October 22, 2006

言葉ノチカラ その四

う~困った.
たくボのエッセイなんだからこの話も何か犬に結びつけなくちゃいけない,って別に誰もそんなこと期待してないだろうけど自分はそうしたいと思っている.(じゃあ,グチんなよ)

で,"犬を取り巻く正論" のことを書いてたら,勢いよく筆がすべってとても表に出せない内容になってしまったので,気を取り直して "ダブルバインド" について書くことにする.

精神分析の世界で言うダブルバインドとは,上位から下位の者に対して告げられる否定的/命令的なメッセージと,さらにそれを否定する言外のメタメッセージが存在し,権力関係の絶対性故にその2つが逃れ難く作用することで,下位の者の世界観が歪んでしまう状況のことである.

これだと何のことかよくわからないが,例えば親から 「素直になりなさい」 と言われて,素直にイタズラをして家族の悪口を言った子供が,その親にこっぴどく叱られて面食らう...なんて状況がそれにあたる.
子供がその矛盾を突いても 「それとこれとは話が違う!」 か 「屁理屈を言うな!」 と怒鳴られるのがオチで, 「"素直" というのは "親の思い通りになれ" ということだ」 という素直な説明は決してなされない.
矛盾は弱者が引き受けるしかない.
(なんだ,単に 「タテマエとホンネが違う」 ってやつじゃないか)

これも一種の暴力だろう.
罵倒やネグレクトほど直接的ではないし,親心とか肉親の愛情という錦の御旗でカモフラージュされているため,子供の側には表立って抗う余地は無い.
その分だけタチが悪いとも言える.

まぁ人間なんてデタラメで言うことが一貫しないのは当たり前だから,普通はそのくらいの矛盾は子供でも適当に消化できるのだろうけど,それが例えば過剰に抑圧的に働いてしまったとか,親の関心が実は親自身にしかないなんてことが見えてしまったとき,心に爪あとが残ることがある.

人と犬の間に権力関係と言葉が存在する以上,犬に対するダブルバインドがあったって不思議じゃない.

人間同士の関係ほどややこしくはないかもしれないが,声によるコマンドとボディランゲージが食い違うとか,やってることと気持ちがバラバラといった状況くらいは普通にありそうだ.
感情の動きは身体の代謝バランスを変えるが,犬はそれを嗅ぎ分けることができるんだそうな.
ハラワタ煮えくり返ってる飼い主が 「ぐっぼ~い!」 なんて作り笑顔で迫ってきたら,これはさすがに犬でもちょっと引いてしまうかもしれない.

人間は頭が良いから,ダブルバインドの袋小路状況を認識し何とか対処しようともがき苦しむ.
その結果として,意識するしないは別にして自分を苦しめた上位者を憎むことになる.
例えば子供の場合,そういう矛盾もひっくるめて丸ごと親を愛する仕方を学ぶまでには,成功やら失敗やら,怒りやら悲しみやら,得意の絶頂やら失意のズンドコやら,燃える恋愛やら悲痛な失恋やら,まだまだたくさんの経験を積み重ねる必要がある.

犬はバカだ.
だから,その矛盾や食い違いをおそらくそれとは意識できずに真正面から引き受けてしまう.
引き受けたからといってどうこうできるわけもなく,せいぜいが困ってみせる程度である.
しかし犬は,その困惑を抱え込んだまま丸ごと人間を受け入れる.
ここが人間との共生を選んだ犬という動物の凄みだろう.
人間にとって辿りつくことがもっとも難しい境地の一つに,犬はあっけらかんと最初からいるのである.
無邪気にぶんぶん尻尾振りながら...

人間のことを精神分析学の岸田秀氏は 「本能の壊れた動物」 と定義し,哲学者の内田樹氏は 「一種のバケモノである」 と言い切った.
その見方は正しいと思う.
人間は幼年期に言葉を習得する.
それは純粋に単語や文法を学ぶだけではなく,同時に言葉に付随するその時代その集団のモノの考え方や常識や偏見などを,まっさらな脳に刷り込んでいく作業でもある.
つまり,誰もが一度は "洗脳" されてるわけだ.
私たちはカルト宗教や独裁国家やテロ組織の行う洗脳をおぞましく感じるが,少なくとも私たちの脳は似たようなプロセスを経て "作られた" ものだ.

