<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065</id><updated>2011-11-29T21:43:00.382+09:00</updated><title type='text'>よたばなし</title><subtitle type='html'></subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>77</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-6321948787758558441</id><published>2011-11-29T21:35:00.006+09:00</published><updated>2011-11-29T21:43:00.390+09:00</updated><title type='text'>エコ的なことについて</title><content type='html'>こんな辺ぴな田舎でも、ゴミ収集のルールは街とほとんど同じで、しかもきっちりと運営されている。（この辺が日本という国のすごいところだと思う）&lt;br /&gt;燃やすゴミ、ビニール・プラスティック、ペットボトル、缶、燃やさないゴミに分別し、決まった収集日に決まった場所に出す。新聞・雑誌は、「リサイクル大作戦」という小学校のイベントがあって児童父兄が集めに来るので、束ねて保管しておく。&lt;br /&gt;街と少し違うのは、昔懐かしい「ガラクタ屋さん」が回ってくること。付近をトラックで流しているおっちゃんを呼び止め、金属や粗大ゴミを引き取ってもらう。日常的に農業資材や建築材料の余りなどが出るので、結構重宝している。&lt;br /&gt;ゴミセンターに持ち込んで有料で処理してもらうという最後の手段もあるから、これらを利用すれば、日常生活のゴミは不便なく処理できる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでも、ファームではできるだけゴミを出さないようにしている。別にエコとかロハスとか気負っているつもりはなく、なんとなく、、、である。&lt;br /&gt;生ゴミ類は、鳥たち（にわとりとカモ）に活躍願っている。&lt;br /&gt;にわとりの顔をじっくり見ると、その造形がまさに恐竜の末裔という感じだが、彼らの食生態も顔と同じくらいワイルドである。野菜、草、穀物、肉、虫など、およそ口に入るものは何でも消化してしまう。何も見当たらないときは、雑草や土をせっせとついばんでいる。彼らには満腹という感覚が無く、エサがあるかぎり食べ続けるんだそうである。&lt;br /&gt;ファームでは、豆腐屋からもらったオカラと、近所の自動精米機で集めた米ぬかを混ぜて飼料にしているが、生ゴミや食事の余りが出れば、そのまま鳥エリアに放り込んでいる。20羽余りの鳥たちがワァッと集まったかと思うと、すぐに影も形も無くなる。羊や馬はわりとすぐに腹を壊すので、飼料の状態にはそれなりに気を配っているが、鳥の場合は、腐ろうがカビだらけだろうが、まるで平気である。&lt;br /&gt;あの滋味深い卵が産まれるのは、その悪食ゆえかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな鳥も、土には叶わない。&lt;br /&gt;ファーム暮らしをしていると、土というのはつくづく偉大だと思う。生ゴミはもちろん、油、塗料、糞尿など、ありとあらゆる有機物を分解してしまう。条例違反かもしれないが、家畜や鳥にもやれない廃棄物は、使っていない畑に撒いてしまうことにしている。直後はちょっと汚い感じもするが、あっというまに「無かったこと」にしてくれる。ある研究によると、ヒトの足跡大の地下に生息する虫や微生物は３兆を超えるらしい。この浄化能力を利用しない手はない。&lt;br /&gt;本当だったら人間の糞尿も土に撒くべきだろうが、さすがに躊躇われる。汚水は合併浄化槽で処理するので、結局は微生物の力で分解しているのだが、食べたものを直接的に土に還元しないというのは、どこかバランスを欠いている気もする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小さな畑で使う肥料は、自家製の堆肥で賄っている。&lt;br /&gt;馬を飼っているので、放っておいても、一輪車に半分くらいの馬糞が日々出るが、こいつは積み上げておくだけで、格好の堆肥になる。牛や羊などの偶蹄目と違って、馬は反芻をしないので、排泄物（ギョーカイ用語で「ボロ」という）に未消化の繊維質が大量に残っていて、堆肥の材料として最適なのだ。本来は定期的にかき混ぜたりして、それなりの手間をかけなければいけないのだが、面倒臭いので放ったらかしである。それでも、冬場には湯気が上がるくらい盛んに発酵して、排泄物としての匂いや不潔感はほんの数日で消える。そのうち、カブトムシやクワガタの幼虫が巣食いだし、分解が加速する（ちなみに、その幼虫を鳥たちに投げてやると争うようにして食べる）。彼らのフンは、もう良質の土そのものに見える。そうやって半年から一年寝かしておいたやつを畑に鋤きこむのである。&lt;br /&gt;化学肥料のような即効性は無いので、最初の１～２年は失敗が多かったが、最近は土が柔らかく黒っぽくなってきて、野菜が威勢よく育つようになってきた。実は農作業は苦手というか、どこか億劫なのだが、「土を作る」ことだけは結構楽しい。ほんの少しだけど。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;紙やビニールは、庭で焼却している。地面の上で火を焚くことは禁止されているので、廃家に残っていた古い五右衛門風呂の釜の中で、月に２～３回燃やしている。最初はビニール類を除いていたが、最近は、面倒臭いので（こればっかり）一緒に燃やしてしまう。何でもないことのようだが、これも郊外だからできることで、煙を出したくらいでは、隣近所から苦情が来ることは無い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんなこんなで、ゴミ収集に出すのは、せいぜいビン／缶、ペットボトルくらいである。&lt;br /&gt;だからといって、この生活が「地球に優しい」などと悦に入ってるわけではない。相変わらず、電気を使い、水道をじゃぶじゃぶ使い、車を乗り回して、地球のリソースをせっせと費消しながら暮らしている。本気で環境を憂えるなら、経済活動を大幅に縮小して、少なくとも大正や昭和初期の暮らしに戻るべきだと思うが、まぁできそうもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういえば、2008年のブログに以下のようなことを書いた。&lt;br /&gt;世に言われる"エコ"的なことって、ほとんど自己満足の世界だと思うのだが、自分の文章を読み返してみても、そんな気分に浸っていたことがよくわかる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;そう言えば，みわファームに居を構え，庭や畑を放浪するニワトリの卵を始めて食べたとき，「あれ？」と思った．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ファームでは生ごみを畑に捨てるのだが，それらは虫に食われたり，腐って草や野菜の栄養になったりする．&lt;br /&gt;ニワトリたちはその土や虫や草や野菜を啄ばんで卵を産む．&lt;br /&gt;そしてその卵を人が食らう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頭ではわかっていたつもりの命の連鎖が，こんなにも眼の前で，こんなにも小さなループで，こんなにもあっけなく実現しているのを見て，他愛なく感動してしまったのである．&lt;br /&gt;それを自然と呼ぶなら，自分はそれ以上でも以下でもない，身体のありとあらゆる成分を周りの環境と交換しながら生きていると言うことを，あっさりと見せられてしまったのである．&lt;br /&gt;逆に言えば，街暮らしだった頃には，そんな当たり前の感覚すら失くしてしまっていたことに気づかされたのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ミ ナ サ ン　　コ レ ハ タ イ ヘ ン ナ コ ト デ ハ　　ナ イ デ ス カ ？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな風な気持ちだった．&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;/em&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-6321948787758558441?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/6321948787758558441/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=6321948787758558441&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6321948787758558441'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6321948787758558441'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2011/11/blog-post.html' title='エコ的なことについて'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-6973210775223176094</id><published>2011-06-07T12:13:00.001+09:00</published><updated>2011-06-07T12:15:26.951+09:00</updated><title type='text'>アジールとしてのファーム（５）　－開放農場へ－</title><content type='html'>正直、生活の糧を得るわけでもなく、家畜や何頭もの犬を養うなんてことは、道楽以外の何物でもない。&lt;br /&gt;牧場といったって、生産のためには広さも動物の数も不十分だし、観光のための設備も無い。&lt;br /&gt;そんな中途半端な牧場に、物好き以外にどんな意味があるんだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;少なくとも自分の場合、週末をファームで過ごすことで、街やオフィスにある壁を、半歩下がって眺めることができた。&lt;br /&gt;つまり、街からさほど離れていないちっぽけなファームを、個人的なアジール（＝逃れの地、避難場所）として使っていたわけである。&lt;br /&gt;おかげで、この８年間を楽しく過ごすことができた。今、そういう体験をもっと多くの方と共有できないかと考えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ、そういう体験って、どう言えばいいんでしょうね？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「自然を満喫」とか「動物との触れあい」なんて言うと、通りは良いのだけれど、ファームは決して「手付かずの自然」なんかじゃない（だからこそ、ホッとできると思ってるけど）。動物たちにはあまり触れあわずに、できるだけ放ったらかしにしておきたいと思っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でないと、彼らの生活リズムを乱してしまうからね。&lt;br /&gt;それでも、お茶でもしながらそんな空間に浸っているだけで、結構贅沢な気持ちになれるのである。&lt;br /&gt;そんな体験。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まぁこういうことをあまりムキになって考えてもロクなことはない。&lt;br /&gt;周りの方のお知恵も拝借しながらゆるゆる考えていけば、そのうちまとまるだろうとタカを括っている。&lt;br /&gt;世の中なめてますよね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おわり&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-6973210775223176094?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/6973210775223176094/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=6973210775223176094&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6973210775223176094'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6973210775223176094'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2011/06/blog-post_7379.html' title='アジールとしてのファーム（５）　－開放農場へ－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-9007875108518495399</id><published>2011-06-07T12:12:00.002+09:00</published><updated>2011-06-07T17:16:30.239+09:00</updated><title type='text'>アジールとしてのファーム（４）　－異なる時間－</title><content type='html'>では、壁の成長を食い止めるには、どうすればいいのだろう？&lt;br /&gt;その一つは、単純だが、壁以外のものに目を向けることだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前にも書いたけれど、養老孟司さんの卓見に「古今東西の自殺者の遺書には、花鳥風月が書かれていない」というのがある。健康や人間関係や恋愛や職業や経済問題など、人の悩みは千差万別だが、共通するのは、自然に対する眼差しが欠けていることだという。&lt;br /&gt;なるほど。&lt;br /&gt;それが、壁の重圧に苦しむ心的状態であるなら、逆に、ムリにでも自然に目を向けることによって、その状態を脱却できるかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ウツな状態から回復した人には、それまでモノトーンの世界に生きていたかのように、自然の色彩の鮮やかさに感動した経験を持つ人が多い（自分にも、草の葉に溜まった露に感動して、わけもなく涙が流れた経験がある）。まぁそこまで劇的にいかなくても、自然に眼差しを向けることで、気分が変わることはよくある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ファームでの暮らしを始めて間もないとき、農家の方からおもしろい話を聞いた。&lt;br /&gt;「水田農家は、毎年、営々と田植えと収穫を繰り返してるように見えるが、それも、高々20回くらいのもの」なんだそうだ。&lt;br /&gt;つまり、20歳から働き始めて60歳まで働くとして、現役時代が40年。そのうち20年は親を手伝うとしたら、自分でやりたいようにやれるのは大体20年だ。そして何か新しいことを試しても、その結果は１年経たないと（収穫してみないと）わからない。&lt;br /&gt;そういう世界である。&lt;br /&gt;だから「焦ってもダメ」なんだと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;考えてみれば当たり前の話だが、仕事の関係で「時間に追われていた」自分には、とても新鮮に聞こえた。&lt;br /&gt;人間のやることは、やりようによってはいくらでも「前倒し」したり「加速」したり「効率化」することが可能だ。&lt;br /&gt;しかし、自然相手だとそうはいかない。&lt;br /&gt;変化を起こすには、それなりの時間をかける必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それ以来、ファームにいるときは街やオフィスとは違う時間が流れているように感じたし（もちろん錯覚だけど）、それだけで、色んなことから救われた気がする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;効率化は人間の活動にはどうしても必要だ。全然「悪い」ことじゃない。&lt;br /&gt;しかし、そればかりに没頭すると、いつのまにか時間の感覚が歪み、息苦しい壁が形成されてしまうこともある。&lt;br /&gt;ときにはそこから半歩下がって、壁を斜に見て相対化することが、人には必要なのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日がな一日草を食み、ときに日溜りに寝転がる動物たちを見ていると、それができる気がした。&lt;br /&gt;自分にとって、ファームで過ごすということには、そういう意味があった。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-9007875108518495399?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/9007875108518495399/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=9007875108518495399&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/9007875108518495399'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/9007875108518495399'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2011/06/blog-post_9853.html' title='アジールとしてのファーム（４）　－異なる時間－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-3370080692921174621</id><published>2011-06-07T12:09:00.003+09:00</published><updated>2011-06-07T17:14:20.558+09:00</updated><title type='text'>アジールとしてのファーム（３）　－時間という壁－</title><content type='html'>壁の代表的な例として「時間」がある。&lt;br /&gt;個人的な話で恐縮だが、実は自分もこの時間という壁に弱い。&lt;br /&gt;標準語で言えば"いらち"と言うんだろうか？　物事がスケジュール通り進まないと、すぐドキドキしてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;約束の時間に相手が来なかったりすると、表面は平静を装いつつ、相手を呪ったり予定を疑ったり、心の中は千々に乱れている。&lt;br /&gt;仕事の打合せなんか、大抵５分前には着席している。たまに遅れることがあっても、それは「この打合せなんか、それほど重要視してないかんね」というポーズであって、緻密に計算された演出なのである。（誰もそんなこと気にしてないのにね）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;逆に予定を立てるときは、（後で焦るのが嫌なので）必要以上に多く時間を見積もってしまう。&lt;br /&gt;例えばある所に行くのに、電車を１回乗り継ぐとする。A路線で15分、B路線で20分かかるとすると、それぞれ余裕をかまして20分＋30分＝50分と計算する。そこから出発時間を決めるときに、「まあざっくり１時間だから、12時に家を出ればいいわな」と、ここでもゲタを履かせてしまう。で、実際にその日になると11時半くらいにはそわそわしてきて、家を出てしまうので、おそろしく早く目的地に着いてしまうことになる。&lt;br /&gt;その余った時間をどうするかというと、ぼーっとしながら無為につぶしているのである。&lt;br /&gt;人からすればアホらしく感じるだろうが（自分で書いててもアホらしい）、たぶん、その方が時間に焦ってイライラするよりましなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;時間が足りないのに、試験の解答用紙が真っ白だとか、急に別の用事が割り込んでくるとか、行き先表示がうまく読めずに逆方向の電車に乗ってしまうとか、指が膨れて靴紐がうまくほどけないとか、そんな夢をよく見る。夢の中では「おしっこチビリそー」という古典的な表現がぴったりな気持ちで、実際、こんなところに書けないくらい恥ずかしい事態に陥ってしまったこともある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まぁ、わかりやすい性格ですね。&lt;br /&gt;時間というものに強迫観念があるんでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;世間ではよく「時間に追われる」という言い回しを使う。&lt;br /&gt;実際に時間が人を追いかけるわけはないから、これは、正確な表現とはいえない。「時間内にやるべきことが多すぎる」とでも言うべきか。それでも「追われる」という表現は、ある種の心的状態を表すのにドンピシャである。&lt;br /&gt;それにちょっと落ち着いて考えると、「やるべきこと」もそれほどじゃないことが多々ある。であるなら、これはもう思い込みや幻想と言っていい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ「幻想なんだから、そんなもの無視すりゃいーじゃん」と軽々には言えないところが、幻想のやっかいなところである。&lt;br /&gt;幻想によって人は生きも死にもするし、社会を動かしもする。&lt;br /&gt;そして幻想によって、ときに耐え難いまでに高く堅固になることが、壁のやっかいなところである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-3370080692921174621?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/3370080692921174621/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=3370080692921174621&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/3370080692921174621'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/3370080692921174621'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2011/06/blog-post_5219.html' title='アジールとしてのファーム（３）　－時間という壁－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-8461544089859376728</id><published>2011-06-07T12:05:00.003+09:00</published><updated>2011-06-07T17:15:32.875+09:00</updated><title type='text'>アジールとしてのファーム（２）　－壁と卵－</title><content type='html'>作家の村上春樹氏は、エルサレムで行われた文学賞の授賞式で、「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立つ」という、印象的なスピーチをした。&lt;br /&gt;生き難さを考えるとき、この文学者的直感から生まれた暗喩は示唆に富んでいる。&lt;br /&gt;「卵」とは人間のことだ。では、人間がぶつかって壊れる「壁」とは何だろう？&lt;br /&gt;村上氏自身の説明によると、それは人が作り出す「システム」である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（引用）&lt;br /&gt;&lt;em&gt;　この暗喩が何を意味するのでしょうか？いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;（引用終わり）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「システムが自己増殖し、人間を組織的に殺し始める」なんていうと、何やらターミネーターやマトリックスの世界を思い浮かべるが、ここではもっと身近で、かつ原理的なことを指しているのだろう。個人的には、この「システム」は「人が考え出したありとあらゆる物や制度」だと捉えたい（内田樹氏はもっとラディカルに「システム＝言葉」と読み解いた。さすが！）。&lt;br /&gt;正しかろうが間違いだろうが、善意だろうが悪意だろうが、およそ人が人のために考え出した物や規則は、それがシステム化された途端に、壁を構成するブロックとなる。やがてその壁は「自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始める」のである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば「犬をリードで繋ぐ」ことは、もともと、人と犬が共生するための心配りだが、一旦それが常識や良識やマナーとして登録されると、人の行動を制約するシステム＝壁となる。それが良いか悪いか、あるいは正しいか間違いかを議論することはできるが、壁自体を無くすことはできない。&lt;br /&gt;システムを構築するために力を尽くし、できたシステムは行使せずにはおられないのが、人間という生き物だからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人が生きるところに社会が存在し、社会ある限り壁が存在する。&lt;br /&gt;しかも現代社会において壁は、ますます堅固に、精緻になりつつある。（それが「進歩」と見なされているから）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そしてほとんど全ての自殺者には、多かれ少なかれ、この壁の重圧に絶望した瞬間があると思うのだ。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-8461544089859376728?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/8461544089859376728/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=8461544089859376728&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/8461544089859376728'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/8461544089859376728'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2011/06/blog-post_07.html' title='アジールとしてのファーム（２）　－壁と卵－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-6526646108836289934</id><published>2011-06-07T12:01:00.003+09:00</published><updated>2011-06-07T17:13:31.869+09:00</updated><title type='text'>アジールとしてのファーム（１）　－重たい話から－</title><content type='html'>ファームを拓いて７年が過ぎた。動物たちとの暮らしを自分たちなりに試行錯誤してきた。いろいろと凸凹はあったけれど、総じてみればプラスの面が多かったと思う。&lt;br /&gt;どうするという当ても無く、ただ「犬と暮らす」ために作ったちっぽけな牧場だが、それはそれで意味があるんじゃないかと思えるようになってきた。そんなことを改めて考えてみる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いきなり重たい話になるが、日本の自殺者数は年間３万人だそうだ。&lt;br /&gt;ネットで調べると、人口10万人当たり25.8人で、これはWHOの調査対象104カ国中の５位。いわゆる先進諸国の中では堂々のトップを走る。1998年以降13年連続で３万人を超えており、今も増加傾向にある。&lt;br /&gt;これって何なんだろう？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何だかんだ言って、日本は悪くない国だと思う。&lt;br /&gt;深刻な飢餓は無いし、義務教育はほぼ100％だし、医療費は抑制されてるし、凶悪犯罪は少ないし、貧富の差が拡大してるといってもアラブ諸国や米国や中国やロシアの比じゃないし、表現は自由だし、食料買うのに行列しなくてもいいし、識字率は99.8%だし、プロ野球もJリーグも大相撲も盛んだし、テロは無いし、電車もバスも時間に正確だし、酷寒でも酷暑でもないし、国歌に起立しなくても強制収容所に送られないし、それに何より、60年以上に渡ってただの１人の戦死者を出していないし。&lt;br /&gt;そりゃあ課題も山積みだが、人々がかくあるべしと作り上げてきた国としては、かなり良い線行っていると思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なのに、３万人。&lt;br /&gt;正直、今まではこの数字を見聞きしても、それが多いのか少ないのか、どうもピンと来なくてスルーしていたのだが、今回の震災で死者＆行方不明者が２万４千と聞いたとき、初めて「うっ、、、」という気持ちになった。&lt;br /&gt;震災の場合はほんの数日間の被害者数とはいえ、500年あるいは1000年に一度とも言われている大災害だ。それに匹敵する数の人が、毎年毎年、自ら命を絶っている（しかもその背後には、10倍とも20倍とも言われる未遂者がいる）。これは大変なことかもしれない。&lt;br /&gt;いくら豊かで安全であっても、「生きやすい」とは限らない、ということ。人間は難しい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この事実は、世界に向けてもっと声高にアナウンスされてもいい。&lt;br /&gt;と同時に、政治の貧困や企業の横暴などを「悪者」に仕立て安直に原因を求めるのは、ことこの問題に関しては自重すべきだと思う（実際、日本は「悪くない国」なんだし）。&lt;br /&gt;たとえ居心地が悪くても、誰もが、自分自身の問題として考えるべきだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-6526646108836289934?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/6526646108836289934/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=6526646108836289934&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6526646108836289934'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6526646108836289934'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2011/06/blog-post.html' title='アジールとしてのファーム（１）　－重たい話から－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-6571303667358533360</id><published>2010-05-03T13:03:00.002+09:00</published><updated>2010-05-03T13:21:14.488+09:00</updated><title type='text'>空間脳と関係脳（７）　－一万年のすれ違い－</title><content type='html'>これまでファームを訪れてくれた何頭もの犬を見てきて，ちょっと意外に思ったことがある．それは，彼らが皆，思いの他まったりしているということである．&lt;br /&gt;車から開放された当座こそ，張り切って辺りを駆け回りもするが，人間同士が長く話し込んだりすると，いつのまにかあっちこっちで寛いで，ふと気がつけば船を漕いでたりする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;遊び場所がある上に，家畜たちの匂いが一杯なので，特に初めての犬はさぞ興奮するだろうと覚悟していたが，その予想は外れた．もちろん中には落ち着けない犬もいるが，そんな時は大抵，飼い主さんの方が興奮しているのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしかしたら，生き物の匂いって案外落ち着けるのかもしれない．毎日接している排気ガスや芳香剤の匂いは，たぶん，彼らにとって「正体のわからない」匂いだ．未知の物に取り囲まれると落ち着けないのは人も犬も同じだろう．先祖が穴蔵で暮らしてきた犬には，なおさらのことかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちが最初に飼ったコリーは，ある日突然，ショーウィンドウや門構えの立派な家の前を歩けなくなったことがある．リードで促しても，座り込んだまま頑として動かない．その妙な行動は半年ほどで自然に消えたが，散歩が不自由で苦労した記憶がある．理由はわからないが，たぶん，彼女は私たちには見えない何かを「見て」いたのだろう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;犬と暮らし始めて１万数千年．&lt;br /&gt;いつも一緒のようでいて，私たちはまるで違う世界を生きてきたのかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おわり&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-6571303667358533360?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/6571303667358533360/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=6571303667358533360&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6571303667358533360'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6571303667358533360'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2010/05/blog-post.html' title='空間脳と関係脳（７）　－一万年のすれ違い－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-5281141149491860884</id><published>2010-04-24T20:45:00.006+09:00</published><updated>2010-05-03T13:08:53.759+09:00</updated><title type='text'>空間脳と関係脳（６）　－犬との関わり－</title><content type='html'>要するにこの雑文で何が言いたかったかというと，私たちが犬と接するとき，その意識が過剰に関係性に向かっていないだろうか，ということである．もちろん，犬も優れたコミュニケーション能力を持っているが，少なくとも人間よりは，場所や状況に多く依存しているはずである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;よく，「うちの犬，家ではよく言うことを聞くのに外では全然！」といった愚痴を聞くが，状況依存的な犬の行動原理を思えば，ムカッ腹くらいは抑えられる．&lt;br /&gt;そもそも，犬が言うことを聞かないと，私たちは「裏切られた」とか「犬が逆らった」と感じるけれど，その感じ方こそが，関係脳が得意とする「擬人化」や「共感」が機能した結果なのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大抵の場合，犬は人間の指示に逆らおうと意図したのではなく，置かれた状況にしたがって行動しただけである．人間の指示は，その「状況」の一つに過ぎない．人は，「あのね」と話しかけられた相手にほぼ100%の注意を向けるが，他の動物に同じことを期待するのは筋違いというものである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Barbaraさんは，犬におもちゃを与え「これは齧って良いけど，家具はだめ」と教えることを，「フェアではない」という表現で戒める．確かに，物を分別してそれと行動を結びつけるのは，関係脳の人間には朝飯前だが，犬には難しいかもしれない．&lt;br /&gt;この場合，ざっくりと「居間は人間のスペースであって，そこにあるものも人間のものである」ことを示す方が簡単だし，理にかなってもいる．その代わり，犬の居場所は別にきちんと確保して，そこにあるものは自由にして良い，ということを保証してやる必要はあるけれど．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-5281141149491860884?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/5281141149491860884/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=5281141149491860884&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5281141149491860884'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5281141149491860884'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2010/04/blog-post_7584.html' title='空間脳と関係脳（６）　－犬との関わり－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-452914485148603783</id><published>2010-04-24T20:42:00.002+09:00</published><updated>2010-04-24T20:45:39.249+09:00</updated><title type='text'>空間脳と関係脳（５）　－生存戦略－</title><content type='html'>空間をきめ細かくスキャンニングすることは，生存戦略として非常に有効である．敵の気配をいち早く察知してリスクを回避できるし，食物や水を逃す機会も減る．そもそも，空間や時間を区切って「住み分ける」ことは，種の多様性を確保するための大自然のルールである．&lt;br /&gt;（山だろうが谷だろうが，極寒だろうが熱帯雨林だろうが，昼だろうが夜だろうが，あたり憚らず元気なのは人間と微生物くらいだ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;では，なぜ人間ではその能力が衰えたのか．&lt;br /&gt;言い換えれば，精緻な空間認知に代わる生存戦略上の武器は何なのか？&lt;br /&gt;それは，「関係性」の知覚だと思う．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人と人，人と動物，人と物，物と物，，，人間はおよそさまざまな事象の関係性を知覚することに長けている．風の加減で桶屋の売上げを予想したり，路傍の石に自分の人生を重ねるなんて離れ技は，とても他の動物にはできない．その能力があったからこそ，道具を発明し，ロジックを構築し，複雑な社会を形成することができたのだろう．高度なコミュニケーションも，相手との関係性を推し量る能力抜きには考えられない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;複数のセンサ情報を統合的に処理し，複雑な空間マップを生成するためには，多くの情報処理リソースが必要である．おそらく人間は，その一部を犠牲にすることで，関係性に対する優れた認知機能を獲得したのだ．&lt;br /&gt;あえて対比させて名づけるなら，犬と人の脳はそれぞれ，「空間脳」「関係脳」と言えるかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（↑ほらね，人間ってどうしても「関係」の話にしちゃうでしょ？）&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-452914485148603783?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/452914485148603783/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=452914485148603783&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/452914485148603783'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/452914485148603783'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2010/04/blog-post_2203.html' title='空間脳と関係脳（５）　－生存戦略－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-8478659400466806531</id><published>2010-04-24T20:37:00.002+09:00</published><updated>2010-04-24T20:42:01.610+09:00</updated><title type='text'>空間脳と関係脳（４）　－嗅覚力－</title><content type='html'>なぜ，犬と人の感覚がこうも違うのか？&lt;br /&gt;理由の一つとして，嗅覚性能の違いがあると思う．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間の空間認知は，（少なくとも晴眼者は）ほぼ100%を視覚に頼っている．視覚というのは，空間のセンサだと思われがちだが実は違う．私たちが知覚しているのはあくまで物（のイメージ）であって，空間ではない．&lt;br /&gt;センシング・システムの代表的な機能は，センサが感知したものを「ある」と判定することだが，裏を返せば，感知しないときに「無い」と判断することでもある．&lt;br /&gt;視覚命の人間は，空間を「物と物の隙間」としてしか認識していないのである．&lt;br /&gt;実際には，そこには空気が充満してるし，心理的なものも含めて，目に見えない様々な力学が作用している．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;嗅覚の発達した（＝視覚への依存度が低い）犬は，人間より仔細に周囲空間を知覚・認識している可能性が高い．人間がスルーする空間にも匂いは漂っていて，犬はそれを手がかりに有意な情報を得ている．人は物理的な「仕切り」が無いと空間を分別できないが，犬はもっと複雑な空間マップを頭の中に作り上げているかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いや，犬だけじゃなく，馬も羊も鳥もそうだ．&lt;br /&gt;彼らの行動を見ているとそんな気がする．&lt;br /&gt;放牧地にまだ一杯草が残ってるのに，わざわざ苦労してフェンスを乗り越えていくヤギの行動はホトホト理解に苦しむが，彼らにしてみたら，何の必然性も無いところにある仕切りこそ，無意味で乱暴で許せない行為なのかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;鳥というやつは，積んだ野菜を散らかしたり，盛り上げた畦を崩したり，とにかく世界の秩序を破壊することに熱心だが，彼らの通り道や砂浴び場は，ちゃんと決まった場所だったりする．鴨の群なんか，通り道で見知らぬ物に出会うと途端にガーガーとパニクっている．見ている分には微笑ましいが，忙しい時には迷惑な習性である．&lt;br /&gt;蝶も，一見何の手がかりも無い空中に，彼らにしか見えない通り道を設けることで知られている．ジャングルの中で無数の蝶が行きかう蝶道に出会うと，その見事さに魂を奪われるんだそうである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-8478659400466806531?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/8478659400466806531/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=8478659400466806531&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/8478659400466806531'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/8478659400466806531'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2010/04/blog-post_7660.html' title='空間脳と関係脳（４）　－嗅覚力－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-5961970230547289235</id><published>2010-04-24T20:32:00.002+09:00</published><updated>2010-04-24T20:37:01.044+09:00</updated><title type='text'>空間脳と関係脳（３）　－見えずとも－</title><content type='html'>んじゃあ気をとり直して他の例，というわけで，昔どこかで読んだ話を紹介する．&lt;br /&gt;ファームで働く，ある年老いたシープドッグのエピソード．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その犬は，放牧場に散らばった羊たちを，小屋まで連れてくることを日課にしていた．