May 2, 2007

バランス(3) 時間と感情と脳と身体の話

何が言いたいのかというと実はこれが自分でもよくわからないまま書いている.
別に「時間とは何か?」などと分を超えた話をしたいのではない.
ただ,最近 "バランス" という言葉が妙に気になっていて,それは犬や家畜たちを見ていると特に強く意識されるのだけれど,どうもその辺から自分たち人間のバランスというものを考えてみたいのかもしれない.

一部の人に嫌な思いをさせたかもしれない死の話を持ち出したのは,それを悼む気持ちを私たちは「自然な感情」などとシラっと言ってのけるが,自然界を見渡せば,むしろ人間だけが持つ特異な感情構造かもしれない,ということを言ってみたかったのだ.
時間は人間の脳が考え出した概念で,生活を送る上で必要不可欠(本当か?)だが,他の動物には無い感情の増幅装置にもなっているのである.

脳と言えば身体・・・というわけで話は変わる.
前にも少し書いたが,仮に人間の感情や行動決定の出所を脳と身体に分けて考えると,おそらく一般に受けとられているのとは逆に,身体は穏当で脳は過激である.
栄養を求めるのは身体で,美食を求めて止まないのは脳だ.
例えば人が人を憎むとき,脳のバーチャルな想念は簡単に殺人にまで行き着くが,そのような過激な行動とにブレーキをかけるのは身体である.

「どうして人を苛めてはいけないのか」「なぜ人を殺しちゃだめなの?」・・・出し抜けに子供に訊かれたら答に窮する類の問である.
おそらくそれは,そのような行動を抑止するのが理屈ではなく身体感覚だからだ.
身体の主張を言語化することはとても難しい.
先の問いにどれだけ言葉を尽くしたとしても,「腑に落ちる」回答にはならない.
そこには,人格的な迫力とか眼力とか計算抜きの暴力とか,それこそ言葉で特定するのは難しいけれど,何らかの身体的メッセージが必要なのだろう.

インターネットの議論が簡単に炎上するのも,よく匿名性が原因だと言われるが,身体性の不在も大きな理由だろう.
人が人を言葉で攻撃するとき,つまり口の筋肉を動かし肺から空気を押し出すとき,それらの運動にはおそらくは生存確率の大小といったクールな損得計算からはじき出された抑制が働く.
相手に向かって非難とか求愛とか攻撃などの言葉を口にするには,一人でキーボードを叩くよりも何倍ものエネルギーが必要なのである.
それらは,人間関係に重大な影響を及ぼす,ひいては彼我の生存に関わる「強くて重い言葉」だからだ.
身体を離れ抑制を解かれた言葉は,簡単に一線を超えてしまう.

オオカミ同士がいくら激しく喧嘩をしても,片方が腹(喉)を見せて降参ポーズをとればそれ以上の攻撃が抑止されるのは有名な話だ(ローレンツ博士でしたっけ).
この習性は教育にも個体差にも拠らない.
尻尾や被毛と同じように,生まれながらに持っている彼らの血肉の一部だ.
社会的動物にとって攻撃の抑制は,それくらい強固なメッセージなのだ.
それが本来の脳と身体の力関係なのだろう.

つづく
 

No comments: