April 6, 2006

犬も仕事もメタ言語 (4)

それは,例えばレトリーブを犬仲間に披露するときだったり,TVに出たときだったり,イベントでデモしたときだったり,競技会で活躍したときだったり,あるいは単に通りすがりのおっさんが「お,賢い犬やんけ」と呟くのを聞いたときだったりします.
つまり,他者との関係が生じることに新たな刺激を感じるのです.

この刺激は一般に,快にしろ不快にしろ,犬と対話することからくる刺激より強く深い.
だって人間ですもの.
こうして,もともと "人<=>犬" だったコミュニケーションの図式が "犬を介した人<=>人" に置き換えられていくわけです.

別にそれがマズイとか,犬がカワイソーなどと言いたいわけじゃありません.人であるA君が人とのコミュニケーションに犬とのそれより大きな魅力を感じるのは当然でしょう.
ってゆーか,むしろそうあるべきなんであって,まっとうな成人が犬とのコミュニケーションに全身を傾けるという図は,ちょっとバランスを欠いているようにさえ思えます.(余計なお世話ですが)
ジョンにしたって,もしそんなA君の気持ちがわかったとして,がっかりするでしょうか?たぶん,それは,無い(気がする).むしろ,喜び勇んでA君の期待に応えようとするのではないでしょうか?
それが犬という生き物だと思います.

要は人も犬もまるでオッケー.
双方がハッピィなんだから喜ばしい限りです.

ただですね,このコミュニケーションの図式と,人は意識的にしろ無意識的にしろ,人とのコミュニケーションを志向する生き物だということは頭の片隅に置いておきたいと思うのです.
犬と何をするにしても, 「犬が喜ぶから」 とか 「犬のため」 とか 「犬がやりたがるから」 などと恩に着せるのはフェアじゃないように感じます.
躾をするのも,犬連れ旅行に出るのも,競技会に出るのも,ペット同伴喫茶に入るのも,散歩に行くのも,山登りをするのも,健康診断をするのも・・・人がやりたいからやらせてるということ,犬はその人の意に沿うように振舞っているということを忘れたくないと思っています.
別にそう思ったからといってどこがどう変わるというわけでもありませんが,それって,やっぱり重要なことじゃないかと思うのです.

う~ん,どうも尻切れトンボになってしまいました.
別にそんなことを言いたかったんじゃなかった気がするんですが,もうここまで書いちゃったしな・・・

もう一度,頭ん中整理して出直します(ウソ).

おわり

犬も仕事もメタ言語 (3)

例によって無理やりの犬話です.

かなりの人が経験していると思いますが,犬というやつ,芸やスポーツを教えると最初はしぶしぶと言うか,まぁはっきり言って気乗りのしない様子で取り組みます.
しかしトレーニングを繰り返していくと,次第に積極的になり,ときには身体全体で喜びを表現するかのように熱心に取り組むようになります(ならないこともあるけど).

この変化は連続的ではなく, "ある時点を境に急に" やってくる感があります.
私たちはそれをトレーニングの賜物であり,犬が芸やスポーツ自体(ディスクやボールをレトリーブしたり,障害を走り抜けたりすること)の面白さに目覚めたと解釈しがちです.
でも実はそうではなくて,作業を通じて飼い主とコミュニケーションできるということを,犬が感じとったからだと考えられないでしょうか?
そのときはじめて,芸やスポーツは犬にとっても情熱を傾けるに足る仕事となり,それを通じて人とコミュニケーションすること,ボスであるところの飼い主に承認されることに "やりがい" を見出したのではなかろうか.
イヌも,ヒトとの関係を通じて初めて,(人がイメージするところの)"犬" という生き物になるのかもしれない.

タトエバノハナシ・・・

ある日,A君は飼い犬のジョンにボールのレトリーブを教えようと思い立ちます.
ジョンは衝動のまま逃げるボールは追いかけますが,持って帰ろうとはしません.
そこで,A君はリードを使ったりトリーツを使ったりしてそれを教えます.
ジョンは, 「ボールを持って帰る」 と何か楽しいことが起こるということを繰り返し経験します.
そういえば,そのときにA君も何やらうれしそうにしてるではありませんか.

