唐突ですが,どこまで行ってもまとまる気配が無いのでこの辺でやめます.
「一体何だって言うんだ!」などと怒るのは健康に良くないですよっと.
どうしてバランスなどということが気になり出したのかと記憶を辿ると,どうやら数年前にHiroさんがイギリスのファームにお邪魔した時に遡るようだ.
ドッグトレーナー(というより飼い主トレーナー)でもあるそこの農場主は "Everythig is balance!" としきりに強調していたのだそうだ.
どういう文脈で使われたのかはとうに忘れたが,伝え聞いたその言葉だけは胸のあたりに引っかかって残っている.
もちろんトレーニング中に使われたのだろうが,作業と普段の生活を切り離して考えない彼女の考え方から推して,その他にも様々な含意があっての言葉だと思われてならない.
そういえば自分は犬が好きだが,その理由の一つに彼らに感じるバランスの良さがある.
どんなバランスかというとそれはまぁ色々あるのだけど,象徴的なのは,細っこくてしなやかな4つ足で大地を踏みしめ,頭と尾がなんとも言えない調和を感じさせるその姿態である.
それに比べると(とゆーか別に比べなくても),ひょろっと細長い身体ででかい頭を支える人間は,とても危なっかしく見える.
過去を振り返らず未来を憂えず,今を精一杯生きる犬たちに,なぜか私たち人間は惹かれ癒される(ああ,なんかヤな言葉だけど).
さまざまな無理や面倒を抱えながらも一緒に暮らそうとする.
もともと,犬と人間は生きるための自然なバランスの中で共生関係を育んできた.
今,脳社会と言われる空間を作りそこで暮らし始めた人間は,自らの失われたバランスを補うため,犬への依存を始めたのではないだろうか?
おわり
May 4, 2007
バランス(4) 時間と感情と脳と身体と光と闇の話
私たちの生活を見渡すと,今,身体に対する脳優位のバランスが微妙なところにまで来ていると思う.
例ばかりで申し訳ないけれど,例えばここに喉の渇いた子供がいるとする.
彼はポケットから小銭を出して近くの自販機に入れ,ボタンを押してチャリンガラガラとジュース入りのペットボトルをゲットするだろう.
これってもうバランス悪いですよね?
本来喉を潤すためには,人に頼んで分けてもらうとか自ら川に出向くとか水を貯めておくとか,それなりの努力が必要なはず.まして,「甘く冷たい」水を飲むためには,どれほどの工夫と労力がいることか.
自分だってそんな努力はご免蒙りたいけれど,それが本来のバランスだと思う.
もちろん子供が使った小銭は,彼の親が汗水流して得たものであり,自販機とジュースは何百何千という人が関わって用意したものであって,本当は驚くほどの労力がかかっているのだが,当人はそんなこと知ったこっちゃない.
人間社会では欲望を満たす場面と,そのために努力が払われる場面が時間的,空間的に隔てられていて,その関係が見えなくなっている.
そのおかげで私たちは,飢餓や寒さに怯えることもなく,生活を愉しむことができるという大きな大きなメリットを享受しているわけで,それに文句をつける筋合いも資格も無いのだが,それでもやっぱりバランスは変だよね?って思ってしまう.
生産と消費の場を分かつことができたのは,時間モデル思考の賜物だろう.
「今,ここで作ったものがいづれ誰かの欲求を満たす」「将来きっと必要になるから,今のうちに作っておこう」「そういえば,あの時こんなものがあれば便利だったろうな」・・・とか.
それは私たちに物質的な豊かさをもたらしたが,脳が時間モデルで考えた欲望である以上,自然な抑制は働かない.
それは良いとか悪いとかの問題じゃない.
そんな単純なものじゃないだろうし,少なくとも自然のバランスを崩すことによって人間は死を遠ざけ,便利を手に入れてきたのである.
進歩を否定するつもりは毛頭無いし,懐古趣味に浸りたいわけでもない.
ただ,どこぞのブログで見つけた言い回しを借りれば,要は「光の輝きが増せば増すほど闇もまたその深さを増す」ということなのだろう.
人間は自然のバランスを放棄する道を選んだ.
