朝日新聞のTVコマーシャルのコピーに,
言葉は未来
言葉は思い出
言葉は鎖
言葉は慰め
言葉は翼
言葉は現実
言葉は夢
言葉は希望
私たちは言葉の力を信じている
というのがある.
いろいろ好きだ嫌いだの意見があるが,個人的にはここに 「言葉は呪い」 というのを加えて欲しかった.
発声された言葉に実質的価値があると信じられた時代,祝や呪はその基本的なかつ重要な機能だった.
夢枕獏描くところの安倍晴明によれば,名前を口にすることはすでに呪術の一部だったのだそうな.
(そういえばこの間観たゲド戦記でもそんなこと言ってたな)
呪文によって物を動かしたり天災をコントロールできるかどうかは知らないが,少なくとも人間に対して,言葉が強力な力を持つことは疑いようがない.
人は人(自分自身を含む)が発した言葉によって感情を動かされ,行動を左右され,自由を制限される.
幼い頃にかけられた何気ない一言が,その人の一生を決定することだってある.
言葉は時や場所を超えて作用し,しかも目に見えない.
呪術と言うと何やらオドロオドロしいが,外形的には十分にその機能を備えている.
小泉元首相の手腕をあーだこーだ言えるほど政治に詳しく無いけれど,彼が言葉の力を巧みに使う政治家だったことは確かだ.
2005年衆院選挙前,彼は 「郵政民営化」 をぶち上げた.
メディアも政治家も国民も一斉に注目し,当然,誰もがその詳しい説明を待った.
しかしいくら待っても説明はなされない.
気がつけば,選挙は自民党の圧勝に終わっていたのである.
小泉元首相は 「先手を取る」 呼吸を心得ていた.
武道の世界で 「先手を取る」 とは,必ずしも先制攻撃を意味するのではなく,相手を待ちの態勢にして自分の一挙一動に意識を固着させ,行動の自由を奪ってしまうことを本来の目的とする.
一旦先手を取られた者は,自分から技を仕掛けることができなくなってしまう.
首相の目論見どおり,選挙は彼のペースで終始した.
すべての候補者は(賛成にしろ反対にしろ)郵政民営化への態度表明を強いられたし,対抗馬であるはずの民主党なんか, 「問題は郵政民営化だけではない!」 という何だか訳のわからないスローガンを掲げる羽目になってしまった.
小泉元首相の言葉はよく 「内容が無い」 と批判された.
しかし,少なくとも国政を動かす力はあった.
意味不明だが強い力を持っている・・・これはまさに "呪文" である.
つづく
October 4, 2006
September 20, 2006
キャッチボール
考えてみればキャッチボールは不思議な遊びだ.
2人で向き合って,一人がボールを投げ一人が受ける.
あとはそれを延々と繰り返すだけ.
これのどこがおもしろいのと問われれば答えに窮するが,この歳になるまでもう何千回何万回もやっただろうに,いまだに飽きるということがない.
はじけるような喜びや達成感は無いけれど,シミジミとおもしろい.
小さかった頃の遊びを訊ねられて, 「お父さんとのキャッチボール」 と答える人は多い.
実際には色んな遊びをしたろうから,キャッチボールが特に記憶に残りやすい遊びだとも言える.
ボールを投げてキャッチするという単純な行為に,どこか心の琴線に触れるものがあるのかもしれない.
文化人類学とやらの世界では 「人間社会を基礎づけているのは "交換" に対する欲望である」 という有力な説があるらしい.
つまり,物や言葉や家族などを交換したいという欲求が社会や文化を築く礎になった...というよりもうちょっと過激に,そもそも社会や文化はそれらの交換をするために築かれた,というのがその主張である.
その正否はともかく,人間が "交換" が好きで好きでたまらない動物であるのは確かなようである.
そこで思った.
キャッチボールに妙な魅力があるのは,それが交換を擬した遊びだからではないだろうか.
自分の投げたボールが相手に渡り,それがまた自分の元に返ってくる.
返ってくるボールには,相手によって何らかの意味(コースとかスピードとか回転とか)が付与されている...
おそらく私たちは,投げたり受けたりの身体運動の快感のほかに,「相手とボールをやり取りしている」 ことに,何やら奥深い満足を感じているのだろう.
我ながら変な動物だ.
犬はどうだろ?
そういえば,私の知っている犬たちはほとんど例外なくボール遊びが好きだ.