「なんだ,Aはボールを持ってきて欲しいのか!」

もともと走ったり追っかけたりが好きなジョン,大好きなA君が望んでいるらしいレトリーブに喜び勇んで励むようになります.
一方のA君も,犬がうれしそうな様子を見て "心が通じた" 感を味わいウットリする.
ここにA君とジョンの間に一つのコミュニケーションが成立したわけです.
メデタシ,メデタシ.

ただし,このコミュニケーションは双方向とは言えません.
確かにジョンはジョンなりにA君の意図を理解したけれど,その逆となると怪しいからです.
これはある意味当然かもしれなくて,ジョンにとっては自分の生活を託すA君の意図を理解するということは大きなメリットになりますが,A君にはそれがありません.(それこそ 「犬の意図がわかったって一文の得にもならん」 わけですから)
ヒトも動物も,メリットが無いことに打ち込めるはずがありません.

だから来る日も来る日も同じことをしていると,A君はちょっぴりマンネリを感じるようになります.
そうそういつも,レトリーブごときで感動もしてられません.
特に天候の悪い日などは,半ば義務感で遊んでいる自分に気づいたりします.でも,そんなA君があらためて張り切るときがあります.

つづく

April 5, 2006

犬も仕事もメタ言語 (2)

どうやら人は,仕事そのものというよりは,それに付随する何か別のものを追い求めているらしい.
それが人と人との関係=コミュニケーションである・・・というのが,先のWebサイトの意見です.

なるほど言われてみれば,これも当たり前かもしれません.
例えばアートやプロスポーツはカッチョ良いし,仕事そのものの "やりがい度" が高そうな職業です.
「PowerPointが生きがいだ!」 と叫んでもお寒いだけですが,プロ野球選手が 「野球は自分の人生そのものっす」 と渋くつぶやくと絵になります.

でも,ほんとにそうでしょうか?
いや,その言葉がウソだと言う気はありませんが,彼が人生を賭けているのは本当に野球のプレーそのものなのでしょうか?
彼が野球を好きになったきっかけは,もしかしたらバットの芯でボールを捕らえたときの快感だったかもしれない.
あるいは,はるか頭上の打球をキャッチしたときの万能感だったかも.
確かに,最初のうちはそれらが野球をすることの十分なモチベーションになったでしょうが,でも,それを一生を賭けて追求する人はいないでしょう.
ダイエー時代の城島選手が新聞のインタビューに応えて次のようなことを言ってました.「"野球を楽しみたい" なんて言う選手がいるが自分は違う.やればやるだけ辛くて苦しい.でもそれがプロだと思っている.」
プロのスポーツとはそういうもんだろうなと,私も思います.

いや,スポーツに限らず仕事なんてきっとそういうもんでしょう.
仕事で対価を得るためには熟練や習熟が必要だし,そのためにはどうしても息の長い反復が必要です.
(最初に感じたかもしれない)仕事そのものに対する興味や興奮を維持するのは難しいでしょう.
それでも人はせっせと仕事に精を出す.
それはあながち生活のための我慢だけではないと思います.
そこには,そういう過程を経て初めて経験できる,"他者との質の高いコミュニケーション" が存在するから・・・というのは肯けるような気がします.

先の "野球は俺の人生" 発言の意味するところは,おそらく,試合を通じた対戦相手やチームメイトとコミュニケーション(勝ち負けはもっとも濃厚なコミュニケーションの一つでしょう)や,あるいはプレイというパフォーマンスを通じて観客や社会から承認を得ることが,彼の人生の重要なパートを占めていて,全力を傾けて取り組む価値があるということなのでしょう.

「ヒトは他人(ヒト)との関係性において初めて人になる」 ことが真実とするなら(←お,この言い回し便利・・・),仕事というメタ言語を介して他者とコミュニケーションすることは,呼吸や食事と同じとまではいかないまでも,それに近いくらい重要な意味を持つはずです.

