October 5, 2007

読書妄想文 (6)

え!? 犬?
あ,そうそう,そうでした.

うん,犬ってかわいいよね.

以上

読書妄想文 (5)

ちなみに,仮に無意識の中に身体事象が全部含まれていたとしても,私たちの感覚ではそれらを「知っている」ことにはならない.
なんせ無意識だから.
人間の場合,言語という光によって意識界は明るく照らされている.
その反作用として,無意識を覆う闇は濃く深い.
だから,その喫水線を強引に押し下げる以外に,身体の事象を「知る」ことは難しい.

しかし他の生き物であれば,それら無意識のイメージを,私たちとはまったく違った仕方で認識できているかもしれない.
先に,「動物たちは「動的な平衡状態」というイメージをすでに知っているのでは?」と書いたのはそういう意味だ.
だってどんな現象も自分の中にあるのは事実なんだから,定義によっては「知ってる」と言っても許されそうなもんじゃないですか.
彼らが土にまみれて生まれ,自らの周りの物を喰らい,日に晒され雨に打たれ,時に躍動し,そして淡々と土に還っていく姿を見ていると,どうもそんな気がしてならない.

例えばアリは自分がアリとして生きていることを知ってるのだろうかと,私たち人間は不遜にも疑ったりするが,自分のことを一番知らないのは人間かもしれない.

最後に,もしまろ仮説が当たっているとすれば,人類の到達しうる究極の高みは,生命の秘密を完全に解き明かした時ということになる.
おそらくそれには,物質や宇宙の仕組みも含まれているだろう.
それがどれくらい先なのかは想像もつかないし,そのときまで人類が存続している保障もない.
でももし達成されたとすれば・・・それは人類がミッションを全うしたということなのだろう.

ところで,宇宙は何のために生命にそんなことをさせるのかって?
大方そうやって,自分自身の姿が知りたいんじゃないのかな?


犬の話につづく

読書妄想文 (4)

そうすると必然的に,無意識というのはどうしようもなく巨大なリソースということになる.
どれくらい?と訊かれたって,そんなことはわからない.
ただ,さっきの「創造」の対象を,芸術分野にとどまらずこれまでに人間が生みだしてきたありとあらゆるもの-科学,工学,政治,経済,法律,組織,宗教,犯罪,戦争,遊び,etc,etc-に拡張することができるかもしれない...と思うわけです.

実は福岡氏の本の帯には,次のような推薦文がある.

「超微細な次元における生命のふるまいは,恐ろしいほどに,美しいほどに私たちの日々のふるまいに似ている」

そう,本を読んでいると確かにそんな印象を受ける.
でも,本当にそうなのか?
シュレーディンガーの最初の問のように,私たちは拠って立つ視点を取り違えていないだろうか?
存在の後先を考えれば,むしろ私たちが生命のふるまいに倣って社会を作ってきたと思うべきではないだろうか.

だって考えてみれば変じゃないですか.
およそ人類の歴史が始まって以来,私たちは命の仕組みを探求してきて,しかもここ何百年かは科学という強力なツールを駆使して大きな発見を重ねてきた.
それでもまだ私たちは発見し,驚き続けている.
今現在も世界中の科学者が,熾烈な研究競争を繰り広げていて,しかも何千何万という彼らが失職せずにすむくらい,膨大な未解決テーマが存在している.
なぜ,いつまでたっても「生命は最大のフロンティア」であり続けるのか?

もちろん,生命の仕組みがあまりにも複雑精妙であるから,という説明はできる.
それはそれで当を得ているだろう.
でも,人間のありとあらゆる創造活動が,実は無意識界の情報すなわち生命の仕組みを意識界に持ってくることなんだと視点を変えてみればどうだろうか?
どこまで行っても生命が最大の謎だということは,むしろ当たり前ということになる.

ちなみに本の中では,ワトソンやクリックによるDNAの2重らせん構造発見のエピソードも紹介されている.
彼らがノーベル賞を受賞するきっかけとなった論文は,ネイチャー誌に掲載された高々2ページの速報にすぎない.
それでも人々がその内容の正当性を信じて疑わなかったのは,「そこに記述された構造のゆるぎない美しさ」のせいであった.
実験や理論ではなく感覚で,人々はその正しさを確信したのだ.
民族や国境を越える芸術作品がそうであるように,科学の成果もまた,私たちの共通的な無意識の何かに共鳴するのではないだろうか?