最近までこれは,動くものに対する追っかけ衝動の発露,つまり逃げていくボールを獲物に見立てた一種の 「狩りごっこ」 だろうと思っていた(猫が猫じゃらしに夢中になるように).
でもキャッチボールを上のように考えると,それだけじゃない気がしてくる.
レトリーブ遊びをせがむ犬たちを見ていると,一番集中して楽しげな時,つまり期待が膨らんで 「もう,たまらん~っ!」 状態になるのは,人間がボールを拾い上げてから投げるまでである.
つまり彼らは,この短い時間の人間とのやりとりに夢中になってるんじゃないだろうか.
ボールを追っかけたり,キャッチしたり,人間の元に運んできたりするのは,むしろそのおまけという感じがする.
そう言えば,彼らをもっと喜ばせる遊び方がある.
それは犬がボールを咥えたときに,そのボールが欲しい~!とこちらから追いかけてやるのである.
ときどきはゆ~っくりと近寄って,犬が警戒しだしたらババッと駆け寄ったりして.
これは効く.
犬はすぐに,キャーキャー言いながら得意満面で逃げ回るようになる.
たぶん,この遊びの方が相手とのやりとり(駆け引き)がずっと濃厚だからだろう.
まぁ,やつらをイイ気にさせるとロクなことがないので,そんな遊びはしない方がよいのだけれど.
そんなこんなを考え合わせると,彼らがレトリーブ遊びに夢中になるのは,狩りごっこというよりはむしろ,「ボールを介した人とのやりとり」 が楽しいからではないかと思える.
もしかしたら犬も, "交換" に対する欲求を持っていて,それを人間と交わすことに無上の喜びを見出す動物なのかもしれない.
人間も変なら犬も変である.
ところでキャッチボールは"キャッチ"ボールであって,なぜ"スロゥ"ボールとか"ピッチ"ボールとは言わないのだろうか?(あちらでも"play catch"と表現するらしい)
「ボールを投げる」 局面では,動作を起こすのもコントロールするのも自分である.
主体的ではあるけど単純と言えば単純だ.
しかし 「ボールを受ける」 ためには,相手の投げたボールを見てスピードや軌跡を判断しながら自分の運動を制御しなければいけない.
つまり,ボールに反映された相手の意思や行動を受容することがまず要求されるのである.
そこに技術的にも心理的にもより滋味深いものがある...なんてことが, "キャッチ" ボールという名前に込められてるのではないだろうか.
あ,なんか無理やり "良い話" にしようとしている...
やめとこ.
2人で向き合って,一人がボールを投げ一人が受ける.
あとはそれを延々と繰り返すだけ.
これのどこがおもしろいのと問われれば答えに窮するが,この歳になるまでもう何千回何万回もやっただろうに,いまだに飽きるということがない.
はじけるような喜びや達成感は無いけれど,シミジミとおもしろい.
小さかった頃の遊びを訊ねられて, 「お父さんとのキャッチボール」 と答える人は多い.
実際には色んな遊びをしたろうから,キャッチボールが特に記憶に残りやすい遊びだとも言える.
ボールを投げてキャッチするという単純な行為に,どこか心の琴線に触れるものがあるのかもしれない.
文化人類学とやらの世界では 「人間社会を基礎づけているのは "交換" に対する欲望である」 という有力な説があるらしい.
つまり,物や言葉や家族などを交換したいという欲求が社会や文化を築く礎になった...というよりもうちょっと過激に,そもそも社会や文化はそれらの交換をするために築かれた,というのがその主張である.
その正否はともかく,人間が "交換" が好きで好きでたまらない動物であるのは確かなようである.
そこで思った.
キャッチボールに妙な魅力があるのは,それが交換を擬した遊びだからではないだろうか.
自分の投げたボールが相手に渡り,それがまた自分の元に返ってくる.
返ってくるボールには,相手によって何らかの意味(コースとかスピードとか回転とか)が付与されている...
おそらく私たちは,投げたり受けたりの身体運動の快感のほかに,「相手とボールをやり取りしている」 ことに,何やら奥深い満足を感じているのだろう.
我ながら変な動物だ.
犬はどうだろ?
そういえば,私の知っている犬たちはほとんど例外なくボール遊びが好きだ.
最近までこれは,動くものに対する追っかけ衝動の発露,つまり逃げていくボールを獲物に見立てた一種の 「狩りごっこ」 だろうと思っていた(猫が猫じゃらしに夢中になるように).
