August 18, 2006

犬にまつわるコミュニケーションの話 (2)

私たちが知っている他のコミュニケーション手段に比べ,コトバは論理的,抽象的な情報を伝えることに長けています.
圧倒的に優れています.
しかし,感覚や気分を伝えることはそれほど得意じゃありません.
そして本来,それを補うのが表情や身振り,匂いなどだったはずなのですが,どうも人間はコトバを発達させる過程で,他の感覚によるコミュニケーション能力を急激に弱めてしまったようなのです.
(あるいは,感覚や気分は相手から隠した方が有利なこともある故,コントロールしやすい語調やコトバで表現することにしたのかも)

ちょっともこみち,じゃなくて横道.

アメリカ人が世界のどこでも米語で押し通そうとするのは有名な話ですが,例えばフランス人は,自分たちが愛してやまないParisをアメリカ人が "パリス" と言うのが,つまり米語風に語尾の "s" をはっきり発音するのが鳥肌が立つほど嫌なんだそうです.

当のアメリカ人がそれを察するのは難しい.
なぜなら,一般マナーとして,フランス人が面と向かって相手を非難することはないだろうし,また人間には,相手の鳥肌(感情)はなかなか見えないものだからです.
(犬だったら,匂いでわかるかもね)

犬と人のコミュニケーションにも似たところがあります.

両者のコミュニケーションに使われるのはもっぱら "共通言語" であるコトバです.
とゆーよりは,両者とも相手に対してメッセージを発しているのだけれど,それを理解しようと努めるのは半ば一方通行的に犬の側です.
そして,自己流コトバで押し通す人間には,犬が感じているかもしれない違和感を察することは,構造的に難しいのです.

じゃあ,どうすりゃいいのか?
普通はここで 「だからもっと犬を理解しましょうよ」 とくるのかもしれませんが,それもちょっと安易に過ぎるような気がします.
いや,まぁそれはそうなんですけど,それを大上段に掲げてしまっていいのかどうか...

哲学の世界では,他者や時間は 「理解不能なもの」 と相場が決まっているようです.
そもそも私たちは,他人どころか自分自身(の中の他人)でさえ理解できないのだから,種まで違う生き物が理解できるはずがありません.
多くの人がコミュニケーションの目的は 「お互いを理解すること」 だと考えていますが,そんな大それたことを目指すから,不都合や摩擦やフラストレーションが絶えないのではないでしょうか.
私たちはお互いに理解を超えた存在なんだと認識し,相手に対する畏怖と敬意を持つことが,コミュニケーションの第一歩だと思うのです.

私は,コミュニケーションの目的はコミュニケーションすること自体にあると思っています.
そのためにこそ人は,相手の感情や置かれた状況を類推しようと努めるし,自分の意図が相手に伝わるように工夫もする.
逆に言えば,そういう地道で丁寧な作業を続けないと,コミュニケーションは維持すらできないということです.
(そのしんどい作業を支えるエネルギーは, 「相手を理解する」 ことが絶望的な状況にありながら,それでも相手と関わっていたいという切ない欲望です)
本来,生き物同士のコミュニケーションは,そういうデリケートな緊張状態の中でこそ成り立つものだと思います.

先の例,件のアメリカ人が相手の嫌悪感を知るためには,フランス語の発音規則やその背後にある音韻的な美意識まで理解しなければなりません.
じゃあそれらを知らない限り,永久に嫌われ続けるのかというとそんなことはないし,逆に知ったからと言って好意を持たれるとも限らないでしょう.
彼が嫌われる本当の理由は,事実上の世界共通言語となった米語を振りかざし,他国の首都を我流に発音してはばからない尊大な態度にあるからです.
相手文化に対するちょっとした気遣いや敬意,あるいは自己流にしか発音できないことに対する含羞があれば,なにも鳥肌まで立てられることはないでしょう.

コミュニケーションは技術ではなく,倫理の問題だと思うのです.

相手が人だろうと犬だろうと.

 
おわり
 

犬にまつわるコミュニケーションの話 (1)

何だか同じような話ばかりで申し訳ないですが,と恐縮して見せつつ,なに,最初にこう断っとけば大抵のことは許されるのさと世間様をなめきった態度で,犬と人のコミュニケーションについて思ったことを書きます.

普通,私たちは話し言葉を使って犬をしつけたり,仕事を指示したり,芸を教えたりします.
そして上手下手,紆余曲折,七転八倒はあるにしても,いずれ犬はその言葉に応えるようになります.
それを私たちは 「犬に○×を教えた」 とは言うけれども,なかなか 「犬が自分の言葉を理解した」 とは表現しない.
これってちょっと片手落ちですよね?と思ったりするわけです.

人の話し言葉(以下,"コトバ" と表記)が,身振りなど他のコミュニケーション手段と決定的に異なるのは,それが記号でしかないという点です.
例えば,「犬」を説明するための身振り手振りであれば,どこかで犬の容姿や性質を表していますから,やがてその意味を連想することができるでしょう.
しかし, 「い」 「ぬ」 という音の連なりと,犬という動物の間には何ら必然的な関連はありません.
あるのは 「その一連の音が四本足で歩く人懐っこい動物を指す」 という人工的なルールだけです.
このルールを知らない限り,いくら想像力を働かせても両者の関係に辿りつくことはできない.

犬はコトバを知りません.
これは,私たちが 「へへ,外国語は苦手で...」 と照れるのとは,まったくレベルの違う話です.
私たちが未知の外国語を聞いたとき,たとえその単語や文の内容はチンプンカンプンでも,とにかくそこに 「あるルールに則った単語や文がある」 ことは知っています.
ところが犬は,「記号を使ったルールベースのコミュニケーション」 という概念そのものを持たないのです.(たぶん)
この差は大きい.

それでも犬は,コトバから飼い主の意図を理解しようと努める.
そして彼らは彼らなりの解釈で,一定の響きを持つ一連の音声と,飼い主が自分に望んでいる行動とを結びつけ,それを実践してみせます.
その圧倒的に不利な条件を勘案すれば,これを 「コトバを理解した」 と表現することくらいは許されてもいーんじゃね?と,個人的には思うのです.

人が人に 「犬に○×を教えた」 と言うとき,そこには 「教えるのには結構な技術と忍耐と努力がいったんだかんな」 という微かな自負が漂いますが,犬にだって同じくらい,いや多分それ以上の苦労があったはずなのです.


-(2)に続く-