そうである以上,光と闇のバランスを自らの手で創り出していく必要がある.
つづく
例ばかりで申し訳ないけれど,例えばここに喉の渇いた子供がいるとする.
彼はポケットから小銭を出して近くの自販機に入れ,ボタンを押してチャリンガラガラとジュース入りのペットボトルをゲットするだろう.
これってもうバランス悪いですよね?
本来喉を潤すためには,人に頼んで分けてもらうとか自ら川に出向くとか水を貯めておくとか,それなりの努力が必要なはず.まして,「甘く冷たい」水を飲むためには,どれほどの工夫と労力がいることか.
自分だってそんな努力はご免蒙りたいけれど,それが本来のバランスだと思う.
もちろん子供が使った小銭は,彼の親が汗水流して得たものであり,自販機とジュースは何百何千という人が関わって用意したものであって,本当は驚くほどの労力がかかっているのだが,当人はそんなこと知ったこっちゃない.
人間社会では欲望を満たす場面と,そのために努力が払われる場面が時間的,空間的に隔てられていて,その関係が見えなくなっている.
そのおかげで私たちは,飢餓や寒さに怯えることもなく,生活を愉しむことができるという大きな大きなメリットを享受しているわけで,それに文句をつける筋合いも資格も無いのだが,それでもやっぱりバランスは変だよね?って思ってしまう.
生産と消費の場を分かつことができたのは,時間モデル思考の賜物だろう.
「今,ここで作ったものがいづれ誰かの欲求を満たす」「将来きっと必要になるから,今のうちに作っておこう」「そういえば,あの時こんなものがあれば便利だったろうな」・・・とか.
それは私たちに物質的な豊かさをもたらしたが,脳が時間モデルで考えた欲望である以上,自然な抑制は働かない.
それは良いとか悪いとかの問題じゃない.
そんな単純なものじゃないだろうし,少なくとも自然のバランスを崩すことによって人間は死を遠ざけ,便利を手に入れてきたのである.
進歩を否定するつもりは毛頭無いし,懐古趣味に浸りたいわけでもない.
ただ,どこぞのブログで見つけた言い回しを借りれば,要は「光の輝きが増せば増すほど闇もまたその深さを増す」ということなのだろう.
人間は自然のバランスを放棄する道を選んだ.
そうである以上,光と闇のバランスを自らの手で創り出していく必要がある.
つづく
May 2, 2007
バランス(3) 時間と感情と脳と身体の話
何が言いたいのかというと実はこれが自分でもよくわからないまま書いている.
別に「時間とは何か?」などと分を超えた話をしたいのではない.
ただ,最近 "バランス" という言葉が妙に気になっていて,それは犬や家畜たちを見ていると特に強く意識されるのだけれど,どうもその辺から自分たち人間のバランスというものを考えてみたいのかもしれない.
一部の人に嫌な思いをさせたかもしれない死の話を持ち出したのは,それを悼む気持ちを私たちは「自然な感情」などとシラっと言ってのけるが,自然界を見渡せば,むしろ人間だけが持つ特異な感情構造かもしれない,ということを言ってみたかったのだ.
時間は人間の脳が考え出した概念で,生活を送る上で必要不可欠(本当か?)だが,他の動物には無い感情の増幅装置にもなっているのである.
脳と言えば身体・・・というわけで話は変わる.
前にも少し書いたが,仮に人間の感情や行動決定の出所を脳と身体に分けて考えると,おそらく一般に受けとられているのとは逆に,身体は穏当で脳は過激である.
栄養を求めるのは身体で,美食を求めて止まないのは脳だ.
例えば人が人を憎むとき,脳のバーチャルな想念は簡単に殺人にまで行き着くが,そのような過激な行動とにブレーキをかけるのは身体である.
「どうして人を苛めてはいけないのか」「なぜ人を殺しちゃだめなの?」・・・出し抜けに子供に訊かれたら答に窮する類の問である.
おそらくそれは,そのような行動を抑止するのが理屈ではなく身体感覚だからだ.
身体の主張を言語化することはとても難しい.
先の問いにどれだけ言葉を尽くしたとしても,「腑に落ちる」回答にはならない.
