February 25, 2006

育てるということ (1) − 人と母性 −

 「犬とのくらし」 なんてことにこだわる自分は,当然のことながら,依存とか嗜癖傾向の強い性格なわけです.特定の対象への執着が強い一方で,社会的な関わりとか人つき合いには,そこはかとなく 「生きにくさ」 を感じてたりします.こういう性格がどこから来てるのか...まったくの興味本位ですが,いくつか本を漁ったりしてきました.そうやって聞きかじったことを,まぁ一つのお遊びとしてですが,強引にイヌの話に結びつけてみようと思います.
 まずは,人間のはなし...

 普段,私たちは 「社会的な動物」 として,人との関わりの中で暮らしています. 「自分の欲求を満たしながら,他人とうまくやっていく」 「一方では競争しながら,一方では共感して肩を抱き合う」 なんてどう考えたって至難の技を,シラっとした顔で実践しているわけです.
 ただ,この技は,全部が全部生まれつき備わっているわけではありません.社会で暮らすこと自体が,人によっては大変な苦痛になることだってあります.オギャアと生まれてからオトナになるまで,私たちはこの能力を少しずつ養っているわけです.(ちなみに,私のオトナの定義は, 「自分なりの価値観を持ち,他人と対等で親密な関係が持てる能力を持った人」 みたいなところです)

 人が独立した人格として他人とうまく関わっていくためには,心の奥底に自分を認める感覚を持つことが欠かせません.言いかえれば, 「自分は世の中で必要とされ,あるがままで受け入れられる存在なんだ」 という感覚です.理屈ではなくて,あくまで感覚です.これがどこから芽生えるかと言うと,まずは赤ん坊時代に親に抱かれたときの肌の温もりであり,さらには,年少期に与えられる無条件の愛(≒母性)からくる安心感だと言われています.(無条件というのもミソです. 「良い子にしてたら」 「勉強ができたら」 なんていう条件付きの愛や,自分の不幸の穴埋めのための押しつけの愛では,やはり子供は安心することができません.そう,子供はまず安心できなければならないのです)

 逆にいえば,十分に母性に受け止めてもらえなかった子供は,どこか自分の存在に不安を抱いています.そして,きちんと自分を肯定できないまま成長してしまうと,今度は他人も肯定できなくなります.これが,生きにくさの元凶です.他人を受け入れ共感できないこと...これは社会的動物である人間にとって,ものすごく過酷で辛いことです.他人に優しくなるためには,まず自分に対して優しくなれること...というのは,単なることばの遊びでは決してありません.

 自分に対する不安というやつは,成長とともに意識下に押し込められます.でも,勝手に消えて無くなることはありません.その反動が,いろんな形の問題行動(薬物/アルコール/賭け事などへの依存,拒食/過食,非行,いじめ(いじめられ),不登校/出社拒否,引きこもり,自傷/自殺etc)や,鬱などの精神症状として表面化することがあります.ダメで価値の無い自分を罰したい,という無意識の願望がありますから,ともすれば自分自身を傷つけたり,わざと他人から罰せられるような行動に走り勝ちです (万引き常習犯の多くは,実は捕まることが目的なのです).
 まぁ,そこまで行かないとしても,こういう傾向をもった人は自分に自信がないので,他人の目や評価が過剰に気になります.自分が幸せかどうかより,人から見て自分が幸せかどうかを問題にします.いつも他人とつるんでないと不安です(でも,腹を割って自分をさらけ出せる友人はいません).

 また,自分に対する憎しみが,無意識のうちに他の対象に投影されることもあります.よくニュースになる小動物への虐待も,その何割かはこれが原因だと思われます.もっとも自分自身を投影しやすい対象は,何といっても自分の子供です.子供がかわいく思えるのは,自分がかわいいということの裏返しでもあるんですが,自分を肯定できていない人は子供に対して憎しみを抱くことがあります.これが,今流行り (?) の,幼児虐待の一因であると言われています.

<続く>

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