(逆に言えば,本来,人はあらゆる仕事で相応の充足感が得られるはずなのですが,それを邪魔するのが "どこかに理想の仕事があるはず" とか "仕事が合わないから自己実現できない" などの都市伝説的決まり文句や,グローバルスタンダードという異名を持つ "何でもお金(報酬)で計る" 主義でしょう)

つづく

犬も仕事もメタ言語 (1)

とあるWebサイトの雑文コーナーに 「仕事はメタ言語である」 という一文を見つけて,ちょっととゆーかかなり感心したので,独創的改訂を加えつつ潔く文責を担おうと思う(盗作とも言う).

人はなぜ仕事するのか?

パッと思いつく理由は,
 1) お金を稼ぐため
 2) 生きがいややりがいを求めて
 3) 憲法で決められた義務だから
あたりか.

どれも当然だし,それぞれ当たってもいるでょう.

しかしこの世の中,常識的で当たり前と思われることの裏には,えてして意識に上らない隠れた意図があるというのは,私たちが経験的によく知っていることです(←お,この言い回し便利.説明抜きで納得できる気がする).
その意図とは?というのが,このよた話です.

その前に 1)~3) をもう少し掘り下げてみる.
1) のお金というのは理由として明白だし,今の社会システムが労働と報酬という形で成り立っている以上,生活の糧を得るために人は働かざるを得ません.
ただ,ここで考えたいのは,じゃあなぜ今の社会がこういうシステムになったかということです.
時に厳しくもあり,辛くもある仕事に,どうして万人が携わるようなシステムになったのか?

もし仕事の目的が必要な生活リソースを確保することだけなら,例えばまったく仕事をしない階級が含まれるような別の社会形態になってもよかったのではないでしょうか?あ
るいはもうちょっと現実的に, 「必要なお金を稼いだらササッと引退します」 という人がもう少したくさんいても良さそうなもの.
ところが現実はそのようではありません.
これから先,どんなに物質的な生産性が上がったとしても,仕事そのものが無くなる心配は無さそうです.

ここは一つ,そこに人間の根源的な欲求に関わる何かがあって,むしろ人は,誰もが仕事に携わることができるように社会を作ってきたと考えた方が座りが良さそうです.
((3)の憲法説も同じような理由で分が悪い.労働を義務づけた憲法は,初めにそれがありきと言うよりは,人々の標準的な営みを追認したものと考えるべきでしょう)

じゃあというわけで,(2)の仕事が "生きがい" や "やりがい" 説はどうでしょう.
この理由はよく耳にするし,もっともらしくもあるのですが (最近はちょっとひねった "自分探し" という言い方もある),ちょっと考えてみるとこれも怪しい.

だってさ~あ・・・

毎日毎日,PowerPointを激しくいじくって,データの切り貼りに明け暮れるのが果たして生きがいと言えるでしょうか?
いつどこにいようとお構いなしに押し寄せてくるメールに,帰宅後もビクビクするような仕事にやりがいなんてある?
会議で10分しゃべるだけのために,計画していた旅行を断念して往復7時間もかけて出張する意味があるのかよっ,おい!

これは多分断言できると思うのですが, 「これが私の理想の仕事」 と腹の底から納得してる人なんて,ほとんどいないのではないでしょうか?
世の仕事の99%は(少なくとも必要な作業のほとんどは),辛かったり,しんどかったり,汚かったり,カッコ悪かったり,バカげてたり,退屈だったりする.
誰もがベッドで独創的なアイデアを思いつき,窓の大きなオフィスで企画書にまとめ,ランチで同僚にジョークを飛ばしてから,午後にクライアントを唸らすプレゼンをして,夜にはジムで心地よい汗を流すわけではないのだ.
(それはそれで苦労多そうだけど)

ね,やりがいや生きがいってのも,首を傾げたくなるじゃないですか.

つづく