つづく

October 3, 2007

読書妄想文 (3)

私たちは「たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」」か...
今まで思いつきもしなかったけど,確かにそんなことってありそーだ.
アトム君やターミネータ君がいくら精巧に造られたとしても,やっぱり生物とは決定的に違うわけだ.
悪いけど.
人型ロボットで実現するのが一番難しいのは脳だと一般には思われているが,実は命の基本的な仕組みの方がずっと難しいのかもしれない.

ところで今回書きたかったのは,そんな話とは微妙に違う.
動的平衡状態の説明を読んでいるときに,フと思ったのだ.
動物たちは,そんなことをとっくの昔から「知って」いるのではないだろうか?

なぜかというと,ここからが例によって妄想(俗に "まろ仮説" と呼ばれているアレですね)になる.

まず,人間にとって「知る」とはどういうことなのか.
それは,世の中の事象を表現可能な言語やイメージに一旦翻訳し,それを記憶することだろう.

人間の記憶は意識と無意識に分けて考えることができる.
その関係はよく氷山に擬えられる.
海面から突き出た部分が意識,海面下の部分が無意識に相当するというわけだ.
つまり,無意識は意識よりもずっと大きな部分を占めており,かつ意識は無意識に乗っかった表層部分でしかないということ.
そして普通,その内容を言語やイメージで表現できるのは,つまり私たちが「知っている」と言えるのは,海面上にある意識領域に限られている.

人間は太古の昔から,意識の喫水線をじりりと無意識側に押し下げる作業に営々と取り組んできた.
これが「創造」という作業である...と養老孟司さんがどこかで書かれていた.
つまり,無意識下にあるモヤモヤした何かを,意識が捉えることのできる形に翻訳変換することが,無から有を生じると言われる「創造」の正体なのだと.

なるほど...
じゃあ,その無意識とは何なんだろう?
個人的にはこれまで,無意識とは自身の抑圧された記憶とか人類や生物としての原始の記憶とか,他にもいろいろあるだろうけど,とにかく何か精神的,心理的なものを指すんだろうと思っていた.
だから「創造」の対象も,きっと美術や音楽などの芸術分野の話なんだろうと,これも勝手に想像していた.

でも最近(ついさっきだけど),そこに私たちの身体を構成するあらゆる要素を含めて考えてもいいのでは,と思いはじめた.
内臓の機能や感覚,細胞,分子レベルの構造や機能や作用なども一切合財ひっくるめて全部だ.
ミクロからマクロの現象全部.


つづく...はず

September 28, 2007

読書妄想文 (2)

面白いでしょ?

この本の結論を先取りすると,現代科学が到達した "生命観" は,
 1) 自己複製するシステム
 2) 動的平衡にある流れ
の2つに集約される.

1)はまぁわかるとして(DNA構造発見にまつわるダークなエピソードがこれまたおもしろいのだが),2)の「動的な平衡」 とは何なのか?
端的に言ってしまえばこれは,分子レベルで見れば,生物の身体が外界の物質と絶えず置き換わっていることを表わしている.
細胞が死と再生を繰り返す話はわかりやすいが,これは細胞レベルの話ではない.
生きて活動している細胞も,それを構成する分子は,絶え間なく,かつ意外なほど高速に新しい分子に置き換わっているのだ.

シュレーディンガーが正しいかどうかは置いとくとして,外乱/内乱によって組織が常に損傷の危機に晒されているのは事実.
生命は不可避的に増大するエントロピーに対抗するため,組織を堅牢無比にするのではなく,自らを流れの中に置き,エントロピーを排出する方策を採ったのだ.

それを実証する実験結果を説明した後,著者はそのイメージを次のように表現する.
「生命とは要素が集合してできた構成物ではなく,要素の流れがもたらすところの効果なのだ」
「肉体というものについて,私たちは自らの感覚として,外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている.しかし,分子のレベルではその実感はまったく担保されていない.」
「私たち生命体は,たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない.しかも,それは高速に入れ替わっている.この流れ自体が「生きている」ということであり,・・・」
「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない.」

私たちが貝殻から感じ取っていたのは,そんな動的な流れだけが生み出すことのできる,ある種の "秩序" だったのである.


つづく

読書妄想文 (1)

砂浜に散らばる小石.
どれもが波に洗われ小さく滑らかである.
そんな小石の中から,私たちは貝殻を拾い上げることができる.
同じような形,硬さ,重さ,テクスチャの無数の石の中から特に迷いもせずに.

私たちは世の中の"もの"を見たとき,それが命あるものかそうでないかを瞬時に見分けることができる.
貝殻や落ち葉のようにすでに命を終えた断片に対しても,過去の生命活動の痕跡を認め,ほとんど判断を過つことが無い.考えてみれば不思議な話だ.

