そうすると必然的に,無意識というのはどうしようもなく巨大なリソースということになる.
どれくらい?と訊かれたって,そんなことはわからない.
ただ,さっきの「創造」の対象を,芸術分野にとどまらずこれまでに人間が生みだしてきたありとあらゆるもの-科学,工学,政治,経済,法律,組織,宗教,犯罪,戦争,遊び,etc,etc-に拡張することができるかもしれない...と思うわけです.
実は福岡氏の本の帯には,次のような推薦文がある.
「超微細な次元における生命のふるまいは,恐ろしいほどに,美しいほどに私たちの日々のふるまいに似ている」
そう,本を読んでいると確かにそんな印象を受ける.
でも,本当にそうなのか?
シュレーディンガーの最初の問のように,私たちは拠って立つ視点を取り違えていないだろうか?
存在の後先を考えれば,むしろ私たちが生命のふるまいに倣って社会を作ってきたと思うべきではないだろうか.
だって考えてみれば変じゃないですか.
およそ人類の歴史が始まって以来,私たちは命の仕組みを探求してきて,しかもここ何百年かは科学という強力なツールを駆使して大きな発見を重ねてきた.
それでもまだ私たちは発見し,驚き続けている.
今現在も世界中の科学者が,熾烈な研究競争を繰り広げていて,しかも何千何万という彼らが失職せずにすむくらい,膨大な未解決テーマが存在している.
なぜ,いつまでたっても「生命は最大のフロンティア」であり続けるのか?
もちろん,生命の仕組みがあまりにも複雑精妙であるから,という説明はできる.
それはそれで当を得ているだろう.
でも,人間のありとあらゆる創造活動が,実は無意識界の情報すなわち生命の仕組みを意識界に持ってくることなんだと視点を変えてみればどうだろうか?
どこまで行っても生命が最大の謎だということは,むしろ当たり前ということになる.
ちなみに本の中では,ワトソンやクリックによるDNAの2重らせん構造発見のエピソードも紹介されている.
彼らがノーベル賞を受賞するきっかけとなった論文は,ネイチャー誌に掲載された高々2ページの速報にすぎない.
それでも人々がその内容の正当性を信じて疑わなかったのは,「そこに記述された構造のゆるぎない美しさ」のせいであった.
実験や理論ではなく感覚で,人々はその正しさを確信したのだ.
民族や国境を越える芸術作品がそうであるように,科学の成果もまた,私たちの共通的な無意識の何かに共鳴するのではないだろうか?
つづく
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