往々にして,身体は本能に従って穏当な判断を下すのに対し,脳は過激に暴走する.
脳は自身の快楽や救いのためなら,生存上不利な行動まで求めてやまない(泥酔や暴飲暴食や過労や過激ダイエットなどなど.ジョギングとか健康人が採るサプリメントなんかもそうかもね).
よく "身体的快楽" と言われるが,そういった経験のほとんどは普通の身体感覚に脳が過剰な解釈を施したものに過ぎない.
そして人間は身体の主張に "耳を傾ける" よりも,脳の欲求に "身を委ねる" 傾向がある.
その脳に呪いをかけているのが,他ならぬ言葉なのである.
つまり人間は,言葉を操る(操られる)脳と本能に支えられた身体の間で不整合を生じた,アンバランスで奇妙な生き物だといえる.
(こうやって脳と身体を分けてイメージすること自体,脳の作り出した物語に過ぎないのだけど)

犬はそんな人間の言動を丸ごと受け入れなければならない.
鈍感なクセに情緒不安定で,興奮したかと思うと次の瞬間には落ち込んでたりする人間の相手はさぞ大変だろう.
四六時中一緒にいてよくバランスを保てるもんだと思う.

もしかして,彼らにもすでに言葉の呪いがかかっているのかな.
「犬は人間のパートナー」 とか...
 

(とりあえず)おわり
 

October 8, 2006

言葉ノチカラ その参

世代限定に見える現象も,突然世の中に出現したとは考えにくい.
少なくともその予兆くらいは,前からあったに違いない.
ギャル語文化で思い当たるのは,メディア界で目立つ言葉の大量消費現象である.

昨今のTVやラジオは,発話の間が空くことを極端に忌み嫌う.
バラエティ番組では,練習を積んだ芸能を見せるというよりは,ちょっと気の利いたアドリブっぽいコメントが持てはやされている.
番組の作りは怖ろしいほど画一的で,どのチャネルを見ても複数のゲストタレントたちがひな壇に並び,一組の司会者とテンション高いやりとりを繰り広げている.
この形式の狙いが何なのかは知らないが,少なくとも,番組空間の言葉密度を上げることには成功している.
タレントに求められるのは,"空気を読" んで違和感無く "場をつなぐ" こと.
その代わり一つ一つのセリフは,テロップが無いと聞き漏らしてしまうような,その時その場でしか力を保持できない言葉である.(その証拠に大ウケした場面を人に紹介しようとしても,1日経てば何がおもしろかったのかまるで思い出せない)

新聞,雑誌,インターネットでは,犬サイトに書かれた場違いな時事世評ネタのようなどーでもいい記事の他に,どこからも文句のつけようがない "正論" がやたらと目につく.
それは例えば, 「○×のリーダーシップが期待される」 か 「国民的な議論が必要だ」 か 「関係者に猛省を促したい」 のどれかで締めくくられる朝日新聞的社説とか,事件が起こるとわざわざ被害者に "現在のお気持ち" を尋ねて,それに対して今は気持ちの整理がつかないと言いながら警察やら学校やら役所やらへの "強い不信感" を訴えるインタビュー記事とか,何が何でも昔と田舎と外国は良くて,現代と都会と日本は良くないという文化評論記事とか,一旦不祥事が起こると重箱の隅まで穿り返し,とにかく 「組織ぐるみの問題」 に仕上げて責任者の謝罪を求める報道記事とか,マニフェストを読んだこともないのに 「政策の説明が不十分」 と詰る市民の声を取り上げて "国民不在の選挙を浮き彫りにする" 世論調査記事...などである.

