなもの無視すりゃいーじゃん」と軽々には言えないところが、幻想のやっかいなところである。
幻想によって人は生きも死にもするし、社会を動かしもする。
そして幻想によって、ときに耐え難いまでに高く堅固になることが、壁のやっかいなところである。

つづく
 
 

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