でもキャッチボールを上のように考えると,それだけじゃない気がしてくる.
レトリーブ遊びをせがむ犬たちを見ていると,一番集中して楽しげな時,つまり期待が膨らんで 「もう,たまらん~っ!」 状態になるのは,人間がボールを拾い上げてから投げるまでである.
つまり彼らは,この短い時間の人間とのやりとりに夢中になってるんじゃないだろうか.
ボールを追っかけたり,キャッチしたり,人間の元に運んできたりするのは,むしろそのおまけという感じがする.
そう言えば,彼らをもっと喜ばせる遊び方がある.
それは犬がボールを咥えたときに,そのボールが欲しい~!とこちらから追いかけてやるのである.
ときどきはゆ~っくりと近寄って,犬が警戒しだしたらババッと駆け寄ったりして.
これは効く.
犬はすぐに,キャーキャー言いながら得意満面で逃げ回るようになる.
たぶん,この遊びの方が相手とのやりとり(駆け引き)がずっと濃厚だからだろう.
まぁ,やつらをイイ気にさせるとロクなことがないので,そんな遊びはしない方がよいのだけれど.
そんなこんなを考え合わせると,彼らがレトリーブ遊びに夢中になるのは,狩りごっこというよりはむしろ,「ボールを介した人とのやりとり」 が楽しいからではないかと思える.
もしかしたら犬も, "交換" に対する欲求を持っていて,それを人間と交わすことに無上の喜びを見出す動物なのかもしれない.
人間も変なら犬も変である.
ところでキャッチボールは"キャッチ"ボールであって,なぜ"スロゥ"ボールとか"ピッチ"ボールとは言わないのだろうか?(あちらでも"play catch"と表現するらしい)
「ボールを投げる」 局面では,動作を起こすのもコントロールするのも自分である.
主体的ではあるけど単純と言えば単純だ.
しかし 「ボールを受ける」 ためには,相手の投げたボールを見てスピードや軌跡を判断しながら自分の運動を制御しなければいけない.
つまり,ボールに反映された相手の意思や行動を受容することがまず要求されるのである.
そこに技術的にも心理的にもより滋味深いものがある...なんてことが, "キャッチ" ボールという名前に込められてるのではないだろうか.
あ,なんか無理やり "良い話" にしようとしている...
やめとこ.
August 18, 2006
犬にまつわるコミュニケーションの話 (2)
私たちが知っている他のコミュニケーション手段に比べ,コトバは論理的,抽象的な情報を伝えることに長けています.
圧倒的に優れています.
しかし,感覚や気分を伝えることはそれほど得意じゃありません.
そして本来,それを補うのが表情や身振り,匂いなどだったはずなのですが,どうも人間はコトバを発達させる過程で,他の感覚によるコミュニケーション能力を急激に弱めてしまったようなのです.
(あるいは,感覚や気分は相手から隠した方が有利なこともある故,コントロールしやすい語調やコトバで表現することにしたのかも)
ちょっともこみち,じゃなくて横道.
アメリカ人が世界のどこでも米語で押し通そうとするのは有名な話ですが,例えばフランス人は,自分たちが愛してやまないParisをアメリカ人が "パリス" と言うのが,つまり米語風に語尾の "s" をはっきり発音するのが鳥肌が立つほど嫌なんだそうです.
当のアメリカ人がそれを察するのは難しい.
なぜなら,一般マナーとして,フランス人が面と向かって相手を非難することはないだろうし,また人間には,相手の鳥肌(感情)はなかなか見えないものだからです.
(犬だったら,匂いでわかるかもね)
犬と人のコミュニケーションにも似たところがあります.
両者のコミュニケーションに使われるのはもっぱら "共通言語" であるコトバです.
とゆーよりは,両者とも相手に対してメッセージを発しているのだけれど,それを理解しようと努めるのは半ば一方通行的に犬の側です.
そして,自己流コトバで押し通す人間には,犬が感じているかもしれない違和感を察することは,構造的に難しいのです.
じゃあ,どうすりゃいいのか?
普通はここで 「だからもっと犬を理解しましょうよ」 とくるのかもしれませんが,それもちょっと安易に過ぎるような気がします.
いや,まぁそれはそうなんですけど,それを大上段に掲げてしまっていいのかどうか...
哲学の世界では,他者や時間は 「理解不能なもの」 と相場が決まっているようです.
