September 28, 2007

読書妄想文 (2)

面白いでしょ?

この本の結論を先取りすると,現代科学が到達した "生命観" は,
 1) 自己複製するシステム
 2) 動的平衡にある流れ
の2つに集約される.

1)はまぁわかるとして(DNA構造発見にまつわるダークなエピソードがこれまたおもしろいのだが),2)の「動的な平衡」 とは何なのか?
端的に言ってしまえばこれは,分子レベルで見れば,生物の身体が外界の物質と絶えず置き換わっていることを表わしている.
細胞が死と再生を繰り返す話はわかりやすいが,これは細胞レベルの話ではない.
生きて活動している細胞も,それを構成する分子は,絶え間なく,かつ意外なほど高速に新しい分子に置き換わっているのだ.

シュレーディンガーが正しいかどうかは置いとくとして,外乱/内乱によって組織が常に損傷の危機に晒されているのは事実.
生命は不可避的に増大するエントロピーに対抗するため,組織を堅牢無比にするのではなく,自らを流れの中に置き,エントロピーを排出する方策を採ったのだ.

それを実証する実験結果を説明した後,著者はそのイメージを次のように表現する.
「生命とは要素が集合してできた構成物ではなく,要素の流れがもたらすところの効果なのだ」
「肉体というものについて,私たちは自らの感覚として,外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている.しかし,分子のレベルではその実感はまったく担保されていない.」
「私たち生命体は,たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない.しかも,それは高速に入れ替わっている.この流れ自体が「生きている」ということであり,・・・」
「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない.」

私たちが貝殻から感じ取っていたのは,そんな動的な流れだけが生み出すことのできる,ある種の "秩序" だったのである.


つづく

読書妄想文 (1)

砂浜に散らばる小石.
どれもが波に洗われ小さく滑らかである.
そんな小石の中から,私たちは貝殻を拾い上げることができる.
同じような形,硬さ,重さ,テクスチャの無数の石の中から特に迷いもせずに.

私たちは世の中の"もの"を見たとき,それが命あるものかそうでないかを瞬時に見分けることができる.
貝殻や落ち葉のようにすでに命を終えた断片に対しても,過去の生命活動の痕跡を認め,ほとんど判断を過つことが無い.考えてみれば不思議な話だ.

私たちは,貝殻に何を見ているのだろう?
生命の本質とは一体何なのだろう?

福岡伸一氏の「生物と無生物の間」はこんなスリリングな疑問に,現役の分子生物学者として,また好奇心溢れる一人の子供として接近を試みた書である.
氏の筆力と相まって,そこに紹介されるエピソードはやけにおもしろい.

例えばその一つ.
波動方程式で有名なシュレーディンガーは,晩年の著書「The Secret of Life」の中で次のような問を読者に投げかけた.

「原子はなぜこんなにも小さいのか?」

この人を食ったような問には,ちょっとしたトリックが隠されている.
大きい小さいは相対的な形容でしかないのだから,上の問には暗黙の比較対象があるはずである.
それはこの問を発している "人間" である.
実はこれは次の問と等価であり,著者の関心もここにある.

「生物は(原子や分子に較べて)なぜこんなにも大きいのか?」

これに対するシュレーディンガー自身の解釈はこうだ.

私たちが観測する物理現象は,その対象を構成する原子の "平均的な" 振る舞いによって決まる.
例えば透明な水の中に垂らしたインクは,その周囲方向に一様に拡散していくように見えるが,もしある瞬間に分子一個一個の運動を観測できたとすれば,そのいくつかは勝手な方向に動いている.しかしその絶対数が少ないため,全体としてインクは拡散しているように見える.
平均から離れて例外的なふるまいをする粒子の頻度は,統計的に "平方根の法則" に従う.
つまり100個の粒子があれば,そのうちのルート100,すなわち10個程度は変なふるまいをする.

仮にこれらを不良(ワル)とすると,100人の高校ではそのうちの10人,つまりは生徒の10%がワルということになる.
生徒全体が10000人に増えればワルも100人になるが,その割合は1%に激減する.
どちらの高校の風紀が良いかは明らかだろう.
シュレーディンガーは,生命体が原子に較べて圧倒的に大きい理由はここにあると指摘した.
つまり,組織に参加する粒子が少なければ,平均的なふるまいから外れる粒子の影響=誤差率が高まる.生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ,「生物はこんなにも大きく」ならなければいけなかったのである.


つづく