私たちは,貝殻に何を見ているのだろう?
生命の本質とは一体何なのだろう?

福岡伸一氏の「生物と無生物の間」はこんなスリリングな疑問に,現役の分子生物学者として,また好奇心溢れる一人の子供として接近を試みた書である.
氏の筆力と相まって,そこに紹介されるエピソードはやけにおもしろい.

例えばその一つ.
波動方程式で有名なシュレーディンガーは,晩年の著書「The Secret of Life」の中で次のような問を読者に投げかけた.

「原子はなぜこんなにも小さいのか?」

この人を食ったような問には,ちょっとしたトリックが隠されている.
大きい小さいは相対的な形容でしかないのだから,上の問には暗黙の比較対象があるはずである.
それはこの問を発している "人間" である.
実はこれは次の問と等価であり,著者の関心もここにある.

「生物は(原子や分子に較べて)なぜこんなにも大きいのか?」

これに対するシュレーディンガー自身の解釈はこうだ.

私たちが観測する物理現象は,その対象を構成する原子の "平均的な" 振る舞いによって決まる.
例えば透明な水の中に垂らしたインクは,その周囲方向に一様に拡散していくように見えるが,もしある瞬間に分子一個一個の運動を観測できたとすれば,そのいくつかは勝手な方向に動いている.しかしその絶対数が少ないため,全体としてインクは拡散しているように見える.
平均から離れて例外的なふるまいをする粒子の頻度は,統計的に "平方根の法則" に従う.
つまり100個の粒子があれば,そのうちのルート100,すなわち10個程度は変なふるまいをする.

仮にこれらを不良(ワル)とすると,100人の高校ではそのうちの10人,つまりは生徒の10%がワルということになる.
生徒全体が10000人に増えればワルも100人になるが,その割合は1%に激減する.
どちらの高校の風紀が良いかは明らかだろう.
シュレーディンガーは,生命体が原子に較べて圧倒的に大きい理由はここにあると指摘した.
つまり,組織に参加する粒子が少なければ,平均的なふるまいから外れる粒子の影響=誤差率が高まる.生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ,「生物はこんなにも大きく」ならなければいけなかったのである.


つづく

May 4, 2007

バランス(5) 時間と感情と脳と身体と光と闇が結局どうしたって?

唐突ですが,どこまで行ってもまとまる気配が無いのでこの辺でやめます.
「一体何だって言うんだ!」などと怒るのは健康に良くないですよっと.

どうしてバランスなどということが気になり出したのかと記憶を辿ると,どうやら数年前にHiroさんがイギリスのファームにお邪魔した時に遡るようだ.
ドッグトレーナー(というより飼い主トレーナー)でもあるそこの農場主は "Everythig is balance!" としきりに強調していたのだそうだ.
どういう文脈で使われたのかはとうに忘れたが,伝え聞いたその言葉だけは胸のあたりに引っかかって残っている.
もちろんトレーニング中に使われたのだろうが,作業と普段の生活を切り離して考えない彼女の考え方から推して,その他にも様々な含意があっての言葉だと思われてならない.

そういえば自分は犬が好きだが,その理由の一つに彼らに感じるバランスの良さがある.
どんなバランスかというとそれはまぁ色々あるのだけど,象徴的なのは,細っこくてしなやかな4つ足で大地を踏みしめ,頭と尾がなんとも言えない調和を感じさせるその姿態である.
それに比べると(とゆーか別に比べなくても),ひょろっと細長い身体ででかい頭を支える人間は,とても危なっかしく見える.

過去を振り返らず未来を憂えず,今を精一杯生きる犬たちに,なぜか私たち人間は惹かれ癒される(ああ,なんかヤな言葉だけど).
さまざまな無理や面倒を抱えながらも一緒に暮らそうとする.
もともと,犬と人間は生きるための自然なバランスの中で共生関係を育んできた.
今,脳社会と言われる空間を作りそこで暮らし始めた人間は,自らの失われたバランスを補うため,犬への依存を始めたのではないだろうか?

おわり
 

バランス(4) 時間と感情と脳と身体と光と闇の話

私たちの生活を見渡すと,今,身体に対する脳優位のバランスが微妙なところにまで来ていると思う.

例ばかりで申し訳ないけれど,例えばここに喉の渇いた子供がいるとする.
彼はポケットから小銭を出して近くの自販機に入れ,ボタンを押してチャリンガラガラとジュース入りのペットボトルをゲットするだろう.
これってもうバランス悪いですよね?
本来喉を潤すためには,人に頼んで分けてもらうとか自ら川に出向くとか水を貯めておくとか,それなりの努力が必要なはず.まして,「甘く冷たい」水を飲むためには,どれほどの工夫と労力がいることか.
自分だってそんな努力はご免蒙りたいけれど,それが本来のバランスだと思う.

