May 6, 2008

コトバで考える葦(4)

経験が教えるところによると,犬には何かをさせるより,させない(ことを理解させる)ことの方がはるかに難しい.「しないこと」を教えるときには,別の行動や考え方に置き換える方が話が早かったりする.
例えば「騒ぐな」は「座れ」とか「伏せろ」,「吼えるな」は「吼えろ」(=それ以外は吼えるな),「ソファに乗るな」は「君の居場所はこのタオルの上」とか「そのソファは俺んだから遠慮しろ」などなど...

ファームで家畜を世話しているとき,それをケージの中から見ている犬たちは大騒ぎだ.これを静めるために「ぎぶあっぷ」とか「びへいぶ」などとつい叫んでしまうが,犬たちがこれを「騒いではいけない」と理解しているとは思えない.一瞬静かになっても数秒後には元の木阿弥だからね.(それにしても,吼えると決まって不機嫌になる自分という人間は,彼らの目にはどう映っているのだろう?)

コトバを使わない犬たちには,否定の概念そのものが無いのかもしれない.だとすると,「させない」ことを理解させることは難しくて当然だし,それなりの工夫がいるのだろう.

だから,普段の生活で "No" を連発するよりは,それを言わずに済むように気を配ってやる方がTLCかもしれない.
犬をできるだけ自由にしてやるのは人道的には正しげに見えるが,犬道的にはどうなんだろう? 人の周りをうろついて "No" の集中砲火を浴びるよりは,安全を保障された自分の場所で落ち着いている方が心安らかかもしれない.
本当か?
わかんないよね,そんなの.

そうか,エンドレスで悩み考え続けるのがTLCの極意なのですね,ばぁばら導師様!


おわり
 

コトバで考える葦(3)

...と,ホントはここで話は終わってるのだが,たまたま「否定」に関するおもしろい話を聞きかじったので,ついでに知ったかぶりをする.

それは,私たちは普段「無い」とか「しない」という否定のメッセージを易々と伝えているけれど,コトバを使わずにこれをしようとすると,たちまち途方にくれてしまうという話.

例えば「テーブルの上にりんごが無い」ことを言いたいとする.
コトバを使えば,まさに今書いたような一文で事足りるが,これを他の手段,例えば絵で表現しようとすると,途端に話はややこしくなる.
何も乗ってないテーブルを100枚描いても,"りんごが無い"というメッセージは伝わらない.そもそもイメージは空間を埋め尽くすものであって,不在や欠如を含まないからである.
あえて伝えようとすれば,例えば,1)りんご以外のすべての物が乗っているテーブルを描く,2)りんごの乗っているテーブルと乗っていないテーブルを描いて対比させる,3)点線でりんごを描いて不在を強調する,などの工夫が必要になる.

1)はそもそも描けないし,仮に描けたとしてもりんごが無いことに思い至るかどうかは怪しい.
2)や3)だったら可能かもしれないけれど,これらは絵画というより,すでに "絵で表現したコトバ" である.2枚の絵や点線の中に,すでに論理と時間が畳み込まれているからである.

同じように,「しないこと」を伝えるのも難しい.
犬同士が道ですれ違ったとき,相手に「近づいたらぶっ殺すぞ」と意思表示することはたやすい.
しかし「殺さない」「殺す気が無い」ことを伝えるのはどうか.
敵意の無いことが表現できても,それだと「殺さない」を明示的に伝えたことにならない(敵意が無くても殺すことはできる).あえてやるなら,相手を噛んで噛んで噛んで噛んで噛みまくって,それでも止めを刺さない...といった行為に訴える他ない.

ことほど左様に,イメージや動作で否定のメッセージを伝えることは難しい.
では,なぜコトバを使えば簡単なのだろうか? 長い人類の歴史の中で,コトバが強化洗練され,それらの機能が付加されてきたのだろうか?

おそらくそうじゃない.
どうも言語活動と否定の概念は,根っこのところでガッツリ結びついているらしいのである.

幼児の成長に注意していると,何年もかけて徐々にコトバを習得していくというよりは,ある日を境に一気に学習が進む様子が観察される.発達心理学が伝えるところによると,これは,赤ん坊が「(おっぱいが)無いこと」を認識する時期と一致する.つまり,物を "存在" として捉えるだけでなく, "不在" とのセットで理解したとき,人は人となり,言語活動が始まる(らしい)のである.
コトバとは,このような世界観と一体のものなのだろう.それくらい精神活動が高度になって,ようやくコトバが使えるようになる,ということかもしれない.


