もちろんこれは狭い世界の一つの例に過ぎない.
しかし社会的な「役割」や「型」を差し置いて,個の確立を奨励するような社会は未だかつて存在しなかった・・・とまで言い切る自信は無いけれど,現代の日本が,個人の欲望すなわち個体保存欲動を肯定し,かつて無いほど強化している社会だということは言えると思う.
経済至上主義とか市場原理主義,あるいはそれらに母屋を乗っ取られた感のある民主主義のことを言っている.
理由は単純,物やカネの流通を促し経済を活性化させるためには,消費単位をできるだけ細分化(村や家族単位に売るより,個人に一台ずつテレビを売った方が儲かる)し,個々の欲望を最大化することが手っ取り早いからである.
そんな現代でも,個人的欲望をあからさまに表にするのはハシタナイみたいな感覚はあるし,それを抑制するシステムも生き残っている.村上世彰氏の「カネを儲けて何が悪い?」発言を聞いて,え~!?と感じた人は少なくないだろう.
しかしちょっと捻って「自己実現」とか「自分らしさの発見」とか「自分探し」とかの表現にすればどうか.あるいはもう半捻りして「自然体で生きる」「自分に素直」「ほんとうの私」「等身大」あたりでも良い.おそらく違和感抱くどころか,両手でハグして背中パンパンできるのではないだろうか.
村上発言と「自己実現」の間には大きな隔たりがあるように聞こえるが,個人の欲望の肯定という切り口から見れば実は良く似ている.
大体世間では,個々人の中にあらかじめ確固とした自己があり「きちんと向き合えば本当の自分が見えてくる」なんてことがもっともらしく語られているが,あんまり自信満々に言われると,つい,本当かよ?と混ぜっ返したくなる.それって近代の西洋文化が作り上げた幻想なんじゃないのかって.
いや,それはこの際どっちでもいい.
問題はそれらの言い回しが氾濫しているという事実であり,そこから窺い知れるのは,私たちの意識がどうやら過剰に自分に向かっているらしい,ということである.
もちろん,いつの時代のどんな社会にも自意識過剰なグループは存在した.しかし彼らは普通"子供"と呼ばれ,これから視野を広げ社会性を養うべき人間として区別されていた.
今やその境界はあいまいになり,社会全体の中に,自意識を奨励し成熟を抑制するような気圧が存在する.みんなで寄ってたかって個体保存欲動を"褒めて育て",結果として性欲動を抑制してるように思えてならない.
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