そもそも私たちは,他人どころか自分自身(の中の他人)でさえ理解できないのだから,種まで違う生き物が理解できるはずがありません.
多くの人がコミュニケーションの目的は 「お互いを理解すること」 だと考えていますが,そんな大それたことを目指すから,不都合や摩擦やフラストレーションが絶えないのではないでしょうか.
私たちはお互いに理解を超えた存在なんだと認識し,相手に対する畏怖と敬意を持つことが,コミュニケーションの第一歩だと思うのです.
私は,コミュニケーションの目的はコミュニケーションすること自体にあると思っています.
そのためにこそ人は,相手の感情や置かれた状況を類推しようと努めるし,自分の意図が相手に伝わるように工夫もする.
逆に言えば,そういう地道で丁寧な作業を続けないと,コミュニケーションは維持すらできないということです.
(そのしんどい作業を支えるエネルギーは, 「相手を理解する」 ことが絶望的な状況にありながら,それでも相手と関わっていたいという切ない欲望です)
本来,生き物同士のコミュニケーションは,そういうデリケートな緊張状態の中でこそ成り立つものだと思います.
先の例,件のアメリカ人が相手の嫌悪感を知るためには,フランス語の発音規則やその背後にある音韻的な美意識まで理解しなければなりません.
じゃあそれらを知らない限り,永久に嫌われ続けるのかというとそんなことはないし,逆に知ったからと言って好意を持たれるとも限らないでしょう.
彼が嫌われる本当の理由は,事実上の世界共通言語となった米語を振りかざし,他国の首都を我流に発音してはばからない尊大な態度にあるからです.
相手文化に対するちょっとした気遣いや敬意,あるいは自己流にしか発音できないことに対する含羞があれば,なにも鳥肌まで立てられることはないでしょう.
コミュニケーションは技術ではなく,倫理の問題だと思うのです.
相手が人だろうと犬だろうと.
おわり
圧倒的に優れています.
しかし,感覚や気分を伝えることはそれほど得意じゃありません.
そして本来,それを補うのが表情や身振り,匂いなどだったはずなのですが,どうも人間はコトバを発達させる過程で,他の感覚によるコミュニケーション能力を急激に弱めてしまったようなのです.
(あるいは,感覚や気分は相手から隠した方が有利なこともある故,コントロールしやすい語調やコトバで表現することにしたのかも)
ちょっともこみち,じゃなくて横道.
アメリカ人が世界のどこでも米語で押し通そうとするのは有名な話ですが,例えばフランス人は,自分たちが愛してやまないParisをアメリカ人が "パリス" と言うのが,つまり米語風に語尾の "s" をはっきり発音するのが鳥肌が立つほど嫌なんだそうです.
当のアメリカ人がそれを察するのは難しい.
なぜなら,一般マナーとして,フランス人が面と向かって相手を非難することはないだろうし,また人間には,相手の鳥肌(感情)はなかなか見えないものだからです.
(犬だったら,匂いでわかるかもね)
犬と人のコミュニケーションにも似たところがあります.
両者のコミュニケーションに使われるのはもっぱら "共通言語" であるコトバです.
とゆーよりは,両者とも相手に対してメッセージを発しているのだけれど,それを理解しようと努めるのは半ば一方通行的に犬の側です.
そして,自己流コトバで押し通す人間には,犬が感じているかもしれない違和感を察することは,構造的に難しいのです.
じゃあ,どうすりゃいいのか?
普通はここで 「だからもっと犬を理解しましょうよ」 とくるのかもしれませんが,それもちょっと安易に過ぎるような気がします.
いや,まぁそれはそうなんですけど,それを大上段に掲げてしまっていいのかどうか...
哲学の世界では,他者や時間は 「理解不能なもの」 と相場が決まっているようです.
そもそも私たちは,他人どころか自分自身(の中の他人)でさえ理解できないのだから,種まで違う生き物が理解できるはずがありません.
多くの人がコミュニケーションの目的は 「お互いを理解すること」 だと考えていますが,そんな大それたことを目指すから,不都合や摩擦やフラストレーションが絶えないのではないでしょうか.
私たちはお互いに理解を超えた存在なんだと認識し,相手に対する畏怖と敬意を持つことが,コミュニケーションの第一歩だと思うのです.
私は,コミュニケーションの目的はコミュニケーションすること自体にあると思っています.