つづく
 

May 5, 2008

コトバで考える葦(2)

一体どっちが正解なのだろう...などとすぐに白黒つけたくなるのもいかにもコトバ的だ.

コトバは事象の単純化や抽象化,カタログ化(名付けて分類して一丁上がり)を指向するものだが,それでとりあえず「わかった気に」させてくれるところが偉い.しかし少なくとも生き物は,限られたコトバですっきり説明できるほど単純なものじゃない(はず).

新たな理説を主張するために,まず既存の説を否定してかかるというのはコトバ的思考のお作法である.「従来の説は間違いだ」って言わないと迫力出ないからね.「従来の説も少しは合ってるけど,この説だって半分くらいは正しいと思うよ...」などとウダウダ言ってると聞いてる人は寝てしまう.
「犬は人をアルファと見なしている」というのは確かに乱暴かもしれないが,だからって「それは間違い」と言い切るのだって同じくらい乱暴な行為だと思う.

そもそも,群とかアルファとかメンバーとかは人間が勝手に定義したのだから,それとドンピシャの概念が犬の頭ン中にある方が不思議である.
群のメンバーとそうでない者を明確に区別するためには,群のメンバーに「群のメンバー」というレッテルを貼らないといけないが,きっと犬はそんなことしない.その場その場で自分の感覚に従ってそれなりの態度をとるのだ(と思う).
犬は家族を群と思っているのか,リーダーをアルファと見なしているのか,メンバーに序列をつけてその中で自分を位置づけているのか? おそらく,どれも少しずつ正解であり,少しずつ不正解なのだ.

コトバを否定したいわけではない.「コトバに頼らず自分の感覚を大事にしよう」などと安直に言いたいのでもない(そんなことを前に書いた気がするけど).むしろその逆で,犬を少しでも理解しようとするなら様々な理説=コトバに触れるしかないと思っている.私たち人間には,周りをコトバで埋め尽くす以外に事の本質に迫る手立てが無いのだから.

それでも,コトバは決して万能ではないこと,そして私たちはコトバの枠組みの中でしか考えられないことは,自覚しておいた方が良いと思う.
そしたら何か変わるのかって?
いあ,別に...
でも自覚からは「節度」が生まれるし,それこそがヒトの貴重な資源だと思うのである.


つづく
 

コトバで考える葦(1)

ヨークシャの農場主バーバラ・サイクス氏のトレーナとしてのモットーは,TLC(Think Like Canine)という.

「犬のように考える」「犬として思う」「犬目線になる」...一見ありふれたメッセージだが,こういうのは大抵,やさしく考えれば何ということはないのに,悩み出せばキリが無いものと相場が決まっている.
実際,お前らの頭ん中わかんねー!って,じぇちの理解不能な行動に直面するたび,深く深く絶望させられる.

人が人として考える時,どうしてもコトバが介在する.
「犬のように考える」には,まずこれがハードルになる.

例えば,「犬は家族を群と見なして,そのリーダーをアルファとして尊重する」という考え方.

一郎君とジョンは寝るときも食べるときもいつも一緒だった.それでまぁ仲良くやっていたのだが,ある日を境に生活が一変する.ジョンはベッドから追い出され,食餌は一郎君が終わるまで待たされるようになり,大好きだったソファ寝が禁止され,散歩のときは歩く位置まで決められてしまった.そういえば,一郎君の声まで何やら低くいかめしい...一郎君はその日なんちゃら講習会に参加して,パックリーダ説に感銘を受けて帰ってきたのだ.

頭=コトバで考えることで,生き物に対する態度までガラッと変えることができるのが,他には無いヒトという動物の特徴だ.考えてみれば,これは結構すごいことだ.動物が急に態度を変えたら,,,例えば怯えて逃げるだけだった鳥が,急に襲ってくるようになったら恐怖映画になってしまう.
じぇちはもともと人づき合いの不器用な犬だが,最近は随分と改心したようで,たま~に撫でてくれと自らせがむようにまでなった.それでも,手が届くまであと5cmというあたりでスッと身を引くような,基本路線の態度は変わらない.彼女の行動は奇怪で予測不可能だが,行動自体は変わってもその "奇怪で予測不可能" な感じはこの先もずっと変わらないだろう(泣).

ところでパック理論は,それがオオカミの習性の名残だとする論拠が納得しやすく,広く受け入れられた.しかし,そもそもその論拠自体がスカで,犬は人をアルファになんか見ていないという説もあり,どうも最近はそちらの方に勢いがあるらしい.


つづく