そこには,人格的な迫力とか眼力とか計算抜きの暴力とか,それこそ言葉で特定するのは難しいけれど,何らかの身体的メッセージが必要なのだろう.
インターネットの議論が簡単に炎上するのも,よく匿名性が原因だと言われるが,身体性の不在も大きな理由だろう.
人が人を言葉で攻撃するとき,つまり口の筋肉を動かし肺から空気を押し出すとき,それらの運動にはおそらくは生存確率の大小といったクールな損得計算からはじき出された抑制が働く.
相手に向かって非難とか求愛とか攻撃などの言葉を口にするには,一人でキーボードを叩くよりも何倍ものエネルギーが必要なのである.
それらは,人間関係に重大な影響を及ぼす,ひいては彼我の生存に関わる「強くて重い言葉」だからだ.
身体を離れ抑制を解かれた言葉は,簡単に一線を超えてしまう.
オオカミ同士がいくら激しく喧嘩をしても,片方が腹(喉)を見せて降参ポーズをとればそれ以上の攻撃が抑止されるのは有名な話だ(ローレンツ博士でしたっけ).
この習性は教育にも個体差にも拠らない.
尻尾や被毛と同じように,生まれながらに持っている彼らの血肉の一部だ.
社会的動物にとって攻撃の抑制は,それくらい強固なメッセージなのだ.
それが本来の脳と身体の力関係なのだろう.
つづく
別に「時間とは何か?」などと分を超えた話をしたいのではない.
ただ,最近 "バランス" という言葉が妙に気になっていて,それは犬や家畜たちを見ていると特に強く意識されるのだけれど,どうもその辺から自分たち人間のバランスというものを考えてみたいのかもしれない.
一部の人に嫌な思いをさせたかもしれない死の話を持ち出したのは,それを悼む気持ちを私たちは「自然な感情」などとシラっと言ってのけるが,自然界を見渡せば,むしろ人間だけが持つ特異な感情構造かもしれない,ということを言ってみたかったのだ.
時間は人間の脳が考え出した概念で,生活を送る上で必要不可欠(本当か?)だが,他の動物には無い感情の増幅装置にもなっているのである.
脳と言えば身体・・・というわけで話は変わる.
前にも少し書いたが,仮に人間の感情や行動決定の出所を脳と身体に分けて考えると,おそらく一般に受けとられているのとは逆に,身体は穏当で脳は過激である.
栄養を求めるのは身体で,美食を求めて止まないのは脳だ.
例えば人が人を憎むとき,脳のバーチャルな想念は簡単に殺人にまで行き着くが,そのような過激な行動とにブレーキをかけるのは身体である.
「どうして人を苛めてはいけないのか」「なぜ人を殺しちゃだめなの?」・・・出し抜けに子供に訊かれたら答に窮する類の問である.
おそらくそれは,そのような行動を抑止するのが理屈ではなく身体感覚だからだ.
身体の主張を言語化することはとても難しい.
先の問いにどれだけ言葉を尽くしたとしても,「腑に落ちる」回答にはならない.
そこには,人格的な迫力とか眼力とか計算抜きの暴力とか,それこそ言葉で特定するのは難しいけれど,何らかの身体的メッセージが必要なのだろう.
インターネットの議論が簡単に炎上するのも,よく匿名性が原因だと言われるが,身体性の不在も大きな理由だろう.
人が人を言葉で攻撃するとき,つまり口の筋肉を動かし肺から空気を押し出すとき,それらの運動にはおそらくは生存確率の大小といったクールな損得計算からはじき出された抑制が働く.
相手に向かって非難とか求愛とか攻撃などの言葉を口にするには,一人でキーボードを叩くよりも何倍ものエネルギーが必要なのである.
それらは,人間関係に重大な影響を及ぼす,ひいては彼我の生存に関わる「強くて重い言葉」だからだ.
身体を離れ抑制を解かれた言葉は,簡単に一線を超えてしまう.
オオカミ同士がいくら激しく喧嘩をしても,片方が腹(喉)を見せて降参ポーズをとればそれ以上の攻撃が抑止されるのは有名な話だ(ローレンツ博士でしたっけ).
