March 1, 2008

シーツの神様 (5)

そう言えば,みわファームに居を構え,庭や畑を放浪するニワトリの卵を始めて食べたとき,「あんれま!」と思った.

ファームでは生ごみを畑に捨てるのだが,それらは虫に食われたり,腐って草や野菜の栄養となったりする.
ニワトリたちはその土や虫や草や野菜を啄ばんで卵を産む.
そしてその卵を人が食らう.

頭ではわかっていたつもりの命の連鎖が,こんなにも眼の前で,こんなにも小さなループで,こんなにもあっけなく実現しているのを見て,感動してしまったのである.
それらを自然と呼ぶなら,まさしく自分は自然そのものだということ,身体のありとあらゆる物を周りの環境と交換しながら生きていると言うことを,あっさりと見せられてしまったのである.
逆に言えば,街暮らしだった頃には,そんな当たり前の感覚すら失くしてしまっていたことに気づかされたのである.

ミ ナ サ ン  コ レ ハ タ イ ヘ ン ナ コ ト デ ハ  ナ イ デ ス カ ?

そんな風な気持ちだった.

人である以上,人との関係性を大切にし思い悩むのは,誠実でまっとうなことだ.
しかしそれはあくまで脳で考えること.(だけじゃないとも思うけど)
そうである以上,身体の抑制を超えてバランスを失う危険といつも隣合わせだ.

人の群生活にはウン百万年もの歴史がある.
シーツを手放せなくさせるのはその重みだろう.

しかし,そうは言っても高々ウン百万年なのである.
人のDNAには,36億年を生き延びてきたしたたかな命の記憶が刻まれているはずだ.
私たちはそこにもっと敬意を払うべきだと思う.
...って,こーゆーことを頭で考えてるから "ダメ" なんだろうけど.


おわり

シーツの神様 (4)

関係性というのは本来,よりよく生きるための手段であって,それぞれが利己的に利用すべきものだと思う.
しかし最近の空気を嗅いでいると,それ自体が目的と錯覚するくらい意識過剰になっている.
すぐKYとか言うし.
何かをするためじゃなく,関係性を保つことそれ自体に,エネルギーを注ぎ神経をすり減らしている.
人の上にシーツが君臨している...

じゃあ犬はどうだ?
犬にも多分,シーツは必要だ.
ぐびなんて未だにシーツ吸ってるし...ってこれは話が違う.
もとい.
犬だって関係性の中で生きているし,ある意味,人間よりデリケートだ.
喧嘩もあるし,空気の読めるヤツ,読めないヤツだっている.
でも,いじめやらバッシングやら引きこもりやらといった不健康な匂いはない.
意識の度合いとゆーか濃さとゆーか,そんなものが適度なバランスに保たれている感じがする.

なぜだろう?---それは多分,彼らが4本足で立っているからだ.
4つ足を踏ん張り,地面としっかり繋がっているから.
つまり,群との関係性に神経を使いながらも,身体で自然とがっつり関係しているから...だと思う.

養老孟司先生(こればっかりだな)曰く,「古今東西の自殺者の遺書には花鳥風月が書かれていない」のだそうだ.
遺書には普通,生活や人間関係への悩みと呪詛が縷々綴られるが,それ以外,特に自然への関心や眼差しはすっぽり抜け落ちている.
関係性への意識が人々を追い詰めるくらい過剰になっているとすれば,それは自然との関係性に対する意識が希薄になっていることの証でもある.
生きるか死ぬかの瀬戸際に花鳥風月は無いやろうとも思うが,まさにそれを「無いやろう」と感じてしまう私たちの感覚がすでに病んでいるのかもしれない.
人との関係性に押しつぶされそうなときは,まず自然との関係性を回復すべきなのかもしれない.

つづく
 

シーツの神様 (3)

犬の話に戻ろうと思ったけど,もう一つ連想したものがあるのでついでに.
それは「お散歩ベルト」のこと.
あれ,正式には何て言うんだろう?
一本のベルトの左右に電車のつり革みたいな取っ手がたくさんくっついてる道具だ.

このお散歩ベルト,一見すると何でもないのだが,実は,あのどーしようもなくアナーキーな保育園児たちを,一糸乱れぬ(は言い過ぎかな)行列にまとめて行進させる史上最強,空前絶後,天涯孤独のリーサルウェポンなのだ.
先生がベルトの端を持って歩くだけで,園児たちはそれに従ってぞろぞろと行進する.
一人としてつり革を離すやつはいない.
無理に引っ張って行列を乱すやつもいない.
周りをキョロキョロしてても,歩く方向はまっすぐだ.
保育園の運動会でその威力を目の当たりにしたときは,本当に驚いたものだ.

