世代限定に見える現象も,突然世の中に出現したとは考えにくい.
少なくともその予兆くらいは,前からあったに違いない.
ギャル語文化で思い当たるのは,メディア界で目立つ言葉の大量消費現象である.
昨今のTVやラジオは,発話の間が空くことを極端に忌み嫌う.
バラエティ番組では,練習を積んだ芸能を見せるというよりは,ちょっと気の利いたアドリブっぽいコメントが持てはやされている.
番組の作りは怖ろしいほど画一的で,どのチャネルを見ても複数のゲストタレントたちがひな壇に並び,一組の司会者とテンション高いやりとりを繰り広げている.
この形式の狙いが何なのかは知らないが,少なくとも,番組空間の言葉密度を上げることには成功している.
タレントに求められるのは,"空気を読" んで違和感無く "場をつなぐ" こと.
その代わり一つ一つのセリフは,テロップが無いと聞き漏らしてしまうような,その時その場でしか力を保持できない言葉である.(その証拠に大ウケした場面を人に紹介しようとしても,1日経てば何がおもしろかったのかまるで思い出せない)
新聞,雑誌,インターネットでは,犬サイトに書かれた場違いな時事世評ネタのようなどーでもいい記事の他に,どこからも文句のつけようがない "正論" がやたらと目につく.
それは例えば, 「○×のリーダーシップが期待される」 か 「国民的な議論が必要だ」 か 「関係者に猛省を促したい」 のどれかで締めくくられる朝日新聞的社説とか,事件が起こるとわざわざ被害者に "現在のお気持ち" を尋ねて,それに対して今は気持ちの整理がつかないと言いながら警察やら学校やら役所やらへの "強い不信感" を訴えるインタビュー記事とか,何が何でも昔と田舎と外国は良くて,現代と都会と日本は良くないという文化評論記事とか,一旦不祥事が起こると重箱の隅まで穿り返し,とにかく 「組織ぐるみの問題」 に仕上げて責任者の謝罪を求める報道記事とか,マニフェストを読んだこともないのに 「政策の説明が不十分」 と詰る市民の声を取り上げて "国民不在の選挙を浮き彫りにする" 世論調査記事...などである.
気の利いたコメントと,どーでもいい記事と,文句のつけようがない正論では,それぞれ中身は随分と違うようだが,差し当たり大衆の誰をも傷つけず,違和感無く紙面や画面を埋めることができるという点で,実はよく似ている.
しかもそれらは,仲間内で承認され登録済みの(力を希釈された)ジャーゴンだけを繰り返し使用する "ギャル語" と,見かけは相似形なのである.
人々は物を大量消費することに価値を置いてきた.
同じように言葉も,その力を磨いて強化するというよりは,大量生産/消費する方向を選んでいるように思える.
"ギャル語" 文化は,それをちょっぴり先鋭的に表現しただけなのかもしれない.
他人との行き違いが一歩間違えば死まで招くような時代には,ここ一番で言葉を厳選し,それこそ 「腹を割って話す」 ことが必要とされた.
しかし,現代の日本はそうではない.
そうしなくてもすむように,人は社会を変え文化を作ってきた.
きっと人間はそのように進化しているのだろう.
「このあいだおな中だったマキコの元カレが超キムタクに似てるっていうから、プリクラ見せてもらったの。そしたらー、ただのロンゲでガングロなだけなのー。ぜんぜんキムタクじゃなくてー超サイテー。背は高いんだけど、腰パンとかしちゃってー超変なの」
「でも、マキコもけっこうガンブーだから、超お似合いじゃん」
「でも、マキコの今カレってパー件売るとか言って、パチこいて最悪 。マユミもCD借りパクされたって。この前、ケイタの番号がベルに入ったからウザベルかと思ってシカッティングしてたら、ヤツに拉致るとか言われてゲキムカ 」
「やっぱ、○うはシカッティングがOKティングだよね」
(「コギャル語ワードバンク」の会話サンプルより)
どんな言葉にしたって,それを創造して使いこなすことは容易ではない.
彼女たちはそのための努力を惜しまない.
そこには,今の時代を生きるための何かが含まれているのだろう.
国語力低下の主犯であるかのように彼女らを非難しても始まらない.
んが,でも,しかし,さはさりながら,,,だ.
娘や近所の子がギャル語を使ってきたら,やっぱりオヂサンは 「ちゃんと喋れよ」 って文句言うだろうな.
だってめっちゃキモいんだもん.
つづく
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