この習性は教育にも個体差にも拠らない.
尻尾や被毛と同じように,生まれながらに持っている彼らの血肉の一部だ.
社会的動物にとって攻撃の抑制は,それくらい強固なメッセージなのだ.
それが本来の脳と身体の力関係なのだろう.
つづく
バランス(2) 時間と感情の話
それが妥当かどうかは置いといて,私たち人間は過去から未来につながる一本の道のように時間をイメージしていて,思考や感覚の隅々にまでそれが浸透している.
だから逆に,無時間モデルの心理を想像することは難しい.
以前このエッセイの中で,ぐれぐの独白という形でそんな心理を文章にしてみようとしたが,完全に失敗してしまった.
時間的な表現を使わないと,まったくと言っていいほど文章が書けないのだ.
時間とコトバ(=人間の考え方や感覚)が切り離せないものだということだけは,身に染みてわかった.
だからこれも想像でしかないのだけれど,犬には「死」という概念が無いのではなかろうか.
もちろん犬だって,生あるものとそうでないものは区別する.
しかし,死というものが生きている状態からから死んだ状態への変化そのものを指すとすれば,それは時間モデルでないと理解しづらいからだ.
主が他界したときにその飼い犬が身も世も無く悲嘆にくれるという図は,人間が願望込みで創作した(忠犬ハチ公のような)物語だろう.
人は自身の感情を犬に投影し,生前のなつき振りから推して主を亡くした犬の悲しみは如何ほどのものかと想像を膨らませるが,大抵の場合,犬は思ったより平気なのだ.
それを物足りなく思う人は,わざわざ遺体の傍に連れてきて「ほらお前の主人だよ,もう遊べないんだよ!」などと,愁嘆場を演出しようとする.
愛しい対象を亡くしたときに私たちの悲しみが悲痛なのは,共に過ごした過去を追想し,もう二度と会えないという未来の絶望に心が捉われるからだ.
しかし犬は,目の前の遺体が「死んだもの」であることは十分理解しながらも,過去や未来に思いを馳せてまで悲嘆することはしない(と思う).
もし犬が,自らが嘆き悲しむことで残された人間が少しでも救われることを知っていたら,彼らは喜んでそうするだろうけれど.
つづく
だから逆に,無時間モデルの心理を想像することは難しい.
以前このエッセイの中で,ぐれぐの独白という形でそんな心理を文章にしてみようとしたが,完全に失敗してしまった.
時間的な表現を使わないと,まったくと言っていいほど文章が書けないのだ.
時間とコトバ(=人間の考え方や感覚)が切り離せないものだということだけは,身に染みてわかった.
だからこれも想像でしかないのだけれど,犬には「死」という概念が無いのではなかろうか.
もちろん犬だって,生あるものとそうでないものは区別する.
しかし,死というものが生きている状態からから死んだ状態への変化そのものを指すとすれば,それは時間モデルでないと理解しづらいからだ.
主が他界したときにその飼い犬が身も世も無く悲嘆にくれるという図は,人間が願望込みで創作した(忠犬ハチ公のような)物語だろう.
人は自身の感情を犬に投影し,生前のなつき振りから推して主を亡くした犬の悲しみは如何ほどのものかと想像を膨らませるが,大抵の場合,犬は思ったより平気なのだ.
それを物足りなく思う人は,わざわざ遺体の傍に連れてきて「ほらお前の主人だよ,もう遊べないんだよ!」などと,愁嘆場を演出しようとする.
愛しい対象を亡くしたときに私たちの悲しみが悲痛なのは,共に過ごした過去を追想し,もう二度と会えないという未来の絶望に心が捉われるからだ.
しかし犬は,目の前の遺体が「死んだもの」であることは十分理解しながらも,過去や未来に思いを馳せてまで悲嘆することはしない(と思う).
もし犬が,自らが嘆き悲しむことで残された人間が少しでも救われることを知っていたら,彼らは喜んでそうするだろうけれど.
つづく
バランス(1) 時間の話
人間とサメが水中エサ採り競争をすればどちらが勝つだろうか?
(人間が同じくらい速く泳げたとしても)おそらくサメである.