気の利いたコメントと,どーでもいい記事と,文句のつけようがない正論では,それぞれ中身は随分と違うようだが,差し当たり大衆の誰をも傷つけず,違和感無く紙面や画面を埋めることができるという点で,実はよく似ている.
しかもそれらは,仲間内で承認され登録済みの(力を希釈された)ジャーゴンだけを繰り返し使用する "ギャル語" と,見かけは相似形なのである.

人々は物を大量消費することに価値を置いてきた.
同じように言葉も,その力を磨いて強化するというよりは,大量生産/消費する方向を選んでいるように思える.
"ギャル語" 文化は,それをちょっぴり先鋭的に表現しただけなのかもしれない.

他人との行き違いが一歩間違えば死まで招くような時代には,ここ一番で言葉を厳選し,それこそ 「腹を割って話す」 ことが必要とされた.
しかし,現代の日本はそうではない.
そうしなくてもすむように,人は社会を変え文化を作ってきた.
きっと人間はそのように進化しているのだろう.

「このあいだおな中だったマキコの元カレが超キムタクに似てるっていうから、プリクラ見せてもらったの。そしたらー、ただのロンゲでガングロなだけなのー。ぜんぜんキムタクじゃなくてー超サイテー。背は高いんだけど、腰パンとかしちゃってー超変なの」
「でも、マキコもけっこうガンブーだから、超お似合いじゃん」
「でも、マキコの今カレってパー件売るとか言って、パチこいて最悪 。マユミもCD借りパクされたって。この前、ケイタの番号がベルに入ったからウザベルかと思ってシカッティングしてたら、ヤツに拉致るとか言われてゲキムカ 」
「やっぱ、○うはシカッティングがOKティングだよね」
「コギャル語ワードバンク」の会話サンプルより)

どんな言葉にしたって,それを創造して使いこなすことは容易ではない.
彼女たちはそのための努力を惜しまない.
そこには,今の時代を生きるための何かが含まれているのだろう.
国語力低下の主犯であるかのように彼女らを非難しても始まらない.

んが,でも,しかし,さはさりながら,,,だ.
娘や近所の子がギャル語を使ってきたら,やっぱりオヂサンは 「ちゃんと喋れよ」 って文句言うだろうな.

だってめっちゃキモいんだもん.


つづく
 

October 6, 2006

言葉ノチカラ その弐

日本人の国語力が落ちて若年層の語彙が少なくなったとよく指摘される.

平日昼下がりの電車内,外回り仕事でクッタリした身体を座席に預けながら,女子中高生らの言葉をシャワーのように浴びるのは不条理で目くるめく体験だ.
速いテンポに圧倒的な発話量,目立つ同一フレーズのリフレイン.
どことどころ意味不明.
"ギャル語" は現代の呪文だ.

以前,某民放で 「ギャルサー」 という連ドラが放映されていた.
学校にも家庭にも身の置き所が無い "ギャル" たちが渋谷に集い,パラパラのダンスサークルを作って活動しているところに,アリゾナ育ちの日本人カウボーイ(!)が現れて,感動ドラマを繰り広げるというハチャメチャなストーリーである.

その何話目かに,仲の良かった友人を除け者にしようとする少女の話が出てくる.
その少女が友人に向かって自分の嫌悪感をぶつける場面が何度も出てくるのだが,そのたびに少女は 「てめぇ,うぜーんだよっ!」 とだけ繰り返す.
本来その後に続くはずの,相手のどこがどう "うざい" のか,あるいは今まで気が合ってたのになぜ "うざく" なったのか,などの説明はできない.
あとは,別れ際に 「死ねっ!」 と吐き捨てるだけである.
目を見開いて相手を睨みつける少女(戸田恵梨香ちゃん♪)の表情は,言いたい事や片付かない思いを山ほど抱えながら,感極まってしゃくりあげるしかない童女のようである.

もちろんそれは脚本用に作られたセリフだ.
しかしその暴力的に拙い表現には,むしろ痛々しいリアリティを感じた.

そこでふと思った.
もちろん国語力の低下もあるだろうけど,ギャルたちの語彙が少ないのにはもっと積極的な意味があるんじゃなかろうかと.

