June 30, 2006

幸福体験

ずっと以前に同じようなことを聞いたことがあって,その時はふ~んというくらいでほとんど忘れてたのだが,なぜかここ最近(といっても1年くらいの間),立て続けに「それ」の話を聞いたり読んだりすることが重なった.

それ」は一種の感覚である.
もっとも,単純に五感を介して入ってくる刺激ではないので,本当に感覚と言えるかどうかはあやしい.
最近流行り(か?)の身体感覚というやつかもしれない.

きっかけは様々だ.

ジョギングのランナーズ・ハイであったり,麻薬によるトリップであったり,ヨガの瞑想であったり,宗教的な信仰を深めたときであったり,良い出産であったり,長年の武道の修練であったりする.

中には,子供時代に一人で夕焼けを見つめていて,突然「それ」を感じたなんて人もいる.
その人の場合は「それ」が原体験になっていて,何か辛いことがあるたびにその感じを思い出しては立ち直るということを何十年も繰り返してきたらしい.

体験者の表現はいろいろだが,共通するのは,「自分が自然(宇宙)のネットワークの一部を構成していて,互いにシンクロしていることを実感する」 というあたりだ.
"宇宙との連帯感" と言ってもよさそうである.
異常なほどの多幸感を伴うらしい.

悲しいかな悔しいかな,自分はそんな経験をしたことが無い.
でも,「あぁそういう幸福感ってあるかもね」 という感じだけはする.
我ながら切ない立場である.

大体,生きることの不条理って,情け容赦も無く広い宇宙にポツンと浮かぶ地球という星で,理由も目的も知らされないまま生まれ,そのまま死んでいくことに集約されると思うのだが,それがある時突然,自分が宇宙や自然と一体であり,祝福されており,存在することに意味があるということを実感するのである.
これは幸福以外の何物でもないだろう.
やがて訪れる死さえ,穏やかに受け入れられるような気がする.

それ」に穏当な理由をつけるとすれば,例えばヒトの共通的な願望が脳の覚醒レベルの低下によって意識の表層に上ったものだとか,あるいは臨死体験のようにある特殊な状態下にある脳機能の一つだ,といった風に説明できるかもしれない.

でも,それじゃあつまらないというか,そうであってほしくないという気持ちが自分にはある.
ここはやはり細胞や分子レベルで何か未知の共振運動みたいなものがあって,それが幾重ものフィルターをすり抜けて,ふとした拍子に意識の表層に浮かび上がってくるというふうに解釈したい.(例えば,だけど)
つまり感覚通り,宇宙と交信したのである.
その方がうれしい.

で,もしそうだとしたら,動物や植物や微生物たちも同じ感覚を覚えているはず.
いや,大脳皮質という厄介なものが発達していない動植物たちの方が,もっと頻繁に,もっと豊かに,もっとリアルに感じているに違いない・・・と,どうやら人間の中でも鈍感なタチらしい自分はひがみを込めて思ったりする.

ジリジリ照りつける夏の日の下,あるいは刺すような氷雨が降りしきる中,黙々と草を食み続ける羊たち.
そんな彼らが突然,身を捩るようにして躍動するときがある.
それを見ていて 「お,今,感じたな?」 なんて思う.
朝,いつものトイレの時間に,さほど広くも無い囲いの中で突然爆走を始める犬たち.
ヒゲから尻尾の先まで力がみなぎっている.
ヤツらも「それ」を感じたのかも.

動物たちは,生まれることも食べることも遊ぶことも寝ることも死ぬことも,みんな等しく重要で意味があるなんてことを身体で理解してるんだ,きっと.
彼らには虹の橋なんか必要無いわけだ.

人間ってずいぶん損な生き物だという気がしてきた.
 

June 10, 2006

贈るきもち

ファームが近所に知られてきたせいか,家畜用にと言って,農家の方々がクズ野菜や米ぬかなどをわざわざ届けてくださいます.
たまに,「好きなだけ持ってっていいよ」 と言っくれる野菜をこちらから収穫に行ったりもする.
ほんとうに,ありがたい.

草の無くなる冬場には貴重な飼料だし,放牧の季節でも色んなものを食べさせてやりたいから,遠慮無く,片っ端からいただくことにしてます.
確かに農家の方にとってはクズかもしれないけれど,へろへろ野菜しか作れない自分たちから見れば立派な出来映え. 「家畜たち大喜びなんですよ~」 とか言いながら,こっそり人間もいただいてます.
(「あんな出来損ない食べるんか!?」 とビックリされるのも不本意なので,黙ってますが)

それにしてもみなさん,作業の大変さをアレコレ愚痴る割には,結局は食べ切れずに近所に配る羽目になるとわかっている野菜を,丹精込めて拵えてらっしゃる.

なんで?・・ってそりゃやっぱり 「喜んでもらいたい」 からでしょう.
"素朴な人情" というやつです.

ただ思うんですけど,他人に(物やサービスを)贈与するという行為には,そういうホノボノした感じよりもうちょっと止むに止まれぬ的な, "人が人であるための情動" みたいな深刻な一面もあるんではないでしょうか.
今日の社会や経済は,そのために成立したと言えるくらいの.

遠い祖先の一人がある日,たまたまたくさんの食糧を手に入れました.
家族(がいたかどうかは知らないが)で食べきれないくらいの量です.
腐らすのももったいない(という概念があったかどうか知らないが)ので,近くの知り合いに譲ってみたところ,これが何やら "気持ち良い" ではないか.
"自分が必要とする以上の物をせっせと作る" ことはヒトという動物の奇行の一つだと思いますが,それはこの快感にドライブされるところが大きかったのでしょう,たぶん.

もちろん,貰う方だって苦労せず物が手に入るのだからありがたい.

ただ,ありがたいのは確かなんですが,その一方でどこか尻の座りが悪い.
相手に対して引け目というか,何か心の負担を感じてしまうのです.
そして人は,この負担を軽減するもっとも簡単な方法が,"(別のものを)贈与し返す" ことであることを発見する.
たぶん,これが物々交換の始まりだったのでしょう.


ところで贈与の交換は,普通,等量ではなく過剰に行われます.
言葉を贈り物に例えるとその辺の機微がわかります.

 A: 「こんにちわ」
 B: 「こんにちわ」
 A: 「良い天気ですね」
 B: 「良い天気ですね」
 A: 「お元気そうですね」
 B: 「そちらこそお元気そうで」

これじゃあ話が弾まないどころか,下手すりゃ殴り合いです.
ここはやはり,

 A: 「こんにちわ」
 B: 「こんにちわ,良い天気ですね」

とか何とか,ちょっぴり "おまけ" を付けて返すのが愛想(いい言葉!)というもんでしょう.
でないと会話になんないし.

経済の世界では "等価交換" が公理のように言われていますが,もし上記が正しいとすると,そうではないかもしれません.
流通の基本が贈与だとすると,返礼は過剰に行われるのが自然なはず.
だから,物の値段が高い・・・すなわち物を譲ってもらったときにそのお返しが割高なのは,哀しいかな理に適っているのかもしれません.
まぁそのおかげで,客も大きな顔をしてられるのでしょうが.
(だからってことさら威張るのもどーかと思うけど・・・)

日本のサラリーマン軍団のほとんどは,(実態はどうあれ)内心では 「俺は給料以上に働いている」 と思ってるんだそうです.
だから 「仕事キツイ割りに給料安い」 とか 「あーあ毎日サービス残業かよ」 などとボヤきながら,おいしいお酒が飲めるわけです.
会社に恩を売ってるような気分に浸れるからね.
日本が平和なのは,案外,そんなところに原因があるのかもしれません.

あ,でも,そうすっとアレっすよね,「一攫千金」 とか 「楽して儲けた」 ことを自慢しつつ蓄財に精を出したり,あるいは一方的にサービスを享受して平然としてられる人は,"人の定義から外れる" という意味での "新人類" か,もしくは何か別の生き物と思ったほうが良いのかも.
(野菜をいただきまくってニコニコしてる私らって・・・)

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ところで,この先は例によって, 「犬たちって生産こそしないけれど,出血大サービスの精神はあるんじゃないか?」 とか 「彼らが必要以上に張り切ってみせるのは,彼らなりの心の負担を軽減するためだ」 なんて話にこじつけたかったのですが,さすがに無理矢理っぽいので挫けました.

だれか,考えてみませんか?