未知の物体に出会ったとき,サメはそれを「食べられるもの」か「そうでない」かの二者択一で判別するが,人間には,それに加えて「よくわからない」という判断カテゴリがある.
そのための一瞬の躊躇が,サメの勝率を有意に高くするだろうというへ理屈でした.
これはサメと人間の思考の大きな違いである.
「よくわからない」という判断は,それが当面の行動には結びつかないという理由で,サメにとっては何の意味もない.
同じ「わからない」が人間にとって意味があるのは,その価値が「今はわからなくても,そのうちわかるだろう」という期待に担保されていて,また答が得られたときに「ああ,あれのことね」と過去に遡って記憶をリンクさせることができるからである.
つまり未来や過去という時間モデルを導入することで,「わからない」は積極的な意味を持つ.人間はこれを最大限に利活用して知識を増やしてきた.
動物学者によると,基本的に動物の思考は無時間モデルなのだそうだ.
本当かどうかは知らない.
でも確かに,「待て」コマンドで丸一日同じ場所でうずくまる犬なんか見聞きすると,時間の概念なんて無いんだろーなと思える.(いくら犬だって「俺もう3時間も待ってるんだよな・・」って考え出したらやってられないよね)
ただ,例えば「仕事をすれば褒められる」とか「朝になれば散歩に行く」など,少なくとも順序や因果関係は理解しているから完全に無いとも思えない.
おそらく考量する時間のスパンが長いか短いかという,量的な違いではないだろうか.
それはともかく,うちの犬たちに「時間がもったいない」という概念が無いのは確かだ.
日に数回,多くは昼前後の数時間,みわファームの時間は止まる.
部屋にできた陽だまりで,折り重なり,裏返しになり,白目を剥き,手足を震わせ,犬たちは一丸となって惰眠を貪る.
そこにあるのは,「いま,ここで」いかに心地良く過ごすかという赤裸々かつ破廉恥な欲望だけである.
起きぬけに,過ぎ去った時間を悔いる犬はいない.
いたら気持ち悪いやね.
つづく
(人間が同じくらい速く泳げたとしても)おそらくサメである.
未知の物体に出会ったとき,サメはそれを「食べられるもの」か「そうでない」かの二者択一で判別するが,人間には,それに加えて「よくわからない」という判断カテゴリがある.
そのための一瞬の躊躇が,サメの勝率を有意に高くするだろうというへ理屈でした.
これはサメと人間の思考の大きな違いである.
「よくわからない」という判断は,それが当面の行動には結びつかないという理由で,サメにとっては何の意味もない.
同じ「わからない」が人間にとって意味があるのは,その価値が「今はわからなくても,そのうちわかるだろう」という期待に担保されていて,また答が得られたときに「ああ,あれのことね」と過去に遡って記憶をリンクさせることができるからである.
つまり未来や過去という時間モデルを導入することで,「わからない」は積極的な意味を持つ.人間はこれを最大限に利活用して知識を増やしてきた.
動物学者によると,基本的に動物の思考は無時間モデルなのだそうだ.
本当かどうかは知らない.
でも確かに,「待て」コマンドで丸一日同じ場所でうずくまる犬なんか見聞きすると,時間の概念なんて無いんだろーなと思える.(いくら犬だって「俺もう3時間も待ってるんだよな・・」って考え出したらやってられないよね)
ただ,例えば「仕事をすれば褒められる」とか「朝になれば散歩に行く」など,少なくとも順序や因果関係は理解しているから完全に無いとも思えない.
おそらく考量する時間のスパンが長いか短いかという,量的な違いではないだろうか.
それはともかく,うちの犬たちに「時間がもったいない」という概念が無いのは確かだ.
日に数回,多くは昼前後の数時間,みわファームの時間は止まる.
部屋にできた陽だまりで,折り重なり,裏返しになり,白目を剥き,手足を震わせ,犬たちは一丸となって惰眠を貪る.
そこにあるのは,「いま,ここで」いかに心地良く過ごすかという赤裸々かつ破廉恥な欲望だけである.
起きぬけに,過ぎ去った時間を悔いる犬はいない.
いたら気持ち悪いやね.
つづく
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