February 25, 2006

コドモ星人ひゅうまん

 前の記事では勢いで 「人間の精神は未熟」 なんて書いてしまいましたが,かなり本気でそんなことを考えています.なんでか? ということなんですが...

 大体,人間の生き物としての特徴といえば,進化(生き残り)の方向として 「オツムと道具」 の発達を選んだことだと思うんですが,まぁ今のところそれが成功し,地球上でちょっとした繁栄を築いているわけです.
 その一方で,そのオツムや道具を活用するために,人間はほとんど一生を 「学ぶ」 という作業に費やすことになりました.私たちが人間らしい生活を営むためには,いろんなことを習得する必要がありますが,これは 「ハイ,学校を卒業したから終わり!」 みたくお手軽なものではありません.この進化の道を選んだと同時に,この楽しくも重い宿題を背負ったのが,人間という生き物だと思うのです.

 問題はこの 「学ぶ」 という行為なんですが,これには優秀な記憶力とともに,モチベーションになる好奇心や,新しいものにチャレンジする冒険心などが欠かせません.そしてこれが,実はオトナの精神には不得意なことだと思うのです.オトナは,知識や経験を活用し,冷静な判断で安全を守ることには長けていますが,危険を伴うかもしれない新しいことには保守的になりがちです.他の動物の場合,生きるのに必要なことくらいは大体若いうちに習得できてしまうので,それでOKなのでしょうが,学ぶこと自体が生きる目的みたいな人間の場合,心まですぐにオトナになってしまうとマズイわけです.かくして私たちは,歳は食ってもコドモの心を持ち続ける動物になったのではないかと考えています.
 人間の身体って体毛が少なくて頭が大きいのが特徴ですが,これをサルのネオテニー(幼児期の形質を残したまま成熟し,繁殖する現象)と解釈する説もあります.実は身体だけでなく,精神や心にもネオテニー的な現象が及んでいるのではないでしょうか?
(と,ここまで書いてWebで 「ネオテニー」 を検索してみたら,身体だけでなくオツムのこともしっかり書いてありました.自分で考えたと思ってたのに,オリジナルでも何でもなかったわけですわ...)

 要するに,知恵に溢れた 「賢い」 生き物であるためには,精神はコドモっぽい方が都合良いのではないか?ということです.そう思って人間社会を見渡してみると,なるほどと思えることがいくつかあります.

 例えば,人間はお互いに殺しあう,ほとんど唯一の生き物だと思うんですが,これなんか,まさにコドモ的精神のなせる技だと思えるのです.子供は,自分勝手だし他人との境界もあいまいなのでしょっちゅう喧嘩します.幸い,それほど知恵や力が無いので大事には至りません.そして,大人になる頃には分別がついて,他人のことを尊重できる(あるいは,他人は他人と割切れる)ようになる...はずでした.
 でも,コドモ心を多く残した人間にはちょっと無理があったようです.現在も世界のあちこちで紛争が続いているのは,いずれも複雑な理由があるのでしょうが,その根っこにあるのは,他人や他民族に対する過剰な感情とそれを抑制し切れない,私たちのコドモ的精神構造にあるのではないでしょうか.

 もう一つ例に挙げたいのが,神さま仏さまです.神や仏はいろんな民族共通に見られる概念ですが,そのイメージには,父や母のそれがいつもついて回っているように思えます.イエスは包容力のある父,アッラーは規律に厳格な父,仏や阿弥陀様は無条件に包みこんでくれる優しい母,といった具合に.これなんか,オトナになり切れない人間の精神が,父や母を無意識に求めているからだと解釈できないでしょうか? (その意味では,神や仏に母的イメージを求める社会の方が,父的なものを求める社会よりも,コドモ度が強いと言えるかもしれません)

 こう考えると宗教の救いを必要とするようなさまざまな人間の業...老いや死に対する恐怖,癒されない孤独感,果ての無い所有欲,他人や他民族への競争心や嫉妬...そんなことも全部,コドモ的精神に関係があるような気がしてきます.もちろん,そのプラスの面だって山ほどあるし,マイナスがあるからこそより良い暮らしを求めて発展していくのでしょうが...ああ,まさに宗教くさくなってきたので,この辺で止めますね.

 例によって今回も 「だから何なんだ?」 という感じの与太話なのですが,まぁ世の中では,そういうコドモ的動物である私たちが社会を作り,犬や子供を育てているわけです.ちょっとしたことで感情的になったり,相手の気持ちを考える余裕を無くすのも仕方がないように思えます.逆に考えれば,自分のコドモ的部分を自覚してそれをいかにコントロールしていくかが,子育て犬育ての極意ではないだろうか?...そんなことを考えたりしています.

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