日本人の国語力が落ちて若年層の語彙が少なくなったとよく指摘される.
平日昼下がりの電車内,外回り仕事でクッタリした身体を座席に預けながら,女子中高生らの言葉をシャワーのように浴びるのは不条理で目くるめく体験だ.
速いテンポに圧倒的な発話量,目立つ同一フレーズのリフレイン.
どことどころ意味不明.
"ギャル語" は現代の呪文だ.
以前,某民放で 「ギャルサー」 という連ドラが放映されていた.
学校にも家庭にも身の置き所が無い "ギャル" たちが渋谷に集い,パラパラのダンスサークルを作って活動しているところに,アリゾナ育ちの日本人カウボーイ(!)が現れて,感動ドラマを繰り広げるというハチャメチャなストーリーである.
その何話目かに,仲の良かった友人を除け者にしようとする少女の話が出てくる.
その少女が友人に向かって自分の嫌悪感をぶつける場面が何度も出てくるのだが,そのたびに少女は 「てめぇ,うぜーんだよっ!」 とだけ繰り返す.
本来その後に続くはずの,相手のどこがどう "うざい" のか,あるいは今まで気が合ってたのになぜ "うざく" なったのか,などの説明はできない.
あとは,別れ際に 「死ねっ!」 と吐き捨てるだけである.
目を見開いて相手を睨みつける少女(戸田恵梨香ちゃん♪)の表情は,言いたい事や片付かない思いを山ほど抱えながら,感極まってしゃくりあげるしかない童女のようである.
もちろんそれは脚本用に作られたセリフだ.
しかしその暴力的に拙い表現には,むしろ痛々しいリアリティを感じた.
そこでふと思った.
もちろん国語力の低下もあるだろうけど,ギャルたちの語彙が少ないのにはもっと積極的な意味があるんじゃなかろうかと.
先に述べたように,言葉は呪いでもある.
人を勇気づけることも,修復不可能なまでに傷つけることもできる.
そしてその傷の部位や深さは,時として発話者本人の意志とは無関係である.
年若く抵抗力の少ない彼女たちは,言葉によって自分が簡単に傷つくこと,また同じくらい簡単に人を傷つけてしまうことを本能的に知っている.(この "傷つく" というのも手垢がついた感じであまり使いたくないけど,他に適当な単語を思いつかない.他人の語彙のことなんか言えないね)
でも,人は言葉抜きでコミュニケーションすることはできない.
使う言葉を極端に限定し,かつそれらを擦り切れるくらい大量に消費する "ギャル語" のお作法は,コミュニケーションを維持しながら一つ一つの言葉の力は希釈してしまおうという,少年少女たちが編み出した防衛手段なのではないだろうか.
世の中には 「心の触れあい」 という口当たりの良いフレーズが氾濫している.
しかし本来人間にとって,(本人のも含めて)他人の心の深淵を覗き込むことは怖ろしい体験なはずだ.
隠しておきたいこと,知りたくないことは誰にだってある.
「心を触れあわせる」 ことは,覚悟と勇気のいる"野蛮な"(別に悪い意味じゃない)行為だ.
言葉は時としてその回路を開く鍵になる.
そういう危ないことには触れず,そこそこ楽しくやってけるんならそれでいーじゃんという理屈があっても不思議ではない.
つづく
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