なんで恥を晒してまで世界でもっとも下らない犬の喧嘩なんか持ち出したかというと,たまたま読んだ田口ランディという人の本の中にいじめの話があって,へぇなるほどと思ったときにこの犬たちのことを連想したからである.
以下はその本に書いてあった話.
その話は,「いじめとは何だろう?」という作者の問に対して,その友人が「それはシーツの皺だな」と答えるところから始まる.
それによると,人間というのは集団でシーツの端を持って歩いているようなものなのだそうだ.
ちょうど,でかい国旗を大勢で持って歩く,競技会の入場行進みたいに.(あれ,恥ずかしいよね)
家庭,学校,職場,ご近所,サークル,国家...,ありとあらゆるところにシーツは存在する.
シーツを持つこと自体はそれほど難しくはない.
しかし,人によってはつい肩に力が入りすぎたり,いい加減に持ってしまったり,他人と歩くスピードが違っていたりする.
そんなところに皺は生まれる.
そしてそれがいじめになる...という話.
先に明かしてしまうと,このシーツには "関係性" という名前がついている.
ある集団が一人の人間をいじめるとき,そこにはある暗黙のルールが存在する.
それは,いじめる側はもちろん,いじめられる側も「決してシーツを離してはいけない」というルールだ.
"シカト" 技の効き目が絶大なのはこのためだ.
いじめを公にして外部に助けを求めることは,このルールに抵触する.
聞いた話だが,ある責任感の強い親が息子が長期間いじめられてきた事実を知り,相手の家に押しかけて双方を諭し,最後に目の前で握手させて問題の解決を図ったのだそうだ.
その息子は翌日,自らの命を絶った.
このゲーム世界ではルール違反の罪は命より重い.
四六時中シーツを持って歩くことは疲れるし,実はシーツを持つことが必要かどうかなんて,本当のところ誰にもわかっちゃいない.
だからシーツを持つ人はいつも,「シーツを持たなければならない理由」を探している.
ボコボコにされてもシーツを離さない仲間を見ると安心できる.
少なくともいじめられてるヤツよりは,自分がうまくシーツを持てていると満足できる.
シーツにすがりつく自分の心を正当化できる.
こうして,シーツは次第に確固とした存在になり,やがて神のように人の上に君臨し始めるのである.
つづく
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