&lt;br /&gt;ところがある日，敷地に置かれたバケツに頭から突っ込んでしまう．それを見ていた農夫は，「最近，仕事が遅いと思ってたら，ここまで耄碌してたか．もうお払い箱だな」と毒づく．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしその数日後，農夫はたまたま訪れた獣医から，次のように告げられる．&lt;br /&gt;「この犬は目が見えてないよ」&lt;br /&gt;「数ヶ月前には完全に視力を失ってたはずだ」&lt;br /&gt;「日ごろの様子を見てて，気がつかなかったのか？」&lt;br /&gt;犬は，牧場の地形を完全に記憶し，何箇所かの手がかりと羊の匂いだけで，仕事をこなしていたのだ．次第に弱まる視力を自覚し，自分でやり方を工夫していったのだろう．&lt;br /&gt;農夫は悄然として犬に謝る，というところで話は終わる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;確か実話として紹介されていたと思う．&lt;br /&gt;後天的に視力を失っても，それを悟られずに仕事をこなす犬の能力に驚かされる（そういえば，全盲のゴールデンが「ボールのレトリーブ」で遊ぶのを，目の当たりにしたことがある）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いや，もしかしたら，良くできた作り話なのかもしれない．それでも，この話が「そういうことってありそーだよね」と語り継がれてきたとすれば，少なくとも農夫たちの間では，犬の空間認知能力が認められてきた，ということだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（ん～，これも良い例じゃなかったですね）&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-5961970230547289235?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/5961970230547289235/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=5961970230547289235&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5961970230547289235'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5961970230547289235'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2010/04/blog-post_6056.html' title='空間脳と関係脳（３）　－見えずとも－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-5413389025347380398</id><published>2010-04-24T20:27:00.003+09:00</published><updated>2010-04-24T21:04:48.575+09:00</updated><title type='text'>空間脳と関係脳（２）　－ばらんす－</title><content type='html'>敷地は1/100ほどしかないが，私たちも個性豊かなコリーたちと暮らすようになった．ゲストと一緒に訪れてくれる犬たちも多い．&lt;br /&gt;位置関係にデリケートだというのは，彼らの日常（裏庭でトイレするときとか，犬同士の遊びとか，オフ会であちこちに繋がれてるときとか）を見てて思うことである．人間よりもずっと多くのことを，彼らは空間から感じ取っているようだ．&lt;br /&gt;意外に思えたBarbaraのこだわりも，今ではなるほどと思える．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;羊追い作業は，羊と人に対する犬の（位置的な）バランス感覚を利用したものだ．だからそのトレーニングは，まずその犬固有の意欲とバランスを見極めることから始まる．その動きに言葉を重ねてコマンドとし，さらに仕事に合うように動きを調整していくのが，たぶん一番素直な手順である．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが私たちは往々にして，最初から「言葉（や笛）を使う」ことに躍起になってしまう．人－羊－犬の位置関係よりも，人－犬の関係に，もっと言えば「犬を操る」ことに意識が集中してしまうのだ．&lt;br /&gt;もちろん，そういうやり方でも羊くらい追えるし，むしろ形にするにはその方が手っ取り早いかもしれない．しかしそれだと，犬は自分で考えなくなるし，少なくとも本来の順序ではない，，，って，そんなこと言いたかったんじゃなくて，ここでは，人と犬では空間の感受性が違うのではないか，ということを示したかったのだ．&lt;br /&gt;あまり，良い例じゃなかったけど．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_55OjGfnxUZU/S9LV-D9GryI/AAAAAAAAAGE/S17hu8_ebEM/s1600/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 240px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_55OjGfnxUZU/S9LV-D9GryI/AAAAAAAAAGE/S17hu8_ebEM/s320/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5463664560144035618" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-5413389025347380398?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/5413389025347380398/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=5413389025347380398&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5413389025347380398'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5413389025347380398'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2010/04/blog-post_24.html' title='空間脳と関係脳（２）　－ばらんす－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_55OjGfnxUZU/S9LV-D9GryI/AAAAAAAAAGE/S17hu8_ebEM/s72-c/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-8972252394816739613</id><published>2010-04-24T19:26:00.002+09:00</published><updated>2010-04-24T19:33:16.657+09:00</updated><title type='text'>空間脳と関係脳（１）　－意外な悩み－</title><content type='html'>たぶん犬という動物は，ポジショニングとか姿勢とか，そういう空間的な感覚がとてもデリケートにできている．いや，人間の感覚が鈍いと言った方が正確かもしれない．どちらにせよ，その辺のズレが微妙なすれ違いを生んでいる気がする．&lt;br /&gt;．．．そんなことを思いついたので，忘れないうちにメモしておく．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;--&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Barbara Sykesさんのファームには，現役の羊追い犬はもちろんのこと，役者犬やコンパニオン犬，レスキューされた子や隠居犬まで，常時20頭前後のボーダーコリーが暮らしている．&lt;br /&gt;若犬から老犬まで，それぞれが皆，何らかの役割りを持っている．&lt;br /&gt;本当に個性はさまざまだが，「使えない犬はいない」と彼女は力説する．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それだけの犬がいると，しつけや訓練がさぞ大変やろうと思いきや，実際はそうでもない．&lt;br /&gt;少数の犬を連れて散策にでかけることもあるが，犬と「向き合って」何かを教え込んでいる場面を見たことが無い．農場管理，家畜たちの世話，センターの運営，コンサル，雑誌の編集，執筆，訓練士など，多くの仕事を一人で背負っている彼女には，その時間と余裕が無い，というのが正直なところかもしれない．&lt;br /&gt;それでも，犬たちは従順だし，何より活き活きと暮らしている．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Hiroが&lt;a href="http://bordercollie-mate.com/FBCC/diary.html"&gt;「ヨークシャー滞在記」&lt;/a&gt;に書いたが，そんな彼女も，犬小屋の配置や向き，家畜たちの動線などについては，意外なほど気を遣う．昼食を立ったまま済ませるほど慌しい生活なのに，あーでもないこーでもないと思い悩むんだそうである．いくら広いといっても，犬，人，家畜が一緒に暮らす敷地．無用な摩擦を避け，お互いの生活に干渉することがないよう，いつも心を砕いているのだ．&lt;br /&gt;（ただオスたちは，お気に入りの１頭を除き，"Boys"と一括りにされて冷遇されているように感じるのは，同性意識から来る僻みだろうか）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;基本的なしつけやトレーニングをおろそかに考えてるわけではない．ただ，何かを「教え込」んだり「禁止し」たりするよりも，まず「状況を整える」ことを優先しているのだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-8972252394816739613?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/8972252394816739613/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=8972252394816739613&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/8972252394816739613'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/8972252394816739613'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2010/04/blog-post.html' title='空間脳と関係脳（１）　－意外な悩み－'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-5079634953638070399</id><published>2008-07-25T23:09:00.001+09:00</published><updated>2008-07-27T07:27:09.250+09:00</updated><title type='text'>本当は怖いヒトの本能 （５）</title><content type='html'>なんか話ずれた．&lt;br /&gt;例によって犬と結びつけてまとめてしまおう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以前のヨタ話で犬のバランスについて書いたことがある．&lt;br /&gt;どうしても自分はヒトよりイヌの方がバランスが良いように感じてしまうのだが，それって何？というテーマだった．そのときは，"身体（＝自然）" 対 "脳" という図式をでっち上げたが，今回，２つの欲動のことを聞き知って，いや実はこのバランスのことだったのかもと思い直した．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;犬は，互いを「名」で区別しその細かな差異に関心を払うことが無い．ことさら個を主張することもしない．群（それも"主体的に"選ばない．あくまで"縁"だ）になってしまえば，グレートデンも人もパグもミケも構成員として変わりは無い．仲間に劣等感を持たず，他の群を羨まず，自由だ正義だ平等だと（人目を気にして）力まない．そして，群としてのパフォーマンスが最大になるように自分の立場役割を見定め，そのように行動し，その上で個々の生を愉しむ．このあたりが，社会的動物としてのバランスではないだろうか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だからといってそれをマネしようとしても詮無いことだ．もう人と犬は違いすぎる．&lt;br /&gt;ただ彼らと暮らすことによって，（普段は意識に上らない）私たちの個体保存欲動と性欲動のバランス具合を自覚することはできる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしバランスが悪いとしたらどーしたらいいのか．&lt;br /&gt;それはわからない．&lt;br /&gt;第一，バランスが悪いことが悪いと決まってるわけじゃない，ってゆーか自然界には良いとか悪いとかの概念は無い．例えば，もしそうなることが自然のプログラムに組み込まれているのだとしたら，私たちに何ができるわけでもない．要するに何が言いたいのかと言うと，まぁそういうことだ．．．ってほらぁ，やっぱりまとまらない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しょーがないからこのままぶった切ってしまおうと思っていたが，たまたま朝日新聞紙上で宮崎駿氏のメッセージを見かけたら気が変わって，シメの代わりにコピペさせてもらうことにした．&lt;br /&gt;あまり脈略は無いんですが，今の気持ちにピッタリだったので．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;strong&gt;「コナンのころは美意識に基づいた一種の終末思想がありましたが，そんなきれいな終末は来ず，どろどろ，ぐしゃぐしゃのまま21世紀はやってきた．&lt;br /&gt;じゃあ今，何をよりどころにするのか．&lt;br /&gt;人間がすべてを捨てても最後まで捨てないはずの子供ではないか．&lt;br /&gt;ひとまず産まれた子供をみなで祝福し，一緒に苦しみながら生きましょう．&lt;br /&gt;そんな風に思います．」&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そ，そうですよね，監督！（涙）&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-5079634953638070399?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/5079634953638070399/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=5079634953638070399&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5079634953638070399'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5079634953638070399'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/07/blog-post_3122.html' title='本当は怖いヒトの本能 （５）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-8839081472368620966</id><published>2008-07-25T23:07:00.001+09:00</published><updated>2008-07-27T07:29:48.419+09:00</updated><title type='text'>本当は怖いヒトの本能 （４）</title><content type='html'>子宮への回帰を願う個体保存欲動は基本的に内向き指向になるが，性欲動は外向きの推力を持っている．繁殖のためには他の個体との接触が必須であり，特に人の場合，これが生き方や価値観の異なる他者との交流に繋がるからである．この２つの推力のバランスによって，人それぞれの生き方の色合いが決まる．&lt;br /&gt;そして今の日本社会の空気は，おそらく"内向き"である．&lt;br /&gt;個人主義，じこちゅー，モラトリアム，引きこもり，自分らしさ，他罰的，依存・嗜癖，オタク，オレ様，共同体の崩壊，老後の不安，，，などの世評タームを並べるとそうとしか思えない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば少子化．この現象を個体保存欲動の昂進で説明することは難しくない．&lt;br /&gt;もともと子孫を残すという行為は，その生物個体にとってはメリットが無いどころか，リソースの分け前が減り，行動が制限され，結果として快適さの著しい低下をもたらす．だから本来，子作り子育てなんてことは，性欲動がしっかり働いて個体保存欲動を適度に抑制してくれないことには，ちょっとできない相談なのである．&lt;br /&gt;そう考えると今の出生率低下は意外でも何でもない．逆にここまで経済優先で自己実現万歳の世の中になっても，それなりに子孫を作り続けてるという事実に，生き物としてのシタタカさを見るようで感動すら覚える．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ついでに言うと今，少子化問題対策として雇用ルールの改訂とか，子育て負担の軽減とか，税の優遇とか打ち出されている．それはそれで必要だと思うのだけれど，それらが結局は損得勘定であり，個体保存欲動と同じ目線なのが気になる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近の環境問題でも思ったけれど，経済のワーディングに拠らない方策というのは，私たちにはもう発想すらできないのだろうか？&lt;br /&gt;そもそも，少子化現象を問題として捉えること自体，物事を経済の色メガネで見てしまっていることの証とも言えるのだけれど．&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-8839081472368620966?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/8839081472368620966/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=8839081472368620966&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/8839081472368620966'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/8839081472368620966'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/07/blog-post_772.html' title='本当は怖いヒトの本能 （４）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-5115559923296413704</id><published>2008-07-25T23:05:00.001+09:00</published><updated>2008-07-27T07:31:20.296+09:00</updated><title type='text'>本当は怖いヒトの本能 （３）</title><content type='html'>もちろんこれは狭い世界の一つの例に過ぎない．&lt;br /&gt;しかし社会的な「役割」や「型」を差し置いて，個の確立を奨励するような社会は未だかつて存在しなかった・・・とまで言い切る自信は無いけれど，現代の日本が，個人の欲望すなわち個体保存欲動を肯定し，かつて無いほど強化している社会だということは言えると思う．&lt;br /&gt;経済至上主義とか市場原理主義，あるいはそれらに母屋を乗っ取られた感のある民主主義のことを言っている．&lt;br /&gt;理由は単純，物やカネの流通を促し経済を活性化させるためには，消費単位をできるだけ細分化（村や家族単位に売るより，個人に一台ずつテレビを売った方が儲かる）し，個々の欲望を最大化することが手っ取り早いからである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな現代でも，個人的欲望をあからさまに表にするのはハシタナイみたいな感覚はあるし，それを抑制するシステムも生き残っている．村上世彰氏の「カネを儲けて何が悪い？」発言を聞いて，え～！？と感じた人は少なくないだろう．&lt;br /&gt;しかしちょっと捻って「自己実現」とか「自分らしさの発見」とか「自分探し」とかの表現にすればどうか．あるいはもう半捻りして「自然体で生きる」「自分に素直」「ほんとうの私」「等身大」あたりでも良い．おそらく違和感抱くどころか，両手でハグして背中パンパンできるのではないだろうか．&lt;br /&gt;村上発言と「自己実現」の間には大きな隔たりがあるように聞こえるが，個人の欲望の肯定という切り口から見れば実は良く似ている．　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大体世間では，個々人の中にあらかじめ確固とした自己があり「きちんと向き合えば本当の自分が見えてくる」なんてことがもっともらしく語られているが，あんまり自信満々に言われると，つい，本当かよ？と混ぜっ返したくなる．それって近代の西洋文化が作り上げた幻想なんじゃないのかって．&lt;br /&gt;いや，それはこの際どっちでもいい．&lt;br /&gt;問題はそれらの言い回しが氾濫しているという事実であり，そこから窺い知れるのは，私たちの意識がどうやら過剰に自分に向かっているらしい，ということである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん，いつの時代のどんな社会にも自意識過剰なグループは存在した．しかし彼らは普通"子供"と呼ばれ，これから視野を広げ社会性を養うべき人間として区別されていた．&lt;br /&gt;今やその境界はあいまいになり，社会全体の中に，自意識を奨励し成熟を抑制するような気圧が存在する．みんなで寄ってたかって個体保存欲動を"褒めて育て"，結果として性欲動を抑制してるように思えてならない．&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-5115559923296413704?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/5115559923296413704/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=5115559923296413704&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5115559923296413704'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5115559923296413704'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/07/blog-post_6957.html' title='本当は怖いヒトの本能 （３）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-4114499594224980630</id><published>2008-07-25T23:02:00.001+09:00</published><updated>2008-07-27T07:32:09.292+09:00</updated><title type='text'>本当は怖いヒトの本能 （２）</title><content type='html'>ところで対立する２大本能と言えばフロイトのエロスとタナトスを思い出す（って知らんかったくせによく言うな，おめーわよー）．エロスは生きることや創造や生殖を，タナトスは死を希求する本能とされる．&lt;br /&gt;切り口は違うが，エロス／タナトスに含まれるさまざまな欲望は個体保存欲動と性欲動でも説明できる．ただ，タナトスの「死を積極的に希求する」ような欲望は個体保存／性欲動には見当たらない．強いて言えば，性欲動の「個体の死なんかどーでもいい」がそれに相当する．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;タナトスは人の破壊的衝動を説明するために考案されたものだが，どこか余分にヒューマニズムが混じってるようで座り心地の悪いところがある．まろ的には「どーでもいい」くらいの方が人智を超えた無常感が漂っていて腑に落ちる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;他の動物と較べたとき，ヒトの特徴は個体保存欲動が強いことだろう．個体としていかに快適に，有意義に生きるかということに思考と行動のリソースが集中的に投入される．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それが行き過ぎるとどーもうまくない，ってんでご先祖たちは，個体保存欲動をコントロールすることに営々と取り組んできた．宗教はもとより，道徳倫理，社会ルール，社会制度，慣習，なんちゃら道，しつけ，，，いわゆる「人の生き方」に関わる文化資産は，多かれ少なかれ個人の「我と欲」（≒個体保存欲動）の抑制をテーマとしてきた．その一方で，成熟と交流を促すさまざまな仕掛けが社会システムの中に作り込まれてきた．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;史実だか司馬氏の創作だかは知らないが，少年時代の吉田松陰は，勉強時間に虫に刺された頬を掻いたのを見咎められ，家庭教師役だった叔父から半殺しの目に合わされたのだそうな．その叔父が特に凶暴だったとか，不幸な少年時代を背負ったDV野郎だったというわけではない．「本来，公に属するはずの勉学の時間に，頬を掻くという私の行為を優先した．今これを見逃せば将来どうしようもない人間になる」という信念がそうさせたのである．当時の社会にはそんな価値観があった．&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-4114499594224980630?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/4114499594224980630/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=4114499594224980630&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/4114499594224980630'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/4114499594224980630'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/07/blog-post_25.html' title='本当は怖いヒトの本能 （２）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-563349201459141315</id><published>2008-07-25T22:58:00.001+09:00</published><updated>2008-07-27T07:33:53.835+09:00</updated><title type='text'>本当は怖いヒトの本能 （１）</title><content type='html'>（今回はとても書きにくかったから，きっと読みにくいに違いない．じゃあ書くなよって！？)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間には，個人としてより良く快適に生きようとする欲動と，子孫を残し命の連鎖を繋ごうとする２つの基本的な欲動がある．．．というようなことを精神科医の斉藤学という人が書いていて，言われてみれば当たり前のことのようだけれど，こーいう大事っぽいことほど学校で教えてくれなかったと拗ねつつ，思いついたヨタを２，３．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;斉藤氏に倣って前者を個体保存欲動，後者を性欲動（"性欲"じゃないかんね）と呼ぶ．&lt;br /&gt;個体保存欲動は，腹一杯食べたいとか，安全に暮らしたいとか，長生きしたいとか，目立ちたいとか，そういう誰にも覚えのある本能である．個性なんてのもここから派生してくるらしい．&lt;br /&gt;性欲動は個体よりはヒトという種，あるいは生命の一員としてDNAを途切れず後世に引き継ごうとする本能である．個体の安全や快適なんか二の次だし，個性どころか，ヒトのDNAが蛆虫のそれより価値があるわけではない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２つの欲動は基本的に対立している．&lt;br /&gt;個体保存欲動のもっとも根源的な欲望は，安全と快適が保障された子宮への回帰なのに対し，性欲動は「「汝は性的に成熟し，性交し，子孫を残せ」と命じる非情な推力」だからだ．&lt;br /&gt;個体保存欲動にとって老いと死滅はもっとも忌避すべきことだが，性欲動にとってはまぁどーでもいいことだ．いやむしろ，DNA継承の役目を終えた個体にはサッサとお引取りいただいた方が好都合かもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どちらがより根深いかというと，そりゃあ人は人である前に生きものなんだから，性欲動だろう．だから普通は性欲動の方がより無意識的に作用し，両者が対立する局面では，個体保存欲動を抑圧することになる．否応無く誕生し，成熟し，やがて世代交代して死を迎えるという流れには，どんな欲動も逆らうことはできない．&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-563349201459141315?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/563349201459141315/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=563349201459141315&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/563349201459141315'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/563349201459141315'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/07/blog-post.html' title='本当は怖いヒトの本能 （１）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-7166904135477863400</id><published>2008-05-06T11:19:00.001+09:00</published><updated>2008-05-06T11:30:37.560+09:00</updated><title type='text'>コトバで考える葦（４）</title><content type='html'>経験が教えるところによると，犬には何かをさせるより，させない（ことを理解させる）ことの方がはるかに難しい．「しないこと」を教えるときには，別の行動や考え方に置き換える方が話が早かったりする．&lt;br /&gt;例えば「騒ぐな」は「座れ」とか「伏せろ」，「吼えるな」は「吼えろ」（＝それ以外は吼えるな），「ソファに乗るな」は「君の居場所はこのタオルの上」とか「そのソファは俺んだから遠慮しろ」などなど．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ファームで家畜を世話しているとき，それをケージの中から見ている犬たちは大騒ぎだ．これを静めるために「ぎぶあっぷ」とか「びへいぶ」などとつい叫んでしまうが，犬たちがこれを「騒いではいけない」と理解しているとは思えない．一瞬静かになっても数秒後には元の木阿弥だからね．（それにしても，吼えると決まって不機嫌になる自分という人間は，彼らの目にはどう映っているのだろう？）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コトバを使わない犬たちには，否定の概念そのものが無いのかもしれない．だとすると，「させない」ことを理解させることは難しくて当然だし，それなりの工夫がいるのだろう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから，普段の生活で "No" を連発するよりは，それを言わずに済むように気を配ってやる方がTLCかもしれない．&lt;br /&gt;犬をできるだけ自由にしてやるのは人道的には正しげに見えるが，犬道的にはどうなんだろう？　人の周りをうろついて "No" の集中砲火を浴びるよりは，安全を保障された自分の場所で落ち着いている方が心安らかかもしれない．&lt;br /&gt;本当か？&lt;br /&gt;わかんないよね，そんなの．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうか，エンドレスで悩み考え続けるのがTLCの極意なのですね，ばぁばら導師様！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おわり&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-7166904135477863400?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/7166904135477863400/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=7166904135477863400&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/7166904135477863400'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/7166904135477863400'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/05/blog-post_3712.html' title='コトバで考える葦（４）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-8551718506418055722</id><published>2008-05-06T11:15:00.001+09:00</published><updated>2008-05-06T11:28:08.708+09:00</updated><title type='text'>コトバで考える葦（３）</title><content type='html'>．．．と，ホントはここで話は終わってるのだが，たまたま「否定」に関するおもしろい話を聞きかじったので，ついでに知ったかぶりをする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは，私たちは普段「無い」とか「しない」という否定のメッセージを易々と伝えているけれど，コトバを使わずにこれをしようとすると，たちまち途方にくれてしまうという話．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば「テーブルの上にりんごが無い」ことを言いたいとする．&lt;br /&gt;コトバを使えば，まさに今書いたような一文で事足りるが，これを他の手段，例えば絵で表現しようとすると，途端に話はややこしくなる．&lt;br /&gt;何も乗ってないテーブルを100枚描いても，"りんごが無い"というメッセージは伝わらない．そもそもイメージは空間を埋め尽くすものであって，不在や欠如を含まないからである．&lt;br /&gt;あえて伝えようとすれば，例えば，1)りんご以外のすべての物が乗っているテーブルを描く，2)りんごの乗っているテーブルと乗っていないテーブルを描いて対比させる，3)点線でりんごを描いて不在を強調する，などの工夫が必要になる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1)はそもそも描けないし，仮に描けたとしてもりんごが無いことに思い至るかどうかは怪しい．&lt;br /&gt;2)や3)だったら可能かもしれないけれど，これらは絵画というより，すでに "絵で表現したコトバ" である．2枚の絵や点線の中に，すでに論理と時間が畳み込まれているからである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;同じように，「しないこと」を伝えるのも難しい．&lt;br /&gt;犬同士が道ですれ違ったとき，相手に「近づいたらぶっ殺すぞ」と意思表示することはたやすい．&lt;br /&gt;しかし「殺さない」「殺す気が無い」ことを伝えるのはどうか．&lt;br /&gt;敵意の無いことが表現できても，それだと「殺さない」を明示的に伝えたことにならない（敵意が無くても殺すことはできる）．あえてやるなら，相手を噛んで噛んで噛んで噛んで噛みまくって，それでも止めを刺さない．．．といった行為に訴える他ない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことほど左様に，イメージや動作で否定のメッセージを伝えることは難しい．&lt;br /&gt;では，なぜコトバを使えば簡単なのだろうか？　長い人類の歴史の中で，コトバが強化洗練され，それらの機能が付加されてきたのだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おそらくそうじゃない．&lt;br /&gt;どうも言語活動と否定の概念は，根っこのところでガッツリ結びついているらしいのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幼児の成長に注意していると，何年もかけて徐々にコトバを習得していくというよりは，ある日を境に一気に学習が進む様子が観察される．発達心理学が伝えるところによると，これは，赤ん坊が「（おっぱいが）無いこと」を認識する時期と一致する．つまり，物を "存在" として捉えるだけでなく， "不在" とのセットで理解したとき，人は人となり，言語活動が始まる（らしい）のである．&lt;br /&gt;コトバとは，このような世界観と一体のものなのだろう．それくらい精神活動が高度になって，ようやくコトバが使えるようになる，ということかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-8551718506418055722?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/8551718506418055722/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=8551718506418055722&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/8551718506418055722'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/8551718506418055722'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/05/blog-post_06.html' title='コトバで考える葦（３）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-6961388586181830928</id><published>2008-05-05T19:45:00.003+09:00</published><updated>2008-05-05T22:46:40.083+09:00</updated><title type='text'>コトバで考える葦（２）</title><content type='html'>一体どっちが正解なのだろう．．．などとすぐに白黒つけたくなるのもいかにもコトバ的だ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コトバは事象の単純化や抽象化，カタログ化（名付けて分類して一丁上がり）を指向するものだが，それでとりあえず「わかった気に」させてくれるところが偉い．しかし少なくとも生き物は，限られたコトバですっきり説明できるほど単純なものじゃない（はず）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;新たな理説を主張するために，まず既存の説を否定してかかるというのはコトバ的思考のお作法である．「従来の説は間違いだ」って言わないと迫力出ないからね．「従来の説も少しは合ってるけど，この説だって半分くらいは正しいと思うよ．．．」などとウダウダ言ってると聞いてる人は寝てしまう．&lt;br /&gt;「犬は人をアルファと見なしている」というのは確かに乱暴かもしれないが，だからって「それは間違い」と言い切るのだって同じくらい乱暴な行為だと思う．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そもそも，群とかアルファとかメンバーとかは人間が勝手に定義したのだから，それとドンピシャの概念が犬の頭ン中にある方が不思議である．&lt;br /&gt;群のメンバーとそうでない者を明確に区別するためには，群のメンバーに「群のメンバー」というレッテルを貼らないといけないが，きっと犬はそんなことしない．その場その場で自分の感覚に従ってそれなりの態度をとるのだ（と思う）．&lt;br /&gt;犬は家族を群と思っているのか，リーダーをアルファと見なしているのか，メンバーに序列をつけてその中で自分を位置づけているのか？　おそらく，どれも少しずつ正解であり，少しずつ不正解なのだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コトバを否定したいわけではない．「コトバに頼らず自分の感覚を大事にしよう」などと安直に言いたいのでもない（そんなことを前に書いた気がするけど）．むしろその逆で，犬を少しでも理解しようとするなら様々な理説＝コトバに触れるしかないと思っている．私たち人間には，周りをコトバで埋め尽くす以外に事の本質に迫る手立てが無いのだから．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでも，コトバは決して万能ではないこと，そして私たちはコトバの枠組みの中でしか考えられないことは，自覚しておいた方が良いと思う．&lt;br /&gt;そしたら何か変わるのかって？&lt;br /&gt;いあ，別に．．．&lt;br /&gt;でも自覚からは「節度」が生まれるし，それこそがヒトの貴重な資源だと思うのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-6961388586181830928?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/6961388586181830928/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=6961388586181830928&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6961388586181830928'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6961388586181830928'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/05/blog-post_05.html' title='コトバで考える葦（２）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-4830878912638711308</id><published>2008-05-05T19:41:00.001+09:00</published><updated>2008-05-05T19:58:43.598+09:00</updated><title type='text'>コトバで考える葦（１）</title><content type='html'>ヨークシャの農場主バーバラ・サイクス氏のトレーナとしてのモットーは，TLC（Think Like Canine）という．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「犬のように考える」「犬として思う」「犬目線になる」．．．一見ありふれたメッセージだが，こういうのは大抵，やさしく考えれば何ということはないのに，悩み出せばキリが無いものと相場が決まっている．&lt;br /&gt;実際，お前らの頭ん中わかんねー！って，じぇちの理解不能な行動に直面するたび，深く深く絶望させられる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人が人として考える時，どうしてもコトバが介在する．&lt;br /&gt;「犬のように考える」には，まずこれがハードルになる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば，「犬は家族を群と見なして，そのリーダーをアルファとして尊重する」という考え方．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一郎君とジョンは寝るときも食べるときもいつも一緒だった．それでまぁ仲良くやっていたのだが，ある日を境に生活が一変する．ジョンはベッドから追い出され，食餌は一郎君が終わるまで待たされるようになり，大好きだったソファ寝が禁止され，散歩のときは歩く位置まで決められてしまった．そういえば，一郎君の声まで何やら低くいかめしい．．．一郎君はその日なんちゃら講習会に参加して，パックリーダ説に感銘を受けて帰ってきたのだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頭＝コトバで考えることで，生き物に対する態度までガラッと変えることができるのが，他には無いヒトという動物の特徴だ．考えてみれば，これは結構すごいことだ．動物が急に態度を変えたら，，，例えば怯えて逃げるだけだった鳥が，急に襲ってくるようになったら恐怖映画になってしまう．&lt;br /&gt;じぇちはもともと人づき合いの不器用な犬だが，最近は随分と改心したようで，たま～に撫でてくれと自らせがむようにまでなった．