そのためにこそ人は,相手の感情や置かれた状況を類推しようと努めるし,自分の意図が相手に伝わるように工夫もする.
逆に言えば,そういう地道で丁寧な作業を続けないと,コミュニケーションは維持すらできないということです.
(そのしんどい作業を支えるエネルギーは, 「相手を理解する」 ことが絶望的な状況にありながら,それでも相手と関わっていたいという切ない欲望です)
本来,生き物同士のコミュニケーションは,そういうデリケートな緊張状態の中でこそ成り立つものだと思います.
先の例,件のアメリカ人が相手の嫌悪感を知るためには,フランス語の発音規則やその背後にある音韻的な美意識まで理解しなければなりません.
じゃあそれらを知らない限り,永久に嫌われ続けるのかというとそんなことはないし,逆に知ったからと言って好意を持たれるとも限らないでしょう.
彼が嫌われる本当の理由は,事実上の世界共通言語となった米語を振りかざし,他国の首都を我流に発音してはばからない尊大な態度にあるからです.
相手文化に対するちょっとした気遣いや敬意,あるいは自己流にしか発音できないことに対する含羞があれば,なにも鳥肌まで立てられることはないでしょう.
コミュニケーションは技術ではなく,倫理の問題だと思うのです.
相手が人だろうと犬だろうと.
おわり
犬にまつわるコミュニケーションの話 (1)
何だか同じような話ばかりで申し訳ないですが,と恐縮して見せつつ,なに,最初にこう断っとけば大抵のことは許されるのさと世間様をなめきった態度で,犬と人のコミュニケーションについて思ったことを書きます.
普通,私たちは話し言葉を使って犬をしつけたり,仕事を指示したり,芸を教えたりします.
そして上手下手,紆余曲折,七転八倒はあるにしても,いずれ犬はその言葉に応えるようになります.
それを私たちは 「犬に○×を教えた」 とは言うけれども,なかなか 「犬が自分の言葉を理解した」 とは表現しない.
これってちょっと片手落ちですよね?と思ったりするわけです.
人の話し言葉(以下,"コトバ" と表記)が,身振りなど他のコミュニケーション手段と決定的に異なるのは,それが記号でしかないという点です.
例えば,「犬」を説明するための身振り手振りであれば,どこかで犬の容姿や性質を表していますから,やがてその意味を連想することができるでしょう.
しかし, 「い」 「ぬ」 という音の連なりと,犬という動物の間には何ら必然的な関連はありません.
あるのは 「その一連の音が四本足で歩く人懐っこい動物を指す」 という人工的なルールだけです.
このルールを知らない限り,いくら想像力を働かせても両者の関係に辿りつくことはできない.
犬はコトバを知りません.
これは,私たちが 「へへ,外国語は苦手で...」 と照れるのとは,まったくレベルの違う話です.
私たちが未知の外国語を聞いたとき,たとえその単語や文の内容はチンプンカンプンでも,とにかくそこに 「あるルールに則った単語や文がある」 ことは知っています.
ところが犬は,「記号を使ったルールベースのコミュニケーション」 という概念そのものを持たないのです.(たぶん)
この差は大きい.
それでも犬は,コトバから飼い主の意図を理解しようと努める.
そして彼らは彼らなりの解釈で,一定の響きを持つ一連の音声と,飼い主が自分に望んでいる行動とを結びつけ,それを実践してみせます.
その圧倒的に不利な条件を勘案すれば,これを 「コトバを理解した」 と表現することくらいは許されてもいーんじゃね?と,個人的には思うのです.
人が人に 「犬に○×を教えた」 と言うとき,そこには 「教えるのには結構な技術と忍耐と努力がいったんだかんな」 という微かな自負が漂いますが,犬にだって同じくらい,いや多分それ以上の苦労があったはずなのです.
-(2)に続く-
普通,私たちは話し言葉を使って犬をしつけたり,仕事を指示したり,芸を教えたりします.
そして上手下手,紆余曲折,七転八倒はあるにしても,いずれ犬はその言葉に応えるようになります.
それを私たちは 「犬に○×を教えた」 とは言うけれども,なかなか 「犬が自分の言葉を理解した」 とは表現しない.
これってちょっと片手落ちですよね?と思ったりするわけです.
人の話し言葉(以下,"コトバ" と表記)が,身振りなど他のコミュニケーション手段と決定的に異なるのは,それが記号でしかないという点です.
