April 5, 2006

犬も仕事もメタ言語 (2)

どうやら人は,仕事そのものというよりは,それに付随する何か別のものを追い求めているらしい.
それが人と人との関係=コミュニケーションである・・・というのが,先のWebサイトの意見です.

なるほど言われてみれば,これも当たり前かもしれません.
例えばアートやプロスポーツはカッチョ良いし,仕事そのものの "やりがい度" が高そうな職業です.
「PowerPointが生きがいだ!」 と叫んでもお寒いだけですが,プロ野球選手が 「野球は自分の人生そのものっす」 と渋くつぶやくと絵になります.

でも,ほんとにそうでしょうか?
いや,その言葉がウソだと言う気はありませんが,彼が人生を賭けているのは本当に野球のプレーそのものなのでしょうか?
彼が野球を好きになったきっかけは,もしかしたらバットの芯でボールを捕らえたときの快感だったかもしれない.
あるいは,はるか頭上の打球をキャッチしたときの万能感だったかも.
確かに,最初のうちはそれらが野球をすることの十分なモチベーションになったでしょうが,でも,それを一生を賭けて追求する人はいないでしょう.
ダイエー時代の城島選手が新聞のインタビューに応えて次のようなことを言ってました.「"野球を楽しみたい" なんて言う選手がいるが自分は違う.やればやるだけ辛くて苦しい.でもそれがプロだと思っている.」
プロのスポーツとはそういうもんだろうなと,私も思います.

いや,スポーツに限らず仕事なんてきっとそういうもんでしょう.
仕事で対価を得るためには熟練や習熟が必要だし,そのためにはどうしても息の長い反復が必要です.
(最初に感じたかもしれない)仕事そのものに対する興味や興奮を維持するのは難しいでしょう.
それでも人はせっせと仕事に精を出す.
それはあながち生活のための我慢だけではないと思います.
そこには,そういう過程を経て初めて経験できる,"他者との質の高いコミュニケーション" が存在するから・・・というのは肯けるような気がします.

先の "野球は俺の人生" 発言の意味するところは,おそらく,試合を通じた対戦相手やチームメイトとコミュニケーション(勝ち負けはもっとも濃厚なコミュニケーションの一つでしょう)や,あるいはプレイというパフォーマンスを通じて観客や社会から承認を得ることが,彼の人生の重要なパートを占めていて,全力を傾けて取り組む価値があるということなのでしょう.

「ヒトは他人(ヒト)との関係性において初めて人になる」 ことが真実とするなら(←お,この言い回し便利・・・),仕事というメタ言語を介して他者とコミュニケーションすることは,呼吸や食事と同じとまではいかないまでも,それに近いくらい重要な意味を持つはずです.

(逆に言えば,本来,人はあらゆる仕事で相応の充足感が得られるはずなのですが,それを邪魔するのが "どこかに理想の仕事があるはず" とか "仕事が合わないから自己実現できない" などの都市伝説的決まり文句や,グローバルスタンダードという異名を持つ "何でもお金(報酬)で計る" 主義でしょう)

つづく

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