それでも，手が届くまであと5cmというあたりでスッと身を引くような，基本路線の態度は変わらない．彼女の行動は奇怪で予測不可能だが，行動自体は変わってもその "奇怪で予測不可能" な感じはこの先もずっと変わらないだろう（泣）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところでパック理論は，それがオオカミの習性の名残だとする論拠が納得しやすく，広く受け入れられた．しかし，そもそもその論拠自体がスカで，犬は人をアルファになんか見ていないという説もあり，どうも最近はそちらの方に勢いがあるらしい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-4830878912638711308?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/4830878912638711308/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=4830878912638711308&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/4830878912638711308'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/4830878912638711308'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/05/blog-post.html' title='コトバで考える葦（１）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-7767725169538245147</id><published>2008-03-01T09:14:00.001+09:00</published><updated>2008-03-01T20:25:34.577+09:00</updated><title type='text'>シーツの神様　（５）</title><content type='html'>そう言えば，みわファームに居を構え，庭や畑を放浪するニワトリの卵を始めて食べたとき，「あんれま！」と思った．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ファームでは生ごみを畑に捨てるのだが，それらは虫に食われたり，腐って草や野菜の栄養となったりする．&lt;br /&gt;ニワトリたちはその土や虫や草や野菜を啄ばんで卵を産む．&lt;br /&gt;そしてその卵を人が食らう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頭ではわかっていたつもりの命の連鎖が，こんなにも眼の前で，こんなにも小さなループで，こんなにもあっけなく実現しているのを見て，感動してしまったのである．&lt;br /&gt;それらを自然と呼ぶなら，まさしく自分は自然そのものだということ，身体のありとあらゆる物を周りの環境と交換しながら生きていると言うことを，あっさりと見せられてしまったのである．&lt;br /&gt;逆に言えば，街暮らしだった頃には，そんな当たり前の感覚すら失くしてしまっていたことに気づかされたのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; ミ ナ サ ン　　コ レ ハ タ イ ヘ ン ナ コ ト デ ハ　　ナ イ デ ス カ ？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな風な気持ちだった．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人である以上，人との関係性を大切にし思い悩むのは，誠実でまっとうなことだ．&lt;br /&gt;しかしそれはあくまで脳で考えること．（だけじゃないとも思うけど）&lt;br /&gt;そうである以上，身体の抑制を超えてバランスを失う危険といつも隣合わせだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人の群生活にはウン百万年もの歴史がある．&lt;br /&gt;シーツを手放せなくさせるのはその重みだろう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし，そうは言っても高々ウン百万年なのである．&lt;br /&gt;人のDNAには，36億年を生き延びてきたしたたかな命の記憶が刻まれているはずだ．&lt;br /&gt;私たちはそこにもっと敬意を払うべきだと思う．&lt;br /&gt;．．．って，こーゆーことを頭で考えてるから "ダメ" なんだろうけど．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おわり&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-7767725169538245147?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/7767725169538245147/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=7767725169538245147&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/7767725169538245147'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/7767725169538245147'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/03/blog-post_9489.html' title='シーツの神様　（５）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-7502342241276911468</id><published>2008-03-01T08:59:00.003+09:00</published><updated>2008-03-01T20:22:49.574+09:00</updated><title type='text'>シーツの神様　（４）</title><content type='html'>関係性というのは本来，よりよく生きるための手段であって，それぞれが利己的に利用すべきものだと思う．&lt;br /&gt;しかし最近の空気を嗅いでいると，それ自体が目的と錯覚するくらい意識過剰になっている．&lt;br /&gt;すぐKYとか言うし．&lt;br /&gt;何かをするためじゃなく，関係性を保つことそれ自体に，エネルギーを注ぎ神経をすり減らしている．&lt;br /&gt;人の上にシーツが君臨している．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;じゃあ犬はどうだ？&lt;br /&gt;犬にも多分，シーツは必要だ．&lt;br /&gt;ぐびなんて未だにシーツ吸ってるし．．．ってこれは話が違う．&lt;br /&gt;もとい．&lt;br /&gt;犬だって関係性の中で生きているし，ある意味，人間よりデリケートだ．&lt;br /&gt;喧嘩もあるし，空気の読めるヤツ，読めないヤツだっている．&lt;br /&gt;でも，いじめやらバッシングやら引きこもりやらといった不健康な匂いはない．&lt;br /&gt;意識の度合いとゆーか濃さとゆーか，そんなものが適度なバランスに保たれている感じがする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜだろう？－－－それは多分，彼らが４本足で立っているからだ．&lt;br /&gt;４つ足を踏ん張り，地面としっかり繋がっているから．&lt;br /&gt;つまり，群との関係性に神経を使いながらも，身体で自然とがっつり関係しているから．．．だと思う．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;養老孟司先生（こればっかりだな）曰く，「古今東西の自殺者の遺書には花鳥風月が書かれていない」のだそうだ．&lt;br /&gt;遺書には普通，生活や人間関係への悩みと呪詛が縷々綴られるが，それ以外，特に自然への関心や眼差しはすっぽり抜け落ちている．&lt;br /&gt;関係性への意識が人々を追い詰めるくらい過剰になっているとすれば，それは自然との関係性に対する意識が希薄になっていることの証でもある．&lt;br /&gt;生きるか死ぬかの瀬戸際に花鳥風月は無いやろうとも思うが，まさにそれを「無いやろう」と感じてしまう私たちの感覚がすでに病んでいるのかもしれない．&lt;br /&gt;人との関係性に押しつぶされそうなときは，まず自然との関係性を回復すべきなのかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-7502342241276911468?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/7502342241276911468/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=7502342241276911468&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/7502342241276911468'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/7502342241276911468'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/03/blog-post_2889.html' title='シーツの神様　（４）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-6388744010690426243</id><published>2008-03-01T08:56:00.002+09:00</published><updated>2008-03-01T20:18:11.046+09:00</updated><title type='text'>シーツの神様　（３）</title><content type='html'>犬の話に戻ろうと思ったけど，もう一つ連想したものがあるのでついでに．&lt;br /&gt;それは「お散歩ベルト」のこと．&lt;br /&gt;あれ，正式には何て言うんだろう？&lt;br /&gt;一本のベルトの左右に電車のつり革みたいな取っ手がたくさんくっついてる道具だ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このお散歩ベルト，一見すると何でもないのだが，実は，あのどーしようもなくアナーキーな保育園児たちを，一糸乱れぬ（は言い過ぎかな）行列にまとめて行進させる史上最強，空前絶後，天涯孤独のリーサルウェポンなのだ．&lt;br /&gt;先生がベルトの端を持って歩くだけで，園児たちはそれに従ってぞろぞろと行進する．&lt;br /&gt;一人としてつり革を離すやつはいない．&lt;br /&gt;無理に引っ張って行列を乱すやつもいない．&lt;br /&gt;周りをキョロキョロしてても，歩く方向はまっすぐだ．&lt;br /&gt;保育園の運動会でその威力を目の当たりにしたときは，本当に驚いたものだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この行進の様子は，シーツのイメージとピッタリだぶる．&lt;br /&gt;幼児たちにとって，つり革を手放すことは何らかの負の感情に繋がるのだろう．&lt;br /&gt;想像するにそれは，ヒトとサルとの見分けもつかないような時代，DNAに刻み込まれた太古の記憶のせいだ．&lt;br /&gt;親や群から離れることが死に直結した時代に凝縮された不安だ．&lt;br /&gt;このお散歩ベルトもおそらく，シーツと同じく群＝関係性の象徴なのだろう．&lt;br /&gt;何のことは無い，ヒトという動物は幼少の頃から臨終まで，関係性にすがって生きているのである．&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-6388744010690426243?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/6388744010690426243/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=6388744010690426243&amp;isPopup=true' title='1 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6388744010690426243'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6388744010690426243'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/03/blog-post_1809.html' title='シーツの神様　（３）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-3779796624207239657</id><published>2008-03-01T08:50:00.002+09:00</published><updated>2008-03-01T20:19:32.822+09:00</updated><title type='text'>シーツの神様　（２）</title><content type='html'>なんで恥を晒してまで世界でもっとも下らない犬の喧嘩なんか持ち出したかというと，たまたま読んだ田口ランディという人の本の中にいじめの話があって，へぇなるほどと思ったときにこの犬たちのことを連想したからである．&lt;br /&gt;以下はその本に書いてあった話．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その話は，「いじめとは何だろう？」という作者の問に対して，その友人が「それはシーツの皺だな」と答えるところから始まる．&lt;br /&gt;それによると，人間というのは集団でシーツの端を持って歩いているようなものなのだそうだ．&lt;br /&gt;ちょうど，でかい国旗を大勢で持って歩く，競技会の入場行進みたいに．（あれ，恥ずかしいよね）&lt;br /&gt;家庭，学校，職場，ご近所，サークル，国家．．．，ありとあらゆるところにシーツは存在する．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;シーツを持つこと自体はそれほど難しくはない．&lt;br /&gt;しかし，人によってはつい肩に力が入りすぎたり，いい加減に持ってしまったり，他人と歩くスピードが違っていたりする．&lt;br /&gt;そんなところに皺は生まれる．&lt;br /&gt;そしてそれがいじめになる．．．という話．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;先に明かしてしまうと，このシーツには "関係性" という名前がついている．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある集団が一人の人間をいじめるとき，そこにはある暗黙のルールが存在する．&lt;br /&gt;それは，いじめる側はもちろん，いじめられる側も「決してシーツを離してはいけない」というルールだ．&lt;br /&gt;"シカト" 技の効き目が絶大なのはこのためだ．&lt;br /&gt;いじめを公にして外部に助けを求めることは，このルールに抵触する．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聞いた話だが，ある責任感の強い親が息子が長期間いじめられてきた事実を知り，相手の家に押しかけて双方を諭し，最後に目の前で握手させて問題の解決を図ったのだそうだ．&lt;br /&gt;その息子は翌日，自らの命を絶った．&lt;br /&gt;このゲーム世界ではルール違反の罪は命より重い．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;四六時中シーツを持って歩くことは疲れるし，実はシーツを持つことが必要かどうかなんて，本当のところ誰にもわかっちゃいない．&lt;br /&gt;だからシーツを持つ人はいつも，「シーツを持たなければならない理由」を探している．&lt;br /&gt;ボコボコにされてもシーツを離さない仲間を見ると安心できる．&lt;br /&gt;少なくともいじめられてるヤツよりは，自分がうまくシーツを持てていると満足できる．&lt;br /&gt;シーツにすがりつく自分の心を正当化できる．&lt;br /&gt;こうして，シーツは次第に確固とした存在になり，やがて神のように人の上に君臨し始めるのである．&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-3779796624207239657?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/3779796624207239657/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=3779796624207239657&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/3779796624207239657'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/3779796624207239657'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/03/blog-post_01.html' title='シーツの神様　（２）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-6145226805310235878</id><published>2008-03-01T08:42:00.003+09:00</published><updated>2008-03-01T20:18:53.930+09:00</updated><title type='text'>シーツの神様　（１）</title><content type='html'>どっこい生きてるみわファームの犬軍団4頭．&lt;br /&gt;普段この4頭は敷地の中で入り乱れて生活しているが，それでも秩序らしきものはある．&lt;br /&gt;わりと決まりきったパターンで毎日が過ぎていく．&lt;br /&gt;しかしたま～に，そうやね年に２，３回，ぐとアニキが衝突することがある．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;二人とも身体はごつくて固いので，結構な迫力だ．&lt;br /&gt;以前はこっちもビビって止めに入ってたのだが，最近は少し放っておくことにしている．&lt;br /&gt;見ていると双方で加減しながらやっているのか，迫力はあってもひどい傷が残ることは無い（サンのマズルが腫れてカピバラみたいになったことはあるが）．&lt;br /&gt;終わってしまえば後を曳くこともない．．．こともないけど，まぁそういうことにしときましょう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜ衝突するのか，本当のところはわからない．&lt;br /&gt;ただ今になって思い返せば，りん姉が逝って入れ替わりにカイがメンバーに加わったとか，お嬢さんたちに同時に春が訪れたとか，ぐにやらせていた作業をたまたまサンにやらせてみたときとか，何かしら非日常の出来事が起こったときだった気がする．&lt;br /&gt;おそらく群としてのバランスみたいなものが微妙に崩れるのだろう．&lt;br /&gt;ちょっとしたガス抜きみたいなものかもしれない．&lt;br /&gt;この辺の機微は，さすが社会的動物というところか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（ちなみにここまで努めて冷静に書いてきたが，実はこの２頭には結構腹を立てている．今度やったらブッ殺・・・しますよ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-6145226805310235878?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/6145226805310235878/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=6145226805310235878&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6145226805310235878'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6145226805310235878'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2008/03/blog-post.html' title='シーツの神様　（１）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-1126350899167363760</id><published>2007-10-05T21:28:00.001+09:00</published><updated>2007-10-05T21:28:54.923+09:00</updated><title type='text'>読書妄想文　（６）</title><content type='html'>え！？　犬？&lt;br /&gt;あ，そうそう，そうでした．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;うん，犬ってかわいいよね．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-1126350899167363760?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/1126350899167363760/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=1126350899167363760&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/1126350899167363760'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/1126350899167363760'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/10/blog-post_8771.html' title='読書妄想文　（６）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-3617366215823733647</id><published>2007-10-05T21:23:00.000+09:00</published><updated>2007-10-05T21:28:00.438+09:00</updated><title type='text'>読書妄想文　（５）</title><content type='html'>ちなみに，仮に無意識の中に身体事象が全部含まれていたとしても，私たちの感覚ではそれらを「知っている」ことにはならない．&lt;br /&gt;なんせ無意識だから．&lt;br /&gt;人間の場合，言語という光によって意識界は明るく照らされている．&lt;br /&gt;その反作用として，無意識を覆う闇は濃く深い．&lt;br /&gt;だから，その喫水線を強引に押し下げる以外に，身体の事象を「知る」ことは難しい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし他の生き物であれば，それら無意識のイメージを，私たちとはまったく違った仕方で認識できているかもしれない．&lt;br /&gt;先に，「動物たちは「動的な平衡状態」というイメージをすでに知っているのでは？」と書いたのはそういう意味だ．&lt;br /&gt;だってどんな現象も自分の中にあるのは事実なんだから，定義によっては「知ってる」と言っても許されそうなもんじゃないですか．&lt;br /&gt;彼らが土にまみれて生まれ，自らの周りの物を喰らい，日に晒され雨に打たれ，時に躍動し，そして淡々と土に還っていく姿を見ていると，どうもそんな気がしてならない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えばアリは自分がアリとして生きていることを知ってるのだろうかと，私たち人間は不遜にも疑ったりするが，自分のことを一番知らないのは人間かもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後に，もしまろ仮説が当たっているとすれば，人類の到達しうる究極の高みは，生命の秘密を完全に解き明かした時ということになる．&lt;br /&gt;おそらくそれには，物質や宇宙の仕組みも含まれているだろう．&lt;br /&gt;それがどれくらい先なのかは想像もつかないし，そのときまで人類が存続している保障もない．&lt;br /&gt;でももし達成されたとすれば・・・それは人類がミッションを全うしたということなのだろう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで，宇宙は何のために生命にそんなことをさせるのかって？&lt;br /&gt;大方そうやって，自分自身の姿が知りたいんじゃないのかな？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;犬の話につづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-3617366215823733647?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/3617366215823733647/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=3617366215823733647&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/3617366215823733647'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/3617366215823733647'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/10/blog-post_6772.html' title='読書妄想文　（５）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-6961432682056122450</id><published>2007-10-05T21:19:00.000+09:00</published><updated>2007-10-05T21:23:39.112+09:00</updated><title type='text'>読書妄想文　（４）</title><content type='html'>そうすると必然的に，無意識というのはどうしようもなく巨大なリソースということになる．&lt;br /&gt;どれくらい？と訊かれたって，そんなことはわからない．&lt;br /&gt;ただ，さっきの「創造」の対象を，芸術分野にとどまらずこれまでに人間が生みだしてきたありとあらゆるもの－科学，工学，政治，経済，法律，組織，宗教，犯罪，戦争，遊び，etc，etc－に拡張することができるかもしれない．．．と思うわけです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実は福岡氏の本の帯には，次のような推薦文がある．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「超微細な次元における生命のふるまいは，恐ろしいほどに，美しいほどに私たちの日々のふるまいに似ている」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そう，本を読んでいると確かにそんな印象を受ける．&lt;br /&gt;でも，本当にそうなのか？&lt;br /&gt;シュレーディンガーの最初の問のように，私たちは拠って立つ視点を取り違えていないだろうか？&lt;br /&gt;存在の後先を考えれば，むしろ私たちが生命のふるまいに倣って社会を作ってきたと思うべきではないだろうか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だって考えてみれば変じゃないですか．&lt;br /&gt;およそ人類の歴史が始まって以来，私たちは命の仕組みを探求してきて，しかもここ何百年かは科学という強力なツールを駆使して大きな発見を重ねてきた．&lt;br /&gt;それでもまだ私たちは発見し，驚き続けている．&lt;br /&gt;今現在も世界中の科学者が，熾烈な研究競争を繰り広げていて，しかも何千何万という彼らが失職せずにすむくらい，膨大な未解決テーマが存在している．&lt;br /&gt;なぜ，いつまでたっても「生命は最大のフロンティア」であり続けるのか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん，生命の仕組みがあまりにも複雑精妙であるから，という説明はできる．&lt;br /&gt;それはそれで当を得ているだろう．&lt;br /&gt;でも，人間のありとあらゆる創造活動が，実は無意識界の情報すなわち生命の仕組みを意識界に持ってくることなんだと視点を変えてみればどうだろうか？&lt;br /&gt;どこまで行っても生命が最大の謎だということは，むしろ当たり前ということになる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに本の中では，ワトソンやクリックによるDNAの２重らせん構造発見のエピソードも紹介されている．&lt;br /&gt;彼らがノーベル賞を受賞するきっかけとなった論文は，ネイチャー誌に掲載された高々２ページの速報にすぎない．&lt;br /&gt;それでも人々がその内容の正当性を信じて疑わなかったのは，「そこに記述された構造のゆるぎない美しさ」のせいであった．&lt;br /&gt;実験や理論ではなく感覚で，人々はその正しさを確信したのだ．&lt;br /&gt;民族や国境を越える芸術作品がそうであるように，科学の成果もまた，私たちの共通的な無意識の何かに共鳴するのではないだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-6961432682056122450?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/6961432682056122450/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=6961432682056122450&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6961432682056122450'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6961432682056122450'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/10/blog-post_05.html' title='読書妄想文　（４）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-2961179581822932773</id><published>2007-10-03T08:25:00.000+09:00</published><updated>2007-10-05T21:19:14.576+09:00</updated><title type='text'>読書妄想文　（３）</title><content type='html'>私たちは「たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」」か．．．&lt;br /&gt;今まで思いつきもしなかったけど，確かにそんなことってありそーだ．&lt;br /&gt;アトム君やターミネータ君がいくら精巧に造られたとしても，やっぱり生物とは決定的に違うわけだ．&lt;br /&gt;悪いけど．&lt;br /&gt;人型ロボットで実現するのが一番難しいのは脳だと一般には思われているが，実は命の基本的な仕組みの方がずっと難しいのかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで今回書きたかったのは，そんな話とは微妙に違う．&lt;br /&gt;動的平衡状態の説明を読んでいるときに，フと思ったのだ．&lt;br /&gt;動物たちは，そんなことをとっくの昔から「知って」いるのではないだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜかというと，ここからが例によって妄想（俗に "まろ仮説" と呼ばれているアレですね）になる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まず，人間にとって「知る」とはどういうことなのか．&lt;br /&gt;それは，世の中の事象を表現可能な言語やイメージに一旦翻訳し，それを記憶することだろう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間の記憶は意識と無意識に分けて考えることができる．&lt;br /&gt;その関係はよく氷山に擬えられる．&lt;br /&gt;海面から突き出た部分が意識，海面下の部分が無意識に相当するというわけだ．&lt;br /&gt;つまり，無意識は意識よりもずっと大きな部分を占めており，かつ意識は無意識に乗っかった表層部分でしかないということ．&lt;br /&gt;そして普通，その内容を言語やイメージで表現できるのは，つまり私たちが「知っている」と言えるのは，海面上にある意識領域に限られている．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間は太古の昔から，意識の喫水線をじりりと無意識側に押し下げる作業に営々と取り組んできた．&lt;br /&gt;これが「創造」という作業である．．．と養老孟司さんがどこかで書かれていた．&lt;br /&gt;つまり，無意識下にあるモヤモヤした何かを，意識が捉えることのできる形に翻訳変換することが，無から有を生じると言われる「創造」の正体なのだと．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なるほど．．．&lt;br /&gt;じゃあ，その無意識とは何なんだろう？&lt;br /&gt;個人的にはこれまで，無意識とは自身の抑圧された記憶とか人類や生物としての原始の記憶とか，他にもいろいろあるだろうけど，とにかく何か精神的，心理的なものを指すんだろうと思っていた．&lt;br /&gt;だから「創造」の対象も，きっと美術や音楽などの芸術分野の話なんだろうと，これも勝手に想像していた．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも最近（ついさっきだけど），そこに私たちの身体を構成するあらゆる要素を含めて考えてもいいのでは，と思いはじめた．&lt;br /&gt;内臓の機能や感覚，細胞，分子レベルの構造や機能や作用なども一切合財ひっくるめて全部だ．&lt;br /&gt;ミクロからマクロの現象全部．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく．．．はず&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-2961179581822932773?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/2961179581822932773/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=2961179581822932773&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/2961179581822932773'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/2961179581822932773'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/10/blog-post.html' title='読書妄想文　（３）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-5871776895063834603</id><published>2007-09-28T22:12:00.000+09:00</published><updated>2007-10-05T21:15:05.173+09:00</updated><title type='text'>読書妄想文　（２）</title><content type='html'>面白いでしょ？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本の結論を先取りすると，現代科学が到達した "生命観" は，&lt;br /&gt;　1) 自己複製するシステム&lt;br /&gt;　2) 動的平衡にある流れ&lt;br /&gt;の２つに集約される．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1)はまぁわかるとして（DNA構造発見にまつわるダークなエピソードがこれまたおもしろいのだが），2)の「動的な平衡」 とは何なのか？&lt;br /&gt;端的に言ってしまえばこれは，分子レベルで見れば，生物の身体が外界の物質と絶えず置き換わっていることを表わしている．&lt;br /&gt;細胞が死と再生を繰り返す話はわかりやすいが，これは細胞レベルの話ではない．&lt;br /&gt;生きて活動している細胞も，それを構成する分子は，絶え間なく，かつ意外なほど高速に新しい分子に置き換わっているのだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;シュレーディンガーが正しいかどうかは置いとくとして，外乱／内乱によって組織が常に損傷の危機に晒されているのは事実．&lt;br /&gt;生命は不可避的に増大するエントロピーに対抗するため，組織を堅牢無比にするのではなく，自らを流れの中に置き，エントロピーを排出する方策を採ったのだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それを実証する実験結果を説明した後，著者はそのイメージを次のように表現する．&lt;br /&gt;「生命とは要素が集合してできた構成物ではなく，要素の流れがもたらすところの効果なのだ」&lt;br /&gt;「肉体というものについて，私たちは自らの感覚として，外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている．しかし，分子のレベルではその実感はまったく担保されていない．」&lt;br /&gt;「私たち生命体は，たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない．しかも，それは高速に入れ替わっている．この流れ自体が「生きている」ということであり，・・・」&lt;br /&gt;「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない．」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちが貝殻から感じ取っていたのは，そんな動的な流れだけが生み出すことのできる，ある種の "秩序" だったのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-5871776895063834603?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/5871776895063834603/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=5871776895063834603&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5871776895063834603'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5871776895063834603'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/09/blog-post_28.html' title='読書妄想文　（２）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-2543749317043413602</id><published>2007-09-28T22:07:00.000+09:00</published><updated>2007-10-03T08:24:35.657+09:00</updated><title type='text'>読書妄想文　（１）</title><content type='html'>砂浜に散らばる小石．&lt;br /&gt;どれもが波に洗われ小さく滑らかである．&lt;br /&gt;そんな小石の中から，私たちは貝殻を拾い上げることができる．&lt;br /&gt;同じような形，硬さ，重さ，テクスチャの無数の石の中から特に迷いもせずに．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは世の中の"もの"を見たとき，それが命あるものかそうでないかを瞬時に見分けることができる．&lt;br /&gt;貝殻や落ち葉のようにすでに命を終えた断片に対しても，過去の生命活動の痕跡を認め，ほとんど判断を過つことが無い．考えてみれば不思議な話だ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは，貝殻に何を見ているのだろう？&lt;br /&gt;生命の本質とは一体何なのだろう？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;福岡伸一氏の「生物と無生物の間」はこんなスリリングな疑問に，現役の分子生物学者として，また好奇心溢れる一人の子供として接近を試みた書である．&lt;br /&gt;氏の筆力と相まって，そこに紹介されるエピソードはやけにおもしろい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えばその一つ．&lt;br /&gt;波動方程式で有名なシュレーディンガーは，晩年の著書「The Secret of Life」の中で次のような問を読者に投げかけた．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「原子はなぜこんなにも小さいのか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この人を食ったような問には，ちょっとしたトリックが隠されている．&lt;br /&gt;大きい小さいは相対的な形容でしかないのだから，上の問には暗黙の比較対象があるはずである．&lt;br /&gt;それはこの問を発している "人間" である．&lt;br /&gt;実はこれは次の問と等価であり，著者の関心もここにある．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「生物は（原子や分子に較べて）なぜこんなにも大きいのか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これに対するシュレーディンガー自身の解釈はこうだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちが観測する物理現象は，その対象を構成する原子の "平均的な" 振る舞いによって決まる．&lt;br /&gt;例えば透明な水の中に垂らしたインクは，その周囲方向に一様に拡散していくように見えるが，もしある瞬間に分子一個一個の運動を観測できたとすれば，そのいくつかは勝手な方向に動いている．しかしその絶対数が少ないため，全体としてインクは拡散しているように見える．&lt;br /&gt;平均から離れて例外的なふるまいをする粒子の頻度は，統計的に "平方根の法則" に従う．&lt;br /&gt;つまり100個の粒子があれば，そのうちのルート100，すなわち10個程度は変なふるまいをする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;仮にこれらを不良（ワル）とすると，100人の高校ではそのうちの10人，つまりは生徒の10％がワルということになる．&lt;br /&gt;生徒全体が10000人に増えればワルも100人になるが，その割合は1％に激減する．&lt;br /&gt;どちらの高校の風紀が良いかは明らかだろう．&lt;br /&gt;シュレーディンガーは，生命体が原子に較べて圧倒的に大きい理由はここにあると指摘した．&lt;br /&gt;つまり，組織に参加する粒子が少なければ，平均的なふるまいから外れる粒子の影響＝誤差率が高まる．生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ，「生物はこんなにも大きく」ならなければいけなかったのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-2543749317043413602?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/2543749317043413602/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=2543749317043413602&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/2543749317043413602'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/2543749317043413602'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/09/blog-post.html' title='読書妄想文　（１）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-5958416591368903281</id><published>2007-05-04T10:21:00.000+09:00</published><updated>2007-05-06T10:34:44.156+09:00</updated><title type='text'>バランス(5)　時間と感情と脳と身体と光と闇が結局どうしたって？</title><content type='html'>唐突ですが，どこまで行ってもまとまる気配が無いのでこの辺でやめます．