May 6, 2008

コトバで考える葦(3)

...と,ホントはここで話は終わってるのだが,たまたま「否定」に関するおもしろい話を聞きかじったので,ついでに知ったかぶりをする.

それは,私たちは普段「無い」とか「しない」という否定のメッセージを易々と伝えているけれど,コトバを使わずにこれをしようとすると,たちまち途方にくれてしまうという話.

例えば「テーブルの上にりんごが無い」ことを言いたいとする.
コトバを使えば,まさに今書いたような一文で事足りるが,これを他の手段,例えば絵で表現しようとすると,途端に話はややこしくなる.
何も乗ってないテーブルを100枚描いても,"りんごが無い"というメッセージは伝わらない.そもそもイメージは空間を埋め尽くすものであって,不在や欠如を含まないからである.
あえて伝えようとすれば,例えば,1)りんご以外のすべての物が乗っているテーブルを描く,2)りんごの乗っているテーブルと乗っていないテーブルを描いて対比させる,3)点線でりんごを描いて不在を強調する,などの工夫が必要になる.

1)はそもそも描けないし,仮に描けたとしてもりんごが無いことに思い至るかどうかは怪しい.
2)や3)だったら可能かもしれないけれど,これらは絵画というより,すでに "絵で表現したコトバ" である.2枚の絵や点線の中に,すでに論理と時間が畳み込まれているからである.

同じように,「しないこと」を伝えるのも難しい.
犬同士が道ですれ違ったとき,相手に「近づいたらぶっ殺すぞ」と意思表示することはたやすい.
しかし「殺さない」「殺す気が無い」ことを伝えるのはどうか.
敵意の無いことが表現できても,それだと「殺さない」を明示的に伝えたことにならない(敵意が無くても殺すことはできる).あえてやるなら,相手を噛んで噛んで噛んで噛んで噛みまくって,それでも止めを刺さない...といった行為に訴える他ない.

ことほど左様に,イメージや動作で否定のメッセージを伝えることは難しい.
では,なぜコトバを使えば簡単なのだろうか? 長い人類の歴史の中で,コトバが強化洗練され,それらの機能が付加されてきたのだろうか?

おそらくそうじゃない.
どうも言語活動と否定の概念は,根っこのところでガッツリ結びついているらしいのである.

幼児の成長に注意していると,何年もかけて徐々にコトバを習得していくというよりは,ある日を境に一気に学習が進む様子が観察される.発達心理学が伝えるところによると,これは,赤ん坊が「(おっぱいが)無いこと」を認識する時期と一致する.つまり,物を "存在" として捉えるだけでなく, "不在" とのセットで理解したとき,人は人となり,言語活動が始まる(らしい)のである.
コトバとは,このような世界観と一体のものなのだろう.それくらい精神活動が高度になって,ようやくコトバが使えるようになる,ということかもしれない.


つづく
 

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