October 3, 2007

読書妄想文 (3)

私たちは「たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」」か...
今まで思いつきもしなかったけど,確かにそんなことってありそーだ.
アトム君やターミネータ君がいくら精巧に造られたとしても,やっぱり生物とは決定的に違うわけだ.
悪いけど.
人型ロボットで実現するのが一番難しいのは脳だと一般には思われているが,実は命の基本的な仕組みの方がずっと難しいのかもしれない.

ところで今回書きたかったのは,そんな話とは微妙に違う.
動的平衡状態の説明を読んでいるときに,フと思ったのだ.
動物たちは,そんなことをとっくの昔から「知って」いるのではないだろうか?

なぜかというと,ここからが例によって妄想(俗に "まろ仮説" と呼ばれているアレですね)になる.

まず,人間にとって「知る」とはどういうことなのか.
それは,世の中の事象を表現可能な言語やイメージに一旦翻訳し,それを記憶することだろう.

人間の記憶は意識と無意識に分けて考えることができる.
その関係はよく氷山に擬えられる.
海面から突き出た部分が意識,海面下の部分が無意識に相当するというわけだ.
つまり,無意識は意識よりもずっと大きな部分を占めており,かつ意識は無意識に乗っかった表層部分でしかないということ.
そして普通,その内容を言語やイメージで表現できるのは,つまり私たちが「知っている」と言えるのは,海面上にある意識領域に限られている.

人間は太古の昔から,意識の喫水線をじりりと無意識側に押し下げる作業に営々と取り組んできた.
これが「創造」という作業である...と養老孟司さんがどこかで書かれていた.
つまり,無意識下にあるモヤモヤした何かを,意識が捉えることのできる形に翻訳変換することが,無から有を生じると言われる「創造」の正体なのだと.

なるほど...
じゃあ,その無意識とは何なんだろう?
個人的にはこれまで,無意識とは自身の抑圧された記憶とか人類や生物としての原始の記憶とか,他にもいろいろあるだろうけど,とにかく何か精神的,心理的なものを指すんだろうと思っていた.
だから「創造」の対象も,きっと美術や音楽などの芸術分野の話なんだろうと,これも勝手に想像していた.

でも最近(ついさっきだけど),そこに私たちの身体を構成するあらゆる要素を含めて考えてもいいのでは,と思いはじめた.
内臓の機能や感覚,細胞,分子レベルの構造や機能や作用なども一切合財ひっくるめて全部だ.
ミクロからマクロの現象全部.


つづく...はず

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