もちろん子供が使った小銭は,彼の親が汗水流して得たものであり,自販機とジュースは何百何千という人が関わって用意したものであって,本当は驚くほどの労力がかかっているのだが,当人はそんなこと知ったこっちゃない.
人間社会では欲望を満たす場面と,そのために努力が払われる場面が時間的,空間的に隔てられていて,その関係が見えなくなっている.
そのおかげで私たちは,飢餓や寒さに怯えることもなく,生活を愉しむことができるという大きな大きなメリットを享受しているわけで,それに文句をつける筋合いも資格も無いのだが,それでもやっぱりバランスは変だよね?って思ってしまう.

生産と消費の場を分かつことができたのは,時間モデル思考の賜物だろう.
「今,ここで作ったものがいづれ誰かの欲求を満たす」「将来きっと必要になるから,今のうちに作っておこう」「そういえば,あの時こんなものがあれば便利だったろうな」・・・とか.
それは私たちに物質的な豊かさをもたらしたが,脳が時間モデルで考えた欲望である以上,自然な抑制は働かない.
それは良いとか悪いとかの問題じゃない.
そんな単純なものじゃないだろうし,少なくとも自然のバランスを崩すことによって人間は死を遠ざけ,便利を手に入れてきたのである.
進歩を否定するつもりは毛頭無いし,懐古趣味に浸りたいわけでもない.
ただ,どこぞのブログで見つけた言い回しを借りれば,要は「光の輝きが増せば増すほど闇もまたその深さを増す」ということなのだろう.

人間は自然のバランスを放棄する道を選んだ.
そうである以上,光と闇のバランスを自らの手で創り出していく必要がある.

つづく
 

May 2, 2007

バランス(3) 時間と感情と脳と身体の話

何が言いたいのかというと実はこれが自分でもよくわからないまま書いている.
別に「時間とは何か?」などと分を超えた話をしたいのではない.
ただ,最近 "バランス" という言葉が妙に気になっていて,それは犬や家畜たちを見ていると特に強く意識されるのだけれど,どうもその辺から自分たち人間のバランスというものを考えてみたいのかもしれない.

一部の人に嫌な思いをさせたかもしれない死の話を持ち出したのは,それを悼む気持ちを私たちは「自然な感情」などとシラっと言ってのけるが,自然界を見渡せば,むしろ人間だけが持つ特異な感情構造かもしれない,ということを言ってみたかったのだ.
時間は人間の脳が考え出した概念で,生活を送る上で必要不可欠(本当か?)だが,他の動物には無い感情の増幅装置にもなっているのである.

脳と言えば身体・・・というわけで話は変わる.
前にも少し書いたが,仮に人間の感情や行動決定の出所を脳と身体に分けて考えると,おそらく一般に受けとられているのとは逆に,身体は穏当で脳は過激である.
栄養を求めるのは身体で,美食を求めて止まないのは脳だ.
例えば人が人を憎むとき,脳のバーチャルな想念は簡単に殺人にまで行き着くが,そのような過激な行動とにブレーキをかけるのは身体である.

「どうして人を苛めてはいけないのか」「なぜ人を殺しちゃだめなの?」・・・出し抜けに子供に訊かれたら答に窮する類の問である.
おそらくそれは,そのような行動を抑止するのが理屈ではなく身体感覚だからだ.
身体の主張を言語化することはとても難しい.
先の問いにどれだけ言葉を尽くしたとしても,「腑に落ちる」回答にはならない.
そこには,人格的な迫力とか眼力とか計算抜きの暴力とか,それこそ言葉で特定するのは難しいけれど,何らかの身体的メッセージが必要なのだろう.

インターネットの議論が簡単に炎上するのも,よく匿名性が原因だと言われるが,身体性の不在も大きな理由だろう.
人が人を言葉で攻撃するとき,つまり口の筋肉を動かし肺から空気を押し出すとき,それらの運動にはおそらくは生存確率の大小といったクールな損得計算からはじき出された抑制が働く.
相手に向かって非難とか求愛とか攻撃などの言葉を口にするには,一人でキーボードを叩くよりも何倍ものエネルギーが必要なのである.
それらは,人間関係に重大な影響を及ぼす,ひいては彼我の生存に関わる「強くて重い言葉」だからだ.
身体を離れ抑制を解かれた言葉は,簡単に一線を超えてしまう.

