February 24, 2006

犬観 (1)

 自分はどんな風に犬と暮らしたいと思っているのか...なんてしょーもないことをツラツラ考えることがあります.
 犬を飼うことの価値観なんて,それこそ人それぞれでしょうから,基本的に 「あれが良くて,これがダメ」 なんてことは言えない世界ですね.もともと,犬を飼うことなんて,1から9.9くらいまでは人間の都合なんだから,自分で良かれと思うようにするしかないと思います.そりゃぁ,社会や自然(犬種も含めて)に影響が大きいような行為は,個人の勝手というわけにはいかないんですが...

 犬を飼うことの価値観を,自分では勝手に犬観と呼んでます.今まで,いろんな人のいろんな犬観に触れてきました.だからと言うわけではないですが,ここで,自分の犬観を整理しておきたいと,ふと思ったわけです(←平和だねぇ〜). 「ヒマで死にそうや〜」 っていう人だけ,ちょっとつきあってやってください.

 人の価値観には,自分の育った文化がすごく影響します.で,まず私たち日本人の犬観てどんなだろうと考えてみることにします.
 まず私の印象にあるのは,日本人って身内意識が強いってことです.赤の他人にはなかなか気軽に声をかけられないですが,一旦相手が身内だと考えると,思いっきり気を許したりします.あうんの呼吸ってやつでしょうか.それで,一から十まで相手のことがわかったような気になれるんですが,一部でも意見が違ったりすると,今度はひどく裏切られたような気分になります.
 身内の範疇以外の人に対してはどうでしょう? その場合,今度は,相手が自分より上か下かを決めないと,どうも落ち着きが良くありません.成熟した大人の関係というものがあるとすれば,それには 「相手の人格を尊重し,対等の関係でつきあう」 ことが含まれると思うのですが,これが,私ら日本人にはなかなかに難しいことだったりする.

 例えば, 「身内」 の一番大きなくくりは,日本人ということになるんでしょうが,仲間外とのおつきあいである外交とやらを見ていると,先進国に対しては必要以上にへりくだる一方で,途上国に対しては居丈高か 「援助してやる」 という態度になってしまいます. へりくだらず,かつ相手を尊重した上で,自国の意見を堂々と主張する,というのとはちょっと違います. 「身内」 の単位は,地域,隣近所,会社,サークル,友達,家族,個人...それこそ無数に考えられますが,ことごとくそんな傾向があるような気がします.

 それで,えーと,犬の話なんですが...やっぱり似たような傾向があるように思えます.犬を身内として見ないのは,むしろ人間として当たり前だと思うんですが,その結果,当然犬は下に見られます.昔ながらの 「犬畜生」 ってやつでしょうか.実は日本には,犬が人と適当な距離を置き,半分野生のままで人間社会の中をぶらぶらしていた時代があり, 「畜生」 的犬観はそれなりに良いバランスを持っていたわけです.やがて,日本でも犬が家庭に入ってくるようになったわけですが,この犬観はそんなに変わっていないようです.少なくなったとはいえ,相変わらず犬に対する社会的な偏見や蔑視が根強いのも,そのせいでしょう.
 その逆ってのもあります.犬をものすごく可愛がる...これは,意識の中で犬が 「身内」 になったことだと思うんです.それはそれでメデタイことなのかもしれませんが,これがちょっと行き過ぎると,犬を擬人化し 「うちの子」 として猫かわいがりすることにつながります.そんなとき,意に添わない形で犬の本能がチラリと覗いたりすると,裏切られた気分になって逆上したりします. 犬を恐れず蔑まず,犬を犬として受け入れるのが難しいのは,私たち日本人が大人になり切れていない証拠なのかもしれません.

 もちろん,これが良いとか悪いとかいう話ではありません.そんな風な 「犬観」 が日本的な文化としてあるんではないか?ってだけです.

 じゃあ,欧米風の犬観はどうでしょう? よく私たちは,犬たちが社会に受け入れられているさまを見聞きして, 「欧米の犬事情は進んでるね」 なんて言ったりします. 「犬はパートナーである」 というのも,欧米で生まれた言い方でしょう.確かに,日本に比べて犬が一定の市民権を得ている...とは言えると思います.

 ただ,彼らにしても,無条件で犬を受け入れるわけではありません.
 欧米の価値観を考えるときは,やっぱりキリスト教の影響を無視することはできません.キリスト教では,動物は人間(=神のしもべ)に統治される存在であり,人間に益する,あるいは仕えるものとして下に位置付けられます.犬がいくら真っ正直に生きたとしても,天国には行けないのです.また,人間であれば誰でも神に受け入れられるかと言えばそうでもありません.それには,神との 「契約」 を守る必要があります.
 欧米社会を見てみれば,この 「契約」 的な考え方が隅々にまで浸透しています.その典型がカイシャの雇用でしょう.日本人がカイシャに入るときは,なんとなく「仲間に入れてもらう」 的な意識があるんですが,欧米では 「契約を結ぶ」 以外の何者でもありません(最近は,日本人の意識もだいぶ変わってきたようですが).仲間社会 vs 契約社会,あるいは,母性原理の社会 vs 父性原理の社会と言えるかもしれません.

 これが,人間と動物との関係にも当てはまるように思えます.すなわち欧米では,犬はあくまで犬なんですが,一定の 「契約」 さえ守れば人間のパートナーとして受け入れられます.すなわち,よく 「しつけ」 され,人間社会のルールを守るもの,あるいは役に立つものだけが,人間によって 「祝福」 されるわけです.純血種は,犬を人間好みの姿や性質に作り変えたものですが,こういった犬観のたまものと考えても不自然ではないでしょう.姿や性質を人間好みに変えた代償(?)として,犬も社会に受け入れられるのです.そのかわり,飼い主はパートナーの一生に責任を負うわけであり,これには安楽死といったつらい決断も含まれます.
 それはそれで一貫した考え方かもしれません.ただ, 「人間に役立ってなんぼ」の考え方が行き過ぎると,犬を物や道具扱いすることにもつながります.クリスマスプレゼントに子犬を贈ったり,あるいはバカンスシーズンの終わりに犬を捨てたりする習慣も,この価値観とは無縁ではないと思います.

 念のため,繰り返しますが,これが良いとか悪いとかいう話ではありません.思うにそんな価値観なんではないか?ってことです.

 あー,なかなか本論に辿りつけません.ここまで書いて,どっと疲れてしまいました.
...ということで,自分の犬観については,次回に書くことにします(いつになるやら).

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