例によって無理やりの犬話です.
かなりの人が経験していると思いますが,犬というやつ,芸やスポーツを教えると最初はしぶしぶと言うか,まぁはっきり言って気乗りのしない様子で取り組みます.
しかしトレーニングを繰り返していくと,次第に積極的になり,ときには身体全体で喜びを表現するかのように熱心に取り組むようになります(ならないこともあるけど).
この変化は連続的ではなく, "ある時点を境に急に" やってくる感があります.
私たちはそれをトレーニングの賜物であり,犬が芸やスポーツ自体(ディスクやボールをレトリーブしたり,障害を走り抜けたりすること)の面白さに目覚めたと解釈しがちです.
でも実はそうではなくて,作業を通じて飼い主とコミュニケーションできるということを,犬が感じとったからだと考えられないでしょうか?
そのときはじめて,芸やスポーツは犬にとっても情熱を傾けるに足る仕事となり,それを通じて人とコミュニケーションすること,ボスであるところの飼い主に承認されることに "やりがい" を見出したのではなかろうか.
イヌも,ヒトとの関係を通じて初めて,(人がイメージするところの)"犬" という生き物になるのかもしれない.
タトエバノハナシ・・・
ある日,A君は飼い犬のジョンにボールのレトリーブを教えようと思い立ちます.
ジョンは衝動のまま逃げるボールは追いかけますが,持って帰ろうとはしません.
そこで,A君はリードを使ったりトリーツを使ったりしてそれを教えます.
ジョンは, 「ボールを持って帰る」 と何か楽しいことが起こるということを繰り返し経験します.
そういえば,そのときにA君も何やらうれしそうにしてるではありませんか.
「なんだ,Aはボールを持ってきて欲しいのか!」
もともと走ったり追っかけたりが好きなジョン,大好きなA君が望んでいるらしいレトリーブに喜び勇んで励むようになります.
一方のA君も,犬がうれしそうな様子を見て "心が通じた" 感を味わいウットリする.
ここにA君とジョンの間に一つのコミュニケーションが成立したわけです.
メデタシ,メデタシ.
ただし,このコミュニケーションは双方向とは言えません.
確かにジョンはジョンなりにA君の意図を理解したけれど,その逆となると怪しいからです.
これはある意味当然かもしれなくて,ジョンにとっては自分の生活を託すA君の意図を理解するということは大きなメリットになりますが,A君にはそれがありません.(それこそ 「犬の意図がわかったって一文の得にもならん」 わけですから)
ヒトも動物も,メリットが無いことに打ち込めるはずがありません.
だから来る日も来る日も同じことをしていると,A君はちょっぴりマンネリを感じるようになります.
そうそういつも,レトリーブごときで感動もしてられません.
特に天候の悪い日などは,半ば義務感で遊んでいる自分に気づいたりします.でも,そんなA君があらためて張り切るときがあります.
つづく
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