例えば,「犬」を説明するための身振り手振りであれば,どこかで犬の容姿や性質を表していますから,やがてその意味を連想することができるでしょう.
しかし, 「い」 「ぬ」 という音の連なりと,犬という動物の間には何ら必然的な関連はありません.
あるのは 「その一連の音が四本足で歩く人懐っこい動物を指す」 という人工的なルールだけです.
このルールを知らない限り,いくら想像力を働かせても両者の関係に辿りつくことはできない.
犬はコトバを知りません.
これは,私たちが 「へへ,外国語は苦手で...」 と照れるのとは,まったくレベルの違う話です.
私たちが未知の外国語を聞いたとき,たとえその単語や文の内容はチンプンカンプンでも,とにかくそこに 「あるルールに則った単語や文がある」 ことは知っています.
ところが犬は,「記号を使ったルールベースのコミュニケーション」 という概念そのものを持たないのです.(たぶん)
この差は大きい.
それでも犬は,コトバから飼い主の意図を理解しようと努める.
そして彼らは彼らなりの解釈で,一定の響きを持つ一連の音声と,飼い主が自分に望んでいる行動とを結びつけ,それを実践してみせます.
その圧倒的に不利な条件を勘案すれば,これを 「コトバを理解した」 と表現することくらいは許されてもいーんじゃね?と,個人的には思うのです.
人が人に 「犬に○×を教えた」 と言うとき,そこには 「教えるのには結構な技術と忍耐と努力がいったんだかんな」 という微かな自負が漂いますが,犬にだって同じくらい,いや多分それ以上の苦労があったはずなのです.
-(2)に続く-
June 30, 2006
幸福体験
ずっと以前に同じようなことを聞いたことがあって,その時はふ~んというくらいでほとんど忘れてたのだが,なぜかここ最近(といっても1年くらいの間),立て続けに「それ」の話を聞いたり読んだりすることが重なった.
「それ」は一種の感覚である.
もっとも,単純に五感を介して入ってくる刺激ではないので,本当に感覚と言えるかどうかはあやしい.
最近流行り(か?)の身体感覚というやつかもしれない.
きっかけは様々だ.
ジョギングのランナーズ・ハイであったり,麻薬によるトリップであったり,ヨガの瞑想であったり,宗教的な信仰を深めたときであったり,良い出産であったり,長年の武道の修練であったりする.
中には,子供時代に一人で夕焼けを見つめていて,突然「それ」を感じたなんて人もいる.
その人の場合は「それ」が原体験になっていて,何か辛いことがあるたびにその感じを思い出しては立ち直るということを何十年も繰り返してきたらしい.
体験者の表現はいろいろだが,共通するのは,「自分が自然(宇宙)のネットワークの一部を構成していて,互いにシンクロしていることを実感する」 というあたりだ.
"宇宙との連帯感" と言ってもよさそうである.
異常なほどの多幸感を伴うらしい.
悲しいかな悔しいかな,自分はそんな経験をしたことが無い.
でも,「あぁそういう幸福感ってあるかもね」 という感じだけはする.
我ながら切ない立場である.
大体,生きることの不条理って,情け容赦も無く広い宇宙にポツンと浮かぶ地球という星で,理由も目的も知らされないまま生まれ,そのまま死んでいくことに集約されると思うのだが,それがある時突然,自分が宇宙や自然と一体であり,祝福されており,存在することに意味があるということを実感するのである.
これは幸福以外の何物でもないだろう.
やがて訪れる死さえ,穏やかに受け入れられるような気がする.
「それ」に穏当な理由をつけるとすれば,例えばヒトの共通的な願望が脳の覚醒レベルの低下によって意識の表層に上ったものだとか,あるいは臨死体験のようにある特殊な状態下にある脳機能の一つだ,といった風に説明できるかもしれない.
でも,それじゃあつまらないというか,そうであってほしくないという気持ちが自分にはある.
ここはやはり細胞や分子レベルで何か未知の共振運動みたいなものがあって,それが幾重ものフィルターをすり抜けて,ふとした拍子に意識の表層に浮かび上がってくるというふうに解釈したい.(例えば,だけど)
つまり感覚通り,宇宙と交信したのである.
その方がうれしい.
で,もしそうだとしたら,動物や植物や微生物たちも同じ感覚を覚えているはず.