オオカミ同士がいくら激しく喧嘩をしても,片方が腹(喉)を見せて降参ポーズをとればそれ以上の攻撃が抑止されるのは有名な話だ(ローレンツ博士でしたっけ).
この習性は教育にも個体差にも拠らない.
尻尾や被毛と同じように,生まれながらに持っている彼らの血肉の一部だ.
社会的動物にとって攻撃の抑制は,それくらい強固なメッセージなのだ.
それが本来の脳と身体の力関係なのだろう.

つづく
 

バランス(2) 時間と感情の話

それが妥当かどうかは置いといて,私たち人間は過去から未来につながる一本の道のように時間をイメージしていて,思考や感覚の隅々にまでそれが浸透している.
だから逆に,無時間モデルの心理を想像することは難しい.
以前このエッセイの中で,ぐれぐの独白という形でそんな心理を文章にしてみようとしたが,完全に失敗してしまった.
時間的な表現を使わないと,まったくと言っていいほど文章が書けないのだ.
時間とコトバ(=人間の考え方や感覚)が切り離せないものだということだけは,身に染みてわかった.

だからこれも想像でしかないのだけれど,犬には「死」という概念が無いのではなかろうか.
もちろん犬だって,生あるものとそうでないものは区別する.
しかし,死というものが生きている状態からから死んだ状態への変化そのものを指すとすれば,それは時間モデルでないと理解しづらいからだ.

主が他界したときにその飼い犬が身も世も無く悲嘆にくれるという図は,人間が願望込みで創作した(忠犬ハチ公のような)物語だろう.
人は自身の感情を犬に投影し,生前のなつき振りから推して主を亡くした犬の悲しみは如何ほどのものかと想像を膨らませるが,大抵の場合,犬は思ったより平気なのだ.
それを物足りなく思う人は,わざわざ遺体の傍に連れてきて「ほらお前の主人だよ,もう遊べないんだよ!」などと,愁嘆場を演出しようとする.

愛しい対象を亡くしたときに私たちの悲しみが悲痛なのは,共に過ごした過去を追想し,もう二度と会えないという未来の絶望に心が捉われるからだ.
しかし犬は,目の前の遺体が「死んだもの」であることは十分理解しながらも,過去や未来に思いを馳せてまで悲嘆することはしない(と思う).
もし犬が,自らが嘆き悲しむことで残された人間が少しでも救われることを知っていたら,彼らは喜んでそうするだろうけれど.

つづく
 

バランス(1) 時間の話

人間とサメが水中エサ採り競争をすればどちらが勝つだろうか?
(人間が同じくらい速く泳げたとしても)おそらくサメである.
未知の物体に出会ったとき,サメはそれを「食べられるもの」か「そうでない」かの二者択一で判別するが,人間には,それに加えて「よくわからない」という判断カテゴリがある.
そのための一瞬の躊躇が,サメの勝率を有意に高くするだろうというへ理屈でした.

これはサメと人間の思考の大きな違いである.
「よくわからない」という判断は,それが当面の行動には結びつかないという理由で,サメにとっては何の意味もない.
同じ「わからない」が人間にとって意味があるのは,その価値が「今はわからなくても,そのうちわかるだろう」という期待に担保されていて,また答が得られたときに「ああ,あれのことね」と過去に遡って記憶をリンクさせることができるからである.
つまり未来や過去という時間モデルを導入することで,「わからない」は積極的な意味を持つ.人間はこれを最大限に利活用して知識を増やしてきた.

動物学者によると,基本的に動物の思考は無時間モデルなのだそうだ.
本当かどうかは知らない.
でも確かに,「待て」コマンドで丸一日同じ場所でうずくまる犬なんか見聞きすると,時間の概念なんて無いんだろーなと思える.(いくら犬だって「俺もう3時間も待ってるんだよな・・」って考え出したらやってられないよね)
ただ,例えば「仕事をすれば褒められる」とか「朝になれば散歩に行く」など,少なくとも順序や因果関係は理解しているから完全に無いとも思えない.
おそらく考量する時間のスパンが長いか短いかという,量的な違いではないだろうか.

それはともかく,うちの犬たちに「時間がもったいない」という概念が無いのは確かだ.
日に数回,多くは昼前後の数時間,みわファームの時間は止まる.
部屋にできた陽だまりで,折り重なり,裏返しになり,白目を剥き,手足を震わせ,犬たちは一丸となって惰眠を貪る.
そこにあるのは,「いま,ここで」いかに心地良く過ごすかという赤裸々かつ破廉恥な欲望だけである.
起きぬけに,過ぎ去った時間を悔いる犬はいない.
いたら気持ち悪いやね.
 
つづく