この行進の様子は,シーツのイメージとピッタリだぶる.
幼児たちにとって,つり革を手放すことは何らかの負の感情に繋がるのだろう.
想像するにそれは,ヒトとサルとの見分けもつかないような時代,DNAに刻み込まれた太古の記憶のせいだ.
親や群から離れることが死に直結した時代に凝縮された不安だ.
このお散歩ベルトもおそらく,シーツと同じく群=関係性の象徴なのだろう.
何のことは無い,ヒトという動物は幼少の頃から臨終まで,関係性にすがって生きているのである.
 
つづく
 

シーツの神様 (2)

なんで恥を晒してまで世界でもっとも下らない犬の喧嘩なんか持ち出したかというと,たまたま読んだ田口ランディという人の本の中にいじめの話があって,へぇなるほどと思ったときにこの犬たちのことを連想したからである.
以下はその本に書いてあった話.

その話は,「いじめとは何だろう?」という作者の問に対して,その友人が「それはシーツの皺だな」と答えるところから始まる.
それによると,人間というのは集団でシーツの端を持って歩いているようなものなのだそうだ.
ちょうど,でかい国旗を大勢で持って歩く,競技会の入場行進みたいに.(あれ,恥ずかしいよね)
家庭,学校,職場,ご近所,サークル,国家...,ありとあらゆるところにシーツは存在する.

シーツを持つこと自体はそれほど難しくはない.
しかし,人によってはつい肩に力が入りすぎたり,いい加減に持ってしまったり,他人と歩くスピードが違っていたりする.
そんなところに皺は生まれる.
そしてそれがいじめになる...という話.

先に明かしてしまうと,このシーツには "関係性" という名前がついている.

ある集団が一人の人間をいじめるとき,そこにはある暗黙のルールが存在する.
それは,いじめる側はもちろん,いじめられる側も「決してシーツを離してはいけない」というルールだ.
"シカト" 技の効き目が絶大なのはこのためだ.
いじめを公にして外部に助けを求めることは,このルールに抵触する.

聞いた話だが,ある責任感の強い親が息子が長期間いじめられてきた事実を知り,相手の家に押しかけて双方を諭し,最後に目の前で握手させて問題の解決を図ったのだそうだ.
その息子は翌日,自らの命を絶った.
このゲーム世界ではルール違反の罪は命より重い.

四六時中シーツを持って歩くことは疲れるし,実はシーツを持つことが必要かどうかなんて,本当のところ誰にもわかっちゃいない.
だからシーツを持つ人はいつも,「シーツを持たなければならない理由」を探している.
ボコボコにされてもシーツを離さない仲間を見ると安心できる.
少なくともいじめられてるヤツよりは,自分がうまくシーツを持てていると満足できる.
シーツにすがりつく自分の心を正当化できる.
こうして,シーツは次第に確固とした存在になり,やがて神のように人の上に君臨し始めるのである.
 

つづく
 
 

シーツの神様 (1)

どっこい生きてるみわファームの犬軍団4頭.
普段この4頭は敷地の中で入り乱れて生活しているが,それでも秩序らしきものはある.
わりと決まりきったパターンで毎日が過ぎていく.
しかしたま~に,そうやね年に2,3回,ぐとアニキが衝突することがある.

二人とも身体はごつくて固いので,結構な迫力だ.
以前はこっちもビビって止めに入ってたのだが,最近は少し放っておくことにしている.
見ていると双方で加減しながらやっているのか,迫力はあってもひどい傷が残ることは無い(サンのマズルが腫れてカピバラみたいになったことはあるが).
終わってしまえば後を曳くこともない...こともないけど,まぁそういうことにしときましょう.

なぜ衝突するのか,本当のところはわからない.
ただ今になって思い返せば,りん姉が逝って入れ替わりにカイがメンバーに加わったとか,お嬢さんたちに同時に春が訪れたとか,ぐにやらせていた作業をたまたまサンにやらせてみたときとか,何かしら非日常の出来事が起こったときだった気がする.
おそらく群としてのバランスみたいなものが微妙に崩れるのだろう.
ちょっとしたガス抜きみたいなものかもしれない.
この辺の機微は,さすが社会的動物というところか.

(ちなみにここまで努めて冷静に書いてきたが,実はこの2頭には結構腹を立てている.今度やったらブッ殺・・・しますよ)


つづく