いや,大脳皮質という厄介なものが発達していない動植物たちの方が,もっと頻繁に,もっと豊かに,もっとリアルに感じているに違いない・・・と,どうやら人間の中でも鈍感なタチらしい自分はひがみを込めて思ったりする.
ジリジリ照りつける夏の日の下,あるいは刺すような氷雨が降りしきる中,黙々と草を食み続ける羊たち.
そんな彼らが突然,身を捩るようにして躍動するときがある.
それを見ていて 「お,今,感じたな?」 なんて思う.
朝,いつものトイレの時間に,さほど広くも無い囲いの中で突然爆走を始める犬たち.
ヒゲから尻尾の先まで力がみなぎっている.
ヤツらも「それ」を感じたのかも.
動物たちは,生まれることも食べることも遊ぶことも寝ることも死ぬことも,みんな等しく重要で意味があるなんてことを身体で理解してるんだ,きっと.
彼らには虹の橋なんか必要無いわけだ.
人間ってずいぶん損な生き物だという気がしてきた.
「それ」は一種の感覚である.
もっとも,単純に五感を介して入ってくる刺激ではないので,本当に感覚と言えるかどうかはあやしい.
最近流行り(か?)の身体感覚というやつかもしれない.
きっかけは様々だ.
ジョギングのランナーズ・ハイであったり,麻薬によるトリップであったり,ヨガの瞑想であったり,宗教的な信仰を深めたときであったり,良い出産であったり,長年の武道の修練であったりする.
中には,子供時代に一人で夕焼けを見つめていて,突然「それ」を感じたなんて人もいる.
その人の場合は「それ」が原体験になっていて,何か辛いことがあるたびにその感じを思い出しては立ち直るということを何十年も繰り返してきたらしい.
体験者の表現はいろいろだが,共通するのは,「自分が自然(宇宙)のネットワークの一部を構成していて,互いにシンクロしていることを実感する」 というあたりだ.
"宇宙との連帯感" と言ってもよさそうである.
異常なほどの多幸感を伴うらしい.
悲しいかな悔しいかな,自分はそんな経験をしたことが無い.
でも,「あぁそういう幸福感ってあるかもね」 という感じだけはする.
我ながら切ない立場である.
大体,生きることの不条理って,情け容赦も無く広い宇宙にポツンと浮かぶ地球という星で,理由も目的も知らされないまま生まれ,そのまま死んでいくことに集約されると思うのだが,それがある時突然,自分が宇宙や自然と一体であり,祝福されており,存在することに意味があるということを実感するのである.
これは幸福以外の何物でもないだろう.
やがて訪れる死さえ,穏やかに受け入れられるような気がする.
「それ」に穏当な理由をつけるとすれば,例えばヒトの共通的な願望が脳の覚醒レベルの低下によって意識の表層に上ったものだとか,あるいは臨死体験のようにある特殊な状態下にある脳機能の一つだ,といった風に説明できるかもしれない.
でも,それじゃあつまらないというか,そうであってほしくないという気持ちが自分にはある.
ここはやはり細胞や分子レベルで何か未知の共振運動みたいなものがあって,それが幾重ものフィルターをすり抜けて,ふとした拍子に意識の表層に浮かび上がってくるというふうに解釈したい.(例えば,だけど)
つまり感覚通り,宇宙と交信したのである.
その方がうれしい.
で,もしそうだとしたら,動物や植物や微生物たちも同じ感覚を覚えているはず.
いや,大脳皮質という厄介なものが発達していない動植物たちの方が,もっと頻繁に,もっと豊かに,もっとリアルに感じているに違いない・・・と,どうやら人間の中でも鈍感なタチらしい自分はひがみを込めて思ったりする.
ジリジリ照りつける夏の日の下,あるいは刺すような氷雨が降りしきる中,黙々と草を食み続ける羊たち.
そんな彼らが突然,身を捩るようにして躍動するときがある.
それを見ていて 「お,今,感じたな?」 なんて思う.
朝,いつものトイレの時間に,さほど広くも無い囲いの中で突然爆走を始める犬たち.
ヒゲから尻尾の先まで力がみなぎっている.
ヤツらも「それ」を感じたのかも.
動物たちは,生まれることも食べることも遊ぶことも寝ることも死ぬことも,みんな等しく重要で意味があるなんてことを身体で理解してるんだ,きっと.
彼らには虹の橋なんか必要無いわけだ.
人間ってずいぶん損な生き物だという気がしてきた.
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