&lt;br /&gt;「一体何だって言うんだ！」などと怒るのは健康に良くないですよっと．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうしてバランスなどということが気になり出したのかと記憶を辿ると，どうやら数年前にHiroさんがイギリスのファームにお邪魔した時に遡るようだ．&lt;br /&gt;ドッグトレーナー（というより飼い主トレーナー）でもあるそこの農場主は "Everythig is balance!" としきりに強調していたのだそうだ．&lt;br /&gt;どういう文脈で使われたのかはとうに忘れたが，伝え聞いたその言葉だけは胸のあたりに引っかかって残っている．&lt;br /&gt;もちろんトレーニング中に使われたのだろうが，作業と普段の生活を切り離して考えない彼女の考え方から推して，その他にも様々な含意があっての言葉だと思われてならない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういえば自分は犬が好きだが，その理由の一つに彼らに感じるバランスの良さがある．&lt;br /&gt;どんなバランスかというとそれはまぁ色々あるのだけど，象徴的なのは，細っこくてしなやかな４つ足で大地を踏みしめ，頭と尾がなんとも言えない調和を感じさせるその姿態である．&lt;br /&gt;それに比べると（とゆーか別に比べなくても），ひょろっと細長い身体ででかい頭を支える人間は，とても危なっかしく見える．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;過去を振り返らず未来を憂えず，今を精一杯生きる犬たちに，なぜか私たち人間は惹かれ癒される（ああ，なんかヤな言葉だけど）．&lt;br /&gt;さまざまな無理や面倒を抱えながらも一緒に暮らそうとする．&lt;br /&gt;もともと，犬と人間は生きるための自然なバランスの中で共生関係を育んできた．&lt;br /&gt;今，脳社会と言われる空間を作りそこで暮らし始めた人間は，自らの失われたバランスを補うため，犬への依存を始めたのではないだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おわり&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-5958416591368903281?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/5958416591368903281/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=5958416591368903281&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5958416591368903281'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/5958416591368903281'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/05/5.html' title='バランス(5)　時間と感情と脳と身体と光と闇が結局どうしたって？'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-1000710941765542981</id><published>2007-05-04T10:11:00.000+09:00</published><updated>2007-05-04T10:19:08.209+09:00</updated><title type='text'>バランス(4)　時間と感情と脳と身体と光と闇の話</title><content type='html'>私たちの生活を見渡すと，今，身体に対する脳優位のバランスが微妙なところにまで来ていると思う．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例ばかりで申し訳ないけれど，例えばここに喉の渇いた子供がいるとする．&lt;br /&gt;彼はポケットから小銭を出して近くの自販機に入れ，ボタンを押してチャリンガラガラとジュース入りのペットボトルをゲットするだろう．&lt;br /&gt;これってもうバランス悪いですよね？&lt;br /&gt;本来喉を潤すためには，人に頼んで分けてもらうとか自ら川に出向くとか水を貯めておくとか，それなりの努力が必要なはず．まして，「甘く冷たい」水を飲むためには，どれほどの工夫と労力がいることか．&lt;br /&gt;自分だってそんな努力はご免蒙りたいけれど，それが本来のバランスだと思う．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん子供が使った小銭は，彼の親が汗水流して得たものであり，自販機とジュースは何百何千という人が関わって用意したものであって，本当は驚くほどの労力がかかっているのだが，当人はそんなこと知ったこっちゃない．&lt;br /&gt;人間社会では欲望を満たす場面と，そのために努力が払われる場面が時間的，空間的に隔てられていて，その関係が見えなくなっている．&lt;br /&gt;そのおかげで私たちは，飢餓や寒さに怯えることもなく，生活を愉しむことができるという大きな大きなメリットを享受しているわけで，それに文句をつける筋合いも資格も無いのだが，それでもやっぱりバランスは変だよね？って思ってしまう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生産と消費の場を分かつことができたのは，時間モデル思考の賜物だろう．&lt;br /&gt;「今，ここで作ったものがいづれ誰かの欲求を満たす」「将来きっと必要になるから，今のうちに作っておこう」「そういえば，あの時こんなものがあれば便利だったろうな」・・・とか．&lt;br /&gt;それは私たちに物質的な豊かさをもたらしたが，脳が時間モデルで考えた欲望である以上，自然な抑制は働かない．&lt;br /&gt;それは良いとか悪いとかの問題じゃない．&lt;br /&gt;そんな単純なものじゃないだろうし，少なくとも自然のバランスを崩すことによって人間は死を遠ざけ，便利を手に入れてきたのである．&lt;br /&gt;進歩を否定するつもりは毛頭無いし，懐古趣味に浸りたいわけでもない．&lt;br /&gt;ただ，どこぞのブログで見つけた言い回しを借りれば，要は「光の輝きが増せば増すほど闇もまたその深さを増す」ということなのだろう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間は自然のバランスを放棄する道を選んだ．&lt;br /&gt;そうである以上，光と闇のバランスを自らの手で創り出していく必要がある．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-1000710941765542981?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/1000710941765542981/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=1000710941765542981&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/1000710941765542981'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/1000710941765542981'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/05/4.html' title='バランス(4)　時間と感情と脳と身体と光と闇の話'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-2900146462066303328</id><published>2007-05-02T17:11:00.000+09:00</published><updated>2007-05-04T11:19:29.214+09:00</updated><title type='text'>バランス(3)　時間と感情と脳と身体の話</title><content type='html'>何が言いたいのかというと実はこれが自分でもよくわからないまま書いている．&lt;br /&gt;別に「時間とは何か？」などと分を超えた話をしたいのではない．&lt;br /&gt;ただ，最近 "バランス" という言葉が妙に気になっていて，それは犬や家畜たちを見ていると特に強く意識されるのだけれど，どうもその辺から自分たち人間のバランスというものを考えてみたいのかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一部の人に嫌な思いをさせたかもしれない死の話を持ち出したのは，それを悼む気持ちを私たちは「自然な感情」などとシラっと言ってのけるが，自然界を見渡せば，むしろ人間だけが持つ特異な感情構造かもしれない，ということを言ってみたかったのだ．&lt;br /&gt;時間は人間の脳が考え出した概念で，生活を送る上で必要不可欠（本当か？）だが，他の動物には無い感情の増幅装置にもなっているのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;脳と言えば身体・・・というわけで話は変わる．&lt;br /&gt;前にも少し書いたが，仮に人間の感情や行動決定の出所を脳と身体に分けて考えると，おそらく一般に受けとられているのとは逆に，身体は穏当で脳は過激である．&lt;br /&gt;栄養を求めるのは身体で，美食を求めて止まないのは脳だ．&lt;br /&gt;例えば人が人を憎むとき，脳のバーチャルな想念は簡単に殺人にまで行き着くが，そのような過激な行動とにブレーキをかけるのは身体である．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「どうして人を苛めてはいけないのか」「なぜ人を殺しちゃだめなの？」・・・出し抜けに子供に訊かれたら答に窮する類の問である．&lt;br /&gt;おそらくそれは，そのような行動を抑止するのが理屈ではなく身体感覚だからだ．&lt;br /&gt;身体の主張を言語化することはとても難しい．&lt;br /&gt;先の問いにどれだけ言葉を尽くしたとしても，「腑に落ちる」回答にはならない．&lt;br /&gt;そこには，人格的な迫力とか眼力とか計算抜きの暴力とか，それこそ言葉で特定するのは難しいけれど，何らかの身体的メッセージが必要なのだろう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;インターネットの議論が簡単に炎上するのも，よく匿名性が原因だと言われるが，身体性の不在も大きな理由だろう．&lt;br /&gt;人が人を言葉で攻撃するとき，つまり口の筋肉を動かし肺から空気を押し出すとき，それらの運動にはおそらくは生存確率の大小といったクールな損得計算からはじき出された抑制が働く．&lt;br /&gt;相手に向かって非難とか求愛とか攻撃などの言葉を口にするには，一人でキーボードを叩くよりも何倍ものエネルギーが必要なのである．&lt;br /&gt;それらは，人間関係に重大な影響を及ぼす，ひいては彼我の生存に関わる「強くて重い言葉」だからだ．&lt;br /&gt;身体を離れ抑制を解かれた言葉は，簡単に一線を超えてしまう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;オオカミ同士がいくら激しく喧嘩をしても，片方が腹（喉）を見せて降参ポーズをとればそれ以上の攻撃が抑止されるのは有名な話だ（ローレンツ博士でしたっけ）．&lt;br /&gt;この習性は教育にも個体差にも拠らない．&lt;br /&gt;尻尾や被毛と同じように，生まれながらに持っている彼らの血肉の一部だ．&lt;br /&gt;社会的動物にとって攻撃の抑制は，それくらい強固なメッセージなのだ．&lt;br /&gt;それが本来の脳と身体の力関係なのだろう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-2900146462066303328?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/2900146462066303328/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=2900146462066303328&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/2900146462066303328'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/2900146462066303328'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/05/blog-post.html' title='バランス(3)　時間と感情と脳と身体の話'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-2276694725159508151</id><published>2007-05-02T15:01:00.000+09:00</published><updated>2007-05-02T15:03:49.974+09:00</updated><title type='text'>バランス(2)　時間と感情の話</title><content type='html'>それが妥当かどうかは置いといて，私たち人間は過去から未来につながる一本の道のように時間をイメージしていて，思考や感覚の隅々にまでそれが浸透している．&lt;br /&gt;だから逆に，無時間モデルの心理を想像することは難しい．&lt;br /&gt;以前このエッセイの中で，ぐれぐの独白という形でそんな心理を文章にしてみようとしたが，完全に失敗してしまった．&lt;br /&gt;時間的な表現を使わないと，まったくと言っていいほど文章が書けないのだ．&lt;br /&gt;時間とコトバ（＝人間の考え方や感覚）が切り離せないものだということだけは，身に染みてわかった．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だからこれも想像でしかないのだけれど，犬には「死」という概念が無いのではなかろうか．&lt;br /&gt;もちろん犬だって，生あるものとそうでないものは区別する．&lt;br /&gt;しかし，死というものが生きている状態からから死んだ状態への変化そのものを指すとすれば，それは時間モデルでないと理解しづらいからだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主が他界したときにその飼い犬が身も世も無く悲嘆にくれるという図は，人間が願望込みで創作した（忠犬ハチ公のような）物語だろう．&lt;br /&gt;人は自身の感情を犬に投影し，生前のなつき振りから推して主を亡くした犬の悲しみは如何ほどのものかと想像を膨らませるが，大抵の場合，犬は思ったより平気なのだ．&lt;br /&gt;それを物足りなく思う人は，わざわざ遺体の傍に連れてきて「ほらお前の主人だよ，もう遊べないんだよ！」などと，愁嘆場を演出しようとする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;愛しい対象を亡くしたときに私たちの悲しみが悲痛なのは，共に過ごした過去を追想し，もう二度と会えないという未来の絶望に心が捉われるからだ．&lt;br /&gt;しかし犬は，目の前の遺体が「死んだもの」であることは十分理解しながらも，過去や未来に思いを馳せてまで悲嘆することはしない（と思う）．&lt;br /&gt;もし犬が，自らが嘆き悲しむことで残された人間が少しでも救われることを知っていたら，彼らは喜んでそうするだろうけれど．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-2276694725159508151?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/2276694725159508151/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=2276694725159508151&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/2276694725159508151'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/2276694725159508151'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/05/2.html' title='バランス(2)　時間と感情の話'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-6015974758503453639</id><published>2007-05-02T14:57:00.000+09:00</published><updated>2007-05-02T15:01:12.567+09:00</updated><title type='text'>バランス(1)　時間の話</title><content type='html'>人間とサメが水中エサ採り競争をすればどちらが勝つだろうか？&lt;br /&gt;（人間が同じくらい速く泳げたとしても）おそらくサメである．&lt;br /&gt;未知の物体に出会ったとき，サメはそれを「食べられるもの」か「そうでない」かの二者択一で判別するが，人間には，それに加えて「よくわからない」という判断カテゴリがある．&lt;br /&gt;そのための一瞬の躊躇が，サメの勝率を有意に高くするだろうというへ理屈でした．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これはサメと人間の思考の大きな違いである．&lt;br /&gt;「よくわからない」という判断は，それが当面の行動には結びつかないという理由で，サメにとっては何の意味もない．&lt;br /&gt;同じ「わからない」が人間にとって意味があるのは，その価値が「今はわからなくても，そのうちわかるだろう」という期待に担保されていて，また答が得られたときに「ああ，あれのことね」と過去に遡って記憶をリンクさせることができるからである．&lt;br /&gt;つまり未来や過去という時間モデルを導入することで，「わからない」は積極的な意味を持つ．人間はこれを最大限に利活用して知識を増やしてきた．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;動物学者によると，基本的に動物の思考は無時間モデルなのだそうだ．&lt;br /&gt;本当かどうかは知らない．&lt;br /&gt;でも確かに，「待て」コマンドで丸一日同じ場所でうずくまる犬なんか見聞きすると，時間の概念なんて無いんだろーなと思える．（いくら犬だって「俺もう３時間も待ってるんだよな・・」って考え出したらやってられないよね）&lt;br /&gt;ただ，例えば「仕事をすれば褒められる」とか「朝になれば散歩に行く」など，少なくとも順序や因果関係は理解しているから完全に無いとも思えない．&lt;br /&gt;おそらく考量する時間のスパンが長いか短いかという，量的な違いではないだろうか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それはともかく，うちの犬たちに「時間がもったいない」という概念が無いのは確かだ．&lt;br /&gt;日に数回，多くは昼前後の数時間，みわファームの時間は止まる．&lt;br /&gt;部屋にできた陽だまりで，折り重なり，裏返しになり，白目を剥き，手足を震わせ，犬たちは一丸となって惰眠を貪る．&lt;br /&gt;そこにあるのは，「いま，ここで」いかに心地良く過ごすかという赤裸々かつ破廉恥な欲望だけである．&lt;br /&gt;起きぬけに，過ぎ去った時間を悔いる犬はいない．&lt;br /&gt;いたら気持ち悪いやね．&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-6015974758503453639?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/6015974758503453639/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=6015974758503453639&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6015974758503453639'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/6015974758503453639'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2007/05/1.html' title='バランス(1)　時間の話'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-116149298221118719</id><published>2006-10-22T13:52:00.000+09:00</published><updated>2006-10-23T18:17:52.476+09:00</updated><title type='text'>言葉ノチカラ　その四</title><content type='html'>う～困った．&lt;br /&gt;たくボのエッセイなんだからこの話も何か犬に結びつけなくちゃいけない，って別に誰もそんなこと期待してないだろうけど自分はそうしたいと思っている．（じゃあ，グチんなよ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で，"犬を取り巻く正論" のことを書いてたら，勢いよく筆がすべってとても表に出せない内容になってしまったので，気を取り直して "ダブルバインド" について書くことにする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;精神分析の世界で言うダブルバインドとは，上位から下位の者に対して告げられる否定的/命令的なメッセージと，さらにそれを否定する言外のメタメッセージが存在し，権力関係の絶対性故にその２つが逃れ難く作用することで，下位の者の世界観が歪んでしまう状況のことである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これだと何のことかよくわからないが，例えば親から 「素直になりなさい」 と言われて，素直にイタズラをして家族の悪口を言った子供が，その親にこっぴどく叱られて面食らう．．．なんて状況がそれにあたる．&lt;br /&gt;子供がその矛盾を突いても 「それとこれとは話が違う！」 か 「屁理屈を言うな！」 と怒鳴られるのがオチで， 「"素直" というのは "親の思い通りになれ" ということだ」 という素直な説明は決してなされない．&lt;br /&gt;矛盾は弱者が引き受けるしかない．&lt;br /&gt;（なんだ，単に 「タテマエとホンネが違う」 ってやつじゃないか）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これも一種の暴力だろう．&lt;br /&gt;罵倒やネグレクトほど直接的ではないし，親心とか肉親の愛情という錦の御旗でカモフラージュされているため，子供の側には表立って抗う余地は無い．&lt;br /&gt;その分だけタチが悪いとも言える．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まぁ人間なんてデタラメで言うことが一貫しないのは当たり前だから，普通はそのくらいの矛盾は子供でも適当に消化できるのだろうけど，それが例えば過剰に抑圧的に働いてしまったとか，親の関心が実は親自身にしかないなんてことが見えてしまったとき，心に爪あとが残ることがある．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人と犬の間に権力関係と言葉が存在する以上，犬に対するダブルバインドがあったって不思議じゃない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間同士の関係ほどややこしくはないかもしれないが，声によるコマンドとボディランゲージが食い違うとか，やってることと気持ちがバラバラといった状況くらいは普通にありそうだ．&lt;br /&gt;感情の動きは身体の代謝バランスを変えるが，犬はそれを嗅ぎ分けることができるんだそうな．&lt;br /&gt;ハラワタ煮えくり返ってる飼い主が 「ぐっぼ～い！」 なんて作り笑顔で迫ってきたら，これはさすがに犬でもちょっと引いてしまうかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間は頭が良いから，ダブルバインドの袋小路状況を認識し何とか対処しようともがき苦しむ．&lt;br /&gt;その結果として，意識するしないは別にして自分を苦しめた上位者を憎むことになる．&lt;br /&gt;例えば子供の場合，そういう矛盾もひっくるめて丸ごと親を愛する仕方を学ぶまでには，成功やら失敗やら，怒りやら悲しみやら，得意の絶頂やら失意のズンドコやら，燃える恋愛やら悲痛な失恋やら，まだまだたくさんの経験を積み重ねる必要がある．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;犬はバカだ．&lt;br /&gt;だから，その矛盾や食い違いをおそらくそれとは意識できずに真正面から引き受けてしまう．&lt;br /&gt;引き受けたからといってどうこうできるわけもなく，せいぜいが困ってみせる程度である．&lt;br /&gt;しかし犬は，その困惑を抱え込んだまま丸ごと人間を受け入れる．&lt;br /&gt;ここが人間との共生を選んだ犬という動物の凄みだろう．&lt;br /&gt;人間にとって辿りつくことがもっとも難しい境地の一つに，犬はあっけらかんと最初からいるのである．&lt;br /&gt;無邪気にぶんぶん尻尾振りながら．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間のことを精神分析学の岸田秀氏は 「本能の壊れた動物」 と定義し，哲学者の内田樹氏は 「一種のバケモノである」 と言い切った．&lt;br /&gt;その見方は正しいと思う．&lt;br /&gt;人間は幼年期に言葉を習得する．&lt;br /&gt;それは純粋に単語や文法を学ぶだけではなく，同時に言葉に付随するその時代その集団のモノの考え方や常識や偏見などを，まっさらな脳に刷り込んでいく作業でもある．&lt;br /&gt;つまり，誰もが一度は "洗脳" されてるわけだ．&lt;br /&gt;私たちはカルト宗教や独裁国家やテロ組織の行う洗脳をおぞましく感じるが，少なくとも私たちの脳は似たようなプロセスを経て "作られた" ものだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;往々にして，身体は本能に従って穏当な判断を下すのに対し，脳は過激に暴走する．&lt;br /&gt;脳は自身の快楽や救いのためなら，生存上不利な行動まで求めてやまない（泥酔や暴飲暴食や過労や過激ダイエットなどなど．ジョギングとか健康人が採るサプリメントなんかもそうかもね）．&lt;br /&gt;よく "身体的快楽" と言われるが，そういった経験のほとんどは普通の身体感覚に脳が過剰な解釈を施したものに過ぎない．&lt;br /&gt;そして人間は身体の主張に "耳を傾ける" よりも，脳の欲求に "身を委ねる" 傾向がある．&lt;br /&gt;その脳に呪いをかけているのが，他ならぬ言葉なのである．&lt;br /&gt;つまり人間は，言葉を操る（操られる）脳と本能に支えられた身体の間で不整合を生じた，アンバランスで奇妙な生き物だといえる．&lt;br /&gt;（こうやって脳と身体を分けてイメージすること自体，脳の作り出した物語に過ぎないのだけど）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;犬はそんな人間の言動を丸ごと受け入れなければならない．&lt;br /&gt;鈍感なクセに情緒不安定で，興奮したかと思うと次の瞬間には落ち込んでたりする人間の相手はさぞ大変だろう．&lt;br /&gt;四六時中一緒にいてよくバランスを保てるもんだと思う．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしかして，彼らにもすでに言葉の呪いがかかっているのかな．&lt;br /&gt;「犬は人間のパートナー」 とか．．．&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（とりあえず）おわり&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-116149298221118719?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/116149298221118719/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=116149298221118719&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/116149298221118719'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/116149298221118719'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/10/blog-post_22.html' title='言葉ノチカラ　その四'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-116028555333570815</id><published>2006-10-08T14:26:00.000+09:00</published><updated>2006-10-22T21:46:01.793+09:00</updated><title type='text'>言葉ノチカラ　その参</title><content type='html'>世代限定に見える現象も，突然世の中に出現したとは考えにくい．&lt;br /&gt;少なくともその予兆くらいは，前からあったに違いない．&lt;br /&gt;ギャル語文化で思い当たるのは，メディア界で目立つ言葉の大量消費現象である．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;昨今のTVやラジオは，発話の間が空くことを極端に忌み嫌う．&lt;br /&gt;バラエティ番組では，練習を積んだ芸能を見せるというよりは，ちょっと気の利いたアドリブっぽいコメントが持てはやされている．&lt;br /&gt;番組の作りは怖ろしいほど画一的で，どのチャネルを見ても複数のゲストタレントたちがひな壇に並び，一組の司会者とテンション高いやりとりを繰り広げている．&lt;br /&gt;この形式の狙いが何なのかは知らないが，少なくとも，番組空間の言葉密度を上げることには成功している．&lt;br /&gt;タレントに求められるのは，"空気を読" んで違和感無く "場をつなぐ" こと．&lt;br /&gt;その代わり一つ一つのセリフは，テロップが無いと聞き漏らしてしまうような，その時その場でしか力を保持できない言葉である．（その証拠に大ウケした場面を人に紹介しようとしても，１日経てば何がおもしろかったのかまるで思い出せない）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;新聞，雑誌，インターネットでは，犬サイトに書かれた場違いな時事世評ネタのようなどーでもいい記事の他に，どこからも文句のつけようがない "正論" がやたらと目につく．&lt;br /&gt;それは例えば， 「○×のリーダーシップが期待される」 か 「国民的な議論が必要だ」 か 「関係者に猛省を促したい」 のどれかで締めくくられる朝日新聞的社説とか，事件が起こるとわざわざ被害者に "現在のお気持ち" を尋ねて，それに対して今は気持ちの整理がつかないと言いながら警察やら学校やら役所やらへの "強い不信感" を訴えるインタビュー記事とか，何が何でも昔と田舎と外国は良くて，現代と都会と日本は良くないという文化評論記事とか，一旦不祥事が起こると重箱の隅まで穿り返し，とにかく 「組織ぐるみの問題」 に仕上げて責任者の謝罪を求める報道記事とか，マニフェストを読んだこともないのに 「政策の説明が不十分」 と詰る市民の声を取り上げて "国民不在の選挙を浮き彫りにする" 世論調査記事...などである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;気の利いたコメントと，どーでもいい記事と，文句のつけようがない正論では，それぞれ中身は随分と違うようだが，差し当たり大衆の誰をも傷つけず，違和感無く紙面や画面を埋めることができるという点で，実はよく似ている．&lt;br /&gt;しかもそれらは，仲間内で承認され登録済みの（力を希釈された）ジャーゴンだけを繰り返し使用する "ギャル語" と，見かけは相似形なのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人々は物を大量消費することに価値を置いてきた．&lt;br /&gt;同じように言葉も，その力を磨いて強化するというよりは，大量生産／消費する方向を選んでいるように思える．&lt;br /&gt;"ギャル語" 文化は，それをちょっぴり先鋭的に表現しただけなのかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;他人との行き違いが一歩間違えば死まで招くような時代には，ここ一番で言葉を厳選し，それこそ 「腹を割って話す」 ことが必要とされた．&lt;br /&gt;しかし，現代の日本はそうではない．&lt;br /&gt;そうしなくてもすむように，人は社会を変え文化を作ってきた．&lt;br /&gt;きっと人間はそのように進化しているのだろう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;「このあいだおな中だったマキコの元カレが超キムタクに似てるっていうから、プリクラ見せてもらったの。そしたらー、ただのロンゲでガングロなだけなのー。ぜんぜんキムタクじゃなくてー超サイテー。背は高いんだけど、腰パンとかしちゃってー超変なの」&lt;br /&gt;「でも、マキコもけっこうガンブーだから、超お似合いじゃん」&lt;br /&gt;「でも、マキコの今カレってパー件売るとか言って、パチこいて最悪 。マユミもＣＤ借りパクされたって。この前、ケイタの番号がベルに入ったからウザベルかと思ってシカッティングしてたら、ヤツに拉致るとか言われてゲキムカ 」&lt;br /&gt;「やっぱ、○うはシカッティングがＯＫティングだよね」&lt;br /&gt;&lt;/em&gt;（&lt;a href="http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/7218/kogalword.html"&gt;「コギャル語ワードバンク」&lt;/a&gt;の会話サンプルより）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どんな言葉にしたって，それを創造して使いこなすことは容易ではない．&lt;br /&gt;彼女たちはそのための努力を惜しまない．&lt;br /&gt;そこには，今の時代を生きるための何かが含まれているのだろう．&lt;br /&gt;国語力低下の主犯であるかのように彼女らを非難しても始まらない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;んが，でも，しかし，さはさりながら，，，だ．&lt;br /&gt;娘や近所の子がギャル語を使ってきたら，やっぱりオヂサンは 「ちゃんと喋れよ」 って文句言うだろうな．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だってめっちゃキモいんだもん．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-116028555333570815?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/116028555333570815/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=116028555333570815&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/116028555333570815'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/116028555333570815'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/10/blog-post_08.html' title='言葉ノチカラ　その参'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-116013705652278030</id><published>2006-10-06T21:14:00.000+09:00</published><updated>2006-10-22T21:35:27.486+09:00</updated><title type='text'>言葉ノチカラ　その弐</title><content type='html'>日本人の国語力が落ちて若年層の語彙が少なくなったとよく指摘される．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平日昼下がりの電車内，外回り仕事でクッタリした身体を座席に預けながら，女子中高生らの言葉をシャワーのように浴びるのは不条理で目くるめく体験だ．&lt;br /&gt;速いテンポに圧倒的な発話量，目立つ同一フレーズのリフレイン．&lt;br /&gt;どことどころ意味不明．&lt;br /&gt;"ギャル語" は現代の呪文だ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以前，某民放で 「ギャルサー」 という連ドラが放映されていた．&lt;br /&gt;学校にも家庭にも身の置き所が無い "ギャル" たちが渋谷に集い，パラパラのダンスサークルを作って活動しているところに，アリゾナ育ちの日本人カウボーイ(!)が現れて，感動ドラマを繰り広げるというハチャメチャなストーリーである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その何話目かに，仲の良かった友人を除け者にしようとする少女の話が出てくる．&lt;br /&gt;その少女が友人に向かって自分の嫌悪感をぶつける場面が何度も出てくるのだが，そのたびに少女は 「てめぇ，うぜーんだよっ！」 とだけ繰り返す．&lt;br /&gt;本来その後に続くはずの，相手のどこがどう "うざい" のか，あるいは今まで気が合ってたのになぜ "うざく" なったのか，などの説明はできない．&lt;br /&gt;あとは，別れ際に 「死ねっ！」 と吐き捨てるだけである．&lt;br /&gt;目を見開いて相手を睨みつける少女（戸田恵梨香ちゃん♪）の表情は，言いたい事や片付かない思いを山ほど抱えながら，感極まってしゃくりあげるしかない童女のようである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろんそれは脚本用に作られたセリフだ．&lt;br /&gt;しかしその暴力的に拙い表現には，むしろ痛々しいリアリティを感じた．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこでふと思った．&lt;br /&gt;もちろん国語力の低下もあるだろうけど，ギャルたちの語彙が少ないのにはもっと積極的な意味があるんじゃなかろうかと．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;先に述べたように，言葉は呪いでもある．&lt;br /&gt;人を勇気づけることも，修復不可能なまでに傷つけることもできる．&lt;br /&gt;そしてその傷の部位や深さは，時として発話者本人の意志とは無関係である．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;年若く抵抗力の少ない彼女たちは，言葉によって自分が簡単に傷つくこと，また同じくらい簡単に人を傷つけてしまうことを本能的に知っている．（この "傷つく" というのも手垢がついた感じであまり使いたくないけど，他に適当な単語を思いつかない．他人の語彙のことなんか言えないね）&lt;br /&gt;でも，人は言葉抜きでコミュニケーションすることはできない．&lt;br /&gt;使う言葉を極端に限定し，かつそれらを擦り切れるくらい大量に消費する "ギャル語" のお作法は，コミュニケーションを維持しながら一つ一つの言葉の力は希釈してしまおうという，少年少女たちが編み出した防衛手段なのではないだろうか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;世の中には 「心の触れあい」 という口当たりの良いフレーズが氾濫している．&lt;br /&gt;しかし本来人間にとって，（本人のも含めて）他人の心の深淵を覗き込むことは怖ろしい体験なはずだ．&lt;br /&gt;隠しておきたいこと，知りたくないことは誰にだってある．&lt;br /&gt;「心を触れあわせる」 ことは，覚悟と勇気のいる"野蛮な"（別に悪い意味じゃない）行為だ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言葉は時としてその回路を開く鍵になる．&lt;br /&gt;そういう危ないことには触れず，そこそこ楽しくやってけるんならそれでいーじゃんという理屈があっても不思議ではない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-116013705652278030?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/116013705652278030/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=116013705652278030&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/116013705652278030'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/116013705652278030'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/10/blog-post_06.html' title='言葉ノチカラ　その弐'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-115991504935996074</id><published>2006-10-04T07:34:00.000+09:00</published><updated>2006-10-22T21:31:05.930+09:00</updated><title type='text'>言葉ノチカラ　その壱</title><content type='html'>朝日新聞のTVコマーシャルのコピーに，&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　言葉は未来&lt;br /&gt;　言葉は思い出&lt;br /&gt;　言葉は鎖&lt;br /&gt;　言葉は慰め&lt;br /&gt;　言葉は翼&lt;br /&gt;　言葉は現実&lt;br /&gt;　言葉は夢&lt;br /&gt;　言葉は希望&lt;br /&gt;　私たちは言葉の力を信じている&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というのがある．&lt;br /&gt;いろいろ好きだ嫌いだの意見があるが，個人的にはここに 「言葉は呪い」 というのを加えて欲しかった．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;発声された言葉に実質的価値があると信じられた時代，祝や呪はその基本的なかつ重要な機能だった．&lt;br /&gt;夢枕獏描くところの安倍晴明によれば，名前を口にすることはすでに呪術の一部だったのだそうな．&lt;br /&gt;（そういえばこの間観たゲド戦記でもそんなこと言ってたな）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;呪文によって物を動かしたり天災をコントロールできるかどうかは知らないが，少なくとも人間に対して，言葉が強力な力を持つことは疑いようがない．&lt;br /&gt;人は人（自分自身を含む）が発した言葉によって感情を動かされ，行動を左右され，自由を制限される．&lt;br /&gt;幼い頃にかけられた何気ない一言が，その人の一生を決定することだってある．&lt;br /&gt;言葉は時や場所を超えて作用し，しかも目に見えない．&lt;br /&gt;呪術と言うと何やらオドロオドロしいが，外形的には十分にその機能を備えている．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小泉元首相の手腕をあーだこーだ言えるほど政治に詳しく無いけれど，彼が言葉の力を巧みに使う政治家だったことは確かだ．&lt;br /&gt;2005年衆院選挙前，彼は 「郵政民営化」 をぶち上げた．&lt;br /&gt;メディアも政治家も国民も一斉に注目し，当然，誰もがその詳しい説明を待った．&lt;br /&gt;しかしいくら待っても説明はなされない．&lt;br /&gt;気がつけば，選挙は自民党の圧勝に終わっていたのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小泉元首相は 「先手を取る」 呼吸を心得ていた．&lt;br /&gt;武道の世界で 「先手を取る」 とは，必ずしも先制攻撃を意味するのではなく，相手を待ちの態勢にして自分の一挙一動に意識を固着させ，行動の自由を奪ってしまうことを本来の目的とする．&lt;br /&gt;一旦先手を取られた者は，自分から技を仕掛けることができなくなってしまう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;首相の目論見どおり，選挙は彼のペースで終始した．&lt;br /&gt;すべての候補者は（賛成にしろ反対にしろ）郵政民営化への態度表明を強いられたし，対抗馬であるはずの民主党なんか， 「問題は郵政民営化だけではない！」 という何だか訳のわからないスローガンを掲げる羽目になってしまった．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小泉元首相の言葉はよく 「内容が無い」 と批判された．&lt;br /&gt;しかし，少なくとも国政を動かす力はあった．&lt;br /&gt;意味不明だが強い力を持っている・・・これはまさに "呪文" である．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-115991504935996074?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/115991504935996074/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=115991504935996074&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/115991504935996074'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/115991504935996074'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/10/blog-post.html' title='言葉ノチカラ　その壱'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-115874951501441093</id><published>2006-09-20T19:44:00.000+09:00</published><updated>2006-09-20T19:52:11.850+09:00</updated><title type='text'>キャッチボール</title><content type='html'>考えてみればキャッチボールは不思議な遊びだ．&lt;br /&gt;２人で向き合って，一人がボールを投げ一人が受ける．&lt;br /&gt;あとはそれを延々と繰り返すだけ．&lt;br /&gt;これのどこがおもしろいのと問われれば答えに窮するが，この歳になるまでもう何千回何万回もやっただろうに，いまだに飽きるということがない．&lt;br /&gt;はじけるような喜びや達成感は無いけれど，シミジミとおもしろい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小さかった頃の遊びを訊ねられて， 「お父さんとのキャッチボール」 と答える人は多い．&lt;br /&gt;実際には色んな遊びをしたろうから，キャッチボールが特に記憶に残りやすい遊びだとも言える．&lt;br /&gt;ボールを投げてキャッチするという単純な行為に，どこか心の琴線に触れるものがあるのかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;文化人類学とやらの世界では 「人間社会を基礎づけているのは "交換" に対する欲望である」 という有力な説があるらしい．&lt;br /&gt;つまり，物や言葉や家族などを交換したいという欲求が社会や文化を築く礎になった．．．というよりもうちょっと過激に，そもそも社会や文化はそれらの交換をするために築かれた，というのがその主張である．&lt;br /&gt;その正否はともかく，人間が "交換" が好きで好きでたまらない動物であるのは確かなようである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで思った．&lt;br /&gt;キャッチボールに妙な魅力があるのは，それが交換を擬した遊びだからではないだろうか．&lt;br /&gt;自分の投げたボールが相手に渡り，それがまた自分の元に返ってくる．&lt;br /&gt;返ってくるボールには，相手によって何らかの意味（コースとかスピードとか回転とか）が付与されている．．．&lt;br /&gt;おそらく私たちは，投げたり受けたりの身体運動の快感のほかに，「相手とボールをやり取りしている」 ことに，何やら奥深い満足を感じているのだろう．&lt;br /&gt;我ながら変な動物だ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;犬はどうだろ？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういえば，私の知っている犬たちはほとんど例外なくボール遊びが好きだ．&lt;br /&gt;最近までこれは，動くものに対する追っかけ衝動の発露，つまり逃げていくボールを獲物に見立てた一種の 「狩りごっこ」 だろうと思っていた（猫が猫じゃらしに夢中になるように）．&lt;br /&gt;でもキャッチボールを上のように考えると，それだけじゃない気がしてくる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;レトリーブ遊びをせがむ犬たちを見ていると，一番集中して楽しげな時，つまり期待が膨らんで 「もう，たまらん～っ！」 状態になるのは，人間がボールを拾い上げてから投げるまでである．&lt;br /&gt;つまり彼らは，この短い時間の人間とのやりとりに夢中になってるんじゃないだろうか．&lt;br /&gt;ボールを追っかけたり，キャッチしたり，人間の元に運んできたりするのは，むしろそのおまけという感じがする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そう言えば，彼らをもっと喜ばせる遊び方がある．&lt;br /&gt;それは犬がボールを咥えたときに，そのボールが欲しい～！とこちらから追いかけてやるのである．&lt;br /&gt;ときどきはゆ～っくりと近寄って，犬が警戒しだしたらババッと駆け寄ったりして．&lt;br /&gt;これは効く．&lt;br /&gt;犬はすぐに，キャーキャー言いながら得意満面で逃げ回るようになる．&lt;br /&gt;たぶん，この遊びの方が相手とのやりとり（駆け引き）がずっと濃厚だからだろう．&lt;br /&gt;まぁ，やつらをイイ気にさせるとロクなことがないので，そんな遊びはしない方がよいのだけれど．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんなこんなを考え合わせると，彼らがレトリーブ遊びに夢中になるのは，狩りごっこというよりはむしろ，「ボールを介した人とのやりとり」 が楽しいからではないかと思える．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしかしたら犬も， "交換" に対する欲求を持っていて，それを人間と交わすことに無上の喜びを見出す動物なのかもしれない．&lt;br /&gt;人間も変なら犬も変である．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところでキャッチボールは"キャッチ"ボールであって，なぜ"スロゥ"ボールとか"ピッチ"ボールとは言わないのだろうか？（あちらでも"play catch"と表現するらしい）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ボールを投げる」 局面では，動作を起こすのもコントロールするのも自分である．&lt;br /&gt;主体的ではあるけど単純と言えば単純だ．&lt;br /&gt;しかし 「ボールを受ける」 ためには，相手の投げたボールを見てスピードや軌跡を判断しながら自分の運動を制御しなければいけない．&lt;br /&gt;つまり，ボールに反映された相手の意思や行動を受容することがまず要求されるのである．&lt;br /&gt;そこに技術的にも心理的にもより滋味深いものがある．．．なんてことが， "キャッチ" ボールという名前に込められてるのではないだろうか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あ，なんか無理やり "良い話" にしようとしている．．．&lt;br /&gt;やめとこ．&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-115874951501441093?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/115874951501441093/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=115874951501441093&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/115874951501441093'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/115874951501441093'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/09/blog-post.html' title='キャッチボール'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-115585662952111330</id><published>2006-08-18T08:13:00.000+09:00</published><updated>2006-08-23T08:40:13.973+09:00</updated><title type='text'>犬にまつわるコミュニケーションの話 （２）</title><content type='html'>私たちが知っている他のコミュニケーション手段に比べ，コトバは論理的，抽象的な情報を伝えることに長けています．&lt;br /&gt;圧倒的に優れています．&lt;br /&gt;しかし，感覚や気分を伝えることはそれほど得意じゃありません．&lt;br /&gt;そして本来，それを補うのが表情や身振り，匂いなどだったはずなのですが，どうも人間はコトバを発達させる過程で，他の感覚によるコミュニケーション能力を急激に弱めてしまったようなのです．&lt;br /&gt;（あるいは，感覚や気分は相手から隠した方が有利なこともある故，コントロールしやすい語調やコトバで表現することにしたのかも）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちょっともこみち，じゃなくて横道．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アメリカ人が世界のどこでも米語で押し通そうとするのは有名な話ですが，例えばフランス人は，自分たちが愛してやまないParisをアメリカ人が "パリス" と言うのが，つまり米語風に語尾の "s" をはっきり発音するのが鳥肌が立つほど嫌なんだそうです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;当のアメリカ人がそれを察するのは難しい．&lt;br /&gt;なぜなら，一般マナーとして，フランス人が面と向かって相手を非難することはないだろうし，また人間には，相手の鳥肌（感情）はなかなか見えないものだからです．&lt;br /&gt;（犬だったら，匂いでわかるかもね）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;犬と人のコミュニケーションにも似たところがあります．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;両者のコミュニケーションに使われるのはもっぱら "共通言語" であるコトバです．&lt;br /&gt;とゆーよりは，両者とも相手に対してメッセージを発しているのだけれど，それを理解しようと努めるのは半ば一方通行的に犬の側です．&lt;br /&gt;そして，自己流コトバで押し通す人間には，犬が感じているかもしれない違和感を察することは，構造的に難しいのです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;じゃあ，どうすりゃいいのか？&lt;br /&gt;普通はここで 「だからもっと犬を理解しましょうよ」 とくるのかもしれませんが，それもちょっと安易に過ぎるような気がします．&lt;br /&gt;いや，まぁそれはそうなんですけど，それを大上段に掲げてしまっていいのかどうか．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;哲学の世界では，他者や時間は 「理解不能なもの」 と相場が決まっているようです．&lt;br /&gt;そもそも私たちは，他人どころか自分自身（の中の他人）でさえ理解できないのだから，種まで違う生き物が理解できるはずがありません．&lt;br /&gt;多くの人がコミュニケーションの目的は 「お互いを理解すること」 だと考えていますが，そんな大それたことを目指すから，不都合や摩擦やフラストレーションが絶えないのではないでしょうか．&lt;br /&gt;私たちはお互いに理解を超えた存在なんだと認識し，相手に対する畏怖と敬意を持つことが，コミュニケーションの第一歩だと思うのです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は，コミュニケーションの目的はコミュニケーションすること自体にあると思っています．&lt;br /&gt;そのためにこそ人は，相手の感情や置かれた状況を類推しようと努めるし，自分の意図が相手に伝わるように工夫もする．&lt;br /&gt;逆に言えば，そういう地道で丁寧な作業を続けないと，コミュニケーションは維持すらできないということです．&lt;br /&gt;（そのしんどい作業を支えるエネルギーは， 「相手を理解する」 ことが絶望的な状況にありながら，それでも相手と関わっていたいという切ない欲望です）&lt;br /&gt;本来，生き物同士のコミュニケーションは，そういうデリケートな緊張状態の中でこそ成り立つものだと思います．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;先の例，件のアメリカ人が相手の嫌悪感を知るためには，フランス語の発音規則やその背後にある音韻的な美意識まで理解しなければなりません．&lt;br /&gt;じゃあそれらを知らない限り，永久に嫌われ続けるのかというとそんなことはないし，逆に知ったからと言って好意を持たれるとも限らないでしょう．&lt;br /&gt;彼が嫌われる本当の理由は，事実上の世界共通言語となった米語を振りかざし，他国の首都を我流に発音してはばからない尊大な態度にあるからです．&lt;br /&gt;相手文化に対するちょっとした気遣いや敬意，あるいは自己流にしか発音できないことに対する含羞があれば，なにも鳥肌まで立てられることはないでしょう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コミュニケーションは技術ではなく，倫理の問題だと思うのです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;相手が人だろうと犬だろうと．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;おわり&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-115585662952111330?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/115585662952111330/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=115585662952111330&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/115585662952111330'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/115585662952111330'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/08/blog-post_18.html' title='犬にまつわるコミュニケーションの話 （２）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-115585640301096139</id><published>2006-08-18T08:08:00.000+09:00</published><updated>2006-08-19T09:10:53.676+09:00</updated><title type='text'>犬にまつわるコミュニケーションの話 （１）</title><content type='html'>何だか同じような話ばかりで申し訳ないですが，と恐縮して見せつつ，なに，最初にこう断っとけば大抵のことは許されるのさと世間様をなめきった態度で，犬と人のコミュニケーションについて思ったことを書きます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;普通，私たちは話し言葉を使って犬をしつけたり，仕事を指示したり，芸を教えたりします．&lt;br /&gt;そして上手下手，紆余曲折，七転八倒はあるにしても，いずれ犬はその言葉に応えるようになります．&lt;br /&gt;それを私たちは 「犬に○×を教えた」 とは言うけれども，なかなか 「犬が自分の言葉を理解した」 とは表現しない．&lt;br /&gt;これってちょっと片手落ちですよね？と思ったりするわけです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人の話し言葉（以下，"コトバ" と表記）が，身振りなど他のコミュニケーション手段と決定的に異なるのは，それが記号でしかないという点です．&lt;br /&gt;例えば，「犬」を説明するための身振り手振りであれば，どこかで犬の容姿や性質を表していますから，やがてその意味を連想することができるでしょう．&lt;br /&gt;しかし， 「い」 「ぬ」 という音の連なりと，犬という動物の間には何ら必然的な関連はありません．&lt;br /&gt;あるのは 「その一連の音が四本足で歩く人懐っこい動物を指す」 という人工的なルールだけです．&lt;br /&gt;このルールを知らない限り，いくら想像力を働かせても両者の関係に辿りつくことはできない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;犬はコトバを知りません．&lt;br /&gt;これは，私たちが 「へへ，外国語は苦手で．．．」 と照れるのとは，まったくレベルの違う話です．&lt;br /&gt;私たちが未知の外国語を聞いたとき，たとえその単語や文の内容はチンプンカンプンでも，とにかくそこに 「あるルールに則った単語や文がある」 ことは知っています．&lt;br /&gt;ところが犬は，「記号を使ったルールベースのコミュニケーション」 という概念そのものを持たないのです．（たぶん）&lt;br /&gt;この差は大きい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでも犬は，コトバから飼い主の意図を理解しようと努める．&lt;br /&gt;そして彼らは彼らなりの解釈で，一定の響きを持つ一連の音声と，飼い主が自分に望んでいる行動とを結びつけ，それを実践してみせます．&lt;br /&gt;その圧倒的に不利な条件を勘案すれば，これを 「コトバを理解した」 と表現することくらいは許されてもいーんじゃね？と，個人的には思うのです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人が人に 「犬に○×を教えた」 と言うとき，そこには 「教えるのには結構な技術と忍耐と努力がいったんだかんな」 という微かな自負が漂いますが，犬にだって同じくらい，いや多分それ以上の苦労があったはずなのです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;－（２）に続く－&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-115585640301096139?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/115585640301096139/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=115585640301096139&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/115585640301096139'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/115585640301096139'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/08/blog-post.html' title='犬にまつわるコミュニケーションの話 （１）'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-115166907002366400</id><published>2006-06-30T20:58:00.000+09:00</published><updated>2006-07-17T08:16:18.783+09:00</updated><title type='text'>幸福体験</title><content type='html'>ずっと以前に同じようなことを聞いたことがあって，その時はふ～んというくらいでほとんど忘れてたのだが，なぜかここ最近（といっても１年くらいの間），立て続けに「&lt;strong&gt;それ」&lt;/strong&gt;の話を聞いたり読んだりすることが重なった．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「&lt;strong&gt;それ&lt;/strong&gt;」は一種の感覚である．&lt;br /&gt;もっとも，単純に五感を介して入ってくる刺激ではないので，本当に感覚と言えるかどうかはあやしい．&lt;br /&gt;最近流行り（か？）の身体感覚というやつかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;きっかけは様々だ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ジョギングのランナーズ・ハイであったり，麻薬によるトリップであったり，ヨガの瞑想であったり，宗教的な信仰を深めたときであったり，良い出産であったり，長年の武道の修練であったりする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中には，子供時代に一人で夕焼けを見つめていて，突然「&lt;strong&gt;それ&lt;/strong&gt;」を感じたなんて人もいる．&lt;br /&gt;その人の場合は「&lt;strong&gt;それ&lt;/strong&gt;」が原体験になっていて，何か辛いことがあるたびにその感じを思い出しては立ち直るということを何十年も繰り返してきたらしい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;体験者の表現はいろいろだが，共通するのは，「自分が自然（宇宙）のネットワークの一部を構成していて，互いにシンクロしていることを実感する」 というあたりだ．&lt;br /&gt;"宇宙との連帯感" と言ってもよさそうである．&lt;br /&gt;異常なほどの多幸感を伴うらしい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;悲しいかな悔しいかな，自分はそんな経験をしたことが無い．&lt;br /&gt;でも，「あぁそういう幸福感ってあるかもね」 という感じだけはする．&lt;br /&gt;我ながら切ない立場である．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大体，生きることの不条理って，情け容赦も無く広い宇宙にポツンと浮かぶ地球という星で，理由も目的も知らされないまま生まれ，そのまま死んでいくことに集約されると思うのだが，それがある時突然，自分が宇宙や自然と一体であり，祝福されており，存在することに意味があるということを実感するのである．&lt;br /&gt;これは幸福以外の何物でもないだろう．&lt;br /&gt;やがて訪れる死さえ，穏やかに受け入れられるような気がする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「&lt;strong&gt;それ&lt;/strong&gt;」に穏当な理由をつけるとすれば，例えばヒトの共通的な願望が脳の覚醒レベルの低下によって意識の表層に上ったものだとか，あるいは臨死体験のようにある特殊な状態下にある脳機能の一つだ，といった風に説明できるかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも，それじゃあつまらないというか，そうであってほしくないという気持ちが自分にはある．&lt;br /&gt;ここはやはり細胞や分子レベルで何か未知の共振運動みたいなものがあって，それが幾重ものフィルターをすり抜けて，ふとした拍子に意識の表層に浮かび上がってくるというふうに解釈したい．（例えば，だけど）&lt;br /&gt;つまり感覚通り，宇宙と交信したのである．&lt;br /&gt;その方がうれしい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で，もしそうだとしたら，動物や植物や微生物たちも同じ感覚を覚えているはず．&lt;br /&gt;いや，大脳皮質という厄介なものが発達していない動植物たちの方が，もっと頻繁に，もっと豊かに，もっとリアルに感じているに違いない・・・と，どうやら人間の中でも鈍感なタチらしい自分はひがみを込めて思ったりする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ジリジリ照りつける夏の日の下，あるいは刺すような氷雨が降りしきる中，黙々と草を食み続ける羊たち．&lt;br /&gt;そんな彼らが突然，身を捩るようにして躍動するときがある．&lt;br /&gt;それを見ていて 「お，今，感じたな？」 なんて思う．&lt;br /&gt;朝，いつものトイレの時間に，さほど広くも無い囲いの中で突然爆走を始める犬たち．&lt;br /&gt;ヒゲから尻尾の先まで力がみなぎっている．&lt;br /&gt;ヤツらも「&lt;strong&gt;それ&lt;/strong&gt;」を感じたのかも．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;動物たちは，生まれることも食べることも遊ぶことも寝ることも死ぬことも，みんな等しく重要で意味があるなんてことを身体で理解してるんだ，きっと．&lt;br /&gt;彼らには虹の橋なんか必要無いわけだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間ってずいぶん損な生き物だという気がしてきた．&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-115166907002366400?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/115166907002366400/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=115166907002366400&amp;isPopup=true' title='2 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/115166907002366400'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/115166907002366400'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/06/blog-post_30.html' title='幸福体験'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114994219003796422</id><published>2006-06-10T21:18:00.000+09:00</published><updated>2006-06-11T20:08:14.873+09:00</updated><title type='text'>贈るきもち</title><content type='html'>ファームが近所に知られてきたせいか，家畜用にと言って，農家の方々がクズ野菜や米ぬかなどをわざわざ届けてくださいます．&lt;br /&gt;たまに，「好きなだけ持ってっていいよ」 と言っくれる野菜をこちらから収穫に行ったりもする．&lt;br /&gt;ほんとうに，ありがたい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;草の無くなる冬場には貴重な飼料だし，放牧の季節でも色んなものを食べさせてやりたいから，遠慮無く，片っ端からいただくことにしてます．&lt;br /&gt;確かに農家の方にとってはクズかもしれないけれど，へろへろ野菜しか作れない自分たちから見れば立派な出来映え． 「家畜たち大喜びなんですよ～」 とか言いながら，こっそり人間もいただいてます．&lt;br /&gt;（「あんな出来損ない食べるんか！？」 とビックリされるのも不本意なので，黙ってますが）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしてもみなさん，作業の大変さをアレコレ愚痴る割には，結局は食べ切れずに近所に配る羽目になるとわかっている野菜を，丹精込めて拵えてらっしゃる．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なんで？・・ってそりゃやっぱり 「喜んでもらいたい」 からでしょう．&lt;br /&gt;"素朴な人情" というやつです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ思うんですけど，他人に（物やサービスを）贈与するという行為には，そういうホノボノした感じよりもうちょっと止むに止まれぬ的な， "人が人であるための情動" みたいな深刻な一面もあるんではないでしょうか．&lt;br /&gt;今日の社会や経済は，そのために成立したと言えるくらいの．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;遠い祖先の一人がある日，たまたまたくさんの食糧を手に入れました．&lt;br /&gt;家族（がいたかどうかは知らないが）で食べきれないくらいの量です．&lt;br /&gt;腐らすのももったいない（という概念があったかどうか知らないが）ので，近くの知り合いに譲ってみたところ，これが何やら "気持ち良い" ではないか．&lt;br /&gt;"自分が必要とする以上の物をせっせと作る" ことはヒトという動物の奇行の一つだと思いますが，それはこの快感にドライブされるところが大きかったのでしょう，たぶん．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん，貰う方だって苦労せず物が手に入るのだからありがたい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ，ありがたいのは確かなんですが，その一方でどこか尻の座りが悪い．&lt;br /&gt;相手に対して引け目というか，何か心の負担を感じてしまうのです．&lt;br /&gt;そして人は，この負担を軽減するもっとも簡単な方法が，"（別のものを）贈与し返す" ことであることを発見する．&lt;br /&gt;たぶん，これが物々交換の始まりだったのでしょう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで贈与の交換は，普通，等量ではなく過剰に行われます．&lt;br /&gt;言葉を贈り物に例えるとその辺の機微がわかります．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　A: 「こんにちわ」&lt;br /&gt;　B: 「こんにちわ」&lt;br /&gt;　A: 「良い天気ですね」&lt;br /&gt;　B: 「良い天気ですね」&lt;br /&gt;　A: 「お元気そうですね」&lt;br /&gt;　B: 「そちらこそお元気そうで」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これじゃあ話が弾まないどころか，下手すりゃ殴り合いです．&lt;br /&gt;ここはやはり，&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　A: 「こんにちわ」&lt;br /&gt;　B: 「こんにちわ，良い天気ですね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とか何とか，ちょっぴり "おまけ" を付けて返すのが愛想（いい言葉！）というもんでしょう．&lt;br /&gt;でないと会話になんないし．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;経済の世界では "等価交換" が公理のように言われていますが，もし上記が正しいとすると，そうではないかもしれません．&lt;br /&gt;流通の基本が贈与だとすると，返礼は過剰に行われるのが自然なはず．&lt;br /&gt;だから，物の値段が高い・・・すなわち物を譲ってもらったときにそのお返しが割高なのは，哀しいかな理に適っているのかもしれません．&lt;br /&gt;まぁそのおかげで，客も大きな顔をしてられるのでしょうが．&lt;br /&gt;（だからってことさら威張るのもどーかと思うけど・・・）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本のサラリーマン軍団のほとんどは，（実態はどうあれ）内心では 「俺は給料以上に働いている」 と思ってるんだそうです．&lt;br /&gt;だから 「仕事キツイ割りに給料安い」 とか 「あーあ毎日サービス残業かよ」 などとボヤきながら，おいしいお酒が飲めるわけです．&lt;br /&gt;会社に恩を売ってるような気分に浸れるからね．&lt;br /&gt;日本が平和なのは，案外，そんなところに原因があるのかもしれません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あ，でも，そうすっとアレっすよね，「一攫千金」 とか 「楽して儲けた」 ことを自慢しつつ蓄財に精を出したり，あるいは一方的にサービスを享受して平然としてられる人は，"人の定義から外れる" という意味での "新人類" か，もしくは何か別の生き物と思ったほうが良いのかも．&lt;br /&gt;（野菜をいただきまくってニコニコしてる私らって・・・）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;--&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで，この先は例によって， 「犬たちって生産こそしないけれど，出血大サービスの精神はあるんじゃないか？」 とか 「彼らが必要以上に張り切ってみせるのは，彼らなりの心の負担を軽減するためだ」 なんて話にこじつけたかったのですが，さすがに無理矢理っぽいので挫けました．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だれか，考えてみませんか？&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114994219003796422?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114994219003796422/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114994219003796422&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114994219003796422'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114994219003796422'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/06/blog-post.html' title='贈るきもち'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114432398995754587</id><published>2006-04-06T20:43:00.000+09:00</published><updated>2006-07-14T11:28:13.086+09:00</updated><title type='text'>犬も仕事もメタ言語　(4)</title><content type='html'>それは，例えばレトリーブを犬仲間に披露するときだったり，TVに出たときだったり，イベントでデモしたときだったり，競技会で活躍したときだったり，あるいは単に通りすがりのおっさんが「お，賢い犬やんけ」と呟くのを聞いたときだったりします．&lt;br /&gt;つまり，他者との関係が生じることに新たな刺激を感じるのです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この刺激は一般に，快にしろ不快にしろ，犬と対話することからくる刺激より強く深い．&lt;br /&gt;だって人間ですもの．&lt;br /&gt;こうして，もともと "人&lt;=&gt;犬" だったコミュニケーションの図式が "犬を介した人&lt;=&gt;人" に置き換えられていくわけです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;別にそれがマズイとか，犬がカワイソーなどと言いたいわけじゃありません．人であるA君が人とのコミュニケーションに犬とのそれより大きな魅力を感じるのは当然でしょう．&lt;br /&gt;ってゆーか，むしろそうあるべきなんであって，まっとうな成人が犬とのコミュニケーションに全身を傾けるという図は，ちょっとバランスを欠いているようにさえ思えます．（余計なお世話ですが）&lt;br /&gt;ジョンにしたって，もしそんなA君の気持ちがわかったとして，がっかりするでしょうか？たぶん，それは，無い（気がする）．むしろ，喜び勇んでA君の期待に応えようとするのではないでしょうか？&lt;br /&gt;それが犬という生き物だと思います．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;要は人も犬もまるでオッケー．&lt;br /&gt;双方がハッピィなんだから喜ばしい限りです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただですね，このコミュニケーションの図式と，人は意識的にしろ無意識的にしろ，人とのコミュニケーションを志向する生き物だということは頭の片隅に置いておきたいと思うのです．&lt;br /&gt;犬と何をするにしても， 「犬が喜ぶから」 とか 「犬のため」 とか 「犬がやりたがるから」 などと恩に着せるのはフェアじゃないように感じます．&lt;br /&gt;躾をするのも，犬連れ旅行に出るのも，競技会に出るのも，ペット同伴喫茶に入るのも，散歩に行くのも，山登りをするのも，健康診断をするのも・・・人がやりたいからやらせてるということ，犬はその人の意に沿うように振舞っているということを忘れたくないと思っています．&lt;br /&gt;別にそう思ったからといってどこがどう変わるというわけでもありませんが，それって，やっぱり重要なことじゃないかと思うのです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;う～ん，どうも尻切れトンボになってしまいました．&lt;br /&gt;別にそんなことを言いたかったんじゃなかった気がするんですが，もうここまで書いちゃったしな・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう一度，頭ん中整理して出直します（ウソ）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おわり&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114432398995754587?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114432398995754587/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114432398995754587&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114432398995754587'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114432398995754587'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/04/4.html' title='犬も仕事もメタ言語　(4)'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114432372775191616</id><published>2006-04-06T20:37:00.000+09:00</published><updated>2006-07-14T11:26:54.136+09:00</updated><title type='text'>犬も仕事もメタ言語　(3)</title><content type='html'>例によって無理やりの犬話です．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;かなりの人が経験していると思いますが，犬というやつ，芸やスポーツを教えると最初はしぶしぶと言うか，まぁはっきり言って気乗りのしない様子で取り組みます．&lt;br /&gt;しかしトレーニングを繰り返していくと，次第に積極的になり，ときには身体全体で喜びを表現するかのように熱心に取り組むようになります（ならないこともあるけど）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この変化は連続的ではなく， "ある時点を境に急に" やってくる感があります．&lt;br /&gt;私たちはそれをトレーニングの賜物であり，犬が芸やスポーツ自体（ディスクやボールをレトリーブしたり，障害を走り抜けたりすること）の面白さに目覚めたと解釈しがちです．&lt;br /&gt;でも実はそうではなくて，作業を通じて飼い主とコミュニケーションできるということを，犬が感じとったからだと考えられないでしょうか？&lt;br /&gt;そのときはじめて，芸やスポーツは犬にとっても情熱を傾けるに足る仕事となり，それを通じて人とコミュニケーションすること，ボスであるところの飼い主に承認されることに "やりがい" を見出したのではなかろうか．&lt;br /&gt;イヌも，ヒトとの関係を通じて初めて，（人がイメージするところの）"犬" という生き物になるのかもしれない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;タトエバノハナシ・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある日，A君は飼い犬のジョンにボールのレトリーブを教えようと思い立ちます．&lt;br /&gt;ジョンは衝動のまま逃げるボールは追いかけますが，持って帰ろうとはしません．&lt;br /&gt;そこで，A君はリードを使ったりトリーツを使ったりしてそれを教えます．&lt;br /&gt;ジョンは， 「ボールを持って帰る」 と何か楽しいことが起こるということを繰り返し経験します．&lt;br /&gt;そういえば，そのときにA君も何やらうれしそうにしてるではありませんか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なんだ，Aはボールを持ってきて欲しいのか！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もともと走ったり追っかけたりが好きなジョン，大好きなA君が望んでいるらしいレトリーブに喜び勇んで励むようになります．&lt;br /&gt;一方のA君も，犬がうれしそうな様子を見て "心が通じた" 感を味わいウットリする．&lt;br /&gt;ここにA君とジョンの間に一つのコミュニケーションが成立したわけです．&lt;br /&gt;メデタシ，メデタシ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただし，このコミュニケーションは双方向とは言えません．&lt;br /&gt;確かにジョンはジョンなりにA君の意図を理解したけれど，その逆となると怪しいからです．&lt;br /&gt;これはある意味当然かもしれなくて，ジョンにとっては自分の生活を託すA君の意図を理解するということは大きなメリットになりますが，A君にはそれがありません．（それこそ 「犬の意図がわかったって一文の得にもならん」 わけですから）&lt;br /&gt;ヒトも動物も，メリットが無いことに打ち込めるはずがありません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから来る日も来る日も同じことをしていると，A君はちょっぴりマンネリを感じるようになります．&lt;br /&gt;そうそういつも，レトリーブごときで感動もしてられません．&lt;br /&gt;特に天候の悪い日などは，半ば義務感で遊んでいる自分に気づいたりします．でも，そんなA君があらためて張り切るときがあります．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114432372775191616?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114432372775191616/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114432372775191616&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114432372775191616'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114432372775191616'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/04/3.html' title='犬も仕事もメタ言語　(3)'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114424053238070374</id><published>2006-04-05T21:32:00.000+09:00</published><updated>2006-07-14T11:22:20.736+09:00</updated><title type='text'>犬も仕事もメタ言語　(2)</title><content type='html'>どうやら人は，仕事そのものというよりは，それに付随する何か別のものを追い求めているらしい．&lt;br /&gt;それが人と人との関係＝コミュニケーションである・・・というのが，先のWebサイトの意見です．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なるほど言われてみれば，これも当たり前かもしれません．&lt;br /&gt;例えばアートやプロスポーツはカッチョ良いし，仕事そのものの "やりがい度" が高そうな職業です．&lt;br /&gt;「PowerPointが生きがいだ！」 と叫んでもお寒いだけですが，プロ野球選手が 「野球は自分の人生そのものっす」 と渋くつぶやくと絵になります．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも，ほんとにそうでしょうか？&lt;br /&gt;いや，その言葉がウソだと言う気はありませんが，彼が人生を賭けているのは本当に野球のプレーそのものなのでしょうか？&lt;br /&gt;彼が野球を好きになったきっかけは，もしかしたらバットの芯でボールを捕らえたときの快感だったかもしれない．&lt;br /&gt;あるいは，はるか頭上の打球をキャッチしたときの万能感だったかも．&lt;br /&gt;確かに，最初のうちはそれらが野球をすることの十分なモチベーションになったでしょうが，でも，それを一生を賭けて追求する人はいないでしょう．&lt;br /&gt;ダイエー時代の城島選手が新聞のインタビューに応えて次のようなことを言ってました．「"野球を楽しみたい" なんて言う選手がいるが自分は違う．やればやるだけ辛くて苦しい．でもそれがプロだと思っている．」&lt;br /&gt;プロのスポーツとはそういうもんだろうなと，私も思います．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いや，スポーツに限らず仕事なんてきっとそういうもんでしょう．&lt;br /&gt;仕事で対価を得るためには熟練や習熟が必要だし，そのためにはどうしても息の長い反復が必要です．&lt;br /&gt;（最初に感じたかもしれない）仕事そのものに対する興味や興奮を維持するのは難しいでしょう．&lt;br /&gt;それでも人はせっせと仕事に精を出す．&lt;br /&gt;それはあながち生活のための我慢だけではないと思います．&lt;br /&gt;そこには，そういう過程を経て初めて経験できる，"他者との質の高いコミュニケーション" が存在するから・・・というのは肯けるような気がします．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;先の "野球は俺の人生" 発言の意味するところは，おそらく，試合を通じた対戦相手やチームメイトとコミュニケーション（勝ち負けはもっとも濃厚なコミュニケーションの一つでしょう）や，あるいはプレイというパフォーマンスを通じて観客や社会から承認を得ることが，彼の人生の重要なパートを占めていて，全力を傾けて取り組む価値があるということなのでしょう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ヒトは他人（ヒト）との関係性において初めて人になる」 ことが真実とするなら（←お，この言い回し便利・・・），仕事というメタ言語を介して他者とコミュニケーションすることは，呼吸や食事と同じとまではいかないまでも，それに近いくらい重要な意味を持つはずです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（逆に言えば，本来，人はあらゆる仕事で相応の充足感が得られるはずなのですが，それを邪魔するのが "どこかに理想の仕事があるはず" とか "仕事が合わないから自己実現できない" などの都市伝説的決まり文句や，グローバルスタンダードという異名を持つ "何でもお金（報酬）で計る" 主義でしょう）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114424053238070374?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114424053238070374/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114424053238070374&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114424053238070374'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114424053238070374'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/04/2.html' title='犬も仕事もメタ言語　(2)'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114424026616900530</id><published>2006-04-05T21:25:00.000+09:00</published><updated>2006-04-05T21:31:06.183+09:00</updated><title type='text'>犬も仕事もメタ言語　(1)</title><content type='html'>とあるWebサイトの雑文コーナーに 「仕事はメタ言語である」 という一文を見つけて，ちょっととゆーかかなり感心したので，独創的改訂を加えつつ潔く文責を担おうと思う（盗作とも言う）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人はなぜ仕事するのか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パッと思いつく理由は，&lt;br /&gt;　1) お金を稼ぐため&lt;br /&gt;　2) 生きがいややりがいを求めて&lt;br /&gt;　3) 憲法で決められた義務だから&lt;br /&gt;あたりか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どれも当然だし，それぞれ当たってもいるでょう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしこの世の中，常識的で当たり前と思われることの裏には，えてして意識に上らない隠れた意図があるというのは，私たちが経験的によく知っていることです（←お，この言い回し便利．説明抜きで納得できる気がする）．&lt;br /&gt;その意図とは？というのが，このよた話です．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その前に 1)～3) をもう少し掘り下げてみる．&lt;br /&gt;1) のお金というのは理由として明白だし，今の社会システムが労働と報酬という形で成り立っている以上，生活の糧を得るために人は働かざるを得ません．&lt;br /&gt;ただ，ここで考えたいのは，じゃあなぜ今の社会がこういうシステムになったかということです．&lt;br /&gt;時に厳しくもあり，辛くもある仕事に，どうして万人が携わるようなシステムになったのか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もし仕事の目的が必要な生活リソースを確保することだけなら，例えばまったく仕事をしない階級が含まれるような別の社会形態になってもよかったのではないでしょうか？あ&lt;br /&gt;るいはもうちょっと現実的に， 「必要なお金を稼いだらササッと引退します」 という人がもう少したくさんいても良さそうなもの．&lt;br /&gt;ところが現実はそのようではありません．&lt;br /&gt;これから先，どんなに物質的な生産性が上がったとしても，仕事そのものが無くなる心配は無さそうです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここは一つ，そこに人間の根源的な欲求に関わる何かがあって，むしろ人は，誰もが仕事に携わることができるように社会を作ってきたと考えた方が座りが良さそうです．&lt;br /&gt;（(3)の憲法説も同じような理由で分が悪い．労働を義務づけた憲法は，初めにそれがありきと言うよりは，人々の標準的な営みを追認したものと考えるべきでしょう）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;じゃあというわけで，(2)の仕事が "生きがい" や "やりがい" 説はどうでしょう．&lt;br /&gt;この理由はよく耳にするし，もっともらしくもあるのですが （最近はちょっとひねった "自分探し" という言い方もある），ちょっと考えてみるとこれも怪しい．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だってさ～あ・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;毎日毎日，PowerPointを激しくいじくって，データの切り貼りに明け暮れるのが果たして生きがいと言えるでしょうか？&lt;br /&gt;いつどこにいようとお構いなしに押し寄せてくるメールに，帰宅後もビクビクするような仕事にやりがいなんてある？&lt;br /&gt;会議で10分しゃべるだけのために，計画していた旅行を断念して往復７時間もかけて出張する意味があるのかよっ，おい！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これは多分断言できると思うのですが， 「これが私の理想の仕事」 と腹の底から納得してる人なんて，ほとんどいないのではないでしょうか？&lt;br /&gt;世の仕事の99%は（少なくとも必要な作業のほとんどは），辛かったり，しんどかったり，汚かったり，カッコ悪かったり，バカげてたり，退屈だったりする．&lt;br /&gt;誰もがベッドで独創的なアイデアを思いつき，窓の大きなオフィスで企画書にまとめ，ランチで同僚にジョークを飛ばしてから，午後にクライアントを唸らすプレゼンをして，夜にはジムで心地よい汗を流すわけではないのだ．&lt;br /&gt;（それはそれで苦労多そうだけど）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ね，やりがいや生きがいってのも，首を傾げたくなるじゃないですか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114424026616900530?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114424026616900530/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114424026616900530&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114424026616900530'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114424026616900530'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/04/1.html' title='犬も仕事もメタ言語　(1)'/><author><name>まろ</name><uri>http://www.blogger.com/profile/08894751662783438391</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114087641091367897</id><published>2006-02-25T23:06:00.000+09:00</published><updated>2006-03-04T21:51:58.096+09:00</updated><title type='text'>○ンチを超えてヒトは進化する？　(5)</title><content type='html'>　　− 進歩が目指すのは何なのか？ −&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というわけで，ここまでの想像を積み重ねると，「遺伝子を束ねるような何かの意志が，有機物や自然から離れる方向にヒトを導いてきた」 ことになります．&lt;br /&gt;では，なぜそんな方向を目指すのかということですが，これはわりと簡単に推理できます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり，遺伝子の 「時を超えて存在し続ける」 という目的からすると，有機体の細胞を乗り物とする今のやり方は必ずしも最適なものではなく，むしろとても弱いものだからです．&lt;br /&gt;ちょっと太陽がくしゃみをしただけで，ちょっと地球が身震いしただけで，ちょっと流星とぶつかっただけで，ちょっと空気の組成が変わっただけで，生物は壊滅的な打撃を受けてしまいます．&lt;br /&gt;代謝と自己複製を実現するためには柔軟な組織体が必要だったわけですが，環境が激変する場合はそれがそのまま弱点になるわけです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これに対抗する手段が種の多様性と環境への適応能力だったわけですが，それだけでは心許ない，その他にも手を打っとこうとどこかの意志が企んだとしても不思議ではありません．&lt;br /&gt;それが，ヒトに自然から離れようとする本能を与え （あるいは，そういう本能を持ったヒトという種を創り），その制約から逃れる手段を模索しているのではないでしょうか．たとえ地球レベルで環境が激変して，乗り物である有機体が死滅しても "生命の記憶" は生き延びられるように・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生き延びた先に何があるのかは想像もできません（そう言えばこのテーマ，若い頃読み倒した小松左京さんのSFに何度も出てきたなぁ）．&lt;br /&gt;ただ，そういう大目的を前にすれば，乗り物であるヒトの身体が多少悲鳴を上げるくらいは取るに足らないことだろうなと，変に納得してしまいます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後にもう一つだけ．&lt;br /&gt;最近気になってることがあって，それは私たち現代人が，何かに追いかけられるような切迫した気持ちをかなり共通的に持っているということです．&lt;br /&gt;価値観は多様化しているはずなのに，"スピードと効率" はますます持てはやされ，その結果， "進歩＝自然離れ" が加速しているように見えます．&lt;br /&gt;もしかしたらそれは，何らかの手段で先が長くないことを予見した意志が，人間に対して追い込みのムチを入れているのではないでしょうか．&lt;br /&gt;あるいは，人間に仕込んでおいた自滅のプログラムを作動させ，滅亡と生き延びるための技術開発のどちらが早いかという，一種の賭けに出たのかもしれません．&lt;br /&gt;焦りにも似た感覚は，実は遺伝子の焦りそのものだったりして．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あ，そういえば，キレイ・キタナイ感覚以外にも，異種生物を共生ではなくペットとして一方的に可愛がろうとするというのも人間だけの習性ですね．&lt;br /&gt;もしかしたらこれは，そこから離れることを宿命付けられた人間が，"自然" に対する惜別の情をペットに投影していると考えられないでしょうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜなら・・・・，もういいか（笑）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おわり&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114087641091367897?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114087641091367897/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114087641091367897&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087641091367897'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087641091367897'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/5_25.html' title='○ンチを超えてヒトは進化する？　(5)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114087636495598226</id><published>2006-02-25T23:05:00.000+09:00</published><updated>2006-03-04T21:52:42.280+09:00</updated><title type='text'>○ンチを超えてヒトは進化する？　(4)</title><content type='html'>　　− 進歩はヒトを幸せにするのか？ −&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここで最初の問題に戻ります．&lt;br /&gt;「○ンチを忌み嫌う」 という独特の感覚を，なぜ人間だけが持っているか？・・・です．&lt;br /&gt;私は，○ンチが有機的なモノを，さらには "自然" そのものを代表しているのではないか，そして， 「○んち＝有機的なもの＝自然」 を嫌って離れようとする感覚が，ヒトという生物種の進化の方向を示していると思っています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実際これまで，ヒトの文明は自然から離れることを是としてきました．&lt;br /&gt;人工の建物で暮らし，身体的な限界を超えて移動し，地球外に飛び出し，生活環境を "清潔" にし・・・，これらすべては私たちが直観的に 「良いこと」 と感じ，汗水たらして実現してきたことです．&lt;br /&gt;そしてまさにこの "自然離れ" 運動を進める原動力になってるのが，○んちをキタナイと感じ，その匂いをクサイと感じる感覚なのではないでしょうか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ冷静に考えると，これが私たちそれぞれの生物個体にとっては，必ずしも 「良いこと」 ばかりではないことに気がつきます．&lt;br /&gt;例えば，性能の良い移動手段を獲得した私たちですが，交通事故で命を落とす確率はどんな病気よりも高くなっています．例えば，恐らくは私たちが作り上げてきた "清潔な" 生活環境のせいで，多くのアレルギー疾患に悩まされるようになりました．例えば，ストレスの多い現代生活が心身を病む原因にもなっています．例えば・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;確かに昔にくらべて生活は楽にも便利にもなったんですが，その一方で，私たち自身が引き起こした環境変化のスピードに，私たちの身体や心が追いつけずに悲鳴を上げているようにも見えます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ドーキンス氏であれば，それは人間の頭脳が生み出した新しい自己複製子（ミーム＝文化や知識の複製の基本単位）のせいであって，必ずしも遺伝子本来の目的ではないと言うかもしれません．&lt;br /&gt;でも，私はこれら環境変化がミームの働きだとしても，やっぱりそれは遺伝子が志した方向ではないかと思っています．&lt;br /&gt;そのわけは，次のページで述べたいと思います．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところでこれから先，もし人間が環境変化のスピードが速すぎると反省したとして，私たちは "進歩" を止めたり逆戻りさせることはできるのでしょうか？&lt;br /&gt;もし進歩の原動力が感覚だという見方が当たっているとすると，答えは否です．&lt;br /&gt;理屈は思想は人間の意志の力でいくらでも変えられますが，感覚はそうはいかないからです．&lt;br /&gt;感覚は私たちの脳と言うよりはもっと深いところ（恐らくは生きる主体であるところの遺伝子のレベル）から与えられたものだからです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114087636495598226?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114087636495598226/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114087636495598226&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087636495598226'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087636495598226'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/4_114087636495598226.html' title='○ンチを超えてヒトは進化する？　(4)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114087630772218558</id><published>2006-02-25T23:04:00.000+09:00</published><updated>2006-03-04T21:53:14.073+09:00</updated><title type='text'>○ンチを超えてヒトは進化する？　(3)</title><content type='html'>　　− 遺伝は意志か？ −&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今，学説としてどう扱われてるかは知りませんが，R. ドーキンス 「利己的な遺伝子」 の基本概念は 「生きることの主体は遺伝子にあって，あらゆる生物個体はその一時的な乗り物に過ぎない」 「遺伝子の目的は時を超えて存在し続けること」 です．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この遺伝子を擬人化したイメージ（メタファ）は素人頭にもわかりやすい．&lt;br /&gt;私なんか， 「生まれようと思って生まれた人はいないし，どんなに生きようと思ったって寿命が来るんだから，何で "主体的に生きる" なんてエラソーに言えるんだ？」 と以前から思ってたくらいですから，疑うどころか勢いよくうなずいてしまいます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そう考えると今度は，例えばヒトの遺伝子は各個人に乗っかっているわけだけれど，それらを総体として捉えることもできる，あるいは捉える必要があるんじゃないかと思えてきます．&lt;br /&gt;つまり，例えば各個人の容姿などはそれぞれの遺伝子によって決まりますが，ヒトという種の進化の方向を決めてきたのは遺伝子全体としての意志ではないかということです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は高校の頃に，生物の進化は突然変異と自然淘汰のおかげと習いましたけど，本当にそうなんでしょうか？　&lt;br /&gt;動植物の優れて合目的的な機能を知れば知るほど，それが突然変異の結果ですと言われても，なかなかポンと手を打つ気にはなれません．&lt;br /&gt;環境への適応ではランダムな突然変異よりも確率高く "良い形質" が現れるんだそうですが，それにしたって，その変化が適応に有利だということを何がどうやって判断しているのでしょうか？&lt;br /&gt;そこに意志の存在を勘ぐりたくなります．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは神さまが・・・というのは，この歳までロクな信仰も無しに生きてきた自分としてはバチが当たりそうでとても言えませんが，その代わりと言っちゃあ何ですが，各生物に散らばった遺伝子が何らかの手段（例えば量子レベルの何ちゃら効果とか）で交信しあって，総体として何らかの意志を持ってるんじゃないかと想像すると楽しくなってきます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（ちなみに私は進化論も創造論もよく知りません．それこそ根も葉もないヨタ話です）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114087630772218558?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114087630772218558/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114087630772218558&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087630772218558'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087630772218558'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/3_114087630772218558.html' title='○ンチを超えてヒトは進化する？　(3)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114087623978914457</id><published>2006-02-25T23:03:00.000+09:00</published><updated>2006-03-04T21:53:53.466+09:00</updated><title type='text'>○ンチを超えてヒトは進化する？　(2)</title><content type='html'>　　− 意志は物理現象か？ −&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で，結論として "その感覚は進化のために与えられたものかも" という風に持っていきたいんですが，その前にまず，意志とは何なんだ？ということについて思うところを書かせてください．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん，そんなことは心理学とか哲学とかでさんざん議論されてきたのでしょうが，それらを完全に無視して （てゆーか何も知らないので） 勝手に考えてみます．&lt;br /&gt;ためしに，なぜか手元にある平凡社の心理学辞典で "意志" を引いてみると， 「その本質に関して長期にわたり議論が錯綜し定まることが無かった」 とあるので （素直にわからんと言えんかなぁ），少しくらい変なこと言ってもいきなりバックドロップかまされることは無さそうです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えばこんな文章を書いている自分の意志って，一体どこにどんな風にあるんだろうかと考えだすとワケわかんなくなってきます．&lt;br /&gt;仮に脳の中にその実体があるとして，例えば 「山へ登ろう」 と考えたときの意志って，どこかの神経細胞の特定の状態として物理的に定義できるんだろうか？・・・とか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうやって悩んでると，実は意志なんてどこにも無いんじゃないかという気さえしてくるんですが，それでも自分の身体は何らかの目的に向かって意味ありげに動いているわけで，やっぱりどこかに何かの形ではあるんだろうなと思います．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;犬や猫に意志があるかと問われれば，そりゃあるでしょうよと胸張って言いたいですが，これが虫や植物や微生物などになってくると自信が揺らいできます．でも，それらにしたって，生という営みに向かって意味のある活動をしてるんですから，その源である何かは意志と呼べそうです．&lt;br /&gt;ミドリムシは光に向かって移動する習性があるそうで，これくらいは何かの化学的な反応で説明できるのかもしれませんが，それを意志と言っても私には違和感はありません．&lt;br /&gt;どこまでが反応や反射でどこからが意志なのか・・・，その境界って実はハッキリしてないんじゃないでしょうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうやって考えてくと，私の妄想は原始の海に漂っていた自己複製を始めたばかりの有機体にまで行き着いてしまいます．彼らの意味ありげな行動と言えばそれこそ "自己複製する" ことくらいでしょうが，それだってもう意志と呼べるんではないでしょうか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしそうだとすると，原始生命の段階では意志と行動が未分化だったということになりますし，結局のところ，生き物の意志は化学反応なり物理的な状態などに還元できると言えそうです．&lt;br /&gt;想像を逞しくすれば，いわゆる生命以外のものでも意志があると考えることだってできそうです．&lt;br /&gt;そりゃあ理屈もクソもありませんが，そう考えた方が面白いじゃないですか！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は，十分複雑な系が何かの目的に沿った協調した行動を取るとき，そこに意志があると考えても許される気がしています．&lt;br /&gt;つまり，現状で分析的な説明ができないのなら，外から観測してそれらしく見えれば，それを意志とゆーとかなしぁーないやん，みたいな・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114087623978914457?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114087623978914457/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114087623978914457&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087623978914457'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087623978914457'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/2_114087623978914457.html' title='○ンチを超えてヒトは進化する？　(2)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114087619011377747</id><published>2006-02-25T23:02:00.000+09:00</published><updated>2006-03-04T21:54:37.313+09:00</updated><title type='text'>○ンチを超えてヒトは進化する？　(1)</title><content type='html'>○ンチをまったく厭わない犬たちを見ててスッゲ〜と思ったことないですか？　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分たちのもそうですが，家畜のフンなんてまぁ嬉しそうに身体に擦りつけたり食っちまったり．．．&lt;br /&gt;"キレイ好き" と言われる猫だって，草食動物の糞にはやっぱり積極的に擦り寄っていきます．以前飼ってた野良上がりなんか，どこかで拾ってきた腐ったお好み焼きを，わざわざ私の枕元まで得意げに運んできてくれたものです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;思うんですけど，動物たちに私たちのような "キレイ" とか "キタナイ" って感覚無いんじゃないでしょうか？　&lt;br /&gt;泥だらけで有頂天になってる犬や，寝床のムシロに糞尿タレ放題の家畜たちを見てるとそんな気がしてきます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしそうなら，これは見過ごせません．&lt;br /&gt;なぜって私は動物と人間を分けて考えるのがどうも性に合わないからです．&lt;br /&gt;つまり 「ヒトは万物の霊長」 とか 「人間だけが感情を持つ」 みたいな考え方が苦手で，動物と人間は基本的に違わないと思ってますし，できれば植物や微生物も含めて，生物全体を連続的に考えたいと思っています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ですから，動物の中で人間だけが○ンチをキタナイと感じるとしたら，これは私にとって由々しい問題なのです．&lt;br /&gt;だいたい身体の一部と言ってもいいようなモノを，なぜ隠し字まで使って忌み嫌わねばならないのか？　&lt;br /&gt;考えてみれば不思議な感覚ですよね！？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いや，別に 「○ンチを見直そう！」 運動をしたいわけではありません．&lt;br /&gt;だってバッチィもんはやっぱりバッチィというか，感覚を偽ろうとしても無駄な抵抗です．&lt;br /&gt;ここでは，なぜ人間が○ンチ（に代表される有機的な感触や匂い）を "キタナイ" と感じて避けてしまうのかを，するどく考えてみたいと思います．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つづく&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114087619011377747?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114087619011377747/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114087619011377747&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087619011377747'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087619011377747'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/1_114087619011377747.html' title='○ンチを超えてヒトは進化する？　(1)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114087615152698538</id><published>2006-02-25T23:01:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T23:02:31.526+09:00</updated><title type='text'>犬との暮らしのパラダイム　(3)</title><content type='html'>犬との暮らしにもたくさんのパラダイムがある．&lt;br /&gt;しつけ，訓練，ドッグスポーツ，食餌，運動，疾患と検査・・・，あらゆるものに潜んでいる．&lt;br /&gt;だいたい 「良くしつけされた犬が飼い主に寄り添い行儀良くふるまう」 とか 「人がコマンドを出して犬が従う」 というのだって，一見疑う余地が無さそうだが， "人と犬との望ましい関係" パラダイムの一つに過ぎない．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で，話は戻って Barbara氏のサービスのこと．&lt;br /&gt;おそらく彼女が提供したかったのは，どう犬を訓練するかとか，どう問題行動を矯正するのかといったテクニックやノウハウではない （んじゃないかな）．&lt;br /&gt;むしろ犬とどうつきあって，そこから何を学ぶべきかを伝えたいのだ （きっと）．&lt;br /&gt;つまり犬との関係に対する一つのパラダイムを提唱したかったのだ （と思う）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「犬に学ぼう」 というセリフは，謙虚っぽくて耳にも心地良いのでよく使われるのだが，本当にそう信じて教わろうとする気持ちが持てる人は少ない （に違いない）．&lt;br /&gt;彼女はそれを実践し，確信を持って人に伝えようとしている．&lt;br /&gt;ビジネス向けのコンサルも別に奇を衒ったわけではなく，彼女にしてみればごく自然な発想だったのだろう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実は，自分たちのファームでも似たようなことができないかと考えている．&lt;br /&gt;つまり，犬や動物たちと暮らすことの自分たちなりのパラダイムを実践し，あわよくばそれを発信していきたい，，，普段当たり前と思っていることを，ふと立ち止まって考えられるようなほわっとした場を提供したいと．（カッコつけすぎ？）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうやって？というのと，Hiroさんの暴走をどう食い止めるかという大きな課題が残ったままだが，少しずつ形にしていきたいと思っている．&lt;br /&gt;乞うご期待，と言えるかどうか・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おわり&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114087615152698538?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114087615152698538/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114087615152698538&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087615152698538'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087615152698538'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/3_114087615152698538.html' title='犬との暮らしのパラダイム　(3)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114087606324218429</id><published>2006-02-25T23:00:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T23:01:03.243+09:00</updated><title type='text'>犬との暮らしのパラダイム　(2)</title><content type='html'>話はいきなり脱線してマンションに突っ込むのだけれど，最近，"パラダイム" について話を聞いたので，その受け売りをちょっと．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この単語，元々は文法用語であったのが科学分野に流用され，今では 「人々のものの見方・考え方を根本的に規定している概念的枠組み」 という広い意味で使われている．&lt;br /&gt;「根本的に」 ということは，言い替えれば 「見ることも触ることもできず，言葉で表現されることはおろか意識にも上らない」 ということである．&lt;br /&gt;じゃあ現実に影響が無いかというととんでもなくて，おそらく人の意識と無意識の中間あたりにどっかと居座り，その人の思考や行動を強力にコントロールしているのである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば，ある人が 「明日，どこかに遊びに行こう」 と考えたとする．&lt;br /&gt;こんな時，普通は 「もし今日から明日にかけて太陽や地球が消滅せず，もし大事故や天変地異が起こらず，もし私が今日と同じように元気で，もし・・・」 とは考えない．疲れるからである．&lt;br /&gt;実際には明日のことはわからないし，例えば今から10分後にすべての物質が物質であることを止めバラバラの原子に還ったとしても，誰にも文句は言えないはず．&lt;br /&gt;それでも，私たちは明日という日の存在を疑わない．&lt;br /&gt;これは， "明日も今日と同じように存在するのだ" パラダイムが機能しているのである．&lt;br /&gt;人はこのような共通のものからその人固有のものまで，重大なものから取るに足らないものまで，それこそ無数のパラダイムに依って生きている．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみにことパラダイムに関して，どれが良くてどれが悪いかという議論は空しい．&lt;br /&gt;まぁ大抵の場合，そのどれもが "正しい" のだ．&lt;br /&gt;重要なのはいろんなパラダイムがあることを理解し，物の見方を変えたり，視野を広げたり，コミュニケーションを豊かにしたり，行動の選択肢を増やしたりすることなのである．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114087606324218429?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114087606324218429/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114087606324218429&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087606324218429'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087606324218429'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/2_114087606324218429.html' title='犬との暮らしのパラダイム　(2)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114087601930981920</id><published>2006-02-25T22:59:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T23:00:19.310+09:00</updated><title type='text'>犬との暮らしのパラダイム　(1)</title><content type='html'>京の片田舎でマイクロファームを開き，Hiroさんが動物たちと暮らし始めて１年を過ぎた．&lt;br /&gt;これにはちゃんとした理由があるようで実は無いのだが，イギリスでボーダーコリーセンターを運営している Barbara Sykes 氏の影響が大きいことは確かだ．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;氏が提供するゲスト向けのサービスは，ちょっと変わっている．&lt;br /&gt;もちろん，しつけ相談など普通のメニューもあるのだが，メインは "シープドッグ体験" ．&lt;br /&gt;"講習" でなく "体験" なところがミソである．&lt;br /&gt;文字通り，犬と一緒に作業するということを，羊追いを介してゲストに体感してもらう．&lt;br /&gt;もちろん，コマンドやボディアクションも教えるけれども，決してそれが主目的ではない．犬の訓練でもないから，ゲストの犬ではなく熟練した彼女自身の犬を使う．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これだけでも十分ユニークだと思うのだが，最近，何をトチ狂ったか企業向けのコンサルテーション（研修）まで始めた．&lt;br /&gt;バリバリのビジネスパーソンやプロジェクトマネージャーたちに，チームワークとは何ぞや？コミュニケーションとは？なんてことを，犬との共同作業を通して説くのだそうである．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何考えてんだ，この人は？・・・と最初は思ったのだが，今は少しわかるような気がする．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114087601930981920?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114087601930981920/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114087601930981920&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087601930981920'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114087601930981920'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/1_114087601930981920.html' title='犬との暮らしのパラダイム　(1)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086727336594844</id><published>2006-02-25T20:33:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:34:33.366+09:00</updated><title type='text'>笑う人間</title><content type='html'>&lt;IMG SRC=http://www.bordercollie-mate.com/TAKUBO/column/sleepdogs.jpg ALIGN=RIGHT valign=top&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;我が家の犬は現在４頭です．&lt;br /&gt;夜９時を回った今，ストーブの前で３頭が惰眠をむさぼっています．&lt;br /&gt;もう１頭の子犬は，庭で 「部屋に入れて〜」 とヒャンヒャン喚いています． トイレに出した時，遊びに夢中で呼んでも帰ってこなかったので放ったらかしにされているのです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんなとき，３頭の成犬たちは子犬のことをどう思っているのでしょう？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;唐突ですが，動物の中で笑うことができるのは人間だけ．．．という説があります．&lt;br /&gt;確かに，他人のおかしげな様子を見てケラケラと笑えるのは人間の専売特許かもしれません．&lt;br /&gt;でも，この手の話には人間至上主義的な匂いがあって，これまではどうも肌に合いませんでした （実は "動物善良主義" も苦手ですが）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが，今は亡き中島らも氏が鋭くも看破したところによると，古今東西ありとあらゆる笑いの源泉は 「差別」 にあるんだそうです．&lt;br /&gt;つまり，いろんな笑いを分析していくと，共通項として残るのは 「俺はそんなバカしない」 「ああ自分でなくて良かった」 などの一種の優越感であるとのこと．&lt;br /&gt;なるほど，そう思って手持ちのジョーク集を見直してみたら，まさにそこは差別のオンパレードでした．&lt;br /&gt;男性，女性，年寄り，子供，政治家，タレント，偉い人，偉くない人，普通じゃない人，普通すぎる人・・・およそありとあらゆる人が差別され，笑い飛ばされています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　−動物の中で笑うことができるのは人間だけ−&lt;br /&gt;　−あらゆる笑いの源泉は差別である−&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この２つを素直〜に結びつけると，「人間は差別する」 ということになります． うんうんなるほど，これだったらしっくりきます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;差別というのが過激なら，「自分と他者とを比較する」 と言い換えても良いでしょう．&lt;br /&gt;とにかく人間というのは，相手が他人だろうが動物だろうが，自分と比較してユーエツ感やらレットー感やらを感じてないと気がすまない動物なのです．&lt;br /&gt;別にこれは悪い意味で言ってるのではなくて，例えばレットー感は頑張りの原動力になりますし，他人を気の毒がったり思いやったりすることだって，ユーエツ感の表現形の一つです．&lt;br /&gt;だから，ときどき心が苦しくなったりもするんだと思いますが，でも本当に差別の無い世界ができたとしたら，人間は退屈で死んじまうんじゃないかな？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それで，犬の話．&lt;br /&gt;犬が他犬と自分を比較しているか？　ユーエツ感やレットー感を感じているか？？　はたまた差別意識はあるのか？？？　&lt;br /&gt;本当のところはわかりませんが，多分，群として役割や順位はあったとしても，比較や差別は無いんじゃないでしょうか？　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば冒頭の場面，もし犬が 「かわいそうだから○×も入れてあげようよ」 なんて言い出したとしたら・・・，すごく嫌かも．（笑）&lt;br /&gt;「今，あんたは相手を心配して見せて自分の優位を確認する一方で，自分はこんなに思いやりのある犬なんですよとアピールしてるでしょ」 と，人間である私はすぐに勘ぐってしまうからです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん，部屋のあちこちで行き倒れている犬たちはそんなムダなことはしません．&lt;br /&gt;それぞれ，今の心地よい境遇を満喫するのに一生懸命です．&lt;br /&gt;外の子犬にしても，ただ部屋に入りたいから鳴いているのであって，差別されてるという意識は無いでしょう．&lt;br /&gt;だから，こちらも余計な気を使わずに済みます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;多分，私は動物たちのそういうところが好きなんだと思います．&lt;br /&gt;（これもユーエツ感なのかもね）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086727336594844?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086727336594844/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086727336594844&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086727336594844'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086727336594844'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/blog-post_114086727336594844.html' title='笑う人間'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086710994402315</id><published>2006-02-25T20:32:00.000+09:00</published><updated>2008-03-03T21:50:35.850+09:00</updated><title type='text'>コトバと情報と犬　(4)　−犬を観る−</title><content type='html'>　例えばここに 「ボーダーコリーは○○である」 と書いたとします．&lt;br /&gt;　○○に入るのは 「羊を追う」 でも 「ハイパー」 でも 「シャイ」 でも 「賢い」 でも 「ずるい」 でも 「面倒臭い」 でも，まぁ何でもいいんですが，とにかくそんな文句があるとして，これが一般に流通するようになるとどんどんそれっぽくなって，いつのまにかボーダーコリーの情報として定着します．&lt;br /&gt;　コトバとして発信された途端，そのときの状況やら雰囲気やら，何よりそれを言った人の 「思い」 までもが，ごっそり抜け落ちてしまうのに，，，です．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ボーダーコリーというか犬と暮らす上で情報は確かに貴重です．それらを知ろうとしないとうのは飼い主としての怠慢とさえ言えるでしょう．でもその一方で，それを知ってたからといっても実際には屁の突っ張りにもならない，ってのは言い過ぎだとしても，あんまりそれに自信持ってもなぁ〜，とも思うわけです．&lt;br /&gt;　犬は一頭一頭違いますし，また自分も犬も状況も，刻一刻と変わっていくんですから．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　結局，色んな知識や他人のアドバイスがあったとしても，犬を目の前にしたときはそれらを一旦忘れて，自分で見て触って感じる（これに "観る" という漢字を当てはめてみました）くらいの気持ちが大事なんじゃないでしょうか． 「自分の犬に対しては自分が専門家」 というのは，きっとそういうことなんだと思います．&lt;br /&gt;　生き物どうしの出会いは一期一会．その瞬間瞬間にこそ意味があるのであって，だからこそ何物にも代え難い価値があるのでしょう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;−−&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　要するにこのヨタ話は，「コトバや知識に振り回されず，自分の犬を観る時間と気持ちを大事にしたいと思ったんだよぉ．．．」 って言いたかったわけです．付け加えれば，犬と何かをしようと入れ込んでいるときは，案外それが見えにくいのでは？ と感じていることも．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　たったそれだけのことを言うのに，何だこの回りくどい文章わ，，，と思った人は正しいです．&lt;br /&gt;　そう，それこそがまさにコトバの限界を証明しているのです．&lt;br /&gt;　決して決して私の説明が下手だと勘違いしないように． （キッパリ）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086710994402315?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086710994402315/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086710994402315&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086710994402315'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086710994402315'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/4_25.html' title='コトバと情報と犬　(4)　−犬を観る−'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086706783182251</id><published>2006-02-25T20:31:00.001+09:00</published><updated>2008-03-03T21:49:29.769+09:00</updated><title type='text'>コトバと情報と犬　(3)　−情報は不変−</title><content type='html'>　ちなみに，ここで "コトバ" と言ってるのは，意図を伝えるための話し言葉だけでなく，コトバで表現される情報一般を指しているつもりです．つまり，本やテレビや他人のアドバイスなどで得られる "知識" も含まれています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最近は犬に関する情報が増えました．りん姉を迎えた当時は例えば 「ボーダーコリーって何？」 と調べようと思っても手がかりが少なくて困ったものです．それから思えば，まだ充分ではないかもしれませんが，随分と状況は良くなってきたようです．&lt;br /&gt;　しかし，どうもこの情報やら知識やらが曲者ではないかと疑っています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「めまぐるしく変化する情報」 という決り文句まであるだけに，「情報は不変である」 なんて言うとわざと奇を衒ってるように聞こえるかもしれませんが，実はこれはとても当たり前のことです （ここ，実は養老孟司先生の受け売り）．&lt;br /&gt;　例えば目の前に一枚の葉っぱがあるとして，それを 「端の欠けた黄緑色の葉っぱ」 というコトバで情報化したとします．その瞬間，その情報自体は未来永劫不変のものになりますが，葉っぱそのものはすぐに変色して形を変えていきます．「ものは変化するが情報は不変」 なのです．情報はものが抽象化された記号に過ぎないから，，，なんだと思います．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　対照的に，物や概念は時とともに変化します．そしてその変化の激しいものの代表選手が生き物です．人間の身体の細胞は２ヶ月も経てばほとんど一新されてしまうのだそうで，定義によっては，２ヶ月前の自分は他人と言った方が良いかもしれません．それくらい激しく変化しています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　要するに 「生き物に関する情報」 は，激しく変化するものを変化しないもので表現しているわけですから，ウソとまでは言えないまでも，どこかに無理を孕んでいる可能性が高いのです．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086706783182251?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086706783182251/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086706783182251&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086706783182251'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086706783182251'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/3_114086706783182251.html' title='コトバと情報と犬　(3)　−情報は不変−'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086702735018667</id><published>2006-02-25T20:30:00.000+09:00</published><updated>2006-07-14T11:33:04.763+09:00</updated><title type='text'>コトバと情報と犬　(2)　−コトバの威力−</title><content type='html'>　で，コロッと話を変えて ”コトバ”について書きます．最近，人間ってコトバに頼ってるなぁとあらためて思うのです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人間の心には意識と無意識とがあって，意識は氷山の一角みたいなもので，それよりずっと大きいのが無意識の領域であることが知られています（どうやって較べるんだろ？）．しかし，人間の行動を決定しているのは，少なくとも表面的には意識です．そしてその意識がもっぱら頼りにしているのがコトバです．&lt;br /&gt;　よく，英語に慣れた人が 「一人で考え事するときも英語で考えてんだよな〜」 なんて嬉しそうに言ってますが，まさに意識がコトバで考えていることを示しています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　確かにコトバは強力です．状況，景色，事象，思考，感情，論理，，，およそありとあらゆることが表現できます（逆に考えれば，人間はコトバで表現できるものしか認識していないから，と言えるかもしれませんが）．&lt;br /&gt;　コトバに弱点があるとすればその伝達効率でしょう．百聞は一見にしかずと言いますが，例えば絵画の内容を伝えようとすると，絵を相手に見せれば一瞬で事足りますが，口で説明すると何百何千ものコトバを費やさないといけない．あくまでコトバは事象や論理の一端だけを抽象化した記号に過ぎない，ということなんでしょう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人間がここまで文明を築いてこられたのは，間違いなくコトバのおかげです．でも，もしその進歩に限界があるとすれば，それもやっぱりコトバのせいだろうと考えています．&lt;br /&gt;　 「個を見て全体を見ない」 というのは人間の考え方の短所の一つだと思いますが，まさにコトバの性質がそのまま反映されているのではないでしょうか．（逆に言えばそんな不完全なコトバだからこそ，大切に扱わなくてはいけないのでしょう．）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一方，犬のコミュニケーションは基本的にマルチモーダルです．声だけでなく姿勢，視線，耳，尻尾，被毛，呼吸，匂い，，，色んなチャネルをいっぺんに使ってメッセージを伝えています．私たちはコトバを使って自分の意図を犬に伝える（押しつける？）ことには真面目に取り組みますが，彼らからのメッセージはなかなかわからないし，あまりわかろうとしていないように思えます．&lt;br /&gt;　そして多分，マルチモーダルな情報を理解するためには無意識領域も動員して高速並列処理する必要があるのですが，それが意識＝コトバ優位の脳になってしまった人間には結構難しいことなのです．私たちは普段，無意識＝身体からたくさんの情報を得ていますが，意識の世界に持ってくる過程でそのほとんどを切り捨ててしまうからです．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086702735018667?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086702735018667/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086702735018667&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086702735018667'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086702735018667'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/2_114086702735018667.html' title='コトバと情報と犬　(2)　−コトバの威力−'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086698484056373</id><published>2006-02-25T20:29:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:29:44.840+09:00</updated><title type='text'>コトバと情報と犬　(1)　−犬と一緒に何もしない−</title><content type='html'>　２年ほど前のある日，りん姉といつもの遊び場に行ったときに，ふと 「何もせんとこ」 と思い立ち，犬を放してボーッとしてたことがあります．&lt;br /&gt;　その頃はと言えば，気軽にできるし犬も喜んでると思っていたので，遊びに行くと決まってボールやフリスビーなどのレトリーブ遊びをしていた時期です．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　何でそんなことを思い立ったのかというと，どこかで 「動物はとてもシャイでデリケート．彼らと会話するコツは，相手から話し掛けてくれるのを辛抱強く待つこと」 みたいなことを聞いたことがあって，それが頭の隅っこにでも残っていたのかもしれません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　結果は驚きでした．たった数分の間でしたが，りんはいつもとまったく違うことを語りかけてきてくれたのです．．．な〜んてのはウソで，彼女は匂いとりと草食いに忙しくて会話どころではありませんでした．&lt;br /&gt;　ま，勝手にそんなことを思い立って何かを期待するのは虫が良すぎるってもんですね．きっと日常生活の中でそんな時間と気持ちを持てるかどうかが問題なのでしょう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そのときの意外な発見はむしろ自分の感覚でした．&lt;br /&gt;　広い場所に犬といて何もしないでいると，妙に手持ち無沙汰で居心地が悪い．&lt;br /&gt;　今は慣れましたが，その頃は物を投げないというただそれだけのことに，随分と精神力がいったものです．一度 「犬と一緒に○○をする」 ことを覚えてしまうと，今度は 「何もせずただ一緒にいる」 ことが難しくなる，ということかもしれません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　他と較べても，犬はとても人間に影響されやすい動物です．うちの犬たちを見てても，ときどき，気の毒になるくらい．（笑）&lt;br /&gt;　最近，道を踏み外して色んな家畜たちと一緒に暮らすようになってしまいましたが，家畜というだけあって，彼らも人間になついてくれます．でもやっぱり彼らは彼ら自身の世界で生きてるって感じです．&lt;br /&gt;　それに比べれば，犬はどうしようもなくこちら側の住人なんですね．それだけに，彼らのホンネが聞きたければ意識してそんな時間を作らないといけないようにも思えます．たとえ彼らの言い分はわからなくても，その気持ちを持つということ自体に何か意味があるような気がします．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　（犬の言い分を聞こうなんて，もしかしたら不遜で不健康なことかもしれませんから，とても人様に勧められることではありませんが．．．）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086698484056373?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086698484056373/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086698484056373&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086698484056373'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086698484056373'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/1_114086698484056373.html' title='コトバと情報と犬　(1)　−犬と一緒に何もしない−'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086673532897334</id><published>2006-02-25T20:25:00.001+09:00</published><updated>2008-03-03T21:47:41.350+09:00</updated><title type='text'>コドモ星人ひゅうまん</title><content type='html'>　前の記事では勢いで 「人間の精神は未熟」 なんて書いてしまいましたが，かなり本気でそんなことを考えています．なんでか？ ということなんですが．．． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　大体，人間の生き物としての特徴といえば，進化（生き残り）の方向として 「オツムと道具」 の発達を選んだことだと思うんですが，まぁ今のところそれが成功し，地球上でちょっとした繁栄を築いているわけです．&lt;br /&gt;　その一方で，そのオツムや道具を活用するために，人間はほとんど一生を 「学ぶ」 という作業に費やすことになりました．私たちが人間らしい生活を営むためには，いろんなことを習得する必要がありますが，これは 「ハイ，学校を卒業したから終わり！」 みたくお手軽なものではありません．この進化の道を選んだと同時に，この楽しくも重い宿題を背負ったのが，人間という生き物だと思うのです． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　問題はこの 「学ぶ」 という行為なんですが，これには優秀な記憶力とともに，モチベーションになる好奇心や，新しいものにチャレンジする冒険心などが欠かせません．そしてこれが，実はオトナの精神には不得意なことだと思うのです．オトナは，知識や経験を活用し，冷静な判断で安全を守ることには長けていますが，危険を伴うかもしれない新しいことには保守的になりがちです．他の動物の場合，生きるのに必要なことくらいは大体若いうちに習得できてしまうので，それでＯＫなのでしょうが，学ぶこと自体が生きる目的みたいな人間の場合，心まですぐにオトナになってしまうとマズイわけです．かくして私たちは，歳は食ってもコドモの心を持ち続ける動物になったのではないかと考えています． &lt;br /&gt;　人間の身体って体毛が少なくて頭が大きいのが特徴ですが，これをサルのネオテニー（幼児期の形質を残したまま成熟し，繁殖する現象）と解釈する説もあります．実は身体だけでなく，精神や心にもネオテニー的な現象が及んでいるのではないでしょうか？&lt;br /&gt;（と，ここまで書いてWebで 「ネオテニー」 を検索してみたら，身体だけでなくオツムのこともしっかり書いてありました．自分で考えたと思ってたのに，オリジナルでも何でもなかったわけですわ．．．） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　要するに，知恵に溢れた 「賢い」 生き物であるためには，精神はコドモっぽい方が都合良いのではないか？ということです．そう思って人間社会を見渡してみると，なるほどと思えることがいくつかあります． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　例えば，人間はお互いに殺しあう，ほとんど唯一の生き物だと思うんですが，これなんか，まさにコドモ的精神のなせる技だと思えるのです．子供は，自分勝手だし他人との境界もあいまいなのでしょっちゅう喧嘩します．幸い，それほど知恵や力が無いので大事には至りません．そして，大人になる頃には分別がついて，他人のことを尊重できる（あるいは，他人は他人と割切れる）ようになる．．．はずでした．&lt;br /&gt;　でも，コドモ心を多く残した人間にはちょっと無理があったようです．現在も世界のあちこちで紛争が続いているのは，いずれも複雑な理由があるのでしょうが，その根っこにあるのは，他人や他民族に対する過剰な感情とそれを抑制し切れない，私たちのコドモ的精神構造にあるのではないでしょうか． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もう一つ例に挙げたいのが，神さま仏さまです．神や仏はいろんな民族共通に見られる概念ですが，そのイメージには，父や母のそれがいつもついて回っているように思えます．イエスは包容力のある父，アッラーは規律に厳格な父，仏や阿弥陀様は無条件に包みこんでくれる優しい母，といった具合に．これなんか，オトナになり切れない人間の精神が，父や母を無意識に求めているからだと解釈できないでしょうか？　（その意味では，神や仏に母的イメージを求める社会の方が，父的なものを求める社会よりも，コドモ度が強いと言えるかもしれません） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　こう考えると宗教の救いを必要とするようなさまざまな人間の業．．．老いや死に対する恐怖，癒されない孤独感，果ての無い所有欲，他人や他民族への競争心や嫉妬．．．そんなことも全部，コドモ的精神に関係があるような気がしてきます．もちろん，そのプラスの面だって山ほどあるし，マイナスがあるからこそより良い暮らしを求めて発展していくのでしょうが．．．ああ，まさに宗教くさくなってきたので，この辺で止めますね． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　例によって今回も 「だから何なんだ？」 という感じの与太話なのですが，まぁ世の中では，そういうコドモ的動物である私たちが社会を作り，犬や子供を育てているわけです．ちょっとしたことで感情的になったり，相手の気持ちを考える余裕を無くすのも仕方がないように思えます．逆に考えれば，自分のコドモ的部分を自覚してそれをいかにコントロールしていくかが，子育て犬育ての極意ではないだろうか？．．．そんなことを考えたりしています．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086673532897334?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086673532897334/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086673532897334&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086673532897334'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086673532897334'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/blog-post_114086673532897334.html' title='コドモ星人ひゅうまん'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086678811073499</id><published>2006-02-25T20:25:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:26:28.113+09:00</updated><title type='text'>擬人化考</title><content type='html'>　犬を擬人化してはいけない・・・しつけ本の類にもよく書いてあって，あぁそうだろうなと思ってました． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　確かに，お飾りの洋服を着せたり，人間の食事を与えたり，毎日シャンプーしたり，あるいは犬には理由がわかりっこないのに怒りをぶつけるといった行為は，何だかんだと問題がありそうです（まぁ目を吊り上げるほど罪深いとも思えませんが）．こういうのを擬人化というなら，確かに 「いけないこと」 の部類に入るのかもしれません． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　でも，ありとあらゆる擬人化が悪いとも思えないのです．上のようなのを 「悪い擬人化」 と呼ぶとしたら， 「良い擬人化」 ってのもあるんじゃないか？ということを最近感じています．その一番良い例がコミュニケーションです． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　言葉が通じる通じないに関係なく，コミュニケーションの基本って，自分の出したメッセージを相手がどう感じたり解釈したりするかを想像することだと思うんです．もちろんその逆に，相手のメッセージにどういう意図があるのかを想像するってこともあるでしょう．そうしてわけがわからないなりにメッセージをやりとりしながら，相手の反応を見て，共有できる部分を少しずつ増やしていくことが，やがて相手を理解することにつながるんだと思います． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　要するに，コミュニケーションには相手の気持ちを推し量るということが欠かせないわけですが，これって何を手がかりにどうすればいいんでしょうか？　読心術みたいな超能力があれば別ですが，まぁ基本は自分の思考や感情を相手に投影する，つまり相手の立場に自分を置き換えてみるってことだと思います． 「自分がこういう風に言われたらどう感じる？」 とか 「自分がこういうことを言うとしたら，何を考えてるときだろうか？」 みたいなシミュレーションですね．これを 「共感」 ということばに置換えても良いと思うんですが，言ってみれば相手に共感することがコミュニケーションの基本だと思うわけです．そして，相手が違う生物種の場合，これって立派な 「擬人化」 なんじゃねーのか？ というのが私の考えです． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ただ，ここでさじ加減が難しいのですが，何でもかんでも自分に置換えて考えるのも，きっと × なんですよね．人間どうしでもそうですが，相手の背景や事情を考えずに自分の感情や考えを押しつけてしまうと，これは単なるジコチューやワガママや勘違い野郎になってしまいます．ここはやはり相手が犬という独立した生き物であることを肝に銘じ，犬としての考え方や習性を尊重することが大事なんだと思います．&lt;br /&gt;　ただ，そうやってお互いの違いを認識した上でやっぱりどこかで共感が必要なわけで．．．あー，もう，ややこしいのでやめますが，結局，コミュニケーションには犬の理解と良い擬人化の両方が必要なんではないかということです（どちらに重きを置くかは，人それぞれでしょうが）． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「犬の顔色を伺うなんざぁニンゲン様の沽券にかかわる！」 という考え方だってあるでしょうし，それが 「悪い」 なんて誰にも言えないはずです．ただ，せっかく何かの縁で犬という生き物と暮らしてるんだから，少しでも相手とわかりあえた方が得だとも思います． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「擬人化はダメ」 というセリフが決り文句になって，犬の心や感情をしん酌しないことが信念になってしまっては，本末転倒とまでは言えなくても，ちょっと行き過ぎではないでしょうか．&lt;br /&gt;　そう言えばこの 「ことばが一人歩きする」 という現象，犬飼いの世界には多いような気がするんですよね．いや，反省も込めてですが．．．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086678811073499?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086678811073499/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086678811073499&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086678811073499'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086678811073499'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/blog-post_114086678811073499.html' title='擬人化考'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086667151806015</id><published>2006-02-25T20:24:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:24:31.520+09:00</updated><title type='text'>こんなリスペクト</title><content type='html'>　フツーに考えると，他の生き物に対するリスペクトとは，まずその生き方に干渉しないことになると思うんですが，こと犬に関しては，生活圏が重なる上に一部の意思疎通まで可能なだけに，これがなかなかに難しい．私たちにできることとしては， 「姿や習性をあるがままに尊重する」 というあたりでしょうか． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ただ，今の犬に関しては， 「そもそも人間が改造してきたんだから， 「あるがまま」 なんて意味が無いのだ」 という声もあります．&lt;br /&gt;　確かにそうかもしれません．&lt;br /&gt;　でもちょっと見方を変えれば，彼らも自分たちの子孫を残すために，進んで人間に近づき，容姿や習性を変えてきたとも考えられます．肉食獣として比較的貧弱な武器しか持たなかった彼らにとって，これが生き残りをかけた懸命の戦略だったのかもしれません．もしそうだとすれば，人間と暮らすことが彼らの戦いであり，それを被害者として決めつけてしまうのは，実は不遜な態度という気がします．一見，人間に依存しているように見えても，立派に独立した生き物には違いありません． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　犬は，ときとして哀しいまでに従順です．暴力をふるわれてもその飼い主を慕いますし，飼い主が望むとあらば，自身の身体を傷めても献身を厭わないでしょう． &lt;br /&gt;　これは人間という，頭が良くて情にもろい反面，気分屋でときに酷薄な生き物と暮らすために，彼らが身につけた武器なのかもしれません．愛と忠誠を一方的に証明し続けなければ，この気まぐれな生き物があっさりと背を向けてしまうということを，彼らは骨身（DNA）に染みて理解してきたのでしょう．&lt;br /&gt;　なんだかイビツで哀しい関係のように思えますが，それが，大きな力を持ちながら未熟な精神しか持てなかった人間の宿命という気がします． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　だとすれば，その一員として自分はどんな面を下げて犬とつき合えばいいのか？&lt;br /&gt;　これが悩ましいところです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　で，あれこれ考えたんですが，結局のところ，自然体でつきあうしかないのかなぁという気がしています （なんや，それわぁ）． 「人間様がご主人だ」 と力んでみせるのも滑稽ですし，逆に同情するというのも，（戦士に対して）ふさわしい態度とは思えません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　現在，人間が犬に対してしていること．．．その中には随分と過酷なこともあるでしょう．でも，それをとやかく言う 「理屈」 を私は持てません （ 「感情」 はあるけど）．第一，自分だってその一人かもしれません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ただ個人的には．．．個人的にはですよ，何をするにせよ 「犬のため」 とか 「犬が喜ぶから」 という言い方（言い訳？）はしたくないなぁと思っています．カッコつけて言うと，人間と犬との関係にある哀しみみたいなものを，いつもきちんと意識していたいと思っています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして他人はどうあれ，自分が一番良いと思える関係を自分の犬と築いていく．．．今のところこれが，私にとっての犬族へのリスペクトです．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086667151806015?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086667151806015/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086667151806015&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086667151806015'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086667151806015'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/blog-post_25.html' title='こんなリスペクト'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086661771722825</id><published>2006-02-25T20:23:00.000+09:00</published><updated>2008-03-03T21:46:36.142+09:00</updated><title type='text'>あんなリスペクト</title><content type='html'>　最近， 「リスペクト」 ということばを，ちょいちょい耳にするようになってきました． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　辞書を引くと 「尊敬，尊重，敬意，重視」 などの訳語が並んでいます．&lt;br /&gt;　先日も，あるバラエティ番組の若手コメディアンが，ムチャを要求するスタッフに向かって 「いろもんリスペクトは無いんかい！！」 って叫んだのを聞いて，ちょっとびっくりしました．日本語としても定着しつつあるらしい． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ちなみに，犬の世界で初めてこのことばに出会ったのは，このサイトでも紹介しているバーバラ・サイクスの文章にあった "control with respect" というフレーズでした．犬と人間がお互いを尊重する．．．犬が人間に敬意を払ってわきまえる．．．相手のことを大事に考える．．．簡単なようでもあるし，とても難しいようでもあるし，なかなか奥の深いことばだと思いました． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これから，自分にとってこれが犬との暮らしのキーワードになりそうな予感がするんですが，それがなんなのか，もう少し考えてみたくなりました． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　唐突ですが，私の生き物観には結構殺伐としたところがあります．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　すなわち，およそこの世で生きとし生けるもの，みんな自分の子孫の繁栄を願って，地球上で懸命の戦いを繰り広げている．．．そんな感じです．あ，別に殺し合いをしてるという意味ではないですよ．それぞれの生き物がそれぞれの方法で，一生懸命に種の未来を切り拓いている，という感じです． 「他の生き物のことなんか考えていられない」 というのが，正直なところではないでしょうか． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「そうでもないよ．少なくとも私たちの良心は共存共栄を望んでいるし，絶滅しそうな動物の話を聞くと胸が痛くなるもん」 という声も聞こえてきそうですが，これは，豊富な生物種のバラエティがないと自分たちも生き延びられないということを，私たち人間も身体の奥深いところで理解しているためかもしれません． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　何を言いたいかというと，要するに生き物というのは，戦いの場を共にする戦友みたいなもんではないかと思ってるわけです．そして，そういう関係だからこそ，リスペクトが生まれるんではないかと．&lt;br /&gt;　例として変かもしれないけど，戦場では敵とか味方とか関係なく，敬意を表する精神ってありますよね？　私の想像するリスペクトって，この感覚に近いものがありそうです． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;続く&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086661771722825?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086661771722825/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086661771722825&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086661771722825'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086661771722825'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/blog-post.html' title='あんなリスペクト'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086655910610601</id><published>2006-02-25T20:22:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:22:39.106+09:00</updated><title type='text'>犬好き DNA　(2)</title><content type='html'>　以上は，もちろん根拠も証拠も無い想像上のお遊びです． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　でも，同じ犬飼い（犬好き）でもA人種，B人種の区別が存在するというのは，いろんな人と話をしてきて，なんとなく感じるところです．この両人種が犬の話をすると，どうしても議論がすれ違ってしまいます．たとえ表面的には同じ内容を語っているようでも，心情といおうか，基本的な態度みたいなところで，なかなか埋めることのできない溝があるからです（別に埋める必要など無いかもしれませんが）．逆に同じ人種同士の会話だと，意見は違っていてもそういった違和感は存在しません．意見を交換してお互いの考え方が理解できたとしても，このへんの感覚まで共有することは，なかなか難しいみたいです．だから，遺伝のレベルで，すでにどこか違いがあるのではないかと，屁理屈をくっつけてみたわけです． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もちろん，嗜好や好き嫌いには学習とか経験などの影響が大です．でも例えば，ほんの２〜３歳の子供でも，犬を怖がる子とそうでない子に分かれることや，「メロメロの犬好き」 の大人でも，小さい頃に犬に襲われて怖い経験をした人が案外多いことを考えると，経験だけではないもっと根深いものを感じてしまいます． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　A/B人種の見分け方？&lt;br /&gt;　人間には知識とか理屈とかがあって，嗜好や態度にもいろんなフィルターがかかってしまうので，これはなかなか難しい．でも例えば， 「しつけ上良くないと頭ではわかっていても，どうしても犬を寝床に入れてしまう」人．．．これなんかB人種に近いと思われます．こういう人は，人間同士より，むしろ毛皮動物と触れ合って眠る方が安心できてしまうんじゃないでしょうか．これを心理実験で確認した例もあるそうです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　高齢者や精神障害者の施設なんかでは，ほとんど感情を表すことがなくなり，自分の世界に閉じこもってしまう人の話を良く聞きます．その中で，いわゆるセラピーアニマルたちと触れ合うと，急に心を開いて人間らしい表情を浮べる人たちもいます．こういう人たちも，実はB人種なんではないかと思います．逆にもしそうだとすると，効果の無い人（A人種）もいるはずであり，一度，現場の人に確かめてみたいところです． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しつけの方法論やテクニックを重視するのは，どちらかというとA人種かもしれません．B人種は， 「一緒に暮らしてれば相手の気持ちは何となくわかるさ」 くらいに思ってるので（思い込んでるので），その辺がついつい良い加減になってしまいます． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もちろん今回も， 「どちらが良くてどちらが悪い」 という話ではありません （これだけは，しつこく念を押しとかないとね！）．ただ，議論が紛糾したときなんか，こんなことをチラリと意識してみると，案外，相手の考えにシンパシィを感じるかもしれません．&lt;br /&gt;　また，いわゆるしつけ本の類を読むと， 「自分のライフスタイルとその犬種が合っているか，あるいは，自分は犬と何をしたいか／どんな関係になりたいかを，犬を迎える前に十分に考えましょう」 なんてアドバイスをよく目にします．そのついでに，自分は犬に対してどんな感覚を持っているか，どんな人種なのかを振りかえってみるというのはどうでしょうか？　A人種向け，B人種向けの犬種ってのもあったりして．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086655910610601?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086655910610601/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086655910610601&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086655910610601'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086655910610601'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/dna2.html' title='犬好き DNA　(2)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086649861115639</id><published>2006-02-25T20:21:00.000+09:00</published><updated>2008-03-03T21:44:43.081+09:00</updated><title type='text'>犬好き DNA　(1)</title><content type='html'>　ちょっと危ない領域になるかもしれない．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　 　世間には，犬好きと犬嫌いとかいう分類があって，犬を飼ってる人は，自動的に犬好きというレッテルを貼られてしまいます．それはまぁいいとして （ほんとはよくないんですが），最近感じるのは，犬飼いの中にも２つの 「人種」 があるのではないか，ということです．どんな？ というのを言葉で説明するのは難しいのですが，例えを並べてみると， &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　［しつけや服従に厳格］←→［あまりこだわらない］&lt;br /&gt;　［犬を "飼う" 感覚］←→［犬と "暮らす" 感覚］&lt;br /&gt;　［犬といると緊張する］←→［だらけてしまう］&lt;br /&gt;　［犬を制御しようとする］←→［犬とかけ引きしようとする］&lt;br /&gt;　［犬とは１頭ずつ相手したい］←→［群の中にいるのが好き］&lt;br /&gt;　　　　・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;という感じです．&lt;br /&gt;　仮に左側をA人種，右をB人種と呼ぶとすると，２つの人種間の犬に対する態度や考え方は，かなり異なるような気がします．こういう違いがどこからくるのか．．．以下のように考えてみたんですけど，どうでしょうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　基本的には，A人種の人は犬に対して身構えるような印象があります．考えようによっては，これは人間のごく自然な反応かもしれません．この態度が，人間が 「牙を持った大型４つ足毛皮動物」 に対して抱く，潜在下の 「怖れ」 の感情（が形を変えたもの）とも解釈できるからです．なんせやつらは，道具や武器を獲得するまで，人間（類人猿）にとって命の脅威でしかなかったでしょうから．逆に恐怖したからこそ，用心深く生き延びることができ，また知能や技術も進歩したに違いありません．その経験が，種共通の記憶として，今も DNA のどこかに刻み込まれているとしても，不思議ではないと思います．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　では，B人種は何者なんでしょう？　ここでは，それが人間と犬との出会いに関係すると考えてみました．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人類の遠い祖先の中に，自分たちの残飯を狙ってうろついていた狼を利用しようとしたグループが現われました．彼らは，狼が恐ろしい他の猛獣の見張り役やボディーガードになってくれることを感じていました．やがて２つの生き物は食べ物を分け合い，一緒に暮らすようになりました．グループの中で母性愛が強いメンバー（多分女性）は，狼の子から特に人懐こい子を選んで，自分たちで育てようとまでしたでしょう．人間と犬との出会いって，こんな感じだったんではないでしょうか？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　数年前に少し流行った 「利己的な遺伝子」 みたいな考え方をすると，自らのコピー（血縁関係の子孫）の繁栄のため， 「４つ足毛皮動物と暮らす」 戦略を持った遺伝子があったということになります．この遺伝子に操られる人は，自分に懐いた動物といることに，恐怖より安心感を覚えたはずです．特に，目の効かない夜間や無防備な就寝の時間には，半ば切ない思いで，毛皮をまとった俊敏な身体との接触を求めたのではないでしょうか？　（一方，狼の遺伝子の中にも，「２本足の頭の良い動物と暮らす」 戦略を選んだものがあり，それが人間をリーダーと見なすように指示し，姿や習性を人間好みのものに変えていった・・・と解釈できます） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　B人種の祖先は，こういう遺伝子をもったグループだったのではないかと想像します．当初，B人種遺伝子は，人類の中でごく少数派だったかもしれません．しかし，狼との共同生活で猛獣の脅威から身を守る術を身につけ，ついでに狩の成績まで上げることに成功し，徐々に数を増やしていったことでしょう．もし，その状態があと何千年か続いていれば， 「狼と暮らす派」 が多数派になっていたかもしれません．ところがやがて，人類は武器や道具で自らを守ることを覚え，生き延びる上でA人種の不利は無くなりました（あるいはA人種も，学習や模倣によって狼族と暮らすことを覚えたかもしれません）．そして，両人種ともめでたく繁栄することになったわけです． &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(2)に続く．．．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086649861115639?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086649861115639/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086649861115639&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086649861115639'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086649861115639'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/dna1.html' title='犬好き DNA　(1)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086643630378196</id><published>2006-02-25T20:20:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:20:36.303+09:00</updated><title type='text'>育てるということ　(5)　− さいごに −</title><content type='html'>　人間の場合， AC 的傾向が強い親は，第三者に対して閉鎖的でルールの多い，温かみや笑いの少ない家庭を作り勝ちです．そしてそんな家庭が，やはり AC 的性格の強い子を育ててしまいます．また，虐待や暴力で育てられた子は，それらを恐怖して感覚を鈍磨させる一方で，そういう関係を理想化するという困った性質を持っています．だからそういう子供は，成人してからカルト的な組織に耽溺したり，やはり暴力に支配される家庭を作る傾向があると言われています．アルコール依存症の父を持つ娘は，意識の上ではそれを嫌悪しながらも，やはりアル中っぽい性格の夫を選んでしまい勝ちです．そう，AC 的性格だけでなく，暴力や虐待そのものも世代を越えて伝播する性質を持っているわけです．始末の悪いことですが．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これがイヌにも当てはまるような気がします．私のせま〜い見聞の中でも，暴力的なボスの元ではその群全体が暴力的なルールで支配されているかのような印象を受けます．他人に攻撃的なイヌの飼い主は，やはりどこか他人に対して警戒しているところがあるように感じられます．逆に，大らかで自信を持っているボスのもとでは，群全体もなごやかな雰囲気になりますし，なんとなく暖かくてユーモラスな空気さえ漂っています．もちろん，私自身の先入観や思い込み，それにイヌそのものの個性もあるでしょうが，だいたいの傾向としてはそんなに外れていないと思います．&lt;br /&gt;　どんな群にしたいかは，個人の価値観の問題になるので，どれが良くてどれが悪いなんて言えません．でも，もしイヌと人間に共通する部分があるとすれば，適切な母性と父性に育てられなかった子は，辛い生きにくさを背負っているのではないでしょうか？　飼い主や他人や他イヌへのヒステリックな攻撃．．．このうちのいくらかは，うまくオトナになれなかったイヌからの，心の悲鳴なのかもしれません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　 　人間どうし一緒に暮らしていれば，たとえ１日数時間の同居でも両者の性格は相互に侵入しあいます．イヌは全身で飼い主を見ています．しかも，ことばという変なフィルターを通さずに，気分や感情の動きを身体全体をアンテナにして感じています． 「イヌを見れば飼い主がわかる」 ということばもあります．犬の性格が飼い主の性格，特に無意識の領域のそれを反映したとしても，全然不思議ではないと思います．&lt;br /&gt;　というわけで，まったくもって独断的なことを，ノンノンシャンシャンと書き連ねてきました．特に後半は 「これが正しいのだ」 なんて主張するつもりは毛頭ありません．独り言みたいなものだと思ってください．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　まぁ，最後にざっくり言ってしまえば， 「イヌも子供も育てるのことの本質は同じ．母性と父性が機能することが必要だし，何よりも，育てる側が オトナ でないと難しいのでは？」 ということを言ってみたかったわけです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんなけ！&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086643630378196?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086643630378196/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086643630378196&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086643630378196'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086643630378196'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/5.html' title='育てるということ　(5)　− さいごに −'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086639800888432</id><published>2006-02-25T20:19:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:19:58.010+09:00</updated><title type='text'>育てるということ　(4)　− 人とイヌと父性 −</title><content type='html'>　ああ，やっと人とイヌの話にたどり着けました．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　大抵の場合，７〜８週目くらいからイヌは飼い主のもとに移ります．これは，ちょうどイヌの行動範囲が群の中に拡大する頃です．したがって，ここで子イヌが出会うべきなのは，母性よりも父性ではないかと想像できます．つまり，本来の群に代わってルールや掟を教えてくれ，外の世界に導いてくれるとともに，自分を守ってくれる新しい群です．もちろん，デジタルの世界ではありませんから， 「昨日まで母性，今日から父性！」 なんて杓子定規に行くはずはありません．イヌの心の発達に対して，父性の役割の比重が段々に増してくるだろう，くらいの意味です．そして，その安心感の核になるべきものが，先に書いたような資質を持ったボスなんではないかと思うわけです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　 　繰り返して言いますが，母性が不必要というわけではありません．特に子イヌが小さいうちや迎えたばかりの頃は，包み込むような温もりも大事でしょう．ただし，多過ぎる母性がイヌの心の成長を妨げる可能性はあると思っています．&lt;br /&gt;　またちょっと，人間の話に戻ります．&lt;br /&gt;　先に，年少期の母性の不足が心の成長に悪影響を及ぼすと書きましたが，その反対に，母性が濃厚過ぎても害があります （むしろ日本の機能不全家族は，こちらの方が多数派と言われています）．よくあるのは，［夫の存在感が希薄，あるいは不和］ → ［夫や外の世界にも向けられるべき母の関心が，子供に集中する］ → ［不幸そうな母を子供がかばおうとする］ という図式から，いわゆる 「母子カプセル」 なるものが形成されてしまう，というパターンです．こういう中で子供が成長すると，幼児的な万能感はありますが，一人立ちのできないイビツな精神が形成されていきます．これは，当人にとっては母親の自我に飲み込まれてしまうような恐怖でもあり，母親に対する暴力や，極端な場合にはその命を奪うような事件にまで発展することがあります．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　イヌの場合は，無意識レベルでそこまで深い相互作用は無いかもしれませんが，似たような状況はあるかもしれません．あまりにも家族や飼い主の関心がイヌに集中し，その一挙一動が見られているような感じになると，守られている安心感はあるかもしれませんが，自分を見失うような感覚にもなるんではないでしょうか？　イヌといえども，ある程度の自立のためには，ちょっとは一人でものを考えたり，自分の世界を持つ時間が必要なんではないかと思います．全部がそうではないでしょうが，いわゆる 「権勢症候群」 というやつの何割かは，人間で言う幼児的万能感（よーするにワガママ）の表われではないかと思っています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もし，この段階で多く求められているのが父性だとしたら，飼い主は厳しさと寛大さの両面を持っており，なにより揺るがない自信を持った大きな存在でなくてはいけません．まぁ，そう言うと大層ですが，そこまで力を入れなくても人間が普通に接していれば，イヌからは自然とそんな風に見えるのかもしれません （ゴハンくれるしね！） ．ただ，四六時中べったりと過ごしたり，細かいことにイチイチ腹を立てたりすると，イヌも息苦しくなってくるかもしれません．また，暴力で服従を強いたりすると，イヌの自信を無くさせたり，感受性を鈍磨させてしまうことにもつながるでしょう．さらに，自信の無い態度でイヌを混乱させたり，イヌの反抗(?)にオロオロしたりすると，今度は群でいること自体が不安になり （野生であれば，このボスに従っていたんじゃ自分の命が危ない．．．という恐怖），どこかで歯車が狂ってくるかもしれません．人間にも残されているはずの動物としての能力を信じて，まずは自然体で接するのが大事なのではないでしょうか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＜続く＞&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086639800888432?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086639800888432/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086639800888432&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086639800888432'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086639800888432'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/4.html' title='育てるということ　(4)　− 人とイヌと父性 −'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086634784211133</id><published>2006-02-25T20:18:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:19:07.843+09:00</updated><title type='text'>育てるということ　(3)　− イヌの場合 −</title><content type='html'>　さて，前半は本からの受け売りでしたが，後半は，単なる個人的な妄想です （ ← まさに与太話！）．ぶっちゃけて言ってしまえば，人もイヌも同じと考えたらどうだろうか？って思ってみたわけです．根拠は無いです．でも，両方とも群で暮らす雑食性の哺乳類ですから，共通する部分が多くても不自然ではないように思えます．実際，ゴリラやチンパンジーでは，人とすごく近い精神形成のプロセスを持っていると言われています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　 　まず，赤ん坊が生まれて最初に抱かれる感覚．これはイヌで言えば，おっぱいを求めてお母さんのお腹に顔をうずめる感覚になるでしょうか．イヌの本を読むと，７〜８週目くらいまでは，子イヌは母イヌと兄弟の中で暮らすべきだとされています．その理由としては， 「親に守られる経験や兄弟間の遊びを通じて，最初の社会化を学ぶこと」 が挙げられています．これは，幼児が身体感覚を通して母性愛を受け取るプロセスに似ているように思えます． 「７〜８週以前に親元を引き離すと攻撃的なイヌになりやすい」 と言われます．この時期に包まれるような安心感を十分体験できず，自分を愛する能力を育てられないのかもしれません．それが自分に対する自信の無さにつながり，必要以上に他のイヌや人へのガウガウにつながる．．．こう考えると，生まれて１ヶ月くらいでペットショップに出すような行為は，すごく危なっかしいことのように思えてきます．&lt;br /&gt;　ちなみに， 「兄弟のプロレス遊びを通じて，相手が痛がってるのを見て加減を覚える．だから，兄弟から早く離すと攻撃的になりやすい」 という解釈には，個人的にはどうもスッキリしないところもあります．噛む加減なんて，ほんとに試してみないとわからないものなのかなぁ？って．私も人を殴るとしたらその目的によって手加減するでしょうが，それは子供のときに他人の反応で試したからだとは思えません．まぁ，どっちでもいい話かもしれませんが．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その後，イヌは少しずつ，母イヌの懐から外の世界に出ていき，そこで，母兄弟以外の群と交わることになります．そこで，しだいに群として迎え入れられ，他の成犬たちから教育を受けたりします．この群の中にいれば，子イヌは外敵や餓えから守られるわけであり，おっぱいにむしゃぶりつくのとは別の安心感を体験します．私は，これが人間で言う父性の役割を果たしているんではないかと想像しています．掟やルールを教えつつ，未成熟な個体を（身体的にではなく，存在として）大きく包み込んでやるというのは，まさに父性の機能だと思います．そして，その代表的あるいは象徴的な存在が，ボスなんではないでしょうか．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　したがって，ボスの条件としては 「力が強くて頭も良い」 ということもあるでしょうが，むしろ群のメンバーが求めるものは，どんな敵や災難が襲って来たとしても，このリーダーに従ってさえいれば大丈夫だという，大きな安心感なんではないかと思います．だとすると，冷静な判断力や落ち着き，さらには自信に満ちた態度などが，ボスの資質としては欠かせないということになります．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＜続く＞&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086634784211133?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086634784211133/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086634784211133&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086634784211133'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086634784211133'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/3.html' title='育てるということ　(3)　− イヌの場合 −'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086630446843963</id><published>2006-02-25T20:17:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:18:24.470+09:00</updated><title type='text'>育てるということ　(2)　− 人と父性 −</title><content type='html'>　こういう人たちのことを，オトナになり切れていないという意味でしょうか， AC（アダルトチルドレン）と総称することがあります．例えば，他国や他人の目をすごく気にするのは日本人共通の性癖でもありますが，言ってみれば日本人全体に，軽い AC 的な傾向があるのかもしれません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　 　ただ，育てることが母性だけでカタがつくかというと，話はそう簡単でもありません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　まっサラな赤ん坊が母性の中だけで成長すると，幼児的な万能感みたいなものから抜け出せなくなってしまいます．これは，世界が自分中心に回っているような感覚で，よーするに根っからの，それもガラスのように傷つきやすいワガママになってしまうわけです．生まれてきたばかりの赤ちゃんって， 「自分はみんなから愛されて当然」 みたいなゴーマンな顔つきしてますよね．あの感覚がいつまでも続いちゃうわけです．一時流行ったピーターパン症候群とやらも，この一症状かもしれません．&lt;br /&gt;　これを防ぐには，誰かが 「この世にはルールっちゅうもんがあるんや」 みたいなことを，これも感覚として教えてやる必要があります．あるがままで受け入れるのが母性の役目なら，このワガママな怪物に限界を設定するのは父性の役割です （ちなみに，母性＝母親，父性＝父親という意味ではありません．その逆であってもいいし，他人でも一人二役でも良いわけです） ．別の言いかたをすれば，母性にヌクヌクと包まれた子供を，適当な時点でそこから切り離してやるのが父性の役目です．そして，限界を設定することで子供に欲求不満を起こさせ，そのパワーをバネに親離れを促し，無事社会に放り出してやることが，育ての親の最後の努めということになります（思春期の子供に親父が煙たがられるというのは，まぁ正常ってわけです．哀しいことですが．．．）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　すなわち， 社会で生きていく能力を養うためには，母性と父性の両方が必要ということです．また，子育てという観点から見れば， 「母性愛」 「限界設定」 「親離れの促し」 が，（これさえできれば他の些細なことはどーでもええっちゅうくらい大切な）その３本柱ということになります．もちろん，生き物相手の話ですから，一から十まで判を押したようにはならないのですが，基本はそういうことです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ところで，ここの文章はあえてヒトゴトのように書いてますが，私も（そして私の母も），どちらかといえば AC 的性向が強い方だと感じています．もっとも，ただそれを悲観してるわけでもありません．まずはそういう自分を受け入れ，それをちゃんと認識した上で，乗り越えるなり利用するなりしていけば良いと思っています．かのクリントン前大統領の女クセの悪さも，出生の事情から来る AC 的性格の現われだと思われます．ただ，彼は自分自身を AC と認めて広言するという勇気ある行動に出ました．それが逆に，彼の社会的な成功のバネにもなっているのでしょう．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ん〜，悪い癖でなかなかイヌの話に行きつけません．&lt;br /&gt;　また，次回以降というわけで．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＜続く＞&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086630446843963?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086630446843963/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086630446843963&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086630446843963'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086630446843963'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/2_25.html' title='育てるということ　(2)　− 人と父性 −'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114086618015153341</id><published>2006-02-25T20:15:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:16:20.160+09:00</updated><title type='text'>育てるということ　(1)　− 人と母性 −</title><content type='html'>　「犬とのくらし」 なんてことにこだわる自分は，当然のことながら，依存とか嗜癖傾向の強い性格なわけです．特定の対象への執着が強い一方で，社会的な関わりとか人つき合いには，そこはかとなく 「生きにくさ」 を感じてたりします．こういう性格がどこから来てるのか．．．まったくの興味本位ですが，いくつか本を漁ったりしてきました．そうやって聞きかじったことを，まぁ一つのお遊びとしてですが，強引にイヌの話に結びつけてみようと思います．&lt;br /&gt;　まずは，人間のはなし．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　普段，私たちは 「社会的な動物」 として，人との関わりの中で暮らしています． 「自分の欲求を満たしながら，他人とうまくやっていく」 「一方では競争しながら，一方では共感して肩を抱き合う」 なんてどう考えたって至難の技を，シラっとした顔で実践しているわけです．&lt;br /&gt;　ただ，この技は，全部が全部生まれつき備わっているわけではありません．社会で暮らすこと自体が，人によっては大変な苦痛になることだってあります．オギャアと生まれてからオトナになるまで，私たちはこの能力を少しずつ養っているわけです．（ちなみに，私のオトナの定義は， 「自分なりの価値観を持ち，他人と対等で親密な関係が持てる能力を持った人」 みたいなところです）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人が独立した人格として他人とうまく関わっていくためには，心の奥底に自分を認める感覚を持つことが欠かせません．言いかえれば， 「自分は世の中で必要とされ，あるがままで受け入れられる存在なんだ」 という感覚です．理屈ではなくて，あくまで感覚です．これがどこから芽生えるかと言うと，まずは赤ん坊時代に親に抱かれたときの肌の温もりであり，さらには，年少期に与えられる無条件の愛（≒母性）からくる安心感だと言われています．（無条件というのもミソです． 「良い子にしてたら」 「勉強ができたら」 なんていう条件付きの愛や，自分の不幸の穴埋めのための押しつけの愛では，やはり子供は安心することができません．そう，子供はまず安心できなければならないのです）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　逆にいえば，十分に母性に受け止めてもらえなかった子供は，どこか自分の存在に不安を抱いています．そして，きちんと自分を肯定できないまま成長してしまうと，今度は他人も肯定できなくなります．これが，生きにくさの元凶です．他人を受け入れ共感できないこと．．．これは社会的動物である人間にとって，ものすごく過酷で辛いことです．他人に優しくなるためには，まず自分に対して優しくなれること．．．というのは，単なることばの遊びでは決してありません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分に対する不安というやつは，成長とともに意識下に押し込められます．でも，勝手に消えて無くなることはありません．その反動が，いろんな形の問題行動（薬物／アルコール／賭け事などへの依存，拒食／過食，非行，いじめ（いじめられ），不登校／出社拒否，引きこもり，自傷／自殺etc）や，鬱などの精神症状として表面化することがあります．ダメで価値の無い自分を罰したい，という無意識の願望がありますから，ともすれば自分自身を傷つけたり，わざと他人から罰せられるような行動に走り勝ちです （万引き常習犯の多くは，実は捕まることが目的なのです）．&lt;br /&gt;　まぁ，そこまで行かないとしても，こういう傾向をもった人は自分に自信がないので，他人の目や評価が過剰に気になります．自分が幸せかどうかより，人から見て自分が幸せかどうかを問題にします．いつも他人とつるんでないと不安です（でも，腹を割って自分をさらけ出せる友人はいません）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　また，自分に対する憎しみが，無意識のうちに他の対象に投影されることもあります．よくニュースになる小動物への虐待も，その何割かはこれが原因だと思われます．もっとも自分自身を投影しやすい対象は，何といっても自分の子供です．子供がかわいく思えるのは，自分がかわいいということの裏返しでもあるんですが，自分を肯定できていない人は子供に対して憎しみを抱くことがあります．これが，今流行り (?) の，幼児虐待の一因であると言われています．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＜続く＞&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114086618015153341?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114086618015153341/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114086618015153341&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086618015153341'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114086618015153341'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/1_25.html' title='育てるということ　(1)　− 人と母性 −'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114070984764454426</id><published>2006-02-24T00:50:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:16:43.136+09:00</updated><title type='text'>犬観 (2)</title><content type='html'>　それで，自分なりの犬観．．．というか，こんな関係になれたらいいな，ってやつですが．．．&lt;br /&gt;　一番根っこにあるのは，やっぱり，犬は犬として人間と区別したい（というか，むしろ一緒にするのは相手に対して失礼という気持ち）ということですが，かといって，上下や主従関係で安易にくくってしまうのも好きではありません．人間と犬とはそれぞれが独立した種であり，それだけでお互いに相手を尊重すべき関係である．．．気持ちの上ではそうありたいと思っています．人間から見れば， 「犬は犬であり，犬であるが故に敬意を払う」 というところでしょうか．もちろん，彼らにも敬意を持って欲しいですし，人間と暮らすことを選択したんだから，その暮らし方を覚えてもらうことくらいは，受け入れてもらわなければなりませんが．&lt;br /&gt;　これは，人と犬のどちらがボスになるべきか，という話ではありません．あくまで，気持ちの持ち方の問題です （もちろん，群としてボスは必要ですが，私にとってそれは上下ではなくて，むしろ役割分担だと思っています）．犬観という意味では，日本風にも欧米風にも，ちょっと違和感を感じます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　実は，こんなことを，子供の頃からボンヤリと考えていたような気がします．犬でも猫でも，毅然とした態度の子を見るのが好きでした．そんな彼らに相手してもらいたくて，いつも煮干を一握りポッケに忍ばせてたものです（これをうっかり洗濯機に入れると，無数の煮干片が洗濯物について，母親が怒り狂ったものでした）．いじめられたり，邪険な扱いをされて卑屈になってる犬に出会うと，かわいそうというより，悔しく思ったことを覚えています．なんだか，大切にしていたプライドが傷つけられたようで．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そんな偏った価値観の私ですが，最近になって知った牧羊犬の世界は，なかなか魅力的に映りました．&lt;br /&gt;　もともと，羊飼いは大変な重労働で，犬をことさら可愛がる余裕なんてなかったでしょう．彼らにとって犬は犬です．一つ屋根の下で暮らすわけではありませんし，餌だって粗末なものだったでしょう．でも，彼らの生活を支える犬の能力に関しては一目もニ目も置いています．牧羊犬に関する出版物やビデオを見ていると，その能力に対して，深い尊敬の念を抱いていた様子が伺えます（もちろん，そうでない人だってたくさんいたでしょうし，一部には犬を単なる道具と見なす風潮もあったとは思いますが．．．）．&lt;br /&gt;　「能力を愛する」 というのは，いかにも欧米風の考え方かもしれません．ただ，少なくともそこに関しては，犬を下に見ることはなかったはずです．生きるためにお互いがお互いを利用する．．．というのは，もともと犬と人間が出会った関係であり，自然界でもそれほど異常ではないと思います（少なくとも，一方が他方を保護して可愛がる，というのよりは自然なはずです）．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　犬と人間が向き合うと，どうしても人間から犬に指図することになり勝ちです．でも，彼らは同じ方向を向いて，一緒に仕事をしています．そういうことが理屈でも何でもなく，日々の暮らしの中で培われてきたのかと思うと，なぜかうれしくなってきます．犬が本当に幸せかどうかなんて，金輪際，私たちにはわかるはずないのですが，それでも彼ら（作業犬）は幸せだったんだろうな，って思ってしまいます．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　口を半開きにして眠りこけているやつらを見ていると， 「こんなやつが尊敬できるか！？」 という思いも頭をよぎります．でもまぁ自分もそんな偉いことをしてるわけでもないし，それに，動物として人間の方が優れてるところって，実はほんの数えるくらいしかないんじゃないだろーか，という気さえしてきます（比べても意味無いことですが）．&lt;br /&gt;　そもそも，犬という種が人間社会の中で暮らし，その上，どうやら自分たちに好意まで持ってくれている（らしい）．．．これだけでも，たいへんな奇跡だと私には思えます．人間族の一人としては，その奇跡に感謝して，犬と一緒の生活を楽しんでいきたいと思っています（←ちょっと神がかってきたゾ！）．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114070984764454426?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114070984764454426/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114070984764454426&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114070984764454426'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114070984764454426'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/2.html' title='犬観 (2)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-22901065.post-114070980101976877</id><published>2006-02-24T00:49:00.000+09:00</published><updated>2006-02-25T20:17:10.213+09:00</updated><title type='text'>犬観 (1)</title><content type='html'>　自分はどんな風に犬と暮らしたいと思っているのか．．．なんてしょーもないことをツラツラ考えることがあります．&lt;br /&gt;　犬を飼うことの価値観なんて，それこそ人それぞれでしょうから，基本的に 「あれが良くて，これがダメ」 なんてことは言えない世界ですね．もともと，犬を飼うことなんて，１から9.9くらいまでは人間の都合なんだから，自分で良かれと思うようにするしかないと思います．そりゃぁ，社会や自然（犬種も含めて）に影響が大きいような行為は，個人の勝手というわけにはいかないんですが．．．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　犬を飼うことの価値観を，自分では勝手に犬観と呼んでます．今まで，いろんな人のいろんな犬観に触れてきました．だからと言うわけではないですが，ここで，自分の犬観を整理しておきたいと，ふと思ったわけです（←平和だねぇ〜）． 「ヒマで死にそうや〜」 っていう人だけ，ちょっとつきあってやってください．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人の価値観には，自分の育った文化がすごく影響します．で，まず私たち日本人の犬観てどんなだろうと考えてみることにします．&lt;br /&gt;　まず私の印象にあるのは，日本人って身内意識が強いってことです．赤の他人にはなかなか気軽に声をかけられないですが，一旦相手が身内だと考えると，思いっきり気を許したりします．あうんの呼吸ってやつでしょうか．それで，一から十まで相手のことがわかったような気になれるんですが，一部でも意見が違ったりすると，今度はひどく裏切られたような気分になります．&lt;br /&gt;　身内の範疇以外の人に対してはどうでしょう？　その場合，今度は，相手が自分より上か下かを決めないと，どうも落ち着きが良くありません．成熟した大人の関係というものがあるとすれば，それには 「相手の人格を尊重し，対等の関係でつきあう」 ことが含まれると思うのですが，これが，私ら日本人にはなかなかに難しいことだったりする．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　例えば， 「身内」 の一番大きなくくりは，日本人ということになるんでしょうが，仲間外とのおつきあいである外交とやらを見ていると，先進国に対しては必要以上にへりくだる一方で，途上国に対しては居丈高か 「援助してやる」 という態度になってしまいます． へりくだらず，かつ相手を尊重した上で，自国の意見を堂々と主張する，というのとはちょっと違います． 「身内」 の単位は，地域，隣近所，会社，サークル，友達，家族，個人．．．それこそ無数に考えられますが，ことごとくそんな傾向があるような気がします．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それで，えーと，犬の話なんですが．．．やっぱり似たような傾向があるように思えます．犬を身内として見ないのは，むしろ人間として当たり前だと思うんですが，その結果，当然犬は下に見られます．昔ながらの 「犬畜生」 ってやつでしょうか．実は日本には，犬が人と適当な距離を置き，半分野生のままで人間社会の中をぶらぶらしていた時代があり， 「畜生」 的犬観はそれなりに良いバランスを持っていたわけです．やがて，日本でも犬が家庭に入ってくるようになったわけですが，この犬観はそんなに変わっていないようです．少なくなったとはいえ，相変わらず犬に対する社会的な偏見や蔑視が根強いのも，そのせいでしょう．&lt;br /&gt;　その逆ってのもあります．犬をものすごく可愛がる．．．これは，意識の中で犬が 「身内」 になったことだと思うんです．それはそれでメデタイことなのかもしれませんが，これがちょっと行き過ぎると，犬を擬人化し 「うちの子」 として猫かわいがりすることにつながります．そんなとき，意に添わない形で犬の本能がチラリと覗いたりすると，裏切られた気分になって逆上したりします． 犬を恐れず蔑まず，犬を犬として受け入れるのが難しいのは，私たち日本人が大人になり切れていない証拠なのかもしれません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もちろん，これが良いとか悪いとかいう話ではありません．そんな風な 「犬観」 が日本的な文化としてあるんではないか？ってだけです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　じゃあ，欧米風の犬観はどうでしょう？　よく私たちは，犬たちが社会に受け入れられているさまを見聞きして， 「欧米の犬事情は進んでるね」 なんて言ったりします． 「犬はパートナーである」 というのも，欧米で生まれた言い方でしょう．確かに，日本に比べて犬が一定の市民権を得ている．．．とは言えると思います．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ただ，彼らにしても，無条件で犬を受け入れるわけではありません．&lt;br /&gt;　欧米の価値観を考えるときは，やっぱりキリスト教の影響を無視することはできません．キリスト教では，動物は人間（＝神のしもべ）に統治される存在であり，人間に益する，あるいは仕えるものとして下に位置付けられます．犬がいくら真っ正直に生きたとしても，天国には行けないのです．また，人間であれば誰でも神に受け入れられるかと言えばそうでもありません．それには，神との 「契約」 を守る必要があります．&lt;br /&gt;　欧米社会を見てみれば，この 「契約」 的な考え方が隅々にまで浸透しています．その典型がカイシャの雇用でしょう．日本人がカイシャに入るときは，なんとなく「仲間に入れてもらう」 的な意識があるんですが，欧米では 「契約を結ぶ」 以外の何者でもありません（最近は，日本人の意識もだいぶ変わってきたようですが）．仲間社会 vs 契約社会，あるいは，母性原理の社会 vs 父性原理の社会と言えるかもしれません．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これが，人間と動物との関係にも当てはまるように思えます．すなわち欧米では，犬はあくまで犬なんですが，一定の 「契約」 さえ守れば人間のパートナーとして受け入れられます．すなわち，よく 「しつけ」 され，人間社会のルールを守るもの，あるいは役に立つものだけが，人間によって 「祝福」 されるわけです．純血種は，犬を人間好みの姿や性質に作り変えたものですが，こういった犬観のたまものと考えても不自然ではないでしょう．姿や性質を人間好みに変えた代償(?)として，犬も社会に受け入れられるのです．そのかわり，飼い主はパートナーの一生に責任を負うわけであり，これには安楽死といったつらい決断も含まれます．&lt;br /&gt;　それはそれで一貫した考え方かもしれません．ただ， 「人間に役立ってなんぼ」の考え方が行き過ぎると，犬を物や道具扱いすることにもつながります．クリスマスプレゼントに子犬を贈ったり，あるいはバカンスシーズンの終わりに犬を捨てたりする習慣も，この価値観とは無縁ではないと思います．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　念のため，繰り返しますが，これが良いとか悪いとかいう話ではありません．思うにそんな価値観なんではないか？ってことです．&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　あー，なかなか本論に辿りつけません．ここまで書いて，どっと疲れてしまいました．&lt;br /&gt;．．．ということで，自分の犬観については，次回に書くことにします（いつになるやら）．&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/22901065-114070980101976877?l=maro-s-tallstories.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/feeds/114070980101976877/comments/default' title='Post Comments'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=22901065&amp;postID=114070980101976877&amp;isPopup=true' title='0 Comments'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114070980101976877'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/22901065/posts/default/114070980101976877'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://maro-s-tallstories.blogspot.com/2006/02/1.html' title='犬観 (1)'/><author><name>hiro</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16249523427236028032</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry></feed>