先に述べたように,言葉は呪いでもある.
人を勇気づけることも,修復不可能なまでに傷つけることもできる.
そしてその傷の部位や深さは,時として発話者本人の意志とは無関係である.

年若く抵抗力の少ない彼女たちは,言葉によって自分が簡単に傷つくこと,また同じくらい簡単に人を傷つけてしまうことを本能的に知っている.(この "傷つく" というのも手垢がついた感じであまり使いたくないけど,他に適当な単語を思いつかない.他人の語彙のことなんか言えないね)
でも,人は言葉抜きでコミュニケーションすることはできない.
使う言葉を極端に限定し,かつそれらを擦り切れるくらい大量に消費する "ギャル語" のお作法は,コミュニケーションを維持しながら一つ一つの言葉の力は希釈してしまおうという,少年少女たちが編み出した防衛手段なのではないだろうか.

世の中には 「心の触れあい」 という口当たりの良いフレーズが氾濫している.
しかし本来人間にとって,(本人のも含めて)他人の心の深淵を覗き込むことは怖ろしい体験なはずだ.
隠しておきたいこと,知りたくないことは誰にだってある.
「心を触れあわせる」 ことは,覚悟と勇気のいる"野蛮な"(別に悪い意味じゃない)行為だ.

言葉は時としてその回路を開く鍵になる.
そういう危ないことには触れず,そこそこ楽しくやってけるんならそれでいーじゃんという理屈があっても不思議ではない.


つづく
 

October 4, 2006

言葉ノチカラ その壱

朝日新聞のTVコマーシャルのコピーに,

 言葉は未来
 言葉は思い出
 言葉は鎖
 言葉は慰め
 言葉は翼
 言葉は現実
 言葉は夢
 言葉は希望
 私たちは言葉の力を信じている

というのがある.
いろいろ好きだ嫌いだの意見があるが,個人的にはここに 「言葉は呪い」 というのを加えて欲しかった.

発声された言葉に実質的価値があると信じられた時代,祝や呪はその基本的なかつ重要な機能だった.
夢枕獏描くところの安倍晴明によれば,名前を口にすることはすでに呪術の一部だったのだそうな.
(そういえばこの間観たゲド戦記でもそんなこと言ってたな)

呪文によって物を動かしたり天災をコントロールできるかどうかは知らないが,少なくとも人間に対して,言葉が強力な力を持つことは疑いようがない.
人は人(自分自身を含む)が発した言葉によって感情を動かされ,行動を左右され,自由を制限される.
幼い頃にかけられた何気ない一言が,その人の一生を決定することだってある.
言葉は時や場所を超えて作用し,しかも目に見えない.
呪術と言うと何やらオドロオドロしいが,外形的には十分にその機能を備えている.

小泉元首相の手腕をあーだこーだ言えるほど政治に詳しく無いけれど,彼が言葉の力を巧みに使う政治家だったことは確かだ.
2005年衆院選挙前,彼は 「郵政民営化」 をぶち上げた.
メディアも政治家も国民も一斉に注目し,当然,誰もがその詳しい説明を待った.
しかしいくら待っても説明はなされない.
気がつけば,選挙は自民党の圧勝に終わっていたのである.

小泉元首相は 「先手を取る」 呼吸を心得ていた.
武道の世界で 「先手を取る」 とは,必ずしも先制攻撃を意味するのではなく,相手を待ちの態勢にして自分の一挙一動に意識を固着させ,行動の自由を奪ってしまうことを本来の目的とする.
一旦先手を取られた者は,自分から技を仕掛けることができなくなってしまう.

首相の目論見どおり,選挙は彼のペースで終始した.
すべての候補者は(賛成にしろ反対にしろ)郵政民営化への態度表明を強いられたし,対抗馬であるはずの民主党なんか, 「問題は郵政民営化だけではない!」 という何だか訳のわからないスローガンを掲げる羽目になってしまった.

小泉元首相の言葉はよく 「内容が無い」 と批判された.
しかし,少なくとも国政を動かす力はあった.
意味不明だが強い力を持っている・